ばら色の日々(45年前の地球散歩)

還暦からが大切な人生です。一寸の光陰軽んずべからず。これまでの60数年をふまえて新しい挑戦まで真実を語っていきたいとおもいます。片道切符に500ドル。若さで過ごしたヨーロッパ。1969年欧州での滞在を終えた3人の仲間が3万キロのシルクロードの冒険に出た。フランスからカルカッタまでの陸路をVWで。今から45年前の地球散歩の記録。

曼荼羅カルカッタ

カルカッタ子供<




曼陀羅 カルカッタ             

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。

尚当ブログはAmazon KDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)にてネット出版されて購入できます。価額はUS$1ドル。タイトルは『我が追憶のシルクロード」です

 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。


ベナレシ
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生と死がいつも隣り合わせで、死が終わりでなく、来世の始まりとなる輪廻転生の曼陀羅都市ベナレシを早朝発ち、インド最大の都市カルカッタにむかった。カルカッタまでは680キロほどの道のりである。

三万キロ近くを走って未だに快調なエンジン音を出して愛車VWがインドの埃のたつ街道を走っている。街道には車だけでなく、人間がゆっくりと横断し、聖なる牛がそれ以上にゆっくりと横切ってゆく。側道では、犬が車をみて吠えているが、全く気をかけずに静かに長い白い髭をはやした老人たちが屋台の縁台で、チャイを飲んでいる姿が車窓を跳んでゆく。。
 
外の気温は30度近くねっとりと湿気が強い。これが冬だ。夏はどういうことになるのだろうか。今は一月末である。カーラジオから楽器シターのメロディーが流れている。時々小さな集落を通る。白装束のタバーンを巻いた男たちが腰をかがめて何かしている。よく見るとみな小用を足している。インドでは立ち小便の習慣はない。皆座って用を足す。ロータリーのような広場では中央に蛇口のついたバルブから水が出ている。そこで洗濯し、洗顔している群集がいる。ほとんど舗装した道はないから、埃で前が見えないが、そんなにスピードが出せないので危険なことはない。
 
それでもカルカッタに近づき始めると舗装された国道になって次第にスピードをあげてインド最大の都市に向っていった。
 褐色の濁流ガンジスに鉄橋が架かっている.それがハウラー橋である。これほどの鉄橋が突然現れると実際これまで走ってきた農村インドのイメージが壊れるほどだ。大英帝国がインドに架けた橋だが、なにを結ぼうとした橋なのか。搾取した黄金を運ぶ橋が現在はインドの貴重な橋として残っていた。夕日がガンジスの水面に映えていた。
 
早朝のベナレシをでて日が暮れかけていた。街が近くなると道にでこぼこができているのか車が揺れだした。次第に郊外から市中にはいってきているらしいが、暗いままで街の灯で明るくならない。街灯など全くない。通過する家の中からはローソクのひかりがもれている。インド最大の都市に電気がきてない筈はないから、考えた。そうか停電だ。電力事情が悪く停電でその需要に対応しているのだと解釈した。
 
それでも街の中心らしき辺りにくると明るくなったが、道路標識が読めなかった。読めたところで何処が何処だかわからないのだから同じだと諦めて、横に止まったタクシーの浅黒い運転手にこの辺で泊まれるホテルの場所を尋ねた。
「ヒヤリス・チャーリンギストリート。ゴートゥ・サドルストリート。」
サドル通りへ行けといっってるぞ。
「プリーズ ガイドアス」と言うと 
「フォロウミー」と言い残すとさっさと前を走り出した。
何度か道を右や左に折れると真っ暗なところでタクシーが止まった。そこがカルカッタ有数の安宿街のサドル通りだった。あまりにも真っ暗で危険そうな宿屋街にこの我々も怖気づいた。
「YMCA プリーズ」とヒリキが言った。
「オーケー、フォローミー」タクシーがまた走り出した。そして大通りに面した建物の前に止まった。
「ヒヤー、テンルピー ユーハフツゥペイ」運転手が言った。何か到着早々ぼられたが我慢してそれでも案内料と割り切って、ねぎって払った。
 建物はロンドンでよく見た古い建築物に良く似ていた。中に入ると髭を生やした親父風の管理人が受付にいた。本日空きがあるかどうか聞くと
「ユウハブ・ラック。バットオンリー・ドーミトリーベッド。」
個屋でなく大部屋でベッドがおいてあるところだけが空いているという。疲れていて個室でゆっくりして寝たかったがないのでは仕方がない。一泊十ルピー(350円)そこそこだ。大部屋に通されるとベッドに腰を落として寝そべった。天井に大きな十字のファンが廻っていた。

隣のベッドにはフランス語の新聞を読んでいるヒッピー風の西洋人がいた。
「ボンスワール」というとにっこり笑顔をつくった。西洋人の見知らぬ人に対する態度には見習う点が多い。自分が決して敵ではないという笑顔を必ずつくる。何処でもだ。
「今ついたのかい。どこから?」と尋ねた。
「車でベナレシから。十二時間かかったよ。」というと
「ボン・デュー」と答えた。懐かしいフランス語の驚きの表現だった。
「君はここは長いのかい」と尋ねると
「もう二ヶ月になる」という。
「カルカッタはそんなに面白いのかい?」と聞くと
「ノー・ウェイ」と初めて英語で答えた。他に方法があるかいというような調子に聞こえた。
 疲れていたが、まだ寝るには早いし腹が空いていた。外にレストランかないか聞くと、「レストラン?」と驚いたような声を出したが、ニタニタして
「シー・フアット」とわからないような答をした。あることはあるのだろう。シャワーを浴びる前に外に出た。夕方8時になるとさすがに涼しくなっていたが、湿気は強い。

「インド料理がないかな」捜すとそれらしき料理屋があった。店に入ると意外に客がいた。強い香辛料と揚げ物と牛乳の匂いが混じって異様な空気だった。とてもレストランとおいう雰囲気ではない。座るとでぶっと太った店の主人が寄ってきた。
「カリー?」と聞くので
「イエス」と返すと色々な料理を紹介したが、わからないので、
「ノット・ソーマッチ」と言うと
「オーケー」と言うと、メニューをもって引き下がった。
待っている間にビールを注文すると、インドビールらしい瓶を持ってきた。ビールの蓋が既に開いてていた。
「おいあいてるぞ」ヒリキが注意したが、喉がひりひりで、もう胃まで入っていた。これがくせものだった。その後二〜三日とんでもない下痢に悩まされたのだから。
料理が運ばれてきた。チキンのタンドーリ、ダールというカレースープ、チャパティというパンとこめの飯だ。いつも食べていたものだ。これは安心して食べた。右の指三本で食べた。指に蠅がたかってくる。はらってもはらっても蠅は次から次へとよってくる。蠅を追い払うのと口に持ってくる回数は同じ程度である。不衛生だから追い払うのでなく、蠅を間違って口にいれないように追い払っているのだ。ドーミトリーのフランスのヒッピーがニタニタしていたのがよくわかった。勘定をみると驚くほど安かった。
 
宿屋まで歩いた。暗い夜道に目が慣れてくる。来る時は気がつかなかった。暗い道の両側に人が蹲っている。無数の人たちが或る者は横たわり、或る者はこちらを見ている。老婆が物乞いの手をこちらに向けている。暗い路上に人があふれているではないか。目の前を白い装束の男が立った。暗い夜道に赤い目だけが異様に光っていた。
 
カルカッタは百鬼夜行の世界であった。あらゆる人間の姿がそこにある。路上は人間の生活の場所であり壁のない野外の家である。

雨がふれば雨にぬれ、風がふけば風に逢い、寒ければ互いの体で暖をとる。カーストのくびきに縛られ身動きできない最下層の民は路上をついの棲家とする。不思議に肌の色が黒くなればなるほどカーストが低くなると人は言う。本当かどうかわからないが、確かに路上の人たちの肌は黒い。闇の暗さと肌の色が交じると暗闇に人間が溶けだして一体となる。路上に人が一杯という表現は正しくない。路上の闇に人が溶けて漆黒の世界となっているのだ。旅人はこの漆黒の世界に紛れ込むと容易に抜け出すことが出来なくなるという。ヒッピーのフランスの青年もその犠牲者かもしれない。

そういえば半世紀前の我々の少年時代の日本も暗かった。ぼんやりと灯のともる野原で暗くなるまで遊んだ。道路は舗装されていなかったし時たま自動車が通ると砂ぼこりで目が痛かった。家の前の溝には生活排水が垂れ流しで黒いペンキが塗られた木のゴミ箱に生ゴミが腐っていた。冬は寒く、練炭のコタツで一家が暖をとった。夏は暑くアイスキャンディ売りが声をあげて町内を自転車で走っていた。皆が少しでも豊かな生活をめざして働いた。戦争ですべてを失った人たちは平等に貧乏であった。
 
眼前のカルカッタには階級が人々を縛っていた。いかに努力しても報われないとしたら人間はなにを目指せばいいのだろう。ここまで不幸せで、ここまでして人間は生きてゆかねばならないのか。
 
ヤギの首を切断しその首をカーリー神に捧げて経と祈りの儀式をおこなうカーリー寺院がある。斧で首を切られたヤギの胴体はしばらくはぴくぴくと動いている。解体された胴体と肉は路上の民がもってゆく。せめてもの神の恵みがある。まだ人間を犠牲にして神に捧げないだけましなのであろうか。
 
その夜、強烈な下痢で何度も何度も便所とベッドを往復してカルカッタの最初の夜が白々とあけていった。
 我々には一日一ルピーで下男ともいうのだろうか、長身のインド人がついていた。泊まると自動的に世話をやいてくれる。ひどい下痢状態を見て薬を買ってきてくれた。地元の薬で丸薬のようだったが、飲むとそれが効いた。

少し楽になって翌朝から近くのツーリストインフォメーション事務所にカルカッタ以降の道路事情を尋ねにでかけた。
事務所に入ると、インド人特有の彫りの深い美人が対応してくれた。名前をマンジュラといった。見事なブリティッシュイングリシュを話す上流階級出身のようだった。
「フロム・カルカッタ ノウ・ロード ポッシブル」ダッカまでは可能だがビルマも中国も国境を閉ざしていた。カルカッタで袋小路に入ってしまったのだ。
「ゼン・ハウキャン・ウイデゥ?」
「ユウハフ・テゥフライ」日本へはビルマを越えて、飛行機で飛ぶしかない。では愛車VWをどうするか?捨ててゆくわけにもいかない。相談するとマンジュラが言った。
「ユウ・トラストミー?」三人は美人のマンジュラに頷いた。

その日の午後からマンジュラがカルカッタを案内するといって我々を連れまわした。なんといって事務所から外出の許可をとったのかわからないが、楽しそうに案内をした。カーリー寺院、ウィリアム砦、ビクトリアメモリアル、ビルラ寺院、なんとかいうジャイナ教の寺院、それに動物園まで、もういいよとも言えずまわった。正直言ってカルカッタには英国の影響のある建物が目立って余り興味を引くところはなかった。

こうして物憂げだがなにも特別でなくルーティーンで安楽でベッドに横たわっているといつまでもねむくなるカルカッタの生活がだらだらと過ぎていった。側には下男のジャディムがついていて食べたいものをすぐ買ってきてくれたし、タバコは一パイサ(15銭)で一本づつでも買えた。ジャディムはカルカッタから10キロも先の農村にすんでいたようだが、毎日歩いて通ってきていた。我々のほかにも担当する客がいるようだった五人いたとしたって一日五ルピー(75円)にしかならない。浅黒いが長身で気がよかった。カルカッタに逗留してもう十日が過ぎようとしていた。そのうえ、意識のない内に1968年が明けていた。毎年行く年と来る年を祝えるのは安定の象徴以外のなにものでもない。

朝ジャディムが我々を揺り動かした。                     
「受付にマンジュラという娘が待っている。急用だそうだ」
「わかった。すぐ下に下りると伝えてくれないか。」そういって身支度して降りてゆくと、
「インド政庁が貴方達を至急よんでいるの。わるい話じゃない。早くして」マンジュラが言った。
「そう。車の件でね」マンジュラに任せた愛車VWの話のようだ。インド政庁は車で十数分のところにあった。マンジュラは怖ろしそうな衛兵の立つゲートをなれた雰囲気ですいすいとはいってゆく。朝のチャイを嗜んでいる官僚のオフィスの廊下を右に左にかきわけ挨拶しながら進んでゆく。するとどん詰まりの高級オフィスのドアをコンコンと叩いた。中から
「カムイン」と男の声がした。
「アイケイム・ウィズ・マイ・ジャパニーズ・フレンズ」とマンジュラがいうとドアが開いた。40代の恰幅のよいインド紳士が立っていた。
「サンキュウ・フォ・カミング。アイアム・インスぺクション・オフィサー。」と自己紹介した。カルカッタ市の警視にあたるオフィサーで名前はマハンソンという。
「ヒー・イズ・マイ・アンクル」とマンジュラが紹介した。オフィスのなかに招じ入れられた我々にマハンソン氏がソフトにゆっくりと英国英語で話しかけてくる。

「お願いがあるんですよ皆さん。皆さんの愛車をどうなさるんですか。マンジュラがもうご説明したと思いますが、カルカッタからはもうバングラデッシュまでしか車ではいけません。当カルカッタの街路に乗り捨てられても三日か四日で廃車寸前まで略奪されます。売ろうにも闇では罰せられます。そこでです。皆さんの車を救急車としてインド政府に寄贈ねがいたいのです。ご存知のように現在カシミール紛争が続いています。赤十字の車が足りません。如何でしょうか。」丁寧に話が終わった。
「勿論、そのお礼として皆様にキャセイパシフィックの航空券をつぎの目的地まで差し上げます。日本までお帰りであれば日本までです。」と顔の表情を緩めた。

三人は顔を見合わせてみたが答はもう決まっていた。もうそろそろこのカルカッタを出よう。ここにいると人間がだんだんと横着でも怠惰でもどんなことでも許されてしまうカルカッタ奈落に落ち込んでしまうような気がした。
 
百鬼夜行の世界。カルカッタの路上は足の踏み場もない。路上にはありとあらゆるものが売られている。通りは物乞いであふれている。片腕の男、片足の男、盲目の老女、いたいげな体をうる少女、蹲る黒い無数の人影。ある人は「カルカッタは人間のジャングル」と言った。路上の民は輪廻転生を信じる。彼らに迫りくる死は終わりを意味しない。死は転生するのだ。現世が苦しければ苦しいほど新しい生が待っている。日常の死は悲しいことではない。『よどみに浮かぶうたかたはかつきえかつむすびて久しくとどまることなし』。
 
徒然なる空蝉の現世はやがてあの曼陀羅の来世を約束する。

 カルカッタ・デゥムデゥム国際空港に三人がいた。ヒリキは日本に、ゴジーはバンコクからカンボジアに、私はもう少しマカオに寄ってみることにした。ゴジーこと馬渕直樹は戦場のカメラマンとしてプノンペン落城を記録した名うてのジャーナリストとなったが2012年没した。斯く言う私は1970年電通に勤務してパリ支局を創設、後、黒澤最後の作品「まあだだよ」やユニバーサル映画で高倉健とトムセレックが共演した『ミスターベースボール」などの映画に携わった。もうすぐ古希となるが、2002年退社して現在富士山麓の十里木で築窯して焼物にいそしんでいる。ヒリキとはその後45年全く会っていない。横浜の中華料理のオーナーとなっているとかの情報を友達から聞いた。人生は斯くもいろいろでわからないものだが来世にはまた会う機会もあるだろうか。




 

あとがき
     青春と芸術
 もし 昔日をとりもどせるなら
 あの街角に一緒に棲んだあのときを
 君は家先の雀のように、
 私は孤独な羽毛を羽織っていた
 誰も君をデゥンスと呼ばず、私はおとなしくしていた
 一度きりの昔日は失われて
 永遠にもどってこない
             ロバート・ブラウニング 〔著者訳〕

一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を一年有余放浪し、シルクロードを車で横断した。今から四十年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、よっぽどの家庭でないと私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦桟橋から日本を離れる時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 
現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルの方向に向うかだけの違いである。
 
世代という違いもある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時が解決してゆくのかも知れないとも思う。


         




カルカッタ(ホーラー駅)に子供達が住んでいる。
子供達は新聞を集め、空き瓶を集めて売り生活している。
現在フランス人が中心になりLes Galopins deCalcutta)協会が子供達を救う活動を展開している。
団塊文庫もそのお役に立ちたいと願っている。

カルカッタ子供カルカッタ子供

曼荼羅 ベナレシ

終章 曼荼羅 ベナレシ
これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。


ベナレシ
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終章 
 曼荼羅・べなれし

 デリーからベナレシに向っていた。

 ベナレシは聖なるガンジス河沿岸にある古都である。手前に架かる長い鉄橋をわたるとその都の姿が目にはいってくる。何層にも低層の建物が重なって街を構成しているようにみえる。ガンジスは少し濁っているが、悠々と流れの渦をつくっていた。滔々と流れているが、底の流れは急流のように速いという。

 その急流にはまると死体はベンガル湾まで浮かばないことがあると聞いたことがある。

 ベナレシはヒンズー教の聖都である。それよりなにより人生を一瞬にして垣間見たいと思わんものはベナレシに来ればよい。ベナレシの何処でもそれは経験できるのだ。

 栄養失調気味の女の子が物乞いによってくる。背中には更に栄養失調の赤子を背負っている。インド中から瀕死の重病人がここベナレシで焼かれるために運ばれてくる。ガンジスで清められた死体はガーツに運ばれて火葬され、また聖なるガンジスに流される。骨にまだついた肉は空から鳥がついばむ。その鳥を人間が食い、エネルギーとなってまた新たな命をつないでゆくのだ。

 三島由紀夫は『暁の寺』のなかでこのベナレシを「人間の肉の実相。悪臭、病菌、屍毒、ベナレシは華麗なほど醜い一枚の絨毯」と形容している。
 
 我々は三十あるガンジスにおりる階段(ガーツ)のなかで大きな菩提樹がある宿屋をとった。どこでも巡礼の客で混んでいた。

 毎年巡礼者は全インドから百万人以上のヒンズー教徒が訪れるという。ヒンズーの様々な儀式を行う祭司だけで三万人以上いるといわれている。宿屋は巡礼用で多くのヒンズー教徒と一緒だった。草鞋をぬぐとすぐにガンジス川にガーツにそっておりていった。

 ベナレシで臨終を待つ人々は夥しいらしい。ヒンズーの教えではシヴァとその妃ドルガの恵みでベナレシで火葬され、遺灰はガンジス河に散布されると天国にいけると広汎に信じられているという。
 
 ガンジスにでると河まではすぐに入れるよう海水浴場の岸状態で入水し易くなっている。河はとても汚い。汚物が浮かんでいる。そこで老人は髪を洗い、歯を磨きうがいをしている。

 目の前をサリーを着た婦人が河に入っていった。薄着なサリーが次第に水にぬれてゆく。肌寒い水をあびて祈っている。サリーがピタリと肌に吸い付いて女体の輪郭が現れている。そばには沐浴し、洗顔し、洗濯をしている男がいる。岸の岩場にはヨガのポーズをとる哲人が瞑想していた。

 ガンジスの汚濁しているがその豊穣な緑色、キラキラひかる黄金の飾りのついたサリーの色、遠くから上がる赤い炎と白い煙、白い装束の男たちの群れ。色彩の人間サーカスが眼前にある。

 ショックを受けた頭脳と感覚が慣れてくるとよりはっきりとその有様が認識できるようになる。河の中域をぷかぷか浮かぶ白い布にくるまれた物体から人間の足らしきものがはみだしている。はみ出した脚に鳥が寄っていた。その先をみると岸壁が炎に包まれていた。
いやそうではない。屍が火葬されていた。多くの旅行客と野次馬が野辺の見送り客である。花束と白い布に包まれた屍が炎のなかにある。ダリが描くシュールリアリズムの絵を見る感じがする。赤い炎のなかから布からはみでた足がでている。しばらくすると骨灰と燃える薪が白い塊となって空にむけて飛び立っていくように見えた。

 香材と石炭と肉が焼ける匂いで野犬が吠えていた。正に驚くべき光景が眼前にあった。火葬の側の岸辺で子供が衣類を洗っている。火葬された灰が干している衣類の上に舞っていた。哲人が岩礁からこの光景を静かにみていた。

 しかし、この現実をどう説明することができるのか。

 強烈な感覚の混濁か。盗視症状か。既存道徳の崩壊か。それともただ驚くばかりなのか。なにも言葉が出ない。まさに天国と地獄が織り成す曼荼羅であった。
benaresi

歴史上の多彩な人との邂逅

 閑話休題
シルクロードの話を少し脱線しますが、1969年にシルクロードをへて帰国した私は大手広告代理店に入社しました。その後いろいろな仕事をしました。そのなかでとても普通ではお会いできない人たちに邂逅することができました。感謝感謝です。
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 シルクロードのたびの途中ですが、シルクロードで経験した何かが人生の糸となりこよりとなって多彩な人たちとのめぐり合いにつながったものと思います。

 若者よ旅にでよ!と言いたいのです。 

jean paul  II

 生来オープンで物怖じしない性格な所為か本当に多くの偉大な人々とお会いすることが出来ました。思い出の人びとを上げてみました。(1970年代から2002年)敬称略

 1 ジャックシラク (当時パリ市長)2 故笹川良一 (ニース市祭典にて)3 ローマ法王 故ヨハネパウロ2世 (故田丸電通社長シルベスター勲章受賞随行) 4 長島茂雄 (パリにて数度) 5 シャルルアズナブール (ニース アクロポリス国際会議場竣工式典と夕食会)6 故佐藤 文生(自民党広報委員長) 7故 ジャックメディサン (ニース市市長)8 故ニコラ トラサルディ (トラサルディ社長 友人)9 加藤重高 (陶芸家)瀬戸で 10 故黒沢明監督(まだだよ製作)11 ビムベンダース (映画製作)何回も映画について話した12 宮崎駿 (映画製作)プリンセスもののけ 13 ソルベイグドマルタン (女優)フランスの女優 14 カトリーヌドヌーブ (女優)CF 15故 松本清張 (取材) 16 故松本弘子 (マヌカン)カジノ 17 故ピエールカルダン (デザイナー)将軍展開催18 故フランソワライシェンバハ (フランス著名監督 テレビ番組芭蕉製作) 19 クロードルルーシュ(Avenue Hoche スタジオにて) 20 ロリンマゼール 夾竹桃カンタータを創作したいと話した 21 故ホルストダスラー (アディダス社長)ICL創設 22 フランツジョセフ (リヒテンシュタイン)故篠田理事長と 23 デビスカルノ 24岸恵子 (CF撮影) 25 篠田正浩 26故山村聰(CF撮影) 27故 勅使河原宏 (監督)よく食事した 28 故荻須高徳 (画家)パリでよく話した 29 ジェラールガルースト (絵描き) 30 ジャックモーリス (当時フランス大使館公使)31 青木功 (CF) 32 ジャッククルティーヌ (世界柔道連盟)33 故猪熊功  (柔道)カジノにお供した 34 故松前重義(東海大学総長) (柔道)35 アランシャリエル (南仏ボーマニエール オーナーシェフ) 36ピーターユベロス(LA オリンピック)37 久保田一竹 (友禅) 38 そめのざ玄才 (友禅)39 <故石井宏基 (故衆議院議員)マージャン友達だった40 故中山素平 (ウィーンでのOPEC取材)41 星野仙一 (ミスターベースボール 撮影) 42 高倉健 (ミスターベースボール 撮影) 43 トムセレェック( ハリウッド映画ミスターベースボール監督) 44 故伊丹十三(映画監督) 45 田崎真也(ワイン撮影) 46 ジャンジャックベネックス (監督)友人としてよく話す。 47 リュックベッソン (監督)49 緒方貞子 (大学の恩師) 50 故エドモンド ブランデン (詩人)恩師の恩師 51  52 倉本昌弘  (番組撮影) 53 岸田邦夫 (彫刻家) 54 並河万里 (写真家) 55 牛尾二郎 (経済) 56 ジャックラング (当時フランス文化大臣)57故小坂徳三郎 (ニースにてテニス会議) 58 ソフィーマルソー (女優)59 故ジョルジュドンヌ (舞踏家) 60 モーリスベジャール (舞踏家) 61 マルセルマルソー (パントマイム) 62 松村達雄 (まあだだよ) 63 香川京子 (まあだだよ)64 故徳間康快 (プロデューサー) 65 栗本信實 (写真家) 65シュテファン リップ (写真家) 66武田秀雄 (漫画家) 67 トミーウンゲラー (漫画家) 68モーリス メッセゲ (ハーブ研究の父)69 辻邦生 (芭蕉番組監修) 70 ロジャーコーマン (ハリウッド プロデューサー) 71 エドワードプレスマン (ハリウッドプロデュサー) 72 アンドレビレ (ピカソ 写真家) 73アランドロン (CF)74 ポールボキューズ (料理)75 故白柳大司教 (バチカン展) 76 故水島元そごー会長 77
レオンリー (元ロッテ野球選手)78 ジュリードレイファス (女優) 79 ジャックアタリ 80 イブモンタン(パリでのパーティで一度)(81)故淀川長冶(JALの仕事で)

 中でも写真にもありますがローマ法王、ヨハネパウロ2世にお会いできたことは大変得がたい経験となりました。1980年代日本で開催されましたバチカン展は大成功に終わりました。日本でバチカンの宝物を展示する計画があるとの情報をパリでつかんだ私は早速今は亡き社内の旧友であるF氏に情報を送りました。F氏はその真偽を探りにすぐパリに飛んできました。二人はすぐローマのガルタ神父に合いにローマへと飛んだのです。
 ローマには当時日本から留学していた塚本神父等がいて情報把握につとめてくれました。その後話として公に出来ない事などがありましたが、日本でのバチカン展までこぎつけられたのです。そごーでの開催となりました。この種のイベントは通常国立美術館でやるのが普通ですが百貨店での開催は異例でした。そごーはこのために横浜店に本格的な美術館をつくってしまったほどでした。
現在ダンブラウンの「ダヴィンチコード」が話題となっています。その中で法王の夏の別荘である「カステルガンドルホ」が舞台となっています。日本で開催されたヴァチカン展の成功に対してヴァチカンからその功労者にシルベスター勲章が贈呈されることになり私も随行としてカステルガンドルホのなかに入ることが出来ました。随行ですから待合室で贈呈式を待つ身でしたが、突然待合室のドアが開き法王が現れたのです。「神に感謝、神に感謝」と日本語で唱えながらシシャクをふりながら私を贈呈室にと招いてくれました。部屋に入ると贈呈式が始まり勲章が功労者に贈呈されました。私は皆様の末席で贈呈式を拝謁していました。そのときです。法王が私の前に歩まれて、ロザリオを下さったのです。写真はその時のものです。緊張した瞬間でした。

暗闇に浮かぶ人間の真実

カルカッタ子供

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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暗闇インドの真実
 パキスタン第2の都ラホールから国境の街ワガからインドに入った。1968年当時、印パ状況悪化で国境はものものしかった。銃口を斜めに持った兵隊が検問している。東洋ジャパニの貧乏学生が何故外車VWに乗って何処に行こうとしているのかが検問で何度も問正された。
 
「フーアーユウ?ホエアユーゴー?」とインド訛りの英語で聞いてくる。
 
「ジャパニーズ スチューデンツ.リターン ツー ジャパン」と答える。
 
「パスポート」
 
「オープン ラゲッジ」
 
渋々「オーケー」の繰り返しを何度も経験する。
 

 彼らが調べているのはパキスタンから何の目的でインドに入国したのか?、怪しいものを携行していないか?で、日本人の我々自体には興味を示さなかった。
 
 インドに入って本当に驚いた

 トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと中央アジアを通過してきて涸れた風景に慣れた我々の目に突然「緑」が飛び込んできたのだ。

 インドには木々の緑と畑や水田に野菜と稲の緑があった。自然はなんという条件の変化を人間に与えているのだろうか。パキスタンではめったに見ることがない水牛や鶏が木々の陰で休んでいる。遊牧の民と農耕の民、一方が戒律のイスラムの世界であり、一方は慈悲の仏教の国である。

 2010年現在BRICSと呼ばれる新興諸国の成長が著しい。特に人口14億人の中国とインドはもはや世界の今後を左右するほど注目されている。インドでは米国カリフォルニアのシリコンバレイと併記されるほどのムンバイの発展がある。40年ほど前私が旅したインドからは想像もできない。世界は変化する。特にその経済的、社会的発展の変化は暮らす人間の生活を変貌させる。映画「スラムドッグミリオネアー」に描かれたインドは強烈だったが真理を描き出した。
 


 日本を出てもう一年半になろうとしていた。

 1967年芝浦からロシア船でナホトカに渡りシベリア鉄道でモスクワから夫々の目的をもって過ごした欧州、車でユーラシア中央アジアを横断してきた旅もはるばるインドに来ている。三鷹市長選と、現業ゴミ収集のアルバイトで貯めた500ドルと現金10万円を手に何でも経験してやろうと出た旅も、木々の緑と水田の風景のなかにモンスーンアジアを感じ取ることが出来たし、次第に帰りつつある日本を意識した。 

 我々はインドの首都デリーを目指してスピードを増した。アムリトサール、ジャァンダール、アンバラ、カルナル、パリパットの街を経過したが余り覚えていない。

 旅した今は12月。なのにインドの太陽はギラギラと大地を照らしていた。途中の街で食事をとった。そこがどこの村であったか覚えていないが、或る食堂に入った時の印象は強烈だった。食堂にたどり着く前に用を足しに入った便所に驚いた。大きな糞の池だった。池に板がわたしてある。板の上に座って用を足すのだ。糞が落ちると池からお釣りがかえってきた。大きな糞池だった。

 食堂は池の側にあった。食べるものと出すものが並存する。食べるものにたかる銀蠅をインド人はものぐさそうに追っては食べている。我々は顔を見合わせてどうするか考えたが他に食べるものはない。まだデリーまでは遠い。主人に頼んだカレーが運ばれてきた。野菜のカレーにパチャティ〔インド風パン)と乳酸飲料みたいなダヒーがきた。当然フォークも箸 もない。右手の三本の指を使って食べる。カレーは思ったほど辛くない。それよりたかる蠅がうるさいし非衛生だと手で追っていたが、料理する厨房の状況を思うと蠅を追う気持ちも失せた。
 これほど人馬一体、自然のなすがままとは思っても見なかった。インドは驚きの国だ。

デリーまではパキスタン、ラホールから約6から700キロの距離であった。
 夕方ガンジス川沿いに進むとインドの首都らしい街についた。暗いとにかく暗い街だった。中心街らしき方角に進んでゆく。大きな石の建物が暗いなかに浮かんでいる。それがデリーの中央駅だった。今日泊まる宿を探した。宿屋らしき建物がある横丁にゆくと宿屋の主人が呼び込みをしていた。一泊40から50ルピーで2人部屋があった。冷水シャワーをあびて、マットは硬いが疲れている体にはなんの問題もない。横たわると、とたんにグーグーと寝た。

 次の日、目を覚ますと表通りの喧騒が聞こえる。すぐに自分がどこにいるのか朦朧としていて意識できなかったが、壁にかかっている極彩色の仏陀像のポスターを見て嗚呼そうだインドだとやっと気付く。となりに寝ている2人を起こして表に出た。
 
 インドの首都デリーの目抜き通りらしいところを目指したが、一体どっちが北か南か見当がつかないばかりか、道路に座ってこちらを見ている人たちの姿と白い装束と汚れて黒くなっている白いタバーンの男達、脚をだして貧相だが力のありそうなリキシャの男達、ただ行き交うようにみえる群集に気圧されて近くのチャイ屋にはいるのがやっとだった。
 
 茶は中国とインドが発祥だが、その逆の道を来た。西からティー、テー、チャイ、チャとなった。インドのチャイは紅茶,砂糖、ミルクを鍋で熱々に煮たものである。暑い気候にこの甘くこってりとした熱い飲み物は本当によく合った。
 
 フーフー言いながらチャイをすするとなにか有意義なことを考えることが出来た。人間は食物を口にして噛みながらものを思うことが多い。食べるという人間の最大の欲望を満たしているとき、また同時に霊長類に許され与えられた脳細胞を駆使してものを思うのだ。胃と脳はダイレクトにつながっている。生殖行為もそうである。人間は生殖行為をしながらもあらぬ妄想にしたることが多い。インドはそのような人間の根本について考えさせる。

 インドの通貨はルピーだが、1ルピーは100パイサで1パイサは30銭というところだったが、このパイサは使いでがあった。街には1パイサでタバコの葉を巻いた細いタバコが買えた。これが以外とうまい。チャイは20パイサで飲めた。5円であった。
 
 舗装されていない道路の砂埃が絶えず巻き上がっていたが、吹く風だけが濃密で饐えた匂いのする街の生活に生気を与えているようだった。昼にはカレー料理を食べた。野菜のカレー、タンドーリとよばれるチキンカレーなどと、チャパティー、ダヒー、タマネギのスライスを一緒に食べた。それでも50円かそこいらであった。
 
 街を歩くとそこいらじゅうから人が寄ってくる。脚の不自由な老婆が手の平を差し出して、物乞いをしてくる。それも小さな子供を背にしょっている。振り切って20メートル歩くとまた同じである。ルピーの両替人が寄ってくる。

 チェンジマネー?」

 「ユーアメリカン、チェンジマネー?」

 「ノー、ジャパニーズ」
 と言うと怪訝な顔をした。彼らにとってジャパニーズもアメリカンも同じだった。要するに外貨ドルを持つものと言う意味なのだ。

 私は1946年の3月に生まれた。敗戦の翌年である。記憶に上野のガード下がある。傷痍軍人が白い病院服を身にまとってアコーデオンを弾いていた。浮浪少年たちがたむろしていた。実際の記憶なのかそれともその後みた写真や映像から蓄積されたものかはわからないが、私の脳内に深く刻まれているのは確かだ。デリーの物乞いは敗戦直後の東京の街を思わせた。


 「ワンダラー、15ルピー85パイサ、オーケー?、オーケー?」と言う。1ドル360円の時代であった。約16ルピーとなると1ドルが560円となる。それでも両替人に利益が出るのだ。大概の両替人はボスに雇われた使用人だが手数料がどのくらいはいるのだろうか。我々でも切り詰めれば一日1ドルで食事をまかなえるほどだから手数料収入もたいしたものではないだろう。
 
 夕方3人はデリーに入る前に渡ってきたガンジスにかかる鉄橋まで車を駆った。鉄橋に出るとガンジス河に赤い夕日が映えていた。夕日は貧しいが懸命に生きる人間たちの深層を映し、頑張っても浮かび上がれない人間のいることを詫びるかのようにガンジスを照らしていた。 

 街にもどって宿屋に帰ろうと歩いていた時だった。真っ暗な道だった。前に進もうとする脚が動かない。ひっぱっても抜けない。暗い夜道に目を凝らした。目だけが見えた。多くの人間たちが道路に寝ていた。その中の一人の老婆が足を捕まえて離そうとしない。手の平をこちらに向けていた。背中にぞぞげが走った。密林のなかで気味の悪い蛇にあったかのような悪寒が走った。当時日本も貧しかった。戦後の時代に少年時代をすごした我々もその貧しさを生きてきた。しかしこの貧しさは何なのか。貧しさの程度が違った。貧しさの地獄を暗闇のなかにはっきり見た。
 

パキスタン第二の都市ラホール

 パキスタンの古都ラホール
これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 カラコルム山脈はラホールから100キロ北方にある。7000メートル級の山々が聳えている。新首都イスラマバードを早朝発って夕方にはラホールにいた。約280キロの距離だが何回かの検問と道の不案内で少し時間をとってしまった。
 
 ラホールはパンジャブ州の都でパキスタン第2の都である。ムガール帝国の文化を色濃く残している。ラヴィ河に望みインドとの国境の街ワガが隣接している。現在では1000万人以上が住んでいる都市だが、1968年当時は約400万人が住む都だった。1849年から1947年までイギリスが統治していたため、ヴィクトリア王朝文化の影響がみられる。訪れた11月の末はもう完全な冬で気温零下の日がつづいていた。聞くと夏5月、6月、7月には摂氏45度から50度になる日があるという。
 
 ラホールの記憶はやはり旧市街の印象が強い。バザールや職人街が軒を連ねる旧市街バザールは中近東のバザールと違い観光づれしていない。全く現地の人たちのためのバザールでイスラムの女達が身にまとう黒い覆いの数々までが売られていた。

 我々は旧市街にある300年以上の歴史をもつクークード・デン(Coocoo'd den)キャフェでチャイとパチャティのシンプルな食事をとった。座ると大モスク(バードシャヒー)が見えた。
 
 中央アジアを行く隊商の民に古い格言があるとキャフェの主人が教えてくれた。

 「座っている人間はベッドの敷物みたいなものだ。体を進めるものは悠久の河の流れに似ている」。

 人生は動作にある。旅をする、そして外の世界を知ることは進歩へと人を誘う。

 人間の歴史のなかで最も重要な道はローマと奈良を結ぶ道だそうだ。ある歴史家が言っていた。

 ドイツの歴史家がユーラシアの東西を結ぶルートをシルクロードと名づけたのは18世紀になってからだ。

 紀元前4世紀アレグザンダー大王が東征し、紀元前2Cから1Cにかけてローマの貴族がいたって好んだ絹織物が踏み分けた道、それがシルクロードである。

 シルクロードは従って、一本の道ではない。多くの道が面となって東西をむすぶネットワークとなっていった。唐の時代、中国長安から、ゴビ砂漠、タリム盆地、東トルキスタンを経過し天山山脈、フェルガナ渓谷、タシケントからサマルカンド、ソグディアナ、ブカラ、コレズム、そしてカスピ海に至る。サマルカンドからはバクトリア、カシガダヤ渓谷、テルメス、カブール、ヤルカンド、ペルシャ、シリアそして地中海に至るルートである。
 
 悠久の歴史のなかで、数々の巡礼が、学者が、冒険家がこの道を辿った。中国の僧玄蔵が、ベニスの商人マルコ・ポーロが、アラブの僧アクマド・イブン・ファドンが、ババリアの戦士シルト・ベルガーが、ハンガリーの冒険家アルミン・ヴァンベリが、スエーデンの地理学者ヘディンが、ロシアの科学者アレクシ・フェドチェンコが、スイスのジャーナリスト、エラマイヤトルが、米国の地理学者ラフアエル・パンペリが、フランスのジョゼフ・マルタンが、シルクロードを辿り研究してきた。

 敦煌、ブカラ、テルメスなど壮麗な文化を誇ったシルクロードの遺産はいまやその往時の姿はとどめていない。遺跡は砂漠に埋もれ、廃墟となって後世にその文化を伝えるのみである。

歴史の生き証人ペシャワール

 訪れたのはほんの45年前だった。 
 それから今までたった45年間でさえこれだけ歴史に翻弄された都。古代花の都といわれシルクロードの中心都市だったペシャワールpeshawar mapkhaibar

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 世界の難所といわれアレクザンダーの東征をも困難にしたといわれたカイバール峠を虎口余生からがら越えてパキスタンの西北の歴史都市ペシャワールについた。

 
 いまだからこそ多くの人達がペシャワールを旅してきているが、45年前はそうではなかった。確かにペシャワールはシルクロードの東と西と結ぶ中心都市として栄えたがシルクロードは限られたノマドや商人達の往来する経路で決して一般の民がゆききするような道ではなかった筈である。何故ならこれだけの難所が続く道がそう簡単に一般の民のためであったとは考えられないからである。

 夢や黄金を求める輩か覇権を握る生存競争の道であったに違いない。古代の道は現代の道ではない。古代の道は闘いの道であった。超えなければならぬ命の道であった。そしてペシャワールはこの道からギリシャ、ペルシャ、オスマン、ムガール、トルコ、ソヴィエト、タリバン、アメリカと戦乱の舞台となり歴史のなかで翻弄され続けてきた。カブール川がつくる渓谷がペシャワール平原になり川が何筋かの支流を形成してオアシス都市となった。季節は夏と冬。40度の夏と10度前後の冬である。

 2001年米国ブッシュ政権はアフガン侵攻を開始した。9・11に対するテロ集団とその首領ビンラディン攻撃である。連日CNNがアフガン侵攻を報道する。カブール、カンダハール、ペシャワールは一夜にしてラスベガス並みに世界中で有名な街となった。30数年前に旅して忘れかけていた懐かしい街の名前だった。当時の平和でのんびりとしていた町並みが浮かんだが、一瞬にして闇をつたう砲声と爆破の光の映像報道の前に断ち切られた。毎年何万というアフガン難民がこのペシャワールに流入してきているという。
 
 日本にペシャワールの会があるのを最近知った。日本人医師が毎年16万人もの病人を診察しているという。この活動を12500人の会員がサポートしていると言う。日本人も捨てたもんではない。ホームページをみると「誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」とあった。
 

古への華の都を発つ

    パキスタンの首都ラワルピンディ・イスラマバードに向う。
 1968年タイム誌イスラマバド

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



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 朝もやのなか東西シルクロードの中心都市といわれたペシャワールを発った。

 目指すはカラチから新首都となったイスラマバードと隣接するラワルピンディである。
 
 当時のパキスタンは絶大な権力を握っていたアユブ・カーン大統領に対するデモや暴動が頻発する不安定な状況であった。イスラマバードへの道すがらでさえ政府軍やデモ指導者に交互に何回も車を停められ、そのたびにパスポートを見せて説明を要した。
 
 アユブ・カーンはパキスタン最初の将軍であり陸軍元帥であった。1958年から1969年にかけてパキスタン大統領として米国と連携、冷戦状況の中でソヴィエトに対峙する前線国家としての戦略をとった。当時米国から援助される物資と金額はパキスタン国家予算を超えたという。
 
 カーンは1960年首都をカラチからイスラマバードに移し中央集権国家完成に着手する。首都のグランドデザインをギリシャの建築会社ドキシアディスに依頼した。
 
 どこでもいつでも、「奢れるもの久からず」である。彼の統治のターニングポイントが迫る。それが1965年のインド・パキスタン戦争である。この戦争はインドに対してよりも小国パキスタンに大きな打撃を与えることとなった。そして「タシケントの協約」が結ばれる。パキスタン側の不利な協約はアユブ・カーンの威信を損なうこととなる。不満が国中に満ちてゆく学生、労働者や一般市民までが連日のデモを起こしやがて暴動に発展していった。
 
 一方アユブファミリーの隠された隠匿財産が暴露されてゆく。末期であった1969年には息子のゴハール・アユブが隠匿していた金額4百万ドルが暴露された。
 
 不穏な状況のなかラワルピンディに到着した。パンジャブ州にありギネスブックに世界最古のタクシャシラ大学があった。吐く息が白かった。
 
 新首都イスラマバドは機能により8の区域にしっかりと分かれていた。外交、商業、教育、工業地区等である。出来たばかりの日本大使館を訪問したが余り印象がない。建設されたばかりの新首都は緑も余りなく新しい建築物が目立つ首都であった。生来の明るさですぐにデモに出掛ける学生達とすぐ仲間となった

天下の難関カイバール峠をこえる

    カイバール絶壁で九死一生。
 
 mapkaibaryuku

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 アジアの峠といわれ、歴史上アレクザンダー大王が、ジンギスカーンが、ムガールのバブールが越えてきたカイバール峠。

 しかしカイバール峠は思ったほどの峻厳な峠ではなかった。この峠越えを困難にするのは峠の手前と越えてからにあった。というのは落差100メートルを越える屏風のような断崖を登るのと突然変わる天候にある。

 道はせまく少しでもスリップしたりすれば一巻の終わりとなる。バスで越える人達には旅行者にある運転手への軽率な身のゆだね感から寝てる間に越えてしまうこともある。だが実際に自分でこの峠を運転して超えるのはハードである。

 第一まずどのような道であるのか一切見当がつかない。

 第二に誰かから話を聞いて事前の準備がまったくない。まずなにより峠に関する知識が手元のフランスで買ったアトラスという簡単な地図以外なかったことだ。1969年の我々のカイバール峠車踏破から2年後トヨタがシルクロードを車で横断をやり、そのキャッチフレーズが大冒険キャンペーンだったことからも当時の状況を理解していただけると思う。
 
 ヒンヅークシからの強風で埃の舞うカブールをスイカとガソリンを積んで出発した。岩山の間を抜けて山道が続く。カブールでの温度は確か20度程度あったが次第に温度が下がっていた。雨が降り始めていた。アフガニスタンの降雨は春先と11月後半の時期にある。丁度冬が始まりはじめていた。

 どの程度のぼったのか雨が白いものに変わり始めていた。道路に轍ができて、その上を辿ってゆく。スピードに気をつけて進む。峠を明るいうちに越えるように十分な時間をとってカブールを早朝に出たのだが、車のスピードは時速5キロも出せない。それ以上出すとスリップする。辺りが次第に暗くなってきた。ヘッドライトをつける。ヘッドライトの照明に雪が縦線のように横切ってゆく。行き交う車はない。道路の右側に目をやると暗い虚空、左側は岩山の山肌がみえる。狭い道をゆるゆる登ってゆく。上から一台の車が下りてきた。狭い道である。ハンドルを少し右に切った。その時であった。轍にたまった雪の塊にタイヤがすべった。車は半回転して止まった。上から来た車はかろうじて我々の車をかわすと我々を見ずに降りていってしまった。彼らも必死に運転していたのだろう。
 
 半回転して止まった車からおりた。なんと車の右側のタイヤの半分が断崖にかかっていた。あと数十センチずれていたら100メートルはあるであろう真っ暗闇の断崖にまっさかさまに落下していたであろう。三人は車を素手で押して道路に戻し、そのまま無言でまだ車を押していた。
50メートルほど押したであろうか、ハーとため息を吐いた。仏教では”運否、天賦”という。運不運はすでに天により決まっているというのだ。死ぬものは死ぬ、生きるものは生きるのだ。世に天災も人災もない。人間は仏陀の手の平にのっている。

 峠にでた。やがて車はヒンヅークシの南麓を横切って何事もなかったようにペシャワールの盆地に近づいてゆく。ペシャワールはパキスタンの西端の町である。国境を越えた。

カンダハールからカブールへ(アフガニスタン)

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 


ヒッピーの聖地カブールへ 

 1969年我々はヒッピーだった。小田実の「なんでも見てやろう」に共鳴し、既成の政治や道徳を破壊して新しい何かを模索する世代だった。小学校時代に二部授業を経験し、GHQによる脱脂粉乳で栄養をどうにか補給して育った世代だった。小学校にはまだ下駄で登校したし、夏はパンツ一枚で外で群れをなして遊んでいた。

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 まさしく当時日本はアジアの色を濃く残していた。イスタンブールから今アフガニスタンの首都カブールまでは私にとっては自分の感じるアジアではなかった。トルコも、イランも、アフガニスタンも民族は鼻筋の通った西洋人に近く思えた。ただカブールに到着してカブール川にそって店を構えるバザールにきてみると、モンゴル系のアフガン人がいた。はるかストラスブルグをを出て往路半分、ようやくアジアの片鱗にいた。

アフガン人アフガン人
 
 我々はまずチキンストリートと呼ばれるヒッピーの集まる地区にいった。安宿の前に木で作られた縁台らしきものにヨーロッパやアメリカの若者がハッシシをのんで無気力な目をして横になっていた。近づいても我々になんの興味を示さない。つかの間の陶酔にしたっているのだろう。

 極端なまでの現象は見るものを唖然とさせる。世界の若者をつかんだヒッピーの運動はここカブールで無気力な刹那的陶酔主義と化していた。こうしてカブールはヒッピーの聖地とよばれていたのだ。
 
 カブールは標高1600メートル。朝晩の温度差は20度から30度もある。コーエアズモ山脈とシェルダワザ山脈に囲まれた盆地にある。当時の人口は約20万人。アフガニスタンの首都である。カブール川にそってチャルルチャタバザールがある。バザールに行くと何でも買うことが出来た。豊富な野菜、果物、ざくろは見事な彩りを市場に与えていた。肉は羊、カブール川でとれる川魚まで売っていた。多くの骨董屋が並び古銭屋まであった。カブールは古から職人の街だという。確かに陶器の修復や石を削る職人達を見た。カリファと呼ばれる棟梁が古の技術を伝承していると言う。1979年までは。
 
 現在のカブールは全く事情が違う。カブールの美しい町並みは破壊され瓦礫の街となっている。1979年カブールはソ連により占領された。ソ連撤退後は内戦、そして1996年タリバンの支配。イスラム原理主義のタリバンは写真、音楽を禁止し、政治的論議を禁じた。女性はチャドリと呼ぶ被いをかぶり、女性だけの外出は禁じられ、男性は成人すると髭をそることが禁止されている。1969年我々が見たおおらかで芸術と人生を愛する余裕のアフガニスタンは戦乱に巻き込まれてその片鱗もない。1969年アフガニスタンは確かにきらやかにかがやいていた。

朝霞をぬけてカンダハールにむかう

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 

昨夜のことは一体なんだったのだろう。人は現実に事件に直面して捕らえられて身ぐるみはがれてやっと事の重大さに気づくほどの鈍感さがあるから生きてゆける。 

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 危ないから行くなと言われ頭の中では解かったつもりでも出かけてゆく。危機がそこにせまっていても危機に直面して始めて危機を認識できる。それほど人間はおめでたく出来ている。死の直前といえども、意識がなくなる寸前に自分が死ぬと思うのだろう。楽観とそれを呼ぶなら楽観こそ人を生かしている。楽観こそ次の瞬間にエネルギーを蓄えることができるのだ。
 
 我々はディアレムの朝もやの中、目をさまして、次のアフガン第三の都市、カンダハールに向けて走り始めた。朝食には車中のスイカとディアレムの村で買ったナンですませた。

あふがん1
カンダハール市内風景

カンダハールの市内。アフガン第3の都、活発な商業活動が営まれていた。女性の姿は余りない。



 ディアレムの村をでると砂漠の道は次第に岩山への登りとなる。途中に崩れかけた城の跡が見られる。戦いで有名なファテ・カーンの城だという。ギリシクの村にでると道はボグナ運河を渡る。アフガンの大河ヒルマンド河が見えてくる。この河はヒンヅークシ山脈を源として旅の途中で越えてきたイランとアフガニスタンの国境近くの沼地で消滅する。全長1300キロの河である。ヒルマンド河を渡るとカンダハールの丘が見えてくる。

 カンダハールは22万5千人の人口を有するアフガン第3の都市である。カンダハールの名前はガンダーラからきているらしい。向こうに4000メートル級の山と山脈がみえる。あの山脈を越えてゆくとカブールだ。街に着いた我々はまず銀行を探した。現地通貨アフガンに替えてプリンの類や寒天の菓子を買って食べた。勿論久しぶりの熱いチャイはうまかった。
 
 明日から行く4000メートル級の山岳地帯を思ってアフガンコートを買った。羊の匂いがきつかった。このコートは帰国して何日も日に干したが強烈な匂いは消えなかった。しかし暖かさはなによりだった。

闇の砂漠、ヘッドライトに照らされた白いターバンの一群が、、、

  これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 
真っ暗闇の砂漠を走るヘッドライトに突如照らされた白いターバンの一団。 

 蜃気楼の砂漠に真っ赤な太陽が沈んでゆく。辺りがつるべ落としのように暮れてゆく。砂漠にある光源は昼間の太陽と夜の月と星だけである。

 太陽が沈む。闇がビロードの緞帳のように降りてくる。真っ暗闇である。

 あふがん1あふがん2あふがん3

 昨日ヘラートのチャイハネでチャイを飲んだとき親父が我々に、もしカンダハールに向かうなら昼間走って夜陰は安全な所で休むように言っていたことが気がかりだった。最近盗賊が出没するからだと言う。もう少しで次の村ディアレムに差し掛かる筈だった。

 前方をVWのヘッドライトが照らしている。

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 スピードが無意識に上がっている。砂漠を走る道路の横は砂漠の瓦礫である。ヘッドライトの照らす明るい部分と暗闇に繋がる部分に霞がかかっていた。その時であった。前方から白いタバーンを巻いた一団が目に入った。我々の車に向かって丸太棒を放り投げてきた。それも何本もである。丸太をかわすごとに車体が大きく傾く。運転していたのは大学の自動車部でならしたヒリキである。ヒリキの顔がひきつっている。車は車道を大きくはずれて砂漠の瓦礫の上をボコンボコンと音を出して進んだ。どうにか車は横転せずに車道に戻った。後方を見ると闇の中に白い一団がみるみる消えていった。
 
 人生は一寸先は闇。禍福はあざなえる縄の如し。仏教では運否は天賦なりという。人の運不運は天だけが知っている。

 3人は車を停めず無茶苦茶に走って横転もせず走り過ぎることができた。今から40年前の真っ暗な砂漠のなかのことだっだ。身ぐるみはがれて放り出されて息絶えたとしても何もなかったであろう時代だった。そういえばトルコの日本大使館で言われたことを想い出す。

 ”君達がどこに行こうがいいがここには来なかったし知らないことだ”といわれたことを。

 車は闇に光をかざす村に近づいていった。ディアレムの村である。ディアレムの街路に車を停めて回りをみたがチャイハネがあるでなし、その場でエンジンを切って目を閉じるとそのまま眠りに落ちていった。天は二日後にまた我々に味方することなど知る由もない。

シルクロードの真実

   イランからアフガニスタン国境を行く。

 イラン第3の街メシェッドをでて、一路アフガニスタン国境に向かう。

 アジアとヨーロッパを分けるイスタンブールからもう一ヶ月が過ぎようとしていた。東西を結ぶ絹の道を行けるだけ行く積もりでフランス・ストラスブルグを出発して今イランからアフガニスタンの国境を辿ろうとしている。

 絹の道は物資の移動と輸送の為にあった。そして人間と文明が交錯した。トルコから東、道には必ず商人が泊まる宿屋があった。欧州のホテルとは違い、また極東、東南アジアの中にある宿屋ではない、宿舎とでも呼ぶ存在が目立った。商人宿と呼ぶものである。キャラバンサライ(caravanserai)がそれである。そして実はこのキャラバンサライこそイスラムの女達によって建設され運営されていたのだ。
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 中央アジアのシルクロードは実はイスラムの女が守った道なのである。 モスレムの文明は常に移動を前提に組み立てられていた。アラブの民も非アラブの民も遊牧の民であり移動の歴史を継承している。戦争には大軍をくんで陸路を行ったのである。

 知識を積まんとするものは幾千里を行って師についた。都市の富とは商品の移動と共にあった。またイスラムの宗教の衝動はメッカへの巡礼にあった。現代でもメッカへの巡礼に何千万の信仰者が移動している。厳しく人を寄せ付けないほどの自然環境の中で旅する者を受けつけるのがキャラバンサライであった。

 陸の船、砂漠のオアシス、乾きを癒す水、傷ついた兵士の看護、富の保管、秘密と情報の保持、さすらう男達を荒廃から護る者、それがキャラバンサライとイスラムの女達であった。一人の男に複数の女が必要だった。イスラム教徒の女達はこのキャラバンサライの主人たちであった。現存するバグダッドからメッカまでの古の巡礼のルートは8世紀のペルシャの王の妃が実際に建設したものでダーブズバイダ道となずけられている。
 
 メシェッドを出発した我々は、ジャナタバード、トルバエジャム、タイイエバードと経てアフガニスタンに入りグリアン、カルク、そしてヘラートを目指した。約1000キロの道程である。
 
イラン砂漠イラン砂漠

 イラン側の国境の街がカルカレフ、アフガニスタン側がイスラムカラ。国境についた時にはもう日が暮れていてあたりには明かりもなく真っ暗闇。国境事務所は薄暗い自家発電の裸電球だけのバラックで係り官が暇そうにテーブルにひじをついていた。シャロームと挨拶すると面倒くさそうに対応してくれた。

 片言の英語で「ホエアユーゴ」何処へ行くと聞くから「ジャパン」と答えたら「ジャパニーズは初めてだ」と答えた。いくらなんでも日本人が陸路でこの国境を越えるのは初めてではないと思ったがこの係り官には初めてと言う意味だろう。

 1969年いまから45年前のことだ本当に初めてだったのかもしれない。何か持っているかと聞くから、いつか誰かにあげようと思って機会がなく、財布にしまったままの日本の穴あき五円玉のはいったお守りをあげたら喜んでパスポートにバチーンとビザの判をおしてくれた。当時のパスポートを見てみるとそれはそれはしっかりとした判でおまけに収入印紙まで貼ってあった。

 ビザ

ゾロアスターとペルシャ

   芸術とゾロアスター
zoroaster

 拝火教としても知られ、良く聞く名前のゾロスターについて正確に知っている人は意外に少い。現在キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に多くの影響を与えたと言われるゾロアスターとは一体どんな存在であったのでしょうか。
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 ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「ツアラツーストラはかく語りき」を著わして超人の思想をツアラツーストラ(ゾロアスターのドイツ語名)の口を通じて説いた。またドイツの音楽家リヒャルト・シュトラウスは交響詩「ツアラツーストラはかく語りき」を作曲。その序章は1968年の映画史上の名作、スタンリーキュウブリックが製作、監督、脚本というオールマイティの能力を発揮した「2001年宇宙への旅」に使用されている。

 紀元前のことである。マケドニアのアレグザンダー大王が東征を始めたのが紀元前約250年前、その約300年前、紀元前628年ゾロアスターは職人の子供として生誕したという。幼少時より超人的能力を持ち背後には光が満ちていたという。キリストがソロモン王とダビデ王の両家の血筋をもつ王子であったのと違いゾロアスターは全く血統上のカリスマ性はない。思想史上重要な点は二つあるらしい。一つがヘレニズム時代のオカルト、神秘的宗教の基礎となった点、二つ目に一神教であることだと言う。神はアフラ・マツダという光の神、対立する悪神アリマンとの対立神論。

人類の歴史の中で主要な宗教が成立した時期は仏陀、仏教(紀元前6世紀)ユダヤ教 (紀元前6世紀) キリスト教(紀元)、イスラム教(紀元後7世紀)全て悠久の人類生誕の歴史から見れば本当に短い期間に集中している。常に存在していた超絶対な存在への人類の憧憬と帰依がこの時期集中して形となった。それも複数神ではなく全て絶対なる一神教である。仏教についても仏陀の教えと言う点では一神教のカテゴリーである。

 エジプト、メソポタミヤ、黄河、インダスという四大文明を築き上げた人類はその後紀元前6世紀、苦悩の時代を迎える。行く先のない暗澹たる未来観が人類を襲う。それは人類同士が争い、共食いによる種絶滅の恐怖となってゆく。そこに現在の3大宗教の起源があった。

 現実64歳の私でさえ年を経て先に限界が見えてくると生命の限界を良く考える。死が迫ってくると、恐怖が生じる。永遠の生への思いから自身を絶対なものに帰依させたくなる。宗教とは黄昏に重要な絶対必要な要素なのである。人類の歴史を見ると、紀元前6世紀から紀元後6世紀の間の1200年間が人類の終末からの再生と救済の時期だったのではなかろうか?

 その後現在の21世紀まで人類に絶対的な終末論はない。いはば人類はキリスト教、イスラム教、仏教によって救われているのだ。キリスト教を信ずるもの19億人、イスラム教10億人、そして仏教を信ずるもの3.5億人である。なにも信じない無神論の日本人には救済はないのだろうか。

イラン中央砂漠を行く

    ダシカヴィール砂漠をゆく
イラン砂漠
おいらん砂漠

 砂漠よりむしろ土漠
 
 イランの首都テヘランからカスピ海はすぐそこである。僅か直線距離では40から50キロといったところであろう。我々も黒海カスピ海は必見だと思っていた。

 黒海は既に見た。地図ではカスピ海は近い。そこで昨日の日本商社に電話して様子を聞いた。するとなんとあの5000メートル級のエルボルグ山脈の峠を越えるそうだ。すぐにやめてイラン中央砂漠(正式にはダシカヴィール砂漠)を横断することにした。
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 ガルムサール、セムナン、ダムガン、エマムルド、ザムゼバール、ネイシャブール、そしてマシャッドまでの1200キロに挑む。その前にイランという国についてもう一回整理しておこう。

 イランの正式名称はイランイスラム共和国 (ジョムフーリーイエ・イーラーン)と言う。面積は日本4.5倍。人口は6800万人。広大な砂漠を有する。砂漠と言っても乾いたあのさらさらな砂漠地帯ではない。ワジスとよばれる瓦礫と砂と土が膨大に堆積された地帯である。

 この地帯では、農業は全く出来ない。通貨はリヤール。当時の1ドルは約10000リアル(1リアルは3銭というところか)。通常に泊まるホテルが一泊一ドル。食事は田舎ではほとんど払った感覚はないほどの料金だった。我々は水とガソリンを備蓄して車に積んでいた。特にガソリンは切れたら最後命に関わった。水については豊富にスイカとメロンを積んでいた。面白いのはトイレについて困ったとかの記憶が全くないことである。どうしてなのか今もって不可思議なことの一つである。人間、生理的現象については記憶機能が深化しないのかもしれない。

 我々はこの砂漠の踏破を少し甘く見ていたのかも知れない。テヘランを昼食を済ませて出発した。なぜならテヘランからマッシェッドまでバスで18時間と聞いて、それなら十分10時間ではマッシェッドに到着すると考え、少しゆったりテヘランを出発したのです。砂漠のなかで何もなければでした。それにバスでも砂漠の中を猛スピードで飛ばして18時間でした。ガルムサール、セムナンまでは問題なしでした。セムナンからダシカヴィール砂漠に入ります。砂に覆われたような古都の街ダマガンを過ぎて約20キロ突然右後ろのタイヤがバースト。幸い怪我もなくただ右に傾いてしまった車と我々が残されていました。前も後ろも砂漠。もう暮れ始めていました。一月とはいえ昼間は25度、夜になると冷え込んで吐く息が白い。次の大きな街ダムガンまでは20キロほど。とにかく次の街までたどり着かなくてはと考えた我々は一人が運転、一人がヨットの操縦まがいに左に体重をかけてそりだす。一人は外で走りながら状態を見る。時速10キロ走行を始めた。休んでははしり走っては休みしてダマガンの街に着いたのはもう真夜中。くたくたになって水をのんですぐにパンクのままの車のなかで寝てしまった。
 
早朝目を開けると、しっかり開かれた大きな目が一杯こちらを覗き込んでいた。質素だがきらきらと輝く子供達の好奇心の目だった。東洋人が車のなかで寝ている。車はパンクしている。ドアを開けて一歩外にでると、砂漠の朝のギラギラの太陽と昨日から何も食べていないのとで体がフラッとした。

 iranirann

イスラム的生活

  テヘランの記憶

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テヘランではどういう理由か思い出せないが、たしか市内の中心で当時百貨店があった目抜き通りの斜め向いにあった商社を訪れた。商社の駐在員が親切に対応してくれた。その上、同社のイラン人の従業員を紹介してくれてテヘランの街を案内までしてくれた。1960年代のことである。
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 来訪する日本人も少なかったに違いなかった。30代半ばの紳士的イラン人の名前を覚えていないが自宅にまで招待されて夕食をごちそうになった。こちとら若気の至りでさまざまな不躾な質問をしてしまったのを覚えている。
 
 夕食をつくってくれた奥さんに、次から次にこれはなんですか?なんの料理ですか?と言う類の質問ばかり。困った奥さんが助けをご主人に求めた。ご主人は我々に対峙して突然説法をはじめました。

 「イランの料理の基本は。。。」ついに大上段からの講義が始まりました。

 「そもそも古代文明では、料理は生存のための芸術でした。メディカル、哲学、文化が互いに影響し合い生み出されたものです。イランでは料理技術の基本は、血液の浄化=温、冷静=冷、陰鬱=乾、陽気=湿の4要素を組み合わせてつくりあげています。温と冷の概念はゾロアスター教に由来するものです。」話す内容と言い方とでますますテンションがあがってきた。

「まず、食材には温属と冷属が存在します。温属と冷属とを調和させて料理をつくることが大切だとゾロアスター教は教えています。」

「温属に属するもの:家禽類、麦、砂糖、ある種の野菜、果物 」

「冷属に属するもの:牛肉、魚、米、乳製品、大部分の野菜」

 例えば目の前にある料理はマストキアールというサラダだが、ヨーグルトが冷属、ミントが冷属、あとの野菜 キューリ、タマネギ、乾しぶどう、胡桃が温属。

「どうですかわかりますか?」
 
 一同ただただ頷くのでした。「こちらはご飯とさくらんぼで味付けた鶏の料理でアルバロポロどうですか 絶妙な調和ではないですか。」
 
「飲み物はアルコールは抜きですが、お茶、ドゥールというヨーグルト飲料、メロンジュースがあります。」                                       
 中でもざくろは特においしい飲み物でした。え!あのざくろが!と思う方に説明です。ざくろをイランではこうして飲むのです。まず大きなざくろの実を良く洗います。周りの皮を丹念に親指で何度も押します。決してあせってはいけません。丁寧にやさしくです。そうするとざくろは柔らかい赤い玉となります。内側からさわさわとざくろのジュースの音がします。皮の一箇所に楊子で穴をあけてチュウチュウと口をつけて吸うのです。ですからざくろは飲むのです。

 食事の会話で打ち解けた我々は食後ご主人とイスラム的生活についていろいろな会話をしました。イスラムのさまざまな戒律、習慣、宗派、についてでした。その中で印象的で今でもしっかり覚えていることがあります。イスラム的性の考え方です。 
 街を歩くと多くの女性が顔をベールで覆っています。イスラムの戒律は厳しい。若者の性はどうなっているのか質問したのです。ご主人は答えました。
 
 アラーはこう言っています。「姦淫するなかれ。姦淫は下品な行為である。」イスラムでは性の衝動は常に結婚と共になくてはなりません。男は15歳、女は9歳から結婚が可能となります。結婚前の姦淫はイスラム法では鞭打ち100回、懲りずに4回すると死刑。マスターベーションはイスラム法では下品な行為であり、してはならない行為です。衝動を抑圧するには下の毛をそることです。育毛は性欲を増すと考えられています。ホモとレズにはもっと厳しい。結婚していないアクティブパートナーには100回の鞭打ち、パッシブパートナー厳罰。結婚している同性愛者は死刑。
 現代日本にイスラム法を適用するとどうなるのでしょうか?

エルズルムからタブリッツそしてテヘランへ

中央アジアを行く
teheraniran king
 
黒海からトルコの温泉を味わいながら少しばかりの休息をとって中央アジアを東に東にむかう。トラブソンからの中央アジアの小さな歴史上の都市が続いている。トラブソンーグミュシャーネーバイブルトーエルズルムーアグリードグベヤジットーマクーーナクシバンーマランドータブリッツーハシュトルドーミアネーアルスーザンシャンーカターアブハールーカズバンーカラジーテヘランにいたる約2000キロの旅である。
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ほとんどが海抜1000メートル以上あり且つ半砂漠状態のなか道路が続いている。経過した街々の特徴を記す。トラブソンの見所はなんといてもヌメラの僧院である。丘陵の崖地にへばりつくようにビザンチン様式の僧院が建っている。宗教とは不可能を可能とする。グミュシャーネはトルコ東部の州都である。ハルシット河の渓谷に建設されたローマ時代からの街である。現在では40万人弱の人口を抱える。

エルズルムで一泊した。ホテルは一軒あるだけだが一泊100円相当のトルコリラだった。泊まっていると突然ポリスの検閲が部屋に入ってきた。なんでも強盗がでたそうだ。しかしポリスといっていたが私服だった。我々は三人で夜遅くまで起きていたので気づいたのだが、どっちが強盗なのか分かったものではない。睡眠薬をつかった強盗らしい。

田舎にはいると米国ドルが通用しないので翌朝朝早くホテルの傍の一軒しかない銀行でトルコリラに換金に出かけた。早朝の9時なので早すぎたかなと思ったが、意外や意外、もう開いている上人だかりができている。トルコには列をつくる習慣は存在していなかった。とにかく人が群れているのである。誰が受付しどの人が次対応されるかは全くわからない。何もしないと永遠に自分の番がこないと知って叫んだ。日本語でだ。俺の番だ!注意が向けられた。列が自然にできた。やっと両替がすんだのは10時を回っていた。考えてみれば列など作るほうが人間的でない。古今東西,悠久の歴史が証明するように「先取り特権」という万人が認める常識がある。先につばをつけたものを自分の領有としていたではないか?列をつくるなど弱者の法であり、人類が生存してゆくには強者生存こそ正しい。したがってトルコが正しいのである。

 ドグバヤジットの街は隣国イランに20キロの国境にある。アララット山登頂の拠点でもある。マクの街はイラン側の国境の街だ。1600メートルの高地にある。ナクシバンの街は現在ではアゼルバイジャン共和国の首都となっている。ここは、トルコ、イランと国境を接してる。そしてイランの都テヘランに至る。

テヘランの人口は1100万人、標高1200から1600メートルある高原の都市である。テヘラン市街のいたるところにパーレヴィ国王の肖像画が掛けられていた。1969年当時、正にパーレヴィ国王独裁の時代だった。日本の企業も多くテヘランに進出していた。三井、三菱などが石油の利権を争っていた。イランと日本の関係は深い。米国ブッシュがイランの核開発でイラクの次はイランだと騒いでいる。テヘランは山麓の斜面に開いた街だ。すぐ北には5000メートル級のエルブルズ山脈が迫っている。

 当時独裁を誇っていたパーレヴィ国王は3回結婚した。一回目がエジプトのファラオの娘、二回目がソラヤ、そして三人目が写真のファラディバである。22歳で父の跡目で国王となった。第二次大戦ではドイツと関係を深めた。1967年には自身を「王の王」と宣言して皇帝となった。統治には秘密警察SAVAKを使って徹底的に反対者をつぶした。市民権や政治的自由は存在しなかった。そして1978年から1979年逃亡していたアヤトラ・ホメイニがパリから帰国して宗教クーデタを起こす。パーレヴィ国王は追放され、放浪して逃亡生活を送る。失意のまま1980年最初の妻の地エジプトカイロで死亡した。イランに戻ることは出来なかった。人の一生とは誠に短く儚いものだとつくづく思う。(続く)

途中ですが少し、

閑話休題
シルクロードの話を少し脱線しますが、1969年にシルクロードをへて帰国した私は大手広告代理店に入社しました。その後いろいろな仕事をしました。そのなかでとても普通ではお会いできない人たちに邂逅することができました。感謝感謝です。
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 シルクロードのたびの途中ですが、シルクロードで経験した何かが人生の糸となりこよりとなって多彩な人たちとのめぐり合いにつながったものと思います。

 若者よ旅にでよ!と言いたいのです。 

jean paul  II




生来のオープンマインドで人と逢うことが出来る所為か本当に多くの偉大な人々とお会いすることが出来ました。思い出の人びとを上げてみました。
1 ジャックシラク (当時パリ市長)2 笹川良一 (ニース市祭典にて)3 ローマ法王 ヨハネパウロ2世  4 長島茂雄 (パリにて数度) 5 シャルルアズナブール (ニース アクロポリスでの夕食会)6 佐藤 文生(自民党広報委員長) 7 ジャックメディサン (ニース市市長)8 ニコラ トラサルディ (友人)9 加藤重高 (陶芸家)瀬戸で 10 黒沢明監督(まだだよ製作)11 ビムベンダース (映画製作)何回も映画について話した12 宮崎駿 (映画製作)もののけ姫 13 ソルベイグドマルタン (女優)フランスの女優 14 カトリーヌドヌーブ (女優)CF 15 松本清張 (取材) 16 松本弘子 (マヌカン)カジノ 17 ピエールカルダン (デザイナー)将軍展開催18 フランソワライシェンバハ (テレビ番組芭蕉製作) 19 クロードルルーシュ(Avenue Hoche スタジオにて) 20 ロリンマゼール 夾竹桃カンタータを創作したいと話した 21 ホルストダスラー (アディダス社長)ICL創設 22 フランツジョセフ (リヒテンシュタイン)篠田理事長と 23 デビスカルノ 24岸恵子 (CF撮影) 25 篠田正浩 26山村聰(CF撮影) 27 勅使河原宏 (監督)よく食事した 28 荻須高徳 (絵描き)パリでよく話した 29 ジェラールガルースト (画家) 30 ジャックモーリス (当時フランス大使館公使)31 青木功 (CF) 32 ジャッククルティーヌ (世界柔道連盟)33 猪熊功  (柔道)カジノにお供した 34 松前重義(東海大学総長) (柔道)35 アランシャリエル (南仏ボーマニエール オーナーシェフ) 36 ピーターユベロス(LA オリンピック)37 久保田一竹 (友禅) 38 そめのざ玄才 (友禅)39 石井宏基 (故衆議院議員)マージャン友達だった40 中山素平 (ウィーンでのOPEC取材)41 星野仙一 (ミスターベースボール 撮影) 42 高倉健 (ミスターベースボール 撮影) 43 トムセレェック (ミスターベースボール) 44 伊丹十三(映画監督) 45 田崎真也(ワイン撮影) 46 ジャンジャックベネックス (監督)友人としてよく話す。 47 リュックベッソン (監督)49 緒方貞子 (大学の恩師) 50 エドモンド ブランデン (詩人)恩師の恩師 51  52 倉本昌弘  (番組撮影) 53 岸田邦夫 (彫刻家) 54 並河万里 (写真家) 55 牛尾治朗 (経済) 56 ジャックラング (当時フランス文化大臣)57小坂徳三郎 (ニースにてテニス会議) 58 ソフィーマルソー (女優)59 ジョルジュドンヌ (舞踏家) 60 モーリスベジャール (舞踏家) 61 マルセルマルソー (パントマイム) 62 松村達雄 (まあだだよ) 63 香川京子 (まあだだよ)64 徳間康快 (プロデューサー) 65 栗本信實 (写真家) 65シュテファン リップ (写真家) 66武田秀雄 (漫画家) 67 トミーウンゲラー (漫画家) 68モーリス メッセゲ (ハーブ研究の父)69 辻邦生 (芭蕉番組監修) 70 ロジャーコーマン (ハリウッド プロデューサー) 71 エドワードプレスマン (ハリウッドプロデュサー) 72 アンドレ・ビレ (ピカソ 写真家) 73アランドロン (CF)74 ポールボキューズ (料理)75 白柳大司教 (バチカン展) 76 水島元そごー会長 77
レオンリー (元ロッテ野球選手)78 ジュリードレイファス (女優) 79 ジャックアタリ 80 イブモンタン(パリでのパーティで一度)(81)淀川長冶(JALの仕事で) ・・・・・・・・・・・・・・・
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 中でも写真にもありますがローマ法王、ヨハネパウロ2世にお会いできたことは大変得がたい経験となりました。1980年代日本で開催されましたバチカン展は大成功に終わりました。日本でバチカンの宝物を展示する計画があるとの情報をパリでつかんだ私は早速今は亡き社内の旧友であるF氏に情報を送りました。F氏はその真偽を探りにすぐパリに飛んできました。二人はすぐローマのガルタ神父に合いにローマへと飛んだのです。
 ローマには当時日本から留学していた塚本神父等がいて情報把握につとめてくれました。その後話として公に出来ない事などがありましたが、日本でのバチカン展までこぎつけられたのです。そごーでの開催となりました。この種のイベントは通常国立美術館でやるのが普通ですが百貨店での開催は異例でした。そごーはこのために横浜店に本格的な美術館をつくってしまったほどでした。

アララット山とトルコの温泉

   ノアの箱舟と温泉
ararat

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 黒海沿岸の街トラブソンから山道を登ってゆく。目指す街はエルズルム。黒海から標高2000メートル。だらだらと登ってゆく。道は舗装されていない。細い山道が続く場所は細心の注意が必要だ。夜間の運転は盗賊の恐れもあるとかで昼間走行した。

 エルズルムに近づくと左手に富士山が見える。いや富士山にそっくりなのである。それが標高5137メートルのアララット山である。トルコ最東端のアルメニア、アゼルバイジャン、イラン国境の山で、大アララット山(5137M)と小アララット山(3914M)とがある。
 
 しかしこの山はむしろ旧約聖書、創世記の中で語られる「ノアの箱舟」伝説で有名である。神によってアダムとイブがつくられて人がこの世に満ちてゆく。神はしかし地上に人が増え始め人の悪が増し常に悪いことばかりしているのを見て言う。「私は人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、全てのいけとしいけるものを」そして大洪水を起こす。

 アダムの系図の中に神に従う無垢なノアがいた。ノアとは慰めという意味である。神はノアに命じた。「大きな箱舟を作り妻と三人の息子夫婦、それに雄と雌のさまざまな動物達と食糧を乗せなさい。」
 
ノアが600歳の時、大洪水がおきる。40日間洪水がつづく。地上の生物はことごとく息絶えた。150日後に水が引き始める。箱舟は「第七の月の十七日に箱舟はアララット山の上に止まった。」ノアは洪水の後350年生きて950歳になって死んだ。
 
 アララット山はトルコの名前はアグリ・ダギと言う。苦難の山という意味である。マルコポーロの東方見聞録にも登場し、前人未踏の山として紹介されている。19世紀になってようやくドイツ人物理学者によって登頂されたが1990年クルド人との政治的問題で登頂が禁止されている。
 
 近年アララット山の頂上近くで植物のつるやタールで固めた船らしい化石が発見されその真偽が話題となった。旧約聖書のアララット山の伝説は人々の暮らしのなかにしっかりいきていることが証明された話題だった。
 
 アララット山は火山である。周囲に多くの温泉が湧き出ている。このことは現在でも余り知られていない。トルコの温泉は全て天然賭け流しでどこかの国の循環温泉や偽温泉などあり得ない。湯治の客が行くところで観光地ではない。トルコ西部と東部に分布していて、東部では黒海沿岸の都市サムソンの80キロ手前にハヴサ、ハママヤーユ、薬効あらたかなアイデル、などがある。我々はエルズルムから少し行った、ディアティンという場所を訪れた。緑の山と清流の地に温泉の湯気が見えてくる。突然モスクの小さいような建築物があり、それが温泉であった。管理者らしいムスターファに
 
 ”メルハバ”こんにちはと挨拶するとびっくりしていた。日本人など初めて見るのだろう。英語など全く通じない。ジェスチャーゲームである。
 
 ”温泉ここ入りたい!”手で丸いお金の格好を見せて、
 
 ”いくら” 一人50クルシュ10円の入湯料だった。持っているタオルを見せると
 
 ”オケー”とそこだけ英語だった。
中に入ると脱衣場らしい。脱いでその辺に衣服を置いた。ただ貴重品があるので三人が交代で入ることにした。全部脱ごうとするとさっきのムスターファが泡ふいて跳んできた。
 
 ”ノーノー”パンツを押さえた。なるほど下半身を露出してはいけないらしい。パンツを穿いたままドアを開けるとなんと露天風呂である。もうもうと湯気が遠くから見えたわけが分かった。湯床の底から直接湧いている。ぶくぶくと音を立てて湧いている。温度は少し高めだが入っていられないほどではない。先客は四・五人だけ。トルコの老人達である。
 
 ”どこから来た?”と聞いて来た。
 
 ”ニッポン”、通じない、”ジャパン”、通じない。
 
 ”エルツール”そうあの遭難したトルコ船の名前を言った。
 
 ”ジャポーニ””トーゴー”老人達の目が変わった。特別な親密な顔になった。
 それからが大変だった。温泉の中の食堂に連れられて行った。
 
 ”何が食べたい、何飲みたい”日本人歓迎大会となってしまった。
トルコのビール、ワイン、巣のまま出される蜂蜜、チーズ 等など。
温泉に飛び込んではまた歓迎、トルコの温泉は篤い親切な温泉の湯だった。
 
シルクロードロマン DVD-BOX III /趣味教養

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NHK特集 シルクロード デジタルリマスター版 第2部 ローマへの道 DVD-BOX II  /ドキュメンタリー

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カスピ海ヨーグルトの真実

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【カレー特集】天竺 シシカバブカレー(中辛)

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トルコ ヨーロッパナンバーの秘密

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これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 1969年代の事だ。トルコ・イスタンブールからアンカラまでの幹線道路でお目にかかった何台もの新品のベンツ、BMW,VWなどの欧州車の秘密。

 欧州ナンバーの車がすいすいと走っている。どう考えても納得がいかない。それも欧州ナンバーのままである。欧州に移住したトルコ人が里帰りして乗っている台数では明らかにない。
 
 その秘密がアンカラで判明した。我々がアンカラの中心街に駐車したときだ。どこからともなく男が近づいてきた。当然ドイツで購入した我々の車のナンバーの横にはドイツ登録を意味するアルファベットのDステッカーが貼られている。
 
 ”車の引き取り先はあるのかい?”
 
 ”3ヶ月かそれとも6ヶ月?”と英語で話しかけてきた。意味が分からなかった。
 
 ”これからイラン、アフガニスタンと向かうから売るわけにはいかないんだよ。”説明すると
 
 ”なんだ”という風に離れていった。
 
 1969年当時アジア諸国は日本を除くと自動車生産国はない。当然外国から自動車を輸入している。その上関税が恐ろしく高い。300%、400%はざらである。車一台で大きな邸宅が買えるという国もある。

 現在でもシンガポール、マレーシアの関税は非常に高く私の友人は買った車に住んでいる。車を買ったので家に住む余裕がないのである。それでも車に乗りたい連中はどうしていたのか。先に書いたがドイツには当時でも100万人以上のトルコ人が移住していた。

 彼らは里帰り時にドイツ車をレンタルする。レンタカーであるからほとんど新品である。長期で借りる。ドイツからトルコまで直線で高速道路で突っ走ってくれば二日で到着できる。且つメルセデスで走れば快適な旅行となる。帰りは前回乗ってきた違うベンツのレンタカーに乗って帰るのである。トルコでメルセデスを購入するとドイツの3倍も4倍もする。例えばドイツでの価額が100万円とするとトルコでは400万円、ドイツでのレンタカー代が一ヶ月5万円とすると3ヶ月で15万円で新品に乗れるのである。所有したい客の場合はレンタカーではなく中古のベンツをドイツで買ってそれを運転してトルコに里帰りするのである。客は旅行者の登録となっている車に乗るのである。関税はかからない。こうして何回かトルコとドイツの間を運転すると商売となるのである。
 
 近寄ってきたトルコ人は我々の車が欧州ナンバーであることを確認して客を紹介しようとしたのであった。陸続きであればの人間の知恵である。このトルコが現在EU加盟を申請している。認可されると関税が取り払われる。欧州車メーカーにとっては中央アジアに大きなマーケットが出現する。トルコのEU加盟には欧州産業の中央アジアマーケット進出の狙いが背景にあることを忘れてはならない。
 
 アンカラからサムソン、黒海沿岸沿いにトラブソンと車を走らせた。早朝の沿岸を走るとすれ違う車のほとんどが大型のトラックとトレーラーであった。後ろから追い抜く車には満載の燃料や食料品が積まれている。対向車はほとんど空である。生活関連のあらゆる物資がヨーロッパから運ばれてゆく。この現象はイランに入っても同じだった。

 サムソンからトラブソンまでは黒海の入り江を過ぎ、岬を越えて、また入り江をゆく。朝日に輝く黒海を左手に見ながらすすんでゆく。約200キロくらいあっただろうか。やがて坂の多いトラブソンの街に着いた。
 疲れていた我々は車の中で少し休んでいた。少し皆寝たのかも知れない。気がつくと車の周りが騒がしかった。小さな子供達で囲まれていた。見知らぬ三人の若い東洋人が車の中で寝ていたのだから不思議だったのだろう。目と目が合った。きらきらとした子供の目だった。
 
 ”シャローム”と言うと子供達が一斉に笑った。
 
 車を降りて、お茶を飲むまねをしてチャイハネを探すと子供達が先に立って案内する。大きな柳の木のある黒海に面した眺めのいいチャイハネだった。そこで牛肉の煮込みタスケバブとトルコパンと蜂蜜いりのチャイを頼んだ。
 食べている時も子供達がチャイハネの窓から我々をのぞいている。本当に珍しいのだろう。しかし少しすると飽きたのか子供達は自分等のそれぞれの遊び場所に散っていった。
 チャイハネを出ると一人の少年が我々のことを待っていたかのように佇んでいた。
 
 ”シガーラ”といってタバコを出した。買ってくれといっている。要らないと言っても
 ”シガーラ、シガーラ”と左手にタバコを載せて引き下がらない。傍に妹なのか髪の毛が少し赤い女の子が心配そうに見ていた。無視して車に戻ろうとしたとき、少年の右手がないのに気がついた。少年は障害を抱えていた。さっきの子供達の仲間ではなかった。生活のためタバコを売っていたのだ。
 一リラ二十クルシュのタバコを買った。二リラを渡すともじもじしながら
 
 ”ノーマネー”と言った。お釣りはチップとして頂戴と言っているのだと勝手に解釈して
 
 ”オーケー”と手で言うと、待っていた少女と急ぎ足で去っていった。
 
 チャイハネから少し行ったところに安宿らしいところを見つけた。ベッドが置いてある簡単な宿であったが、とにかく体を休めたかった。久しぶりにシャワーを浴びるとベッドに横たわった。うとうとと夕方まで寝ていた。
 目を覚ますと三人で夕飯を食べに外に出た。もう二月だった。やはり寒かったが多分6〜7度くらいだったろう。寒さの記憶はない。
 安宿の入り口に昼間のタバコ売りの少年がまた立っていた。
 
 ”ユー、サンキュウ”とどこで覚えたのか英語で言って左手を差し出した。右手の袖はポケットにだらっと、ささるようにしまわれていた。
 
 私が”ノーモア、シガーラ”と言って傍を通りすぎようとすると、私を押し戻すようにして言った。
 
 ”ヒア、マネー”小さな手の平のなかに小銭が握られていた。少年はお釣りを返しにきたのだった。少年と目が合った。きらきらとした子供らしいが正直そうな目が微笑んでいた。お釣りを受け取ると後ろにいた少女が恥ずかしそうに笑っていた。クルド人難民だったのかもしれない。一旦でも少年の正直さを疑った自分が恥ずかしかった。

 
 
 samsunsamsun

勇敢女兵士アマゾネス伝説の地

黒海アマゾネス伝説 

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トルコの首都アンカラからは東イランに向かって二つのルートがある。


 そのまま東の街シヴァスを経由してエルズルムに至るのと北に向かい黒海沿岸ずたいにサムソン、トラブソン、そしてエルズルムに至る道である。我々は黒海を見たかった。一路アンカラから北西に向かう。約400キロで最初の黒海沿岸の都サムソンにでる。このルートをとった。同じく夜アンカラを出発すると早朝黒海沿岸に到着した。
 
 黒海はボスフォラス海峡で地中海と繋がっている内海である。地中海から海水が流入し、沿岸の大陸から多くの河川が注いでいる。ダニューブ河はその内の一河川である。黒海の広さは42万平方キロメートル、深さは2200メートルもある。沿岸諸国にはブルガリア、トルコ、ルーマニア、ウクライナ、ロシアそしてグルジアがある。
 
 港の堤防に立つとなぜ黒海と命名されたのか良く理解できる。地中海の港では水深まで透明で小さな魚が射す光線にきらきら反射するほど良く見えた。ここ黒海にはそれがない。透明度は水深5メートルだという。地中海のそれは35メートルと報告されている。決して水質が汚染しているからではない。実際世界でもトップクラスの水質でクリアであるといわれている。その原因は海の水深が2200メートルもあることと高い塩分濃度にあるらしい。流入する海水や河川の水が海底にとどき表面まで回転することがない。このため低酸素循環となり海底には地球古代の生物の層が未だにそのまま堆積されているといわれている。
 
 ギリシャ時代からマウレ・タラッッタ(ダーク・シー)と呼ばれてきた。黒海沿岸の街サムソンは近代トルコ独立の父、ケマル・アタチュルクの生誕の地であり、独立戦争の発祥の地である。アタチュルクの博物館から生誕の家を訪れた。日本で言えば伊藤博文や西郷隆盛に当たるのであろう。多くのトルコ人が訪れていた。
 
 昼食に大衆食堂のようなところに入ると、アンチョビの入ったサラダがあった。アンチョビは黒海の名産でカタクチイワシをオリーブ油でつけたもので塩味がきいていて旨かった。深海魚は低酸素のため生存していないらしい。
 
 サムソンの街で一番驚いたのが街で聞いたアマゾネス伝説であった。映画にもなったあのアマゾネスである。紀元前1200年ころだという。ここサムソンに勇敢な女兵士でアマゾネス軍団が存在したという。アマゾンとは片乳房という意味だそうだ。弓をひき相手を狙う女兵士は弓を引くために邪魔になる右の乳房を切り取ったという。アマゾネス軍団は最後追われて中南米に渡ったという。この壮絶な話はそして世界一の大河に住むアマゾネス伝説となっていった。。勇敢なアマゾネスの棲む河それがアマゾン河だというのだ。黒海の街サムソンで聞いた話だ。
 
 
 黒海

首都アンカラまでひとっ走り

我が家のトルコ絨毯
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 イスタンブールから600キロ、夕刻イスタンブールを発って夜中ぶっとうしで運転して早朝アンカラに到着した。洗濯板のような道路だった。
 
 アンカラは標高900メートルの高原にある。周囲は肥沃な小麦畑と黒い森にかこまれている。既に紀元前8000年前に集落として構成されアクワッシュとヒッタイトにより紀元前3000年前に原始的都市構造となったと記録されている。

 以降、東と西のせめぎあう歴史的戦場となった。ハッティ、ヒッタイト、フリギア、ガラティア、ローマ、ビザンチン、セルジュク、オスマン とすべてが自分の主権の為に戦い統治をおこなった。現代のアンカラは1920年、アタチュルクが政府をここアンカラに置き首都となっている。
 
 現在、トルコはEU加盟に申請をおこなっている。ドイツには約400万人のトルコ人が住んでいる。トルコとドイツとの経済活動は実に活発に行われている。しかしEU加盟が実現するとこのトルコ労働力が欧州に流れ込み、このまま行くと1500万人から2000万人の労働者が欧州各国に自由に入り込み欧州各国の労働市場が大混乱すると心配されている。首都アンカラは20世紀初頭から欧州の都市を模範に建設されている。公園を配し広い大通り(ブルバール)が街を走っている。キジライ大通りに立つとここがアジアであることを忘れてしまう程である。
 
 我が家には19世紀のトルコのアンチーク・カーペットが2枚ある。いずれも居間に敷かれて使用されている。赤と青と黄を主体として国花のチューリップが織り込まれている。壁に吊るして鑑賞しながら保存するよう言われていたが、日本の家屋には不可能なため敷いてしまっている。このため消耗が進んでいる。これまでお客さんが来ても未だこの絨毯についてなにかの会話があったかといえば、まったく無かった。日本の文化のなかに絨毯がはいったのは明治時代からである。シルクロードの東端の日本に絨毯文化が入ってこなかったのは何故なのか?不思議でさえある。この二枚のカーペットは十数年前の欧州駐在時パリで購入した。購入時トルコのカーペットについてよく研究した。

 そもそも、織物の起源は、ウラルアルタイの中央アジアだそうである。多くの異民族がアジアを移動していた。中央アジアの気候は厳しい。ゴートの毛でテントが編まれた。11世紀セルジュクがトルコとイランを占領してこの織物技術を広めてゆく。オスマントルコの時代、部族の定着が始まる。織物も定着した土地の名前と不可分になってゆく。こうしてマルマラ海沿岸のヘレケで制作された織物がオスマントルコの居城の修飾用となった。14世紀から15世紀、トルコ絨毯は欧州の王侯貴族に愛好され、当時の巨匠アーチスト例えば、ホルバインやヴァンダイクがトルコ絨毯を描いていった。こうしてトルコ絨毯はヘレケの他、ウサク、ベルガマ等々で良質なカーペットが作製されていった。現在、トルコのカーペットは中心的デザイン、シンボル、色彩を少しずつ変革させながらもそのモチーフを変えずに伝承されている。アンチークカーペットの中には、博物館でしか鑑賞できないものもある.我が家の二枚の19世紀アンチークカーペットもヘレケ産でその種の鑑賞用のものだが、居間で使用されその美しいチューリップの姿をみせてくれている。

 Turkish carpetTurkishcarpet











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土耳古(トルコ)を東に東に

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href="http://livedoor.blogimg.jp/sonjin59/imgs/d/1/d1f2527a.JPG" target="_blank">map of Turkey

 深夜のイスタンブールを出た。ボスフォラス橋を渡るとヨーロッパからアジアとなる。橋から感慨をもってはるかボスフォラス海峡を眺めた。ヒリキは何事もないようにハンドルを握っている。彼は大学で自動車部に所属していた。当時の自動車部は自動車自体の構造とか修理とかを中古車を解体して研究するようなところで、かっこよくラリーに参加して女の子からもてるようなとこではなかったような印象があった。
 
 ”空冷ファンベルトの音が滑らかだな”
 
 ”アクセルワイアが踏みやすい”などと言いながらドイツシュツットガルトでVWのビートルを選んでいたのを想い出した。
 
 ”トルコからは夜運転することにする。”とヒリキが宣言した。
 
 ”夜走行して昼は着いたところを見学する。でないと、この旅は単なる車で走ったことだけになる。それでは意味がない。”ヒリキの主張はもっともだった。
 
 ”俺が運転するから文句を言うな”ヒリキはいい出すと頑固なとこがある。
 
 ボスフォラス橋を渡ると一路首都アンカラを目指した。距離約600キロ、東京から大阪までの距離ということになる。東名高速道路が出来て四・五年後のことだ。トルコのいわば主要幹線であるイスタンブールからアンカラまでは当然しっかりした道路があると思い込んでいた。

 確かに広い道路だがイスタンブールを出て100キロくらい走ると突然車が揺れだした。道路が洗濯板状態なのである。どうしてなのか舗装していない。いわば日本の戦後と同じ砂利をローラーで固めた道であった。強い風で道路の土部分が飛んで溝が規則的にできている。正に洗濯板なのであった。その道を後ろからどんどん抜いてゆくのが定期運行のバスである。屋根の上に荷物を積んで高速でぶっ飛ばして行く。
 
 ”なんていうことだ。”我々も時速110キロは出していた。
バスは130キロは出ている。それも中古のバスで洗濯板状態の道の所為か飛んでいるような状態で走っていた。
 
 ”あれはいつか事故を起こすぞ”ヒリキが言った。
 
 バスの次は二・三台のメルセデスベンツが抜いて行った。
 
 ”あのベンツは新品だぜ、どういうことなのかな?”理由が分からないがトルコの夜道を新品の大型ベンツが二・三台つながって走ってゆくのが奇妙だった。理由は首都アンカラで判明するが後に譲ろう。
 
 イスタンブールから300キロくらいを走っただろうか、道の右側にバスが転倒していた。バスから火の手が上がっていた。真っ暗闇であった。赤い火の手のなか脱出した乗客があえいでいた。老婆が頭から血をだしながら泣いていた。
 
 車を止めてバスに近づくが火の手であぶない。脱出した乗客に車内から水をもってきて渡した。他になにが出来るのか。言葉もわからない。連絡の取りようもない。ただ立ち尽くすだけだった。そのうち後続の車が何台か止まりトルコ語で緊急対応をしていたが、連絡を取るのだろうまた緊急発車していった。
 
 ”先を行こう。”
 
 ”我々に出来ることはここまでだ”ヒリキが言った。
 
 フォルクスワーゲンのエンジンをかけた。アクセルを踏むと現場から離れてゆく。またヘッドライトが前方を照らしている。何も無かったように車はスピードを増していった。
 
 ”あれが我々だったら、そのまま行方不明処理だな。”
 
 ゴジーが突然後部座席から声を出した。確かに車が燃えて書類もなくなって車の残骸と黒こげの遺体が残る。何週間後かに警察に届けられるが身元不明で調査停止となる可能性が高い。三人は突然怖くなって黙ってしまった。
 
 
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イスタンブール・グランバザールの秘術

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。
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ウスクダラ健康法

 朝空腹とコーランの音楽で目が覚めた。ドミトリーベッドの一角で朝のお祈りをしているアラブの青年がいた。お祈りは所かまわずというわけだ。彼らにとってアラーに祈ることはすべてに優先する。それも朝である。人間という人間は起きなくてはならない。疲れていたり、二日酔いなどで朝起きられないなど堕落の上にもほどがある。人間の屑である。まあそういう訳でお祈りに付き合って起きた。
 
 ゴジーもヒリキも起きていた。連れ合って朝食をとりに外にでた。一月末、早朝のイスタンブールは寒かった。着ているコートの衿をたてて近くのチャイハネに入った。三人はフランスのバゲットより少し塩気があるトルコパンと蜂蜜入りチャイを注文した。

 ある本によれば、東洋と西洋を分けているのは茶のアルファベットでのつづりだという。日本、中国では茶はcha ,インドからトルコまでchai,である。ところがギリシャからは、茶はte,the.teaとなる。CとTがアジアと欧州を分けるという説である。どうも結果文化論ではないかと思う。chaiでもteaでも茶が東洋のものであることは確かである。
 今日の予定を決めた。
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 ”昨日の話が心配だから日本領事館に行こう。”ヒリキが言った。
 
 ”役人に話したってしょうもないだろう。なにかしてくれるのか?”ゴジーが語尾を意味ありげに上げて言った。
 
 ”行方不明というのもなんだから一応アジアに車で向かったということは領事館に残しておこう”私が言った。
 
 ”分かったよ”不満そうにゴジーが従った。

 確か新市街のタキシム広場近くに領事館があったように思う。記憶に広場で食べたカバブのサンドイッチがあるからである。それ以外にタキシム広場には行った覚えはない。領事館を訪ねるとガランとしていた。入り口で目的は何かとトルコ人の受付が聞くので、

 ”これからイラン、アフガニスタン、パキスタン、インドに車で行くので届けに来た”と言うと、            
 ”じゃビザを取りに来たのか?トルコにビザは必要ない。

 ”当たり前だ、我々はもうトルコにいるんだから、と拉致があかない。 
 
 ”日本人領事館の書記官はいないのか”と尋ねた。
 
 ”いるが目的がはっきりしないと取り次げない”堂々めぐりが始まった。
 
 ”もう面倒だから帰ろう”とゴジーがしびれをきらして言った時、
 
 ”どうしましたか?” 書記官らしい日本人が通りかかって言った。
 部屋に通されて目的を言うと、
 
 ”困りましたネ、アジア方向は危険ですからね。領事館では承諾したとは言えないですよ。要するに責任取れないんです。”
 
 ”領事館は止めたんだが行ってしまったとしか言えないんです”何か不幸を予知するような言い方をした。
 
 ゴジーがそれ見たことかという顔をした。結局領事館に来た意味は無かった。日本の外務省が在留する邦人の為に尽力したなどの話はスリランカの津波災害の時以外この40年間聞いたことがない私は外務省など無用だと今でも思っている。税金の大浪費である。

 広場の近くのドネルカバブのサンドイッチを食べながら、グランバザールでも見学しようということになった。ガラタ橋をわたるとすぐにバザールの入り口が見えてきた。適当に車を駐車してバザールに入っていった。バザール内部に一歩入ると、とにかく暗い。目がなれるまでに時間がかかる。慣れた目に土むき出しの通路の左右に小さな店屋がどこまでも続いているのが見えてくる。

 屋根が掛かっていて明り取りがある。明り取りから入ってくる光と下から巻き上がるほこりとが出会ってきらきら光って見える。ほこりの光の乱舞である。
 皮革,生地、金銀、トルコ石などの宝石、骨董、絨毯、雑貨などの店が並ぶ。冷やかし半分で店屋を見て歩いた。

 フランス語には、出鱈目だが商売の極意を言う言葉として「マルシャン・ド・タピ」というのがある。もともと価額があやふやなものをいかに高く価値をつけて売るかという技術をいう。バザールはその商売技術の全てを見ることができる。絨毯屋に呼び止められた。
 
 ”そこの東洋の色男、絨毯を見てみてよ、そん所そこらの絨毯じゃないよ。知らないと思うからいうけど、世界に絨毯といや、トルコとペルシャだよ。トルコの糸はダブルノット、ペルシャはシングルだ。丈夫さが違う。平米40万ノッツの網目がある。御代は見てのお帰りよ。”

 上野のアメ横と変わらない。言葉があやふやな英語と日本語の違いがあるだけだ。絨毯が平置きされている。壁にはシルクやゴート・ウールの見事に織られた絨毯が吊り下がっている。この時は真面目に絨毯屋の説明を聞いていなかったが、後々十数年後に、絨毯に興味を持った私がトルコ絨毯を調べてみるとその店の質と価額は決して悪くなかった。むしろ騙されても買っておけば良かったと後悔するほどだ。現在ではもう本物のアンティーク絨毯は普通の値段では手が届かない。特にカサス地方のコザク、アナトリア地方のクラ、イズミール地方のミラ、イスタンブール近郊のヘレケ、ベルガマのアンティーク絨毯は博物館でないと見ることもできない。
 人のいいゴジーが宝石屋につかまっていた。トルコ石を見せられていた。
 
 ”宝石屋がトルコ石の原石が出るところを案内すると言ってるぜ。どうする?”
 
 ”我々貧乏学生だから金ないって言っても行こう行こうってしつこいだよ”
 
 ”まあそれも経験だし我々三人だから取って食うわけでもないだろう”行くことに決めて若い宝石屋を車に乗せて20分ばかりボスフォラス橋を渡ってアジアサイドに行くとトルコ石の研磨場に着いた。
 
 研磨場には四、五人が実際に石を研磨していた。どういうわけかゴジーが熱心に説明を聞いていた。
 
 ”安いらしい。目の前で研磨している以上本物だし買うことにしたよ。”あっさりとゴジーが150ドルくらいのトルコ石のついたペンダントを買っていた。誰のためか知らない。
 
 ”皆さんにお礼に秘密のトルコ式健康法を伝授しましょう”店の主人が言った。どうせたいしたものではないだろうとは思ったがせっかくだから教えてもらうことにした。
 ブロークンだが要領を得た英語で話しはじめた。
 
 ”ユーノウ・ザ・ワード コンフりクト? コンフリクト ミーンズ ストレス”
 
 ”ストレス カムズ フロム ユア デザイア(欲望)”
 
 ”イト イズ イージー ツー ノウ ユウ ハブ コンフリクト オア ノット”
 要するに葛藤を抱えた人かどうかは一目で分かると言っている。
 
 ”アイ トレエインド メニー イアズ イスラム テンプルズ””アンド ディスカバードシークレツ オブ ヘルス”
 
 ムスターファはイスラム教寺院で修行して健康法を発見した。
 
 ”シークレッツ イズ ブリージング” 秘術は呼吸法である。
 
 ”ファースト、(以降は日本語で訳して説明する。)足を肩幅に開く。膝は軽くまげる
 
 ”そして、息を吸う時足の裏の親指の付け根あたりに体重をかける。こうすると足が微妙に外に反り返る。息を吐くときは足全体に体重をかける。この時足の裏は地面にフラットになる。
 
 ”アンド ユウー アスピレート セイイング マホ ホエン インヘーリング、メッド ホエン エクスヘーリング。”吸う時 マホといい、吐くときメッドと呼吸する。
 
 ”ゼア イズ ポーズ”両手を手のひらを上にして臍の下五センチあたりにゆったりと組む。両手で楕円を組む。息を吸うタイミングで両手で作った楕円で大地のエネルギーを掬い取る。そのまま円を描いて上にもってきて顎の下まで持ってくる。今度は息を吐く。両手は顎の前で、下を向いた手の平のままもとの臍の五センチのところまでまっすぐに下ろす。
 
 ”アンド ユウ レイズ ハンズ アップ ツーヘブン” 息を吸うタイミングで真っ直ぐそのまま垂直に手をあげバンザイする。そして息を吐いて両手を左右に開いておろして行く。最後に手を最初の臍五センチに戻して瞑想する。
 
 ”ディス イズ イスラム ベストヘルス シークレツ”
 
 我々も一緒にやってみた。大地のエネルギーが丹田に満ちてくるような気がした。三人はこの方法をイスタンブールに着いた港にちなんで「ウスクダラ健康法」となずけた。健康法はインドカルカッタまで長旅の車から降りる度に実践した。1952年にブロードウェイでヒットしたのが「ニューフェイス」でヒット曲がウスクダラ ギテリケ アルドギリヤンウーというメロディーだった。江利チエミが歌って日本でもヒットした。憂いのウスクダラは雨だった。というような意味だときく。





 

回想のイスタンブール

  古の都コンスタンティノープルに着く(The alexander arrived Constantinople.)
 
 すっきりとした半曇りの空だった。早朝の甲板に出ると、藍と青の雲間から洩れた黄金色の光線が、丘の上に見えるモスクの薄茶色の丸い屋根と3本の尖塔に反射していた。

 前方に大きく陸地を結んで架かる橋が見え、その手前に低く安定した橋が横たわっていた。両岸は早朝の水蒸気色の靄が古い街の上を覆っているように見える。低く海峡にくっつくようにはじまる街は段々になって丘になり、丘には何本もの尖塔を抱えたモスクが天に話しかけるように伸びていた。モスクから単調だが深みのあるコーラン音調が流れては消え、街からはアナトリアの民族楽器サズの物悲しい音が聞こえてくるようだった。

 隣にゴジーとヒリキが来ていた。
 
 ”ここがイスタンブールか”
 
 ”そのようだな”
 
 ”あれがモスクか? ブルーモスクがあれか?”ゴジーがいつもの遠くを見る目で、自分に確認するように言った。
 
 ”ここイスタンブールに今いるなんて信じられない。”ヒリキがうめくように言った。
 
 マケドニアの王アレグザンダーの名前をもつ客船は、イスタンブールの沖に停泊した。そこからフェリーが客と車を運ぶ。イスタンブールで降りてゆく客は数十人のようだ。船長は正式な格好で船客を送り出した。
 
 ”グッドラック””良い楽しい旅を”降りる客と握手して別れてゆく。

 フェリーはヨーロッパサイドの旧市街のフェリー発着場に接岸されるようだった。船の中でイスタンブールの地図を開いた。イスタンブールはアジアとヨーロッパを結び、黒海とマルマラ海を結んでいる。ヨーロッパサイドは旧市街と新市街が自然の海峡の両岸にあり、ガラタ橋が両市街を結んでいる。ヨーロッパとアジアを結ぶのがボスフォラス橋である。
 
 ”豪華な船旅をしてしまったな。ところでみんな金はどの程度残ってる?。”
 
 ”まだ十分あるよ。どうして”ヒリキが聞き返した。
 
 ”どのようなことがおこるか分からないから最低三人の日本へ帰る船賃は残しておかないとな”
 
 ”それで幾ら残しておけばいいのかな”
 
 ”余裕を見て、そうだな一人15万円は残して置こう”

 <64歳になった今と同じような会話をしていたと思うとなにかおかしい。>

 三人は少し現実に戻って、各々の財布の中味を考えた。
 
 ”イスタンブールはユースホステルに泊まろう”まだまだ先の長い旅を思って、ヒリキが提案した。
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 車と船客はエミノヌ・ウスクダラからイスタンブールの土を踏んだ。
 ユースホステルは予約はしていなかったがオフシーズンだから問題ないと思っていた。スルタンアーメット地区にあった。エミノヌで降りた我々は地図を見ながら丘を登っていった。イエニセリレ通りが東西に旧市街を貫いていた。住所を見つけたり東西南北の方向については三人は一年半の漂白の旅から間違うことはなかった。ヒッチハイクで欧州を渡り歩いた。

 <東西南北が分からなければ命に関わることになる。いわば、命を懸けて身に着けた生活の知恵だった。地図一つでどこへでも正確に行ける自信が今もある。戌年だからではない。>
 
 ユースホステルへの道すがらが圧巻だった。イエニセルリ通りを西に少しゆくとグランバザールがあり、すこしゆくと左手にトプカピ宮殿が見え、さらにブルーモスクが巨大な姿を見せてくる。目指すユースホステルはこのスルタンアーメット地区にあった。旧市街のど真ん中の一等地にユースホステルがあった。その上マルマラ海が少し見える。
案の定ホステルは空いていた。二階建ての簡単な造りで清潔な感じがした。
 
 ”メイアイヘルプユウ?”薄くなった頭を撫でながら30代後半の受付のトルコ人が応対した。登録用紙に住所、名前、パスポート番号、何泊するか、旅の目的地等を埋めてゆく。旅の目的地にジャパンと書いた。
 
 ”車で旅しているらしいが日本までどう帰るんだい?”受付の男が聞いて来た。
 
 ”いけるところまで行きたいんだ”と答えると、
 
 ”そうだな、アンカラまでならそんなに危険じゃない”                 

 ”それから東はデインジャラスだ。イスタンブールの日本領事館で計画を相談したほうがいい。去年イギリス人で同じ道でインドを目指した青年が行方不明になったが領事館に届けていなかったので行方不明のまま放置されたと聞いているから。”諭すように言った。
 
 ”明日日本領事館に行ってみるよ、ありがとう”と返事した。

 二階にドーミトリタイプの清潔なベッドが並んでいた。一泊10トルコリアル、 約200円だった。シャワーを浴びて早速外に出た。
 一月のイスタンブールは、海からの風が冷たかった。地中海性気候で温暖ではあるが、気をつけないと風邪を引きやすい。
 
 ”昼飯何か温かいもの食べよう”
 
 ”トルコ料理何か知ってるか?”
 
 ”知ってるわけないだろ”

 ”とにかく探そう”
 騒がしい大通りを下ってゆくと左手に料理屋らしい店を見つけた。カバブと看板が掛かっている。
 
 ”ここにしよう”
 店内に入るとトルコ人で込んでいて皆昼食をとっていた。料理人が自分の腹の太さと同じくらいの肉を円筒の周りで焼いてよく切れそうな包丁で肉をそいでいた。
 
 ”あれだ あれだ あれ食べよう”中年の注文ききに指差した。それがケバブという料理だった。飲むまねをしたら、

 ”テュルキー?”と聞いて来た。
 
 ”イエス”と言うとラキという酒瓶が来た。飲むとギリシャのアニスの酒ウゾーと同じだった。ここはまだヨーロッパだった。
 最後にトルココーヒーを飲んだ。ギリシャよりずっと濃い味がした。
 
 昼食をとって外に出た。街路に面して6本の尖塔を持った巨大なモスクの姿があった。スルタン・アーメット・ジャミー・ブルー・モスクである。広場をはさんで左手にもさらに巨大な建築物がその壮麗な姿を見せていた。それがあのギリシャ正教の総本山アヤソフィアであった。三人は呆気にとられたようにその場に立ち竦んでいた。

 マケドニアの王アレグザンダーが東に向かって進軍を始めた時、その拠点はここイスタンブールだった。そしてペルシャを征服する。東征はさらにアフガニスタン、インドを目指さんとする。その時アレグザンダーは突然の病にかかって夭折する。その遺体はここイスタンブールに葬られた。考古学博物館にはアレグザンダーの棺がある。ローマの大帝コンスタンチノスによって建設され、コンスタンティノープルとよばれたこの街がイスタンブールになったのは1930年3月のことでしかない。ユスティニアヌス帝の時ビザンティン帝国の都となり、1453年メーメット2世のオスマントルコの首都となる。

 現在イスタンブールほど人種と宗教の坩堝となっている街はない。そして歴史上何度かの人種の虐殺事件を引き起こしてきた。アルメニア人、トルコ人、ペルシャ人、ユダヤ人、ギリシャ人、アラブ人、クルド人、そして、ギリシャ正教、キリスト教、ローマカトリック、ユダヤ教、マホメッドの各宗派が複雑なモザイク構造社会を造り出している。

 人類文明のクロッシングロード・イスタンブール。三人は壮麗なモスクと重厚なアヤソフィアの前にただ立ち尽して過ぎし人間の業の深さを想った。(続く)

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地中海ロードス秘話

エーゲ海ロードス島・シーン1
 船室の一角に朝の太陽の光が差し込んでいた。快適な睡眠だった。清潔なシーツと柔らかい枕から身を起こすとウッと背伸びをして光の差し込む窓の外を見やった。窓外に白い家が丘の上まで連なっている陸地が見えた。

 船はロードス島経由でイスタンブールに向かっていた。早朝ロードス島に着いていた。身繕いをして隣室のドアを叩いた。ゴジーもヒリキももう起きていた。
 
 ”ロードス島らしいな。どうする。”ゴジーが言った。
 
 ”船会社の説明では上陸してもいいし船に滞在していてもいいらしい、船が大きすぎて岸壁にはつけない、フェリーで岸壁まで行って上陸するので島に渡ると夕方まで船には戻れないと確か言っていた。”ヒリキが説明した。
 
 ”ここまで来て島を見ないでどうする。”
 
 ”島になんか見るとこあんの”千葉弁でゴジーが聞いた。
 
 ”まあ行ってみよう、船にいてもやること無いだろう”
 
 ”そうだな”と皆が納得した。
 
 食堂で朝食をとると三人は島への上陸時間に予定されていた朝9時に甲板に集まった。夕方5時に港に集合する約束で、既にフェリーが横付けされていた。寄航時に使う階段からフェリーに移動した。フェリーに乗った客はあまり多くないようだった。見飽きているのかもしれない。ガイド用のパンフレットが渡されていた。ヒリキが英語の説明文を見ながら解説してくれた。
 
 ”ロードス島はエーゲ海と中近東の沿岸地域との交差路の位置にあり、地球上の三大陸、アジア、ヨーロッパ、アフリカのミーティングポイントでもある。”
 
 ”おい、ヒリキ、ミーティングポイントも日本語に直せよ”とゴジーが冷やかした。
 
 ”ロードスとはローズから命名されたともいう。エーゲ海の薔薇という意味だ。古代ギリシャ時代の最も富んだ島であった。歴史では紀元前4000年に植民され、海上貿易で栄え入港玄関には太陽神ヘリオスの像が立っていた。が現在では鹿の像に替わっている。”
 
 ”エーゲ海の薔薇か。なるほど、見えてきたよ。”
 
 フェリーが表玄関のマダラキ港に横付けされた。真っ青な空、紺碧の海、真っ白な家々に太陽が降り注いでいる。一月末なのに全く冬を感じない。すばらしい気候と風景であった。

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 <ここで歴史を紐解いてみよう。>                                  このエーゲ海の薔薇と呼ばれる豊かですばらしい景勝の地は動乱の歴史に揉まれてきた。紀元前164年にローマの属領となり、その後330年以降ビザンティン帝国の重要拠点となる。7世紀にはアラブの手に落ち衰弱してゆく。1309年エレサレムの聖ヨハネ騎士団のものとなり、1096年から開始された十字軍以降の西方キリスト教世界の砦となった。16世紀オスマントルコが占領。教会をモスクに変えた。この時期から国際都市としてのロードスが歴史から消えてゆく。そして再度歴史に姿を現すのが、20世紀初頭からのイタリア軍の占領であった。1944年英国空軍の空襲で多くの歴史遺産が崩壊した。ギリシャ政府は1961年から文化遺産の保存に努めた。遺産の保存に貢献したのが、文化庁の長官にもなった「日曜日はだめよ」の女優メリーナ・メルクーリであった。
 
 現在日本ではロードス島は「ロードス島戦記」として、パソコンユーザー向けRPGでのほうが有名となっている。剣と魔法によって支配される架空の世界フォーセリアに存在する「呪われた島」ロードスを舞台に剣士バーンが「ロードスの騎士」として成長してゆく物語である。
 
 三人はマダラキ港から船客の後について島行脚にでかけることになった。マダラキ門をくぐると中世期のオーベルジュ(ホテルと言う意味)のあるセミ広場に出る。少しゆくとロードス島で最も美しいといわれるアルギロカストロ広場に出る。少し登るとアレグザンダー広場から騎士団通りが続いている。石造りの要塞風の家が道の両側に迫ってくる。道は聖ヨハネ騎士団の居城に突き当たる。

 この島は今でも十字軍の時代からの聖ヨハネ騎士団の陰が色濃く残っている。当時旅行中の私達には騎士団とは何なのかよく理解出来ずにいた。旅に出ても自分のもっている以上のものは得ることが出来ないと聞いたことがある。昔アメションという言葉があった。行っただけの旅をそう表現した。蓄積された経験と知識があって初めて旅は意味を持つ。
 
 それから十数年後の1980年代初頭、私は作家松本清張先生の作品取材調査に随行してフランス北西部謎の村ジゾールにいた。ジゾールは聖堂騎士団伝説の村である。ロードスが聖ヨハネ騎士団であればジゾールは聖堂騎士団の村であった。
 
 ”それでジゾールの謎と言い出したのはいつごろからですか”

 ”聖堂騎士団の謎とはなんですか”先生が丁寧に村から派遣された役人に聞いていた。分厚い眼がねと独特な唇が印象的だった。

 先生は当時生命保険の会社が宣伝用に無料で配っていた小さなノートを一杯日本から持ってきていてそれに細かい字を書きつけていた。私はフランス語の通訳をしたが、私も伝説が現実となって現れてきていることに驚いた。村の人達が700年にも亘り語りつぎ現在でもジゾール城財宝の謎とされているのがこれである。当時先生はバチカンの暗部ともいわれるアンブロシアーノ銀行についての取材も急いでいた。何らかの関連を直感されたのかも知れない。
 
 <60年代、一人の民間人ジェラール・セドがジゾールの謎「聖堂騎士団は我々の中にいる」を突然出版した。>

 ジゾール村で豚の飼育業を始めた彼は村のロジェ・ルホワという老人を雇う。彼が中世からの城ジゾール城に伝わる伝説を語りはじめる。地下80メートルの牢獄の奥に中世独特の建造物がもう一つある。それは地下の城砦である。セドは村に資金を保証して信頼をかちとると地下を掘り始める。そして地下80メートルの地下に埋まったもう一つの城址を発見する。そしてこの地下城址からのトンネルは何十キロにものびて,はるかセーヌ河岸まで続くという。舞台の主人公が聖堂騎士団という騎士たちであった。自分達の最後に騎士団はその財宝を地下に埋めたという。

これが<ジゾールの財宝の伝説>である。話は1095年のローマ教皇ウルバヌス二世の時代までさかのぼる。教皇はセルジュクトルコに占領された聖地エレサレムの奪還をフランスの騎士たちにクレモナの教会会議で呼びかける。フランス王シャルルはフランスの騎士と中心にエレサレム奪還に立ち上がる。十字軍である。結果シリア、パレスチナにエレサレム王国や十字軍王国が出来上がった。ロードスの聖ヨハネ騎士団もそのなかの一団であることは言うまでもない。                                      
 聖堂騎士団は12世紀のはじめエレサレム王国で巡礼道の治安を守るためフランスの騎士を母体に成立され、1128年には修道会となり教皇の許可を得て欧州全体からの寄付と広大な領地を有して近隣の領主への金融にまで乗り出してゆく。その強大な権力は教皇まで動かしたと言う。しかし十字軍の活動は1291年までで終了してゆく。強大化するオスマントルコの前に衰退してゆくのである。結局資金と権力を失って騎士団は次第に追い詰められてゆく。絶対権力を有する王制の前には騎士団は邪魔となった。ドイツ騎士団、聖堂騎士団、そして聖ヨハネ騎士団は伝説を抱えて滅びていった。東方世界から膨大な略奪を重ねた巨大な財宝を隠して。財宝の一部は現在ルーブル美術館などの西方の美術館を飾っている。ルーブルのサラモトケのニケーやバチカンのラオコーンはロードス島で制作されたとされている。ロードス島を領地とした聖ヨハネ騎士団に属する財宝であった。

 松本清張先生とのジゾールの謎の逸話は当時の文芸春秋の記事となった。財宝が発見された話はまだない。現在、これらの騎士団の存在は完全に歴史から姿を消したようにみえるが、騎士団の秘儀や団結の掟はフリーメイソンとして残っているし、また十字軍の御旗は赤十字のシンボルとして目にすることが出来る。2003年のイラク戦争に際して、ブッシュ大統領は米国と連携する軍を十字軍と称した。連携した日本の自衛隊も十字軍だったことになる。イスラム世界からみると十字軍は完全な侵略者でしかなかった。十字軍が悲惨に終わったことは歴史が証明している。派遣した王朝と為政者はそれが為に滅びた。歴史は正直に雄弁である。
 
 ”腹がすいたな、どっかで昼飯だ” ゴジーが言った。

 タベルナを探した。聖ヨハネ騎士団城の反対側を見るとお土産屋が並んでいた。奥に目をやると料理屋らしい店があった。店にはいって、
 
 ”ミックス、スブラキ スリー、プリーズ” と注文すると、
 
 ”アリガト、サンコスブラキ。ネ”誰が教えたのか奇妙な日本語が返ってきた。マグロ漁船の日本人の船員が教えたのかもしれないと思った。ロードスのワインとトマト、オリーブ、カジキ、マグロ、サラダ菜をオリーブ油と塩と胡椒で味付けしたスブラキは旨かった。
 
 帰りがけに聖ヨハネ騎士団城跡に立つと壁に「Fert,Fert,Fert」と文字が彫られていた。ラテン語だった。「耐えろ、耐えろ、耐えろ」栄枯盛衰のなかで天涯最後、諦めきれぬ騎士たちの怨念の言葉が聞こえてくる。

 視線を暮れなずむエーゲ海に移すと霞んではいたが対岸トルコが見える。何世紀にも亘って対岸まで18キロしかない距離にイスラム教徒とキリスト教徒が対峙して来たのだった。その時突然昨夜のカジノを思い出した。ゼロの目が出て一瞬にして多額のチップが消えた。”見てなさいよ!明日仕返ししてやるから”女が激しい目をしていた。怨念と執念の目だった。(続く)
 

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エーゲ海上の喜劇「ヤッテミーオとカジーノ」

  エーゲ海巡航船上のカジノ
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 もう愛車となったアフリカ戦線の名車VWを乗せて、オランダ船籍の豪華客船「アレグザンダー号」は漆黒のエーゲ海を順調に航行していた。突然贅沢なフランス料理を食べ旨いイタリアワインを飲み過ぎた。腹ごなしに甲板にでて波をさいて進む方向に歩いた。船尾から船首まで歩くと結構の腹ごなしになった。ゴジーもヒリキも船室でゆったりしているのだろう。

 <よくデュッセルドルフからギリシャまで3000キロ余り無事に運転して来られたものだ。>ーーー疲れていて当たり前だ。今夜はゆっくり寝ようと思った。船内に戻って、食堂の前を行って、エレベーターの前に立った。上の階から人が降りてきた。着飾った中年の婦人だった。降りて目が逢うと、
 
 ”カジノはどこなの?”ーーー
 ときれいな英語で聞いて来た。イギリス人らしい。ネクタイを着けて背広姿の私を船のスタッフだと思ったのだろう。確かにこのオランダ船籍の船にはかって殖民地だったインドネシア人らしい東洋人が働いていた。そういえばイギリス、ロンドンには香港からの中国人とインド人を多く見たし、フランスにはベトナム人が多かった。旧殖民地と宗主国との関係は簡単に切れるものではない。夫婦の離婚よりも複雑でその関係は深く長く続かざるを得ないもののようだ。
 
 ”確か、このコリドーを行ってダイニングルームを過ぎてボーディングの中だとおもいますよ”と言うと
 
 ”あなたクルーではないの?あらご免なさい”慌てて言った。
 
 ”大丈夫、気にしないでください”ーーー
 
 ”有難う”
 
 英国人らしく丁寧だが慇懃に言うと、有閑マダムは離れていった。その時だ。なるほど船上のカジノが見たくなった。

 貧乏学生にはカジノとはフランス語の授業で「モナコにはカジノがあります」という文章で出合っただけの存在だった。幸い背広姿だしネクタイもしていた。

 決心してカジノルームの前に立った。ーーー中を窺うと船にこんなに人が居たのかと思うほど込んでいた。受付で船室ナンバーと名前を言うと通してくれた。赤い絨毯が敷かれて天井からシャンデリアが輝いていた。ルーレットらしい台が三台とブラックジャックといわれるトランプを使う賭けの台が数台並んでいた。奥にはバーのカウンターがあって中年太りの夫婦や葉巻をくゆらしながらルーレットの台を見ている人達で一杯だった。

 若い美人の女がディーラーをやっている台が一番人を集めていた。台の周りに十・五・六人が座れる椅子がある。その周りに二列になって人が台を囲んでいる。私は後ろに立って成り行きを見守ることにした。数字が並んでいる。1から36までの数字と0である。それに1st12.2nd24.3rd36 と描いてある枠、1〜18.19〜36 の二枠、奇数と偶数の二枠と赤と黒の枠が盤面にある。
 
 ディーラーはフランス語で客にオージュ、オージュ、張った!張った!と促すと客が一斉に盤面に誰が張ったか分別できるように工夫された赤、黄色、みどり、ピンクなどのチップを張り始める。チップは米国ドルだった。一ドル(360円)が最低で二ドル、五ドル、十ドル、二十ドル、五十ドル、百ドル(36000円)と分かれて金額がチップに書かれていた。高額のルーレット勝負だった。ディーラーがホイールと呼ばれる円盤にボールを投げ込む。止まったところが当たりの数字である。数字は赤と黒に分かれている。ーーー現在ではこんなこと常識だが当時知る人は少なかった。
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 台の周りを見ていると先ほどエレベーターでカジノの場所を聞いて来たマダムが座っていた。自分の前のチップが貯まっていた。調子がいいらしい。彼女なりの法則で必ずディーラーがホイールを回した後、時間ぎりぎりまで待ってチップをディーラーに渡して張ってもらっていた。紙に出目の数字を記録していた。チップは一ドルだった。フィナーレ・スリーとかフィナーレ・ファイブと言って張っていた。フィナーレ・スリーとは最後の数字が3となるもので、3,13.23.33の四つのチップ、フィナーレ・ファイブも同じく四つあるので八枚渡してそれぞれ張ってもらっている。その日の記録でよく出ている末尾数字に賭けている。これが以外と来るのである。数字がくるとチップは35倍となってきていた。周りの人達が彼女に乗り始める。彼女の運に便乗し始める。それがたまにくると盤面の周りがドット沸く。美人のディーラーは無表情でチップを渡してゆく。明らかに胴元の大赤字である。何度か客側が勝って沸いた。ーーー客はそこで止めるべきだった。

 ディーラーが若いスリムな男に代わっても流れは変わらず客側の勝利が続いた。マダムは同じ手法で張っていた。そろそろここで大勝負とマダムがチップのほとんどを高額チップに替えた。そしてフィナーレスリーとコールした。百ドルチップ四枚がディーラーによって張られた。客のほとんどがマダムの運に賭けた。テーブルが大小のチップで山のようになった。ホイールでボールが回っている。最初シャーと乾いた音を立てて高速で回っていた玉がしばらくするとカランカランと数字を囲むエッジとの衝突音となる。ボールが不意に止まった。0ゼロだった。テーブル周りがオーとどよめいた。ゼロには誰も張っていなかった。赤黒、偶数奇数、三分の一も全て胴元の総取りだった。ディーラーはさっきと同じように無表情に長いひしゃくのようなものでチップを集めてゆく。マダムがゆっくり席を立った。ーーーあれほどあったチップが一瞬で消えていた。
 
 ”明日も勝負よ!”ーーーマダムが若い男のディーラーに悔しそうに言った。
 
 ディーラーは狙った数字に落とせるのだろうか。私にはとてもそのように思えない。落とせれば客と組めば大もうけが出来てしまう。客と組んで大もうけした話を聞いたことはない。しかし人間には神業ともいえる技術が見につくことがある。狙って狙って一定のスピードでホイールを回してボールを投げ入れると狙った数字が出る確立が高まることは確かであろう。要は執念である。ロシアの作家、ドストエフスキーは極貧のなか、多額の借財を抱え、人生を賭けてルーレットに挑んだ。そして執念で勝利し自殺せずにすんだという。
 
 <人生は一回しかない勝負のようなものである。>しかしルーレットとは違う。ルーレットは必ず出る目がある。一つの目があるのみである。そしてその目が全てである。ほかには無い。人生には出る目は複数ある。どの目が充足と福であるかは目を出す自分自身が決めることだ。
 
 カジノの窓から外をみると暗い海に白い波が立っていた。エーゲ海の上をアレグザンダー号は人達のさまざまな人生を乗せて一路東に向かっていた。(続く)


 

暗い地中海と満天の星

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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プトレマイオスの見た天空の恒星と昴

 三人は腹ごしらえに甲板に出た。アレグザンダー号はその巨大な図体を順調に前進させていた。夜の地中海は天空の星と満月の光で照らされて薄明かりだった。

地中海の島ロードス島では一年の内300日が晴天だという。<月にむら雲などという風情はない。>

満天の星が輝いている。天元を仰いだ。オリオンの星座がみえ、その下にこぐま座が続く。少し東方向のおおぐま座にひしゃくの形の北斗七星が独特の形を広げていた。

星を形としてとらえたのは古代エジプト時代だという。メソポタミア文明にも星の形の記述が発見されたが、星座として今日の姿としたのは西暦100年頃、アレキサンドリアの天文学者プトレマイオスだという。オリオン座、ふたご座、等古代ギリシャに由来する星座をまとめて「トレミーの48星座」としたことにより成立したそうである。現在では国際天文学連合(IAU)が定めた88星座の分類により,名称の定義と各星座の範囲が厳格にきめられているとある。

各恒星は星座内での光度の順番によりギリシャ語のアルファベットでα、β、γと名づけられている。土星はかに座の恒星であり、火星はおうし座の恒星である。勿論α星であろう。ギリシャ時代に星座には全て神話が形成された。神話を基にホロスコープ(星占い)が出来上がっていった。ただ、さんかい座のプレディアスだけが例外でこの星が昴(スバル)である。

昴は神話からも自由で独立している。
 
夜のエーゲ海の空は雲ひとつない。空に点々の星ではない、正に降るような星屑だったことを覚えている。
 
ゴジーと非力は肌寒くなったのか、船室に戻っていった。私は少し感傷的になって、暗い海と満天の空を厭かず眺めていた。甲板の向こうにいた若いカップルがふざけあって嬌声をあげていた。
 ストラスブルグの下宿をでて、ドイツ、スイス、オーストリア、イタリア、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャを既に走ってきた。そして夜漆黒のエーゲ海を渡っている。(続く)
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陽光と至福の地中海クルーズ

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 中国の詩人欧陽修は人生の五つの幸福をこう表現した。
 一に 曰く、 長寿
 二に 曰く、 富裕多財
 三に 曰く、 庚宇(健康)
 四に 曰く、 崇尚 (修徳)
 五に 曰く、 其命善終
 
船上の客の多くが上の三つの幸福の条件を満たしていた。ただし四と五を犠牲にして。

 
図体の割りに不釣合いな高い音調の汽笛が鳴った。船は岸壁から徐々に離れ始めた。きれいに洗浄され磨かれた甲板からヨーロッパ大陸の南端ピレウスの港とギリシャの街、かすむペロポネソス半島が見えた。紺碧の地中海、真っ青の空、まばゆい太陽、白い家々、なんというすがすがしさか。ルーブルの名匠の絵も大英博物館のダイヤとエメラルドの王冠もかなわないめくるめく色彩の乱舞だった。自然の景観だった。三人はその地中海にいた
 
ゴジー、非力、と私の三人は朝早くギリシャ、ピレウスの港に停泊する、ザ・アレグザンダー号に乗船した。1000人の客を収容できる豪華客船でオランダの船籍だった。アムステルダム、マルセイユ、ナポリ、アテネ、イスタンブールを結んでいる。船の名前には必ず定冠詞ザがつくと中学校の英語の授業で習った。その通りアレグザンダー号のパンフレットにザ がついていた。この世の中に固有で一個しか存在しないものに定冠詞をつける。他に、複数形の固有名詞、(山、諸島、連邦、家族)水に関する固有名詞(川、海、海峡、半島)、乗り物(船、列車、飛行機)にザがつく。

しかし神様をあらわすゴッドにはザはつかない。太陽神を頂いたエジプト、アポロンを核とする多神教のギリシャ、そしてローマ、神は複数だった。複数の多様な神に定冠詞はおかしいからつかないのだろう。ギリシャ語とラテン語にはきっちりとした冠詞の語法がある。我々がロゴス(論理)、パトス(感情)などと使う言葉はギリシャ語の抽象名詞だが冠詞がしっかりつく。その上名詞が活用する。その上名詞の活用にあわせて冠詞が活用する。古代ギリシャ語はソフォス(英知)の結晶だった。現代のギリシャ人と古代の人達は本当に一緒の人種なんだろうかと失礼ながら思った。

 我々は二等船室の客だった。三泊四日の旅に一人120ドル(4万3000円)を払った。当時日本で大卒の初任給が約2万円の時代だった。2か月分の給料だから現在では40万円くらいに当たる。豪華な旅の対価だった。

 船室は二人部屋で二部屋用意されていた。オフシーズンなのか船客はまばらだった。船室には、シャワーとトイレ、二段ベッド、ソファーと椅子、スーツケース置きがあり床に絨毯が敷かれていた。スーツケースでなく寝袋つきのパックを置くと妙にうまく収まった。丸い窓がありそこから波柱を見ることができた。

 ベッドに横たわるとふっくらしていてこれまで宿泊したどのホテルより快適だった。

 すぐ三人はアレグザンダー号の探検に出かけた。エレベーターで二階上がると大きな食堂が一等、二等、三等と分かれていた。ビリヤードとブリッジルームがあって舞台があるダンスフロアとカジノルームが続いていた。迷子になるような広さだった。後部甲板にはプールがあり白いサンデッキが規則的に並んでいた。出会う客は中老年のいかにも裕福なカップル、中年の男と若い愛人風の女、幸せに見える家族、新婚旅行なのかいちゃつく若いカップルが多かった。皆アムステルダムから乗ったのか、マルセイユからかきれいな身なりで時間と金をもてあましているような風情だった。いざと言うときのために持ってきたリュックの一番下で窮屈そうにしていたしわくちゃの背広をプレスにだした。夕食はネクタイが必要だった。

 船室は私とゴジーが一緒だった。シャワーを浴びてベッドに横たわると気持ちがよくて夕食まで寝た。船は地中海を巡航していた。

 時計を見ると午後5時半だった。二、三時間寝た。

 ”よく寝てたな”ソファーで本を読んでいたゴジーが言った。
 
 ”背広プレス出来上がってるぜ、サービスで無料だってよ、一日五枚分ローンドリー無料だそうだ。”
 
 ”そうか、じゃー片っ端からローンドリーに出そうぜ”私が言った。
 
 ”お前そんなに着てるものあんのか?”二人は顔を見合わせて笑った。

 背広に着替えてネクタイつけると馬子にも衣装か貧乏パッカーには見えなかった。隣の部屋のヒリキを呼んでディナーにでかけた。エレベーターに乗るとでっぷり太った中年の夫婦と一緒になった。ブロンドの髪の毛を巻いてしわが目立つ顔をこちらに向けて婦人が我々を一瞥した。指に何個もの光るものをしていた。麝香の匂いがエレベーターを満たしていた。
 
 ”こんな女じゃ立つものも立たないな”分からないだろうとゴジーが日本語でつぶやいた。
 
 女を見るとこっちに厳しい眼を向けた。直感は恐ろしい。
 
 二等食堂はそんなに込んでいなかった。タキシードの蝶ネクタイのボーイが我々を案内して海の見えるテーブルについた。テーブルはコットンのクロスでカヴァーされていてナイフとフォークが何本も並んでいた。
 
 ”おい食べ方知ってるか”ゴジーに聞いた。そんな時代だった。
 
 ”周りをみてれば分かるよ”ゴジーが答えた。
 
 そういえば本格的フランス料理など食べたことは無かった。日本も1968年には洋食はあったが本格的フランス料理など帝国国ホテルでもいかないとなかった。三人とも上野の精養軒どまりだった。

 それから43年を思う、なんという変わり方だろう。今では日本には何でもある。ないものの方が珍しい。全てを経験してしまった。

<全てを経験して覇気のない老女のようになってしまった。>

胸躍る興奮と手が震えんばかりの感動ももう久しい。たった40年のことだ。社会には偽装と粉飾が満々ている。若者はすぐキレル。キレテ簡単に人を殺める。変化はこの40年間の間で鮮明になった。実は変化の担い手は自分達ではなかったか?

 ”本日の料理をご紹介します。”ウェイターが料理の説明を英語で始めた。

 ”まずアントレにフェンネル風味のサモンのマリネ、スープにアスパラのポタージュ或いは、コンソメ、メインにサーロインステーキ、子羊のロティ 或いは すずきのブリュイイェ”説明を聞いて分かるわけがない。
 
肉か魚かということで注文した。
 
”オールライト サー”慇懃に答えたウェーターの横顔を見た。----横顔が嗤っているように思えた。料理は素晴らしかった。
 
”旨すぎ”感動したヒリキがうめいた。ワインはイタリアの酒ヴァルポリチェッラを頼んだ。
 
窓の外はもう闇に包まれていた。よく磨かれた窓ガラスに三人が映っている。ワイングラスを挙げてガラスの二人に乾杯した。気持ちよく微笑する二人の顔が印象的だった。
 
”チップを置くんじゃないか。----いくら置こうか?”ヒリキが気がついて聞いた。
 
”そうだな、あと二日あるからサービスが落ちるとやだから---2ドル置こう”とーーー大枚紙幣を置いた。

 テーブルを立つとウェーターが飛んできてサンキュウ、サンキュウとお世辞を言った。満腹で腹ごなしにボードルームを見て歩いた。ーーーカジノがあった。(続く)






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豪華客船でアテネからイスタンブールへ

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 清水の舞台から飛び降りた。オランダアメリカン、豪華客船に車を乗せてアテネからイスタンブールへ
 アクロポリスのパルテノン神殿で旅の余情に浸ってゆっくりして、オモニア広場の安ホテルに戻ると受付の若いギリシャ青年が各国から流れ着いてきたパッカー達の相手をしていた。
 
 ”ヘイ、アクロポリスは歩いてどのくらいかーーー地下鉄はないのか?”

 アメリカの若者がハッシシの匂いをプンプンさせながら大声で鼻にかかるようなアメリカ英語で聞いていた。アメリカ人ほど海外に出ると傍若無人な国民はない。自分達が一番えらい人種だと思っている。パリで出会った中年のアメリカ人ビジネスマンは、シャンゼリぜ大通りで、
 
 ”これはチャンゼライゼストリートか?”ーーーと聞いて来たことがあった。

 エルメスはハーミーズだし、チョコレートのゴディヴァはゴダイヴァ、エトワール広場はイートイレ広場となる。少しは他国の文化にも関心を払うべきである。

 ”ヤサース、ヤサース”と挨拶するとギリシャの若者が、にっこりして、

 ”パルテノンはどうだった?”と訛りのある英語で聞いてきた。

 ”パーフェクトだ。アテネはすばらしいよ。ところで今日の夕食だが典型的ギリシャ料理を食べたいんだが、”と聞くと、地図を広げてプラカ地区を指した。

 ”ここにいけばタヴェルナが並んでいるからよさそうなとこに入ればいい”と教えてくれた。
 
 少し休んで夕方ぶらりと歩いた。教えられたプラカ地区に出かけた。地区のそばまで来るとアラブの音楽のような独特の音楽が耳に入ってきた。ギリシャ音楽でブズキと言うらしい。
 客が一杯居て、騒がしい店をみつけた。民族衣装に身を包んだ中年女がテーブルまで案内してくれた。
 
 ”ヤサース、何にするの”
 
 ”グレコ・オイノス、オイノス”ーーーギリシャワイン、ワインとコイネー(大学で習った古代ギリシャ語)で言うと”ネーネー”はい、はいと応じてくれた。分かったらしい。女は指で黄色い色のボトルを指して手を口に持っていって美味しいよという素振りをした。

 ”ネーネー”と相槌をうった。レッチーナという酒らしい。テーストしてみると松脂の風味がした。料理にスブラキという串焼きを注文した。香辛料が利いていた。
 レッチーナは旨かった。瞬く間に一本がなくなった。三人は二本目を注文して、やっと明日からどうしようという気になった。アテネから先に道路はない。あるのは地中海だけだった。
 
 ”東に向かうんだから船に車を乗せられればそれでトルコに行けばいい”とゴジーがスブラキを食べながら言った。
 
 ”車を乗せる客船があるかな”首をひねってみたが誰も答えはない。
 
 ”明日朝アテネの港町ピレウスに行って聞いてみよう”気持ちよいレッチーナの酔いでどうでもよくなってきた。レッチーナはもう三本目にはいっていた。値段も聞かずに食べ飲んだ。なんてたって三人にはストックホルムのアルバイトで貯めた大金があった。
 
 翌朝早く眼を覚ました。松脂が効いたのか気持ちよく眼が覚めた。受付にピレウスまではどう行くのか聞くと、道が複雑だから地下鉄で行くといいと路線図を渡してくれた。三人は外に出て地下鉄の駅を探したが反対に道に迷って、<タクシーにしよう>と決めた。
 
 ”ピレウス”とタクシーに言うと、なにも言わずに車をだした。<ピレウスまで地下鉄で20分から30分だとホテルで教えられていた。>車は郊外を行って海辺の見えるところまできたがもう一時間以上走っていた。メーターは入っているが、相当の金額のようだ。

 ”ピレウスはまだか?”と強く英語で言った。
 
 ”ここさ!”と運転手がぶっきらぼうに答えた。
 
 ”110ドラクマ”1100円だった。大分回り道をされたらしい。ここで何か英語で文句を言ってみてもしょうがない。道が分からないのだから。タクシーに乗る前に値段交渉をするべきだったと後悔した。ゴジーが80ドラクマを渡した。30ドラクマ足らないとギリシャ語で騒いでいたが、周りに人が集まり始めると捨て台詞を残して行ってしまった。騙したことがばれると思ったのだろう。
 
 ピレウスの港は広かった。歩きまわって歩き回って疲れ果ててカフェリオンで休んだ。縁台のようなテーブルでコーヒーを飲んでいると赤ら顔のギリシャ人が寄ってきた。
 
 ”あなた日本人?日本人めずらしい。わたしギリシャ人”ーーーあっけに取られている三人を見るとどうだという顔をして、
 
 ”はだこて、よこはま、こうべ、うつくしい、日本だいすき”、ヨーロッパの端っこのピレウスで日本語を聞いた。
 
 ”あなた達なにしてる?”
 
 ”イスタンブールまで車のせる客船探してる”と中国人の話す日本語のようになって聞くと、
 
 ”くるまのせる、なに?”要するに難しい日本語は分からない。
英語でトルコまで車も一緒に乗せられる客船の会社をさがしてる”と言うと、
 
 ”大丈夫?お金高いよ!”と言う。
 ギリシャは海洋国とされる。大きな客船で車を運べる国際間船便は多数あると思っていた。事実は違っていた。確かに海運国だがギリシャ領域内の海運ビジネスはギリシ国籍の船にしか認められなかった。ミコノス、ロードス、クレタなどの地中海クルーズはギリシャ国籍の船が独占していた。このため外国国籍の船はギリシャを寄港地とするビジネスをせざるをえず、必然的に大型客船で国際間航行をしていた。
 
 ”オランダのかいしゃの船、車はこべる。知っている。あんないする。”
はるばるきたぜ!だこて! 奇妙な音階で歌っていた。船員の昔を懐かしむようにブズキ音調と混じった音階だった。”泣いたてきみが、泣いたてきみが、、、
 連れられて行ったのは、オランダアメリカンシップカンパニーという会社だった。大きな船の写真が飾ってある。
 
 ”キャン アイ ヘルプ ユウ?”奥から背の高い紳士が出てきた。目的とイスタンブールまで行きたいのだがと言うと、
 
 ”ポッシブル、ウィズ 120ドル(4万3000円)、イーチ”<明日朝現在寄航中のアレクザンダー号が出るという>

 ”1000人が乗る船だという。船はロードス島、ミコノス島を経由してイスタンブールまで行くという。勿論車も乗せられる。プールがありカジノもあるという。3泊4日でイスタンブールに着く。
 
 三人は顔を見ながら頷いた。それくらいしたっていいだろう。必死になって貯めた金だが惜しくなかった。金を払って予約した。ばら色の明日からの旅を想った。ピレウスの港の空と紺碧の海がそれを約束しているようだった。だこて ないたてきみがーーー初老の元船員が歌っていた。昔愛した肌のきめ細かい東洋の女を懐かしむように。(続く)
 
 
 

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紺碧のエーゲ海とアクロポリス

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。>


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  欧州漂白そして1969年初頭アクロポリスに佇む。
 (今から45年前のことを思い出して書いている。)

 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 たまたま仕事でパリでフランスの歴史上人物アルベルト・カーンが残した未現像写真を世に顕すというプロジェクトに携わった。19世紀半ば大富豪の父親の遺産を相続したアルベルトは体が不自由で歩けなかった。そこで彼はプロの写真家を数十名雇う。地球の地点を指定して写真家を派遣した。自分が見てみたい地球上の地点だった。写真家達は数年かけて撮影してパリの彼のもとに作品を残したのであった。その大半が未現像で残っていた。中に日本を撮ったものがあった。侍と色町、裸の芸者までが撮影されていた。彼はオリエンタルリズムのなかにエグゾティズムロマンスをもとめていたのであろう。想像の日本を愛した彼は、パリの一角に日本庭園を造っている。残念ながらこのことを知る人は少ない。
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 現在ではネットで何でも情報が手に入るし、飛行機にのれば何時間後には目的地にいる。便利この上ない時代となった。しかしすぐ手にはいると判ると人間はそのことに興味を失いがちとなる。

 アルベルト・カーンには世界を見ることは不可能だった。不可能だから想像を逞しくすることが出来た。想像は執念となった。そして実際の写真が乗り物となりその地に彼を連れていくことが出来た。

 <写真は魔法の絨毯となった。>
 
織り目がしっかりしていて、模様に陰影があって、人物が織り込まれていて、使われて色が変色していてもいい。そのほうが魔法の絨毯にふさわしい。今カメラ業者がどんどんとフィルム生産を止め始めている。デジタルに専業するという。確かに変色せず永久に保存できるデジタルが良いのかも知れない。しかしこのことは、テープがCDになりCDがMDにと言うような変化と同列ではない。人間の眼は耳よりずっと五感のなかで保守的だからである。

 <百聞は一見に如かず>

と言う。眼で実際に得た情報は脳裏に深く刻まれる。立体物の陰影は人生の経験と結びついてきらびやかな想像の世界を創造することが出来る。このことは、最近の全ての事を刹那的に解決しようとする現象と無関係ではない。確かにデジタル技術により、瞬時に対象物を捉え瞬時に記録として残留させ、永久に質の劣化のない映像が永続する。
 <しかし完全でない人間が完全を求めるの余り自分の存在を忘れてしまうということはないか?>

 <セピア色に変色して古びた旅行カバンにしまわれてもなお変色したがゆえに時代の過ぎたことが胸に迫るということはないのか?。>

 <忘却されずに大切に保管されたことへの伝えられる人間の情感をどうするのか?。>
 存在するものと時間が意味するもの。よく考えてみる価値がある問題だと思う。

 表題に戻ろう。エーゲ海の根元ともいえるギリシャ第二の都市テッサロニケを早朝後にした。アテネまで約800〜900キロと聞いた。高速道路がアテネまで続いている。テッサロニケを出ると車窓からオリンポスの山々が見えてくる。ギリシャの土壌は白く耕作に向いていないのか羊の放牧が見え、葉っぱが風にゆれて銀色になったり濃い緑に反転したりするオリーブの林が続いていた。オリーブの木は日本から出てこのとき初めて見た。背丈が2メートルから3メートルくらいでしっかりした幹をしていた。調べたらなんと300年実をつけると言う。硬質の木でさまざまな木工細工に適しているという。有史以来人間の生活とともにあった。オリーブの記述は旧約、新約聖書に何度もあらわれることから良くわかる。

 腹がすいて高速を少し出て、小さな村に入っていった。なにか温かいものが欲しかった。老人が座っていた。
 
 ”ヤサース、タベルナ?タベルナ?”と車を降りて痛い腰をさすりながら繰り返した。
 
 ”ヤサース”老人は言って手で向こうを指した。
 
 ”カラ・エカリストウ”ありがとう、と覚えたてのギリシャ語を使った。

 白っぽい石をつみあげた建物がタベルナだった。中に入ると昼時で四、五人が食事をとっていた。

 ”ヤサース”と言って三人がテーブルに着いた。皆突然の東洋人で驚いたような顔をしていた。店の主人はこちらを向いて<何か食べたいのか?>というようなジェスチャーをした。当たり前だろと思ったが、
 
 ”ネー、ネー” と相槌をうった。隣を見ると中年の婦人が挽き肉となすとチーズの煮た温かそうなものを食べていた。無礼とは思ったが、これこれと指差した。それがムサカという代表的ギリシャ料理とは後で知った。コーヒーを注文するとネスカフェかと聞いてきた。
 
 ”ネスカフェだってよ。田舎だからインスタントコーヒーしかないのかな”勝手に類推して
 
 ”ネー、ネー”と言うと、立派な入れたてのコーヒーが運ばれてきた。あとで謎が解けた。西欧式コーヒーをネスカフェと言い、ドロドロで茶碗の底にコーヒーの粉末が残るギリシャ独特のコーヒーをカフェというのだそうだ。食事を終えて勘定を聞くとなんと三人で30ドラクマ(約300円)だった。

 車を出すと道を聞いた老人がまだ座っていた。この村の道路標識みたいだった。手を上げて

 ”エカリストウ”と言うと白く生えた顎鬚を撫でながらゆっくり頷いた。ギリシャの田舎、老人の周りの時がゆっくり過ぎてゆく。

 高速に入って時速120キロで飛ばした。標高2911メートルのオリンポス山を後ろにラリサの街を過ぎてゆく。前方に標高3000メートルのパルナソス山が雪を頂いて見えてくる。この山の裾野を越えるともうアテネである。(続く)
 

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紺碧のエーゲ海

エーゲ海を望む。Aegean Sea

早朝のエーゲ海が見える。藍より濃い緑色の海に雲間を破って糸すじのような光線がさしていた。テッサロニケの街は今眠りからようやく覚めたように乳白色の霞を映している。

三人はフーと深くため息ついてその美しさに見とれていた。アレクサンダー大王の妹であるテッサロニケの名前からつけられた街だという。紀元前三世紀のことだそうだ。現在世界遺産となっっている。
 
“来たな”
 
”来てしまったな”ヒリキが言った。

 神絶対の一元文明から人間を主体とするヘレニズムを興したギリシャに来た。貧乏だったがどうにか食いつなぎながら、北欧でアルバイトし、がむしゃらに滞在した欧州の一年有余を想った。
 
”やれば出来るじゃないか。
 ゴジーが頷きながら二人の顔を見ていた。昨夜の口喧嘩のあと一人で真夜中を運転し続けたことを言ったのか、それともここまでの欧州での自分の経験を言ったのかどうでもいいことだった。ヴェニスで買った紺のビロードのジャケットとジーンズがとてもよく似合っていた。ヒリキは黙って、ただ美しい光景を脳裏に焼き付けているようだった。

 ”海岸まで行こう、ホテルなど後だ。”
 街を縦断した。
 
 ”なんて美しいんだ。”
 空気は乾いていて朝日がまぶしかった。

 海岸は砂浜ではなく船着き場が続いていた。車を無造作に道路わきに止めて歩きはじめた。そういえば昨日のソフィアでの夕食から何も口に入れていない。健康な食欲で腹がクーと鳴った。通りの名前はわすれたが、見事な海岸通りが街の涯まで続いていた。突然、海岸からすこし入った脇道からなんともいえない食欲をそそる匂いがする。
 
 ”何かな”三人が期待でニヤっとした。真っ白に壁を塗った料理屋から匂ってくる。
 
 ”おい、タベルナって書いてあるぜ、看板見てみろよ”
 
 ”タベルナで食べるのかよ”ヒリキ君が面白くない冗談をいった。
店屋の中を外から窓沿いに窺ってみた。
 
 ”あれ!もしかしたら、たこだよ、たこ焼いてるぜ”
 
 ”うそだろ、ヨーロッパじゃたこは怪奇でグロテスクで食べっこないよ”

 ”じゃーあれは何だよ?”
 
 皆で目を凝らした。小さなたこをまるのまま焼いていた。たまらず店屋になだれ込んだ。昼食用の準備をしているところだった。
 
 ”オーキー、オーキー”店屋のウェイターが呼び止めた。

 ”だめだ、だめだ、”まだ店屋は開いてない。
 <ギリシャ語ではイエスはネー、ノーはオーキーというらしい。>
 なんか反対の語感がするがすぐ覚えた。腕時計を見せて11時からだからあと一時間散歩でもして来い、らしいことを言った。
 
 ”ネー、ネー”といって、たこの焼けているほうを見て食べる真似をして見せた。たこはパーフェクトだった。食べる前に水で薄めると白濁するウイキョウの酒ウゾーを飲んだ。独特の味と鼻にぬけるウイキョウの香りが正面のエーゲ海の青さと軽い空気とよく合った。

 この種の酒にはアニスでつくるのとウイキョウでつくるのとがあるらしい。アニスの酒はアニゼットといって南仏に多い。アニスはギリシャ、小アジア一帯に自生するハーブで強い太陽のもとで生育する。古代エジプトではミーラの保存用にこのアニスとクミンが使われたと言う。

 現在では、日本でもハーブ園などで多く見ることが出来るし、自宅の庭でも生育を楽しむことができる。
 
 ギリシャ料理にどのようなものがあるのか分からず、注文したらカバブのような串焼きが出された。香辛料が強く利いていた。なにかヨーロッパとは違う香りが鼻からぬけていった。
 
 ギリシャは大学時代の私には、特別に因縁深かった。新約聖書を読みたくて古代ギリシャ語を学んだ。大学には古代ギリシャ語の講座があった。古代ギリシャ語はコイネーという。現代日常のギリシャ語とは全く違うもので(神は愛である)、(ホー テオス アガペ エスティン)などの世俗から離れた表現を勉強した。

 ギリシャ文字は今も昔も同じだから発音することができた。意味がわからずギリシャ語のメニューを声をだして読んでみるとほかの二人が感心したように私を見た。それよりウェイターが東洋人がギリシャ語を読むなんてという顔をしていた。一から十まではコイネーも一緒だった。エネス、デューオ、トレイス、テスアレス、レンテ、エクス、オクト、エネア、デカという。
 勘定をすませて店を出た。お腹が一杯で幸せだった。小さな子供達が学校の帰りか私達東洋人を見つけて珍しいのか、
 
 ”ヤサース、ヤサース” ハロー、ハローと叫んでいた。昔の自分達の子供時代を想った。昭和20年台半ばの自分達の幼年時代を想った。状況は全く違うがイメージが重なって見えた。(続く)
 
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バルカン半島を行く

 今から45年前のユーゴスラビア。

淋しかった。暗かった。ユーゴは第一次世界大戦の引き金になったし、現在でも内戦が続いている。

多くの国に分裂した。

民族や宗教の違いが生む争いのみぞは本当に深い。

幸い日本にはバルカン半島がもつような深い溝はない。

若い時期にバルカンを通過した想い出は当時気がつかないまでも、なにか異様なものを自分に遺した。

 クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルヴィア、マケドニアがどう違うのか理解できますか?

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 バルカン化という言葉があるそうだ。宗教、民族、風習、言語、地域などの要素で分裂、混迷に至り統一から分裂にいたる現象を言う。

 今まさにトリエステからテッサロニケまでのバルカンを辿ろうとしている。1969年ここはユーゴスラヴィア。チトー大統領がユーゴとスラヴィアをまとめて成立させた国家だ。ほかにバルカン半島にはアルバニアとブルガリアがある。ベオグラードでは中心街のホテルに泊まった。ベオとは白いと言う意味でグラードとはスラブ語で街とか言う意味だ。ドナウ河とサヴァ河の合流する丘の上に築かれた町である。朝起きると街にでた。ホテルに到着したのが夜だったので全く街の輪郭はつかめなかった。

 一歩ホテルを出ると葉を落としているが街路樹が整然としていて美しかった。対面にオフィスビルらしい建物があり、金髪の若い女性が働いていた。確かにヨーロッパの町だったがイギリス、フランス、イタリアなどの西欧の雰囲気と違う。
 吐く息が白い。寒い。

 角のカフェーで飲み物を注文した。舌足らずに聞こえるスラヴ語で若い娘が注文を聞いてくれた。笑顔はない。しょうがないから働いているという風情だった。    

 三人は英語で聞いてみた。
                                    
 ”独身なの”。
 はじめ、からかわれたと思ったのか表情がかたい。飲み物を持ってきた時、ゴジーがカメラを取り出した。 

 ”撮っていい?”彼が聞いた。                                    
”ノー、ノー、 バットホワイ?”彼女が聞きかえした。                  

 ”ビコーズ、ユー、ベリープリティー”ゴジーが言った。                  

 彼女が初めて笑窪をつくった。顔がわれて笑顔になった。それではと思って、現地通貨ディナールがなかったのでイタリアリラを見せたら全く無視された。フランスフランはどこの紙幣という顔をした。ドイツマルクの厚くしっかりした紙幣をみせたら計算できない。仕方なく米国ドルで一ドル渡した。三人分のコーヒー代だった。一ドル360円の時代だった。
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 ベオグラードはサヴァ河とドナウ河の合流点を見渡す丘の上にあった。すばらしい眺めだった。丘の一番高いところにカレメグダンという公園と要塞があった。サヴァ河とドナウ河を見下ろす戦略上完璧な街だ。ケルト人がこの地に前三世紀に拠点を造った。その後スラブ系民族が移住し、オスマントルコがその後移住する。歴史上この街は40回破壊された。最近のNATOの空爆は記憶に新しい。

 三人は生まれてはじめて中欧の街を歩いた。出会う人達の表情が硬い。だが道を聞くと身振り手振りで親切に教えてくれる。公園には年老いた人達が日向ぼっこをしていた。何時間も動かず、通過する人達や足元にまで飛んでくる小鳥たちの動きに見入っていた。自分達の青春の日々を思い出しているのか表情が時々緩んだりした。

<旅はいろいろな姿を見せてくれる。>

 旅は人生と同じだと言う作家がいた。人生に幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、があるように、旅も、出発し、多くのことを得、学習し、エネルギーを使いはてて、やがて終わる。小さな、目に見える人生を経験するため人は旅に出るような気がする。

 ホテルに戻った。チェックアウトの時間だった。すばやく荷物をまとめて我らの愛車VWは次の都ブルガリアのソフィアに向かった。

 当時のパスポートを取り出して、ユーゴとブルガリアの税関の印を捜した。ひとつGURBULAK HUDUT KAPISIというのがある。多分それであろう。冬季オリンピックのあったサライェボ、スコピエを経由するアドリア海沿いを通る道もあったが一直線にソフィアに向かった。高速道路だったかどうか忘れた。問題ない道だった。ブルガリアの首都まで約7〜800キロだったろう。時速100から120キロの限界で飛ばした。それでもソフィアに着いたのはもう夕方だった。腹ペコだったのでホテルを捜す前にレストランを捜した。ベオグラードより寒かった。聞くと標高550メートルあるそうだ。ヨーロッパで一番標高が高い首都だそうだ。

 ソフィアという首都に入るとコンクリートの建物が目立つ。それも現代的で洗練されたコンクリートの建物でなく、無数の醜いコンクリートのアパートの群れである。殺風景でとても首都の歴史など感じない。それでも中心街の旧市街には聖ソフィア教会がありローマ時代の遺跡が残っていた。聖ネデリア広場という中心の普通の居酒屋に入ってビール、とビーフストロガノフらしいスープを頼んだ。疲れていた。チェコのビールでピルゼンの冷たいビールが食道から胃に入っていった。ゴジーだけが元気だった。食べたら自分が運転するからギリシャまで行っちゃおうと言った。

 ”おいおい”と思った。

 ”お前は体が人一倍元気だけど俺らはへとへとなんだぜ!”

 ”ひとのことも考えろ!”

言い争いになった。その時黙っていたヒリキが言った。

 ”どっちでもいい、喧嘩はよせ!”

 幸い食べるとまたエネルギーが補給された。高速道路からのソフィアの印象は最悪だった。醜いコンクリートのアパートの中から脱出するように夜中のギリシャ行きがはじまった。ゴジーが居眠りしないように四六時中横で話しかけた。いや休まずなんでもいいから質問して答えさせた。

 高速道路だった。朝六時を過ぎてようやく白々と空が明けてきた。ギリシャとの国境に着いた。ギリシャの第二の港町テッサロニケは近い。丘を越えた。前面に白々と明ける空の下、未だ眠りから覚めないで沈んでいる町の灯がきらきらと光っていた。

 テッサロニケの街だった。二日でバルカン半島を縦断してしまった。(続く)

 
ベオグラド

ユーゴスラビア〜ブルガリア〜ギリシャを行く



 朝靄にけむるヴェニスの街が見えた。後ろ髪をひかれるようにヴェニスをあとにした。ヴェニスホテルに二泊した。受付で支払いを済ませた。幾らくらいだったか覚えていない。覚えていないくらいの値段だったのだろう。陸地側のヴェニスの町は想像のヴェニスとは程遠くむしろ工場地帯のような乱雑さがあった。美しく最高峰の文化の粋を築き上げたヴェニスを乱雑でむしろ退廃した地域がバックアップして支えていた。この二律背反は、ついには辿り着いたインドのカルカッタまで二万五千キロの全ての現象に共通していた。

 <貧富、美醜、信義と裏切り、反抗と盲従、顕彰と侮蔑、平等と偏見、自由と束縛、愛と憎しみ等々が一枚のコインの表裏一体をなしていた。>
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 いったん信義が崩壊すると倍の憎しみが返ってくる。これからゆくバルカン半島、ギリシャとトルコの有史以来の反目、アラブ諸国間の主導権闘争、インドとパキスタンの戦争、全ての地域に大きな問題が横たわっていた。

 我々はまずユーゴの西端の町トリエステに向かった。トリエステの町はアドリア海に面して後背に切り立つ崖の山を有していた。海に面して左手にバルカン半島、右手にイタリア半島が見える。バルカンすなわちギリシャ文明とローマ文明の分水地点がこのトリエステの町である。

 車窓から見る町の建物はたいへんクラシックで中世を思わせた。歴史を見るとこの町はかってローマ帝国の主要な町で、その後ビザンチンに属しさらにヴェニスの属領となり1328年にはオ−ストリア帝国となりユーゴに帰属したのはつい何十年前のことであった。住民のほとんどがイタリア人でありその対抗策として多くのスラブ人が送り込まれた。当然言語の違い、文化の違いが相克を生んだ。古めかしいが統率のとれた町並みをみるとその中に人種と文化の違いから大きな相克が存在しているのが理解できないくらいである。

 わたしがいたフランスの街ストラスブルグがそうであった。アルザスロレーヌはドイツとフランスの間の戦乱の炎の舞台となった。住民はある時はドイツ人となりまたある時はフランス人となった。ストラスブルグの中心にあるカテドラルの中に文字はない。また尖塔は一本しかない。住民の眞の願いが集約されているように思えた。

 我々日本人は海という自然の国境で囲まれている。海水浴に行ってこれが国境とつながっているとは考えない。国境を無法に越えると捕らえられたり射殺されたりするという現実を知らない。考えないから無関心となる。無関心だから無用心となる。隣国が日本人を拉致しても気がつかず関心を払わなかった。国境という概念に甘いのである。だから余程の教育を強制した時代以外には国家という概念にも余り関心をもたない。隣にいる同じ日本人という人種には過度なまでのアノマりーを発揮するのにだ。

 車はVW独特の空冷エンジンの音をさせながら順調にトリエステの町を過ぎてユーゴスラヴィア領を行った。リューブリアナ、ザグレブを通過した。ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを目指した。現在ではクロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビアという国になっている。1969年当時は全部がユーゴスラヴィアであったことは言うまでもない。ベオグラードで一泊してブルガリアの首都ソフィアを経由してギリシャの港町のテッサロニケに向かう。
 
 東欧のユーゴスラヴィアに入ると町並みが一変する。暖色で明るいイタリアからはいったせいか特に寂しい。人々の顔に笑顔が消える。眉間にしわのある人が多い。貧しい。これが共産主義国の実体なのか。資本論にこの寂しさについての説明はなかった。
 途中で高速道路わきの休息所に寄った。
 
 入ると簡単なスープとサンドイッチなどがおいてあった。受付カウンターのようなところで注文すると、

 <”そこの注文書になにが欲しいかチェックしな”> と受付の男が命令した。

横柄な態度でむかっとしたが、こちらもトリエステからなにも食っていないで腹ペコで従った。欲しいものに×をつけてもってゆくと注文書に判を押してはじめてサンドイッチとスープが手に入った。ガソリン購入にはパスポートを見せた。
 早朝のトリエステから我々がユーゴスラヴィアに到着したのは,もう夜中だった。(続く)愛車VWベオグラド

ユーラシアの先の島国の運命

 日本国は島ですから周りは海に囲まれています。この島に北はロシアや樺太から北方民族が渡り、西から朝鮮半島、中国北東民族が渡り、南からミクロネシア、ポリネシア民族がこの島に渡ってきました。北方民族はやがて列島を占めて蝦夷民族となって一時期の勢力を形成した筈。蝦夷民族はやがて朝鮮から渡ってきて勢力を形成する大和民族に破れます。これがこの島国の普通にいう成り立ちです。
 
 一方伝説に「浦島太郎」があります。異郷伝説ですが、万葉集にすでにあるのですから相当古い。漁師が助けた亀に連れられて竜宮城に、乙姫様に渡された玉手箱のタブーを破って白髪の老人となってしまうもの。島国から連れられていった竜宮城は島国日本の外にあります。海を見るとほとんどの日本人が地平線を見る筈。海を覆う空より地平線を見てしまう。地平線の先になにがあるのかが気がかりなのです。

 陸地続きの国境をもち、いくらでもその先をうかがい知ることのできるユーラシア大陸は冒険と征服の戦場でした。アレクサンダー大王がダリウスと争い、ジンギスハンが中央アジアを駆けめぐり、そこには先が見えなくて気がかりなどという不透明さは存在しません。

 要するに島国の外は海なのです。ですから海のなかの竜宮城が外なのです。そこには見える敵はいません。陸地ならいるはずの異属の民はいないのです。だから鯛や平目の舞い扇なのです。ですが外の甘さや島国より違うものをみてしまったものは口を閉ざさなくてはなりません。島国の平穏を維持するには異郷の情勢は不安を醸成するだけですから。

 こうして島国日本が成立し民の意識が積み重なっていきました。この間秀吉の朝鮮出兵、があったものの外との関係は閉ざされてついに維新がおこり、日清、日露の戦争という歴史上まれな異常事態となったのです。この時代は島国日本の稀な時代でした。が奇跡的に勝利し、その後第一次、第二次という悲劇が島国を襲うこととなります。いわば乙姫さまの玉手箱をあけてしまったというわけです。

 そして現在、知ってか知らずか、運命の神は島国日本に大亀中国との関係を迫っています。また海を遠くはなれた米国という乙姫様が浦島太郎にささやいています。私との関係はどうするの。

 島国だけで満ち足りた時代にはもう戻れません。過去に向かっては歩けません。未来という明日が否応なく待ってます。困難な太郎の時代が始まりました。

ベニス雲間右弦の月

三日目の朝早くヴェニスを発った。 
 
三日分のホテルの予約はしていたが一日早めた。昨日の晩餐で決めた。すばらしい料理だった。皆が心地よい酔いの中にいた。サンマルコ広場から少しリヤルト橋方向に行くと小さな教会に囲まれた広場がある。広場に面して二軒のリストランテがある。教会の壁にへばりつくように存在する小さめの料理屋に入った。何も事前の情報があったわけでもない。欧州の遍歴を潜り抜けてきた三人にはどこが旨そうかすぐわかった。

まず外から見て
<中で働くものに笑顔があること>、
<食べている人たちの会話が弾んでいること>、
<ウェイターの目がひっきりなしに動いていること>、

この三つの条件を見る。三人とも欧州のレストランでアルバイトしたおかげである。予約はしていないと言うと、ペルファヴォーレ、シ、シと笑顔で席に通してくれた。三人の直感どうり感じがよい。店の入り口にアンティパストの料理が並んでいる。アルテォショのマリネ、ポルチーニやニョッキのヴィネグレット、サーディンや蛸の酢ずけ、海鮮の幸と山の幸がアンティパスティとして料理され並んでいる。客は目で見て選ぶ。当たり外れなどほとんどない。三人はパスタに手長えびのタリアテーレ、その後各自肉、魚を注文して、ワインはリストを見てヴァルポリチェッラのリゼルヴァを奮発した。1964年のヴィンテージだった。
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 東京オリンピックの年、1964年に三人は東京三鷹にあるキリスト教系大学に入学した。近くの国立、慶応、早稲田を同時に受験した私は自慢ではないが、すべてに合格した。しかしこの三鷹の大学は変わっていた。試験は知能試験のようだったし、広大な敷地に牧場があった。全寮制で訪れた寮は武蔵野の森の中にあった。本館の前の広場は青々とした芝生で立ち入り禁止などという無粋な看板などなかった。合格した私はもうこの大学への入学を決めていた。一学年180名だった。そのほとんどが寮に寄宿した。食堂があり三食ともここで食べた。学費はワークスカラシップなど軽減する方法があり、成績優秀なものは学費が免除された。私は日本育英会から奨学金をもらった。大学の学費も半分になって一年確か三万円だったと思う。

中島飛行場の滑走路だったまっすぐな道が本館まで続いている。桜がきれいだった。M君とは同じ班だっだ。彼ははじめ寮に入らず千葉県の柏から通っていたが、通いきれずに私と同じ寮にはいってきた。H君は家から通っていた。一学年180名足らず、全学生で400名程度、そのほとんどが寮に住んでいた。授業、食堂、図書館、課外部活動、一年もすればみな顔見知りだった.教授陣も学内に住んでいた。オープンハウスと称された教授が学生を招いての会合がよくもたれた。海外からの留学生も数多かった。アメリカばかりでなく香港、インド、インドネシア、アフリカからの学生もいた。

入学して二年目から学園紛争が始まった。はじめは食堂の値上げ反対からだった。次に学費値上げ反対、三項目闘争、能検テスト導入反対と続いた。M君と私は闘争の中にいた。本館を占拠して何ヶ月も篭城した。授業はなかったし出来なかった。H君は冷ややかに闘争を見ていた。暗い目をして僕らを見ていた。彼も母子家庭で生活が苦しかったと後で聞いた。彼の目には金のある子弟の政治遊びくらいにしか見えなかったのだろう。誤解だった。
 
三人はヴァルポリチェッラの心地よい酔いのなか、心情を吐露した。一年有余の欧州放浪について話した。ガンバスのタリアテーレはことのほか旨かった。肉はキャレダニョウを頼んだ。骨に付いた子羊の肉は柔らかかった。あまりにも旨くて食道と胃が舌にとどまっている肉に早く下りて来いと叫んでいた。生まれて初めてこんなに旨いものを食べた。三人とも一緒だった。

昭和二十年台半ばに小学校に入学した。皆貧しかった。貧しかったが平等だった。貧乏でもあまり傷つかなかった。米国と欧州は違った。こんなに旨いものを食べていた。なんという違いだ。腹が立ってきた。最後にエスプレッソを飲んで決めた。明日早くヴェニスを発とう。

 勘定を払って晩餐がおわった。ヴァポレットに乗るためにサンマルコ広場にもどった。夜の潮風は冷たかった。広場を街灯が照らしていた。遠くにサンマジョーレ寺院が見える。がむしゃらに過ごした欧州の漂白の一年有余を想った。

あれだけ見たかった欧州から今、一歩一歩遠ざかりはじめている。一杯に膨らんだゴム風船からすこしすこし空気が抜けてゆく感じがする。暗いヴェニスの空を仰いだ。下宿先のフェルディナンとシモーヌ、野ウサギを一緒に追ったピエールの顔が浮かんで消えた。雲間から涙でかすんだ右弦の月が見えた。(続く)venicevenice

永遠の都

 ヴェニスホテルは夜中騒がしかった。眠ろうとしたがあまり寝れなかった。朝方寝た。三人は二部屋を二対一に分けた。くじ引きで勝ったものが一人部屋になった。私が一人で寝た。対面同士の部屋を取ったのが失敗だった。

 隣の部屋からあの時の女の声がした。客を歓ばそうとしているのか声が大きかった。終わると客がバタンとドアをしめてドタドタと階段を下りていった。朝食をとりに階下の食堂におりてゆく。
 中程のテーブルで別途料金となっている朝食を注文した。まだ二人は寝ているのか食堂にいなかった。エスプレッソ、目玉焼き、とパンをたのんだ。

 窓際のテーブルにそれとわかる女がコーヒーを飲んでいた。食堂に居るのは我々二人だった。年の頃30前後だろうか、網タイツとミニスカート、上に毛皮のコートを着ていた。色っぽい女だった。朝、若い男がこのホテルで一人朝食をとっているのを訝しい目で見ていた。彼女の吸う青いタバコの煙が朝の光に消えていった。<

 <”ボンジョルノ”>と挨拶すると、うれしそうにこちらにむいてウィンクした。

 それだけの会話だったが十分に会話したように思えた。以外にエスプレッソは香ばしい匂いがした。女のつけていた動物系香水の匂いは気にならなかった。また今日の夜彼女の吐く息を聞くのだろうか?想像して体中がドキドキした。
 
 朝食を終えて部屋にもどった。ホテルは三日予約していた。今日は何をするか考えた。二人が起きたのか廊下で日本語が聞こえた。朝食に行ったのだろう。窓からは海が見えたが煤煙の立つ工場が邪魔だった。ベッドに寝そべると寝ていなかったせいか朝食で胃に食物がたまったせいか少し寝た。20〜30分くらいだったろう。気持ち良かった。朝寝、朝酒、朝湯というが、若い体に気持ちよいのは朝寝だ。ドアのノックの音で幸せな朝寝は簡単に破られてしまった。
 
 今日の予定を決めた。ヴェニス島の散策、サンマルコ寺院の見学、夜旨いパスタを食おう。今日は車でサンタルチア駅傍の駐車場に止めることにした。車で海を渡った。島に入る前に駐車場がある。そこから島に向かう汽車が見える。ヴェニス島とそこに向かう汽車。すばらしい景色だった。

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 22年後同じ場所にいた。ドイツのロードムービー監督ヴィム・ウェンダースの映画「世界の涯まで」の撮影立会いであった。ルー・リードの音楽、ソルヴェイグ・ド・マルタン、ウィリアム・ハート、サム・ニール、ジャンヌ・モローが共演した。上司を説得してこの映画に投資を決定してのヴェニスの立会いだった。背が高くめがねが似合う監督は小津監督を尊敬していた。フランス人で「ベルリン天使の詩」で起用された女優ソルヴェイグ・ド・マルタンは少し肉感的だった。よくフランス語で会話した。日本での撮影があり笠智衆が出演。日本のシーンは新宿の雑踏と箱根、奈良屋で撮影された。ルー・リードの音楽が陰影を醸し出した。現代のホメーロス、オデュッセイのように、父と断絶の子との邂逅。未来の核衛星の地球への落下。盲目の妻の脳に直接の映像を結ぶ技術の発見。地球を横断するロードムーヴィだった。二十数億円の大作だった。難しい内容だった。成功しなかったが思い出深い作品となった。

 三人はヴァポレットに乗ってリアルト橋まできて降りた。フェーロ河岸をリアルト橋に行って、右折するとバルトォメオ小広場に出る。四月二日小道を行く。マルザリエと呼ばれる商店街が続く。服飾品、宝石商、鏡、ムラノのガラス細工屋でにぎわっている。カピテラ、オルォジアの商店パサージュを散策してゆく。サンマルコ広場への入り口に時計台跡がある。くぐるとサンマルコ広場だ。広場に面してフローリアンとクアドリの二軒のカフェーがある。バイロン、ゲーテ、ジオルジュ・サンド、ミュッセ、ワグナーを迎えたと記録にあるそうだ。前日と同じようにヴェニス式サンドイッチとビールで軽く昼食を済ませてサンマルコ寺院に入った。
 
 ビザンティン形式の寺院は美しかった。奥の院に福音の使徒たちが黄金で刻まれていた。パラドーロというものだ。時代の頂点を飾ったのであろうか。
 
 最近の日本も小泉政権のもとでの政策の結果二極化がすすんで貧富の差がめだつようになってきた。世界史上に残る偉大な文化財は今騒がれていることなど問題にならない貧富の差のなかで誕生してきた。エジプトのピラミッド、ギリシャの神殿、ローマの遺跡、中国の万里の長城、インドのタージマハール、日本の法隆寺 そしてヴェニスの街である。無数の奴隷、無産階級、貧乏人、無名の職人が世界の文化遺産を創造したのだ。確かに無限の金が背景にあった。無限の金と権力がある人間がいた。それは現代の誰もかなわない権力と資産だった。

 唐詩選から東波が浮かんだ:

 人有悲歓离会、月有隕晴円缺。

 此事古難全、但愿人長久、千里共嬋娟。

 (人に悲喜離合あり、月に曇晴れいんけつあり。
 古より完全なく、永久をのぞんで千里離れて同じ月を眺める。)筆者訳

(続く)<veiceveice

水の都ベニスに 1968


  東洋と西洋の融合を果たした永遠の水の都ヴェニス

 歴史の教科書と美術書でしかお目にかかれなかった水の都ヴェニスが海の中に浮いていた。1968年冬、シュツットガルトで手に入れたフォルクスワーゲンでいとも簡単に憧の水の都に到達せんとしていた。やむにやまれず日本をでて、後ろを振り向かずにがむしゃらではあったが、欧州に辿り着き一年有余を過ごし今帰途に着くため陸地伝いで東に向かっている。

 ヴェニスがあった。陸地側から見たヴェニスは海の向こうにあった。何本かの中世色の尖塔がかすんでいた。日本から常に携行している唐詩選から、李白の詩が浮かんだ。

 <chuang qian ming yue guang,yi shi di shang sou.>

< ju tou wang ming yue,di tou si gu xian.>

 床前明月光、疑是地上霜

 挙頭望明月、低頭思故郷

 季節はまさに厳冬。たずねる人はヴェニスになにを求めるのか。アドリア海の根元に位置するヴェニスの海辺に白波がたっていた。

 我々は島の物価が高いことを避けて陸地側の安ホテルをさがした。名前はヴェニスホテルだった。駐車場がそれでもついていた。オレンジ色のネオンで飾っていた。歴史の街ヴェニスからは想像できない原色の飾りだった。入ると胸の高さと腹の高さが一緒の中年イタリア女が受付にいた。

 <キネーゼ(中国人)か?>と聞いてきた。まだ日本人より東洋人といえば中国人だった。

 <ジャポネーゼ>だと言うと、

 <アローラ(だからなんなの。)>
と答えた。一泊何リラだったか覚えていない。

 夜中に男と女がもめている声がした。イタリア版連れ込み宿だった。
 
 車を置いて、汽車でヴェニスのサンタルチア駅についた。陸地側から約四、五キロの距離だが、ラグーンと呼ばれる干潟の上を行った。三人とも無口だった。M君はたいまいを出してドイツで購入したカメラのファインダーをひっきりなしにのぞいていた。写真に活路を求めるというようなことをいっていた。二人は聞き流していた。

 その彼が1975年のサイゴン陥落の最後まで写真を撮っていた。プノンペン陥落では大腿部を貫銃痩され重症を負った。彼の写真は日本のマスコミを飾った。そしてクメールの娘と結婚した。H君の方は車の運転で疲れたのかそれとも違う何かを考えていたのか寡黙だった。たまになにが可笑しいのかイタリア語を聞いて笑っていた。意味がわかる筈がないのに。

 サンタルチア駅からヴァポレット(水上タクシー)に乗った。ヴェニスに車は入れない。水上タクシーがグランカナル(大運河)を行く。フランス語を習得していたのでイタリア語は類推できた。それ以上にイタリア人はフランス語がわかる。困ったらフランス語で会話した。

 ピアツァレローマにある日時計にはラテン語でヴェニスの標語が刻まれていた。

 「Horas non numero nisi serenas」静溢に価値あり。

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 117の島があり、150の運河が掘られ、400の橋で結ばれている。運河は<capo>,小広場は,<campo>,小道<calle>,河岸は<riva>,館の下のパサージュは<sotoportego>とよばれている。

 運河の裏の小道をゆくとまさにヴェニスの静溢さを満喫できる。ヴァポレットはヴェニスの中心サンマルコに向かう。約30分の船の上から右岸、左岸に大理石の館が続いている。独特のファサードが見るものにやさしい。河岸には床屋のマークのような杭がうたれている。海水が館の玄関まで行っていた。冬は特に潮が高いと聞いた。

 ヴァポレットはすいていて両岸を見るたびに右、左に揺れながら移動した。

 ヴェニスは西暦810年にリド島にいたマロモッコ人が現在のリアルト橋に居を定めたのが最初といわれている。

 そのリアルト橋をくぐるとサンマルコ広場は近い。遠くにサンジョオルジョ・マジョーレ教会、とサンタマリア・サルーテ教会が見えてくる。

 伝説は白い十字架をくわえた鳩が移住者を導いたとある。横80メートル、奥行き160メートルのサンマルコ広場には鳩がいっぱいいる。皆がえさをあたえている。小さな子供が鳩とたわむれている。いつまでもいつまでも戯れていた。

 三人はサンマルコ広場に面して座る椅子とテーブルが置かれた野外でビールとフランスパンでできたサンドイッチを食べた。なかにチーズとコルニションがはいっていた。太陽が出ていて明るかった。まだ行く先は遠い。(続く)
 
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アルプス越え 1968

シュツットガルトから25000キロの旅が始まった。

 今から45年前のことだ。ドイツから日本に地べたを伝って帰るなど誰も考えなかったし、そんな事をやるなんて馬鹿の上に阿呆がついた。その後何年かして確かトヨタ自動車がスポンサーとなってシルクロード横断を果たしたことが新聞に大きく報じられたことを覚えている。

 シルクロードをその後多くの文人や冒険家が行って旅行記をものした。皆その事実とシルクロード横断のすばらしさを語って見せた。日本人があまり知らないか、誰も発見したことのないシルクロードを語った。そこにはもうシルクロードを行くという既定のプロジェクトがあった。いわばシルクロード山を挑む山岳隊の冒険記みたいだった。

 私達三人にはそんな思い上がったものはなかった。日本に帰るのに阿呆みたいだが、陸地伝いで行きたかっただけだ。始めから行き着くところまで行こうと約束していた。道があるのはそこを通った人たちがいたからだ。道が続いているのは歴史上多くの人達が歩き族けていたからだ。なにも冒険でもなんでもない。その上我々にはヒットラーが作ったといわれる国民車でアフリカ戦線の優秀軍用車のフォルクスワーゲンがあったのだから。

 結局この優秀車はパンク一回だけで25000キロを走り、1969年のカシミール戦争の救急車としてインド政府のお役にたったのだから。

 出発にあたり三人で約束をした。<一つ、いけるところまで行って自由に互いの行く先を縛らない。二つ、喧嘩になったら三人目はどちらにも味方しないこと。三つ、運転中は必ず助手席が起きていること。>単純だがこの三つの約束のお陰で死なずにインド、カルカッタに到着できた。

 <運命の神様は何回も我々を死の淵からよびもどした。>

 確かに危険があった。神様は旅の途中で君たちはまだ死ねないと言っていたように素直に今思う。アフガニスタンでの夜中の山賊たち、カイバール峠でのきりたつ崖からの落下寸前の奇跡。トルコの洗濯板のような道路での一回転。運命の神様はいつも三人側にいた。旅はもちろん危険であった。そこで人知れず朽ち果て行方不明になっていたかもしれない。

 <しかし旅とはいつもそのようなものではなかったか。>
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 芭蕉がみちのくの旅にでたのも、「旅に病んで夢は枯野のかけめぐる」、イタリア ジェノバの人マルコポーロも、止むにやまれず旅に出たはずだ。江戸時代、おろしや国酔夢譚の大黒屋光太夫は漁船漂流してロシヤに捕らえられ、見てはいけないものを見て、はりつけになって死んだ。

 誰も肩に力をいれて旅に出るぞと出たのではない。旅になったのだ。

 話をもどす。シュツットガルトを出発して一路オーストリアのインスブルックを目指した。ドイツのアウトバーンは快適である。その上無料であった。どこかの国のように新幹線と高速通行料が変わらないなどという馬鹿な国はない。

 120キロでインスブルックまでとばした。先を急ぐので街をみている暇はない。ここがインスブルックという街かと高速からの遠景ですました。さてこれからだ。

<ヨーロッパ、アルプス越えが待っている。>

ヨーロッパ、アルプスはフランス語でアルク・アルパンといわれているようにアーチ状にフランスのコルシカ島から始まってユーゴにまでのびてイタリアの頭にかぶっている帽子のようなものだ。歴史上の重大事となった

<ナポレオンのアルプス越え、>

<象を使ったといわれるハンニバルのセントバーナード峠越え>

などはアルプス越えの困難さを今につたえている。パリのルーブル美術館にアルプスを越えるナポレオンを描いたダビッドの絵がある。ナポレオンはサンベルナー峠を越えてイタリアに攻め入った。困難な峠で過去多くの人間が遭難した。その時遭難者を助けた名犬種がサンベルナー犬である。

<ブレンナー峠>

 我々はインスブルックの南西のアグザム、マッテルを迂回してブレンナー峠を目指した。旧道18号線はヨーロッパ橋を通過してシュツバイタルの分岐を過ぎシル河の作るウィップタル渓谷を登っていく。街道の町は古くからの宿場町である。ブレンナー峠まで200メートル、高速道路の導入路を過ぎると国境の検問所がある。オーストリアとイタリアの官吏がいる。このブレンナ峠を旅したアブレヒト・デューラーの銅版画が残っている。この峠は石器時代のアイスマンの時代から利用され中世の神聖ローマ帝国皇帝たちがローマへの道として通行した。

 峠を越えるとイタリアである。建物の色が暖色になってくる。車は高速道路に戻ってパドヴァをめざす。パドバの町は高速からは見えない。パドバは古くからの大学町である。ガリレオが教授をしていた大学がある。それよりなにより大学時代、厚生年金会館で公演したシェクスピアの喜劇「じゃじゃ馬馴らし」の舞台である。喜劇は中世パドバ大学の学生ペトルキオと土地の令嬢カテリーナとの恋物語である。私はトラニオという役を演じた。その最初のせりふ:「Since for the great desire to see fair padua,nurcery of arts......」芸術のゆりかご、美しきパドバにが思い出される。1967年のゼッフィレリ監督の映画ではペトルキオをリチャード・バートン、カテリーナをエリザベス・テーラーが演じた。そして遠く向こう海の中にベニスの街がみえてきた。(続く)オーストリアaustria
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さあ!出発シルクロードのたび 1968

 一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を体験し、シルクロードを車で横断した。今から45年前のことだ。当時海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。横浜を出る時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。

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 シュツットガルトとアルプス越え
 
元陸軍中将の父を幼少時に失い母子家庭で育った熱血漢のゴジー,スマートで学園紛争の話をくだらないといった暗い目をしていたヒリキ.私達はフランス、ストラスブルグの私の下宿に集まって、決心した。陸路で地面を伝って日本に帰ろう。ドイツ、シュツットガルトで車を買って、いける所まで行って、後は各自の判断で別れよう。三人は同時に頷いた。

出発に際してストラスブルグの一本尖塔のカテドラル広場に面したアルザス料理屋のカマツェルで祝宴をはった。アルザスの特産シュクルートとブラットヴルスト、フォアグラのステーキ、それにアルザスのリースリングワインを食卓に並べて欧州に来て始めての贅沢な食事をとった。ストックホルムでためたアルバイトの金が潤沢に懐にあった。久しぶりによく飲んだ。

飲むと日本を出てからの一年有余の各自の出来事を話した。ゴジーのスエーデン北部の町の話。なんとかいった肉感的なスエーデン娘との情事。メルメという小さなスエーデン北部から何回も送られてきた絵葉書に書いてあったことの反芻。そして君みたいに学校に行けず残念だった等等。さんざん喋った。ヒリキだけは黙って聴いていた。喋ると秘めている願掛けが消えてしまうかのように黙っていた。

 1969年初頭私達はしびれるような寒さのストラスブルグを発った。ドイツ、シュツットガルトで車を購入し、ヨーロッパアルプスを越え、イタリアからユーゴスラヴィアを経由してギリシャ、アテネでフェリーに車を乗せて、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、できればビルマ、タイ、マレーシア、そしてシンガポール、またフェリーでホンコン、台湾そして九州、本州までの計画であった。日本までの走行距離2万5000キロ。

 ストラスブルグから汽車でドイツに入りシュツットガルトまではなんのことはない。三人が冗談を言っているうちに着いた。シュツットガルトは自動車産業の街である。駅に入る線路脇に中古車販売センターが並んでいた。(写真)。ドイツオペル、VW,BMW,ベンツさすがにドイツ。日本では中古車でさえ高級である車が所狭しとならんでいる。

高級中古車外車のオンパレード。日本で買う何分の一の値段であった。いかに日本での関税が高く、外車ディーラーが儲けているかであった。国民には知れず、知らさず、知り置かず。為政者は全くずるい。特に島国日本では国民が外界の情報を認識するまでに時間がかかる。この時間のギャップを悪用する人間のなんと多いことか。

 閑話休題、三人のうち大学で自動車部にいたヒリキが車の下を見たりエンジンをかけてふかしてみたりした。ベンツは気がひけた。BMW,とVWをみた。値段は7万キロ走行済のBMWミーディアムクラスで約20万円、VWのビートル 走行距離5万キロが約10万円だった。

店の親父はどうせ買う金などないくせにという風情だった。確かに背中にリュックを背負い、ジーパンに防寒のダッフルコートの我々が中古車とはいえ、買う風体に見えなかったとしてもなんの不思議もない。

 <”ヴィアハーベンゲルト”>(カネならアルよ)とアルサス訛りで言ったら、

 <”ミューグりィッヒツーベツァーレン?”>(大丈夫か?払えるって!)

と驚いた声をだした。ビールをしこたま飲んだのだろう赤い顔から紫色の血管が浮き出していた。ヒリキが言った。
<確かVWは第二次世界大戦の時ドイツ軍がアフリカ戦線で勝利を収めたときの軍用車だ。熱に強く空冷。中近東の砂漠地帯には最適。>
 
 車の知識にあまり詳しくない二人はそれで十分だった。パスポート、フランスの滞在許可証、それに現金でWVがいとも簡単にその場で手に入った。驚くべき自動車社会だった。(続く)
 シュツットガルトシュツットガルト

シルクロード踏破の三人

[シルクロード] ブログ村キーワード 
断わらなくてはならない。シルクロード踏破1968は三人の力で可能だった。たった一人ではとても不可能というものだ。アフガニスタンの砂漠では白頭巾の盗賊にも出合ったし、カイバール峠では雪のなか立ち往生もした。でもどうにかやり遂げたのも三人の青春の力と多少の運があったからだ。

 その二人にこの記録について許しを得てはいない。だが許してくれるだろう。全くのノンフィクションではないことも。

 もう43年も前の青春の記録を。
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我でなく我々。

 ここまで私は常に一人称単数で表してきた。ここで実情を語る必要がある。実に1967年秋横浜から日本を発ったのは友人二人と一緒だった。我々は三鷹にあるキリスト教系大学の同窓生であった。一学年180人というこの大学では全学生の名前と姿くらいは相互に認識するくらいだった。同学年だった我々は、互いの家庭の事情まで理解するような間柄だった。

千葉県の柏出身でスポーツマン、幼い時父親を亡くしたM.N氏,あだ名は朝方5時男ゴジー何やるにしても最後の最後までやらず切羽詰まって朝5時からというところから名がついた。、埼玉県出身で自動車部、どちらかというとノンポリのH.T氏あだ名暗い非力ヒリキである。当時大学の3年時を終了し、ご他聞にもれず学園紛争のまっただ中で大学本館を占拠し大学自治を主張したりした。政治が授業みたいなものだった。毎日学生同志で激論した。

「自己批判」と称する言葉をよく使った。デモにもよく参加した。「資本論」を仲間で読んだ。今後両氏を無断だがあだ名で呼ばしてもらう。ヒリキは無関心だった。気になってよくその理由をたずねた。くだらないといっていた。深遠をみる目だった。三人とも逼塞感があった。なにかしなくてはという逼塞感打破のリビドーを共有していた。

 ある日先輩でJTBに就職しているI氏と大学で会った。三人ともよく知っていた。I氏からシベリア鉄道の話を聞いた。聞いている目が光った。それだという顔をしていた。しかし皆金がなかった。Mが三鷹市長選挙の応援アルバイトをみつけてきた。革新系の候補だった。三人で三鷹市内を駆けずり回った。団地が多かった市内で辻にたって応援の演説をやった。演説は学園紛争の演説調だった。候補は見事に当選した。アルバイト代を奮発してくれた。我々のシベリア鉄道の話をきいて三鷹市のごみあつめの現業アルバイトも紹介してくれた。その年夏は暑かった。汗とごみにまみれて必死に旅行費用をためた。

1967年夏真っ盛りの中、三人とも計画した金をため準備を整えた。パスポートをとった。旅券は発行の日から帰国するまで有効であった。ただし6ヶ月以内に出国しないと無効となると書かれている。観光のためのパスポートだが今のように5年だとかの期限はない。出先日本領事館がない国が多いせいもあったのであろう。

 1967年8月30日三人は横浜からソヴィエト船に乗ってナホトカにむかっていた。モスクワを経由してストックホルムまで三人は一緒だった。三人の目的がそれぞれ違っていた。スエーデンの首都で三人は別れた。ゴジーはスエーデンの北部で過ごした。ヒリキはストックホルム大学に入学した。私はイギリスに向かった。
 翌年1968年夏ストックホルムで三人は再会した。夏のアルバイトをまた三人でした。三ヶ月してまた別の行動のため分かれた。

 そして1968年三人は日本に帰国することを決めた。どう帰るかでもめたが、飛行機はやめた。せっかくシベリア鉄道できたのだから、鉄道で中近東、アジアを回って帰ろうという意見が出た。それもやめた。歩いていくのがいいがそれも大変なので、車を買っていけるところまで行こうということになった。

 三人は私のいたストラスブルグに集まった。計画を練った。まずドイツ、シュツトガルトで車を買う、アルプスを越えてスイス、イタリア、ユゴスラヴィア、ギリシャ、フェリーでイスタンブール トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドを経由する3万キロの道のりだった。考えると大変な道のりだが、100%問題ない魅力一杯の旅に思えた。無事にインドカルカッタまで3ヶ月かけて到着したが、今考えるとよくできたものだと驚く。(続く)

ドイツDahau〜フランスStrasbougへ 凱旋帰京1968

 青春のたびは消えない。旅に苦労が多ければ多いほど楽しさが残る。その後の小さなたびは断片的だが、意を決して始めた旅は色あせずに脳裏深くに刻まれる。

 大陸横断のたびに出ている若き人たちのブログを読む。その気持ちに今も昔もない。

 時代は便利で快適とはなった。快適で便利さは金で買うことができる、が、不便だが、そのときは苦しい旅は時間とエネルギーだけが代償である。払った代償は必ず戻ってくる。大切な時間と生きるエネルギーで支払ったものだからだ。

 ましてや、旅に邂逅した人たちとの心の交流は終生の宝となる。決して忘れることのない朱玉の魂である。


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シモーヌとフェルディナン

ダハオからストラスブルグの下宿に凱旋(財布に6000フラン)
 
南ドイツの強制収容所跡が脳裏に残ったまま、ミュンヘンを経由してライン河を渡り対岸のフランス・アルザスの県都ストラスブルグに3ヶ月振りに戻った。

石の建物で一寸東京駅に似た駅舎に着いたのはもう深夜に近かった。バスもなかったので思い切って駅から下宿のある郊外のホーエンハイムまでタクシーに乗った。タクシーは生まれて初めて乗るベンツだった。駅から五、六キロであった。

 いつも自転車で大学まで通った道をタクシーでいった。下宿の前まで来た。下宿先のヒッケル家は大工家業でもありもう寝静まっていた。玄関のベルを鳴らすと中からいつも世話になってばかりいたおかみさんのシモーヌが出てきてくれた。

 タクシーで帰ってきた下宿代も払えずにいた貧乏学生の私を見て唖然としていた。タクシー代はあるのか心配そうにしていた。ジェ・アセ・ダルジャン(金はふんだんさ)と言うと信じられないようなふりをした。下宿代は一ヶ月100フラン(8000円)だった。

 お土産にシモーヌにドイツで買ったゾリンゲンの調理道具を買っていった。シモーヌは寝たばかりの旦那のフェルディナンと息子のピエールを夜中わざわざ起こして(朝早くの仕事があるのに)、帰ってきた私のために夜食とアルザスのリースリングワインで乾杯してくれた。小さかったが心のこもった歓迎パーティだった。お土産を皆に手渡すとヴレモン!(本当か)と言いながら喜んでくれた。私のストラスブルグへの小さな凱旋だった。
 
 そのフェルディナンもシモーヌももうこの世にいない。ピエールは美容師のクリスと結婚して大学の医学部で働いている。もう50代だ。

<この世で確かなのは唯一時間が過ぎ去ってゆくことだけだ。>

 死ぬということが必ず待っている。一緒にラインの支流に小船を出して釣りをよくした大工のフェルディナン、大好きなラパン(野うさぎ)料理とアルザスの名酒リースリングの白ワイン辛口を愛したフェルディナンも屈託のないパ・ド・プロブレム(人生問題なし)が口癖のシモーヌももうこの世にはいない。

 シモーヌは街の百貨店で売り子のパートをして生活を助けていた。シモーヌが言った。北欧のアルバイトはどうだったの?私は言った。パ・ド・プロブレムさ、6000フランも貯めたよ。え!6000フラン!セパヴレ(うそでしょ)。本当さ、北欧で皿洗いと工場でダブルで働いたんだよ。そして貯めた。フェルディナンもシモーヌもあっけにとられていた。

 そして次の日から又大学へ通った。講座はもう始まっていた。先生は同じでまた帰ってきたかと言って迎えてくれた。モージェというフランス語の教科書の最後の方にまで進んでいた。先生からフランス語を教える資格を取れる試験があるが受けてみないかといわれた。挑戦した。もう一歩のところで落ちたと先生から聞いた。慰めだったのかもしれない。こうして2年目のストラスブルグの日々が過ぎていった。(続く

黒澤監督生誕100年に思う

 黒澤監督の生誕100年。映画製作に関わった経験をもつ小生も黒澤監督の最後の作品「まあだだよ」に関わることができ監督にも直に話しをすることができたことをありがたい経験だとその機会を与えてくれた人たちに感謝している。

 「まあだだよ」は内田百?の原作から監督がシナリオを描いたものだ。弟子と先生との変わらぬ敬愛といたわりを日々の交友のなかでしみじみと描いた小品である。

 小品だが、徹底した映画製作は変わらない。戦後の荒廃した街角や時代をうつすセットは忠実に再現された。
当然時間と製作費がかかった。だがそれだけのシーンの連続だと思っている。

 不幸にもこの作品が黒澤監督の最後の映画製作となった。七人の侍や乱に見られるような豪壮な作品が黒澤であるようなイメージだが、「夢」や「まあだだよ」のような作品内面を写す映画も黒澤であることに監督の広さをみたいのである。

 小生が関わった他の映画作品には米国のユニバーサル映画社が製作した「Mr.Baseball」スケピシ監督、高倉健、主演、そして、「Until the end of the world」ドイツ ビム・ベンダース監督がある。いずれも深くかかわった思い出深い作品である。

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大陸横断 遥かなる追憶のシルクロード


今なら400万円くらいのお金になるだろう。                  

そのくらいの大金をもって西ベルリンからヒッチハイクで<ダハオ>という街に向かった。どういう経路を行ったのかいまはっきり覚えていない。確か二日かかった。トラックは南ドイツに向かっていた。アウトバーンの標識にミュンヘンの文字が見えた。40歳代の中年トラック野郎は英語はできなかったが、もうはげが目立つが金髪で歯がタバコで黄色かった。ダハオという街に住んでいた。南ドイツから西ベルリンに食料を運ぶ長距離をやって長いとわかった。

南ドイツのダハオという街がどのような所か全く知識のないまま長距離トラックに乗ってダハオに着いた。静かな街だった。南ドイツ独特の服装をした人びとが行き交っていた。街のZentrum(中心)でおろしてもらった。<ダンケゼア>と叫ぶとビッテとにっこり応じてくれた。

とりあえず中心の小さなホテルをとった。しばらくしてダハオの街を見ようとホテルの受付にいろいろと英語でたずねた。そこでここに強制収用所があったことを聞いた。アウシュヴィツは知っていた。ダハオについては全く知らなかった。教えられた道を行った。強制収容所跡があった。門があり無料で見学できるようになっていた。中にバラックが並び鶏舎小屋のように二階ベッドが続いている。ガス室があり、記念館には歯、髪の毛、囚人服が展示されていた。この収容所はドイツでの最初の強制収容所で当初はナチス突撃隊が敵外者を拉致し監禁するための施設であった。映画「戦場のピアニスト」の舞台となったとも言われている。

ミュンヘン郊外のこの町ダハオに1933年の1月30日のナチス政権が樹立され同年の3月22日に建設されたと記録にあった。建設当時5000人の収容を目的としたが、1933年から1945年までの12年間に20万6000人以上の収容をしたとあった。その大部分の収容者が死んだ。その歴史からまだ23年しか経っていなかった。収容所の芝生は青々としていた。芝生の下に死んでいった無実の人間の叫びが聞こえるようだった。

その時から日本では全く意識したことのない事、ユダヤ人とは何者?が私の永遠のテーマとなった。なぜヒットラーはユダヤの民をこのように絶滅せんとしたのか。シェクスピアは「ベニスの商人」の中でユダヤ人のシャイロックに語らせている。

<借金のかたを生きている人間の肉で返せと。>

 現代の世界、米国ブッシュ政権から、オバマ民主党政権となった。しかしアフガニスタンへの増派、イラクではいまだ政治的混乱がつづいている。2008年のリーマン危機での米国の凋落がはじまったが、依然として世界は米国の覇権のもと動いている。ドルが世界通貨であり、そのほかの通貨はカジノのチップみたいなものでドルに変換できるから実体があるだけだ。ドルで借金を抱えたものは生きた自分の肉体を切り刻むしかないのであろうか。

「赤い盾」という本があった。現在生じている全ての現象の由縁をユダヤ資本ロスチャイルドから説きほぐした。リーマン、ゴールドマン、ベアシュターン、などの投資銀行は米国ユダヤであった。金融資本主義が米国ユダヤの力を一瞬だが弱めたようにみえる。だが見えるでけで本質はなにも変わっていない。(続く)

1968年 秋 ベルリンに着く

2010年 謹賀新年

 新しい年がきた。2010年のメインイベントは5月からの中国万博、と6月からの南アでのワールドカップ。

 一方世界を包む多くの問題、解決すべき多くの課題が山積する。

 小生今年で64歳。住むマンションが古い古いといって文句をたれるが、本人より30年も新しい。配管が古い、エレベーターが古ぼけてみっともないなどとほざいているが、自分をよくみりゃそれより老いぼれているに違いない。

 元気にやるか、やるっきゃない。

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 今年は7月に10年ぶりのやきものの個展を深大寺で、8月にはフランス旅行を計画している。
 




 1968年秋ベルリン(カイザーウィルヘルム教会とチェックポイントチャーリー
 ホテルからカイザーウィルヘルム教会の崩れた姿が見えた。街路樹のプラタナスの木から葉っぱが散りかけていた。ドイツ皇帝ウィルヘルム1世と鉄血宰相ビスマルクにより成立したドイツ帝国を記念して1895年に完成したネオロマネスクの教会だそうだ。

1943年の連合国のベルリン空襲で破壊された。現在破壊されたまま保存されている。広島の原爆ドームを想い起こさせた。連合国はドイツに原爆を使っていない。ドイツには多くのユダヤ人が強制収容所にいた。原爆はユダヤ人が発明した。

 壁を見に行った。チェックポイントチャーリーを通って東ベルリンを見たかった。Uバーンを使ってチャーリーに着いた。検問所だ。検問所の手前に博物館があった。いかに多くの人間が東から西に逃げいかに東に殺されたかを説明してあった。

西と東の検問所間は50メートルくらいだったか。真ん中に鉄条網で区切られ道が、くの字にまがっていた。壁は東によって建設されたので検問所も東が作ったと思っていた。西から東に向かうときのほうが厳しかった。聞くところこのチャーリー検問所は西が作ったもので東ドイツを経由して西ベルリンに入る連合国側の検問所ということだ。このほかにA検問所、B検問所があった。チャーリーとはC検問所のニックネームである。
 長い壁が続いていた。東ベルリンに入っていった。住民の姿が見えない。集合住宅のビルは古ぼけて黒っぽくすすけたような色をしていた。さみしかった。

1987年、このベルリンの状況の中ヴィムヴェンダース監督が「ベルリン天使の詩」という映画を撮った。1991年私は仕事で同監督からの日本からの投資要請に応えて当時の上司を説得して「世界の涯まで」を製作したが、製作にかかった1989年ベルリンの壁がくずれた。

映画はテーマを大きく変更せざるを得なくなった。完成された映画は評価されなかった。しかし私には大切な思い出の映画である。

 ベルリンには三、四日程度滞在した。ホテルに滞在して、しっかり観光してアイスヴァインなどのドイツ料理を食べた。金を使えば滞在は快適になった。しかしどうも面白くない。金を使う観光旅行をしに欧州にきたんじゃない。幸いベルリンは陸の孤島であった。ベルリンから西ドイツに行くには東ドイツを通るしかない。普通は汽車か飛行機を使った。調べたらヒッチする方法があった。

長距離トラックを見つけるのだ。これは面白い。荷物集積場でトラック運転手を探した。居た。西ベルリンからダハオに向かうのだそうだ。ダハオがどこだかはじめ判らなかったが西ドイツであることは確かである。そこから汽車にのればいいと臍を固めた。涼しさを増した10月初旬朝トラックで西ベルリンを後にした。

 ブランデンブルグ

 




青春はこわれもの

三木たかしが今年去った。岩崎宏美が歌った。思秋期。曲もすばらしい、が歌詞がもっと素晴らしい。

 作詞家は誰か?

 <青春はこわれもの、青春は忘れ物、すぎてから気がつく>

 <誰もかれも通り過ぎて二度とここへこない>

 わたしの放浪のたびもーーー二度とここへ戻ってこない。

 だから書く。苦くもほろ苦く、舌にさす思い出す味と、

 甘くはないがどこかほろ甘いあの記憶とともに。

 詩を思い出す。


  足音もなく行き過ぎた
  季節をひとり見送って
  

  無口だけれどあたたかい
  心を持ったあのひとの
  別れの言葉抱きしめ 

  心ゆれる秋になって 涙もろい私
  青春はこわれもの 愛しても傷つき
  青春は忘れもの 過ぎてから気がつく



  誰も彼も通り過ぎて 二度とここへ来ない
  青春はこわれもの 愛しても傷つき
  青春は忘れもの 過ぎてから気がつく

  阿久悠に決まってる。

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  大金40万円を懐にフランス・ストラスブルグに帰る。 
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 ストックホルムで約3ヶ月必死にアルバイトして40万円の大金が貯まった。5000クロナであった。<日本の大卒初任給が当時2万円程度であったから20ヶ月分ということになる。>

 物価の変遷をみてみる。コーヒー一杯の値段である。(東京銀座)昭和20年(1945年)5円、昭和25年(1950年)30円、昭和30年(1955年)50円、昭和35年(1960年)60円、昭和40年(1965年)80円、昭和45年(1970年)120円 そして現在の銀座でのコーヒー一杯は800円くらいだろう。

 1968年の値段を100円とすると実に8倍である。すぐに比較はできないが当時の40万円の金額を理解してもらえると思う。この伝でゆくと320万円がたまったことになる。この大金をもってストックホルムをでた。

 金ができたので欧州エクスプレスでストックホルムの中央駅を出発した。また来ることもあるだろうと思っていたが、その後1979年会社から派遣されて欧州に10年近く滞在したが、どういう風の吹き回しかストックホルムを訪れていない。不思議である。

 とにかく、フランス、ストラスブルグまでの経路を決めた。まずベルリンで壁を見ること、ベルリンから飛行機でフランクフルト、フランクフルトからライン河沿いに黒い森(シュヴァルツヴァルト)を経て<ストラスブルグ>に帰る経路だった。

 もうすでに初秋、

 乾いた風に落ち葉が舞う。

 湿度が極めて低い北欧の秋、肺に入る空気は軽い。汽車はスエーデンの大学町ウプサラを過ぎて一路ドイツとの国境に向かう。国境で係官がパスポートのチェックにきた。スエーデン出国の判がおされて国境の街マルメからドイツ国境の街リュベックにフェリーでバルチック海峡を渡った。

 リユベックからベルリンは近い。車窓から北ドイツの穀倉地帯がみえる。針葉樹林の多いドイツはフランスに比べると森が暗い。太陽も幾分赤い。黄色味をおびたフランスの太陽とはやはり違う。ドイツに入ると皆が破裂音のきついドイツ語を話していた。

 あたりまえのことだが、面白かった。スエーデン語はゲルマン系なのかノルマン系なのか知らないが、ダンケがタックでやはり似ていた。耳に聞こえる感じはドイツ語よりねばっこい。日本でいえば東北弁ぽかった。

 ベルリンに着いた。西ベルリンの中心部のホテルにとまった。ホテルにしっかりとまったのは欧州滞在でこれが何度目だったか、ベッドのシーツが快適だった。

白夜に貯めた5000クローナ

 NHKが現在「坂の上の雲」を放送している。日清、日露の戦いを描くのだが、明治維新以来の歴史群像を多彩な役者で演出している。

 先日は日清の戦いがあった。膨大な人数のエキストラを使ったシーンは映画を越えていた。映画製作の仕事を50代経験した私には羨ましいまでだった。

 聴取料未払いで経営問題が起きているNHKがこんなにも製作費を使っていいのかと思う。

 民放の製作費と比べれば何十倍にもなるだろう。

 NHKは多分これらのコンテンツをオンディマンドにして有料放送で回収しようと思っているのだろうが、それじゃー税金から予算化している経費はどうしてくれるのかワケがわかんない。

 人形劇「三銃士」も相当な金がかかっている。その分面白くよく出来てる。

 NHKの方針を再度明確にすべきである。

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1968年白夜のストックホルム 3ヶ月のアルバイトで貯めた金なんと5000クローナ(日本円で40万円)
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 <今からもう足掛け45年前の話だ。>パスポートを取るにも大変な時代だった。外貨規制があり観光で持ち出せる外貨は信じられないだろうが、500ドル(1ドル=360円)だった。日本円で18万円だが、それでも500ドルを貯めるために学生だった私は三鷹市市長選の応援アルバイトや市内ごみ清掃現業のアルバイトを3ヶ月、家庭教師2軒を半年、でようやく10万円、残りは親戚や家から借りた。

1968年の大卒初任給は大体で2万円近辺であったろう。帰国して半年後、1970年に給料の比較的良い最大手の広告会社に就職したがその時3万8500円だったのだから。

その500ドルで日本を出発してストックホルムでのアルバイトをするまで約10ヶ月学費、食費、交通費、下宿費をだしてフランス、ストラスブルグで生活した。10ヶ月で54キロの体は50キロにやせていた。要するに疲れすぎの栄養不足状態だった。

もともとフランスでは風呂につかる習慣はなかったが、公衆のデゥーシュとよばれるシャワーつきの銭湯があったがもったいないのでお湯を下宿で沸かして体をふいた。

疲れていたのだろう、なかなか朝起きられなかった。とにかく眠たかった。大学の講座によく遅刻した。下宿のホーエンハイムから大学まで自転車で通った。約30分の道のりだった。今はその道筋通に欧州議会がある。当時は畑が続いていた。

 よく下宿先の息子ピエールとライン河の土手でうさぎを追った。食料にするため真面目に追ったが無駄だった。子供と栄養不足の学生には到底むりだった。

 それから十数年後フランス、パリに会社の駐在として派遣されていた私は当時のアディダス・フランス社のダスラー社長とストラスブルグ郊外の本社で会議をもっためストラスブルグに向かった。ストラスブルグの街は変わっていなかった。ただ自分が変わっていた。

 少し自由を犠牲にして得た金銭、失った時間と荒唐無稽な夢。何かを求めてひたすら生活した時代、現実に見えた何かは、このようなことだった。今、ストラスブルグはセピアに変色してはいるが、確実に鈍くなった脳裏に常に存在している。
 
 話を白夜のストックホルムに戻そう。アルバイト先を探した。街の目立つレストラン、工場を直接訪ねて雇用を依頼した。幸い英語がどこでも通じた。外国人、特に東洋人。始め相手は当惑していた。フランスの学生証を見せた。安心したのか中央駅傍のレストランと郊外のトマトケチャップ工場が臨時アルバイトとして雇ってくれた。

 フランス語をしゃべると相手のスエーデン人の態度が丁寧になった。交渉してレストランは夜勤としてくれた。工場の仕事はベルトコンベヤーに乗ってくるケチャップ瓶がベルト上に規則的に乗っているよう監視することだった。退屈で時間を売ることだった。1時間5クローナにはなった。1クローナは当時80円程度だったと思う。約400円程度。朝8時から4時まで8時間働いた。一日40クローナ(3000円程度)になった。

 昼食は工場で食べた。ほとんど無料だった。その足で駅傍のレストランで皿洗いをした。高級な皿洗い機があった。ぬるい湯に浸して皿洗い機にかければよかった。5時から12時まで働いた。一時間4クローナ、一日30クローナになった。当然夕飯は無料で豪華にもティーボーンステーキを食べた。

 一ヶ月がすぎた。財布には1500クロナ(約12万円)あった。<現在の日本に中国やフィりィピンから多くの外国人労働者が来ている。>得る報酬は本国と比べるととんでもない高額になる。43年前日本と北欧との差は外国人学生アルバイトでもこんなにあった。

8月初旬仕事や生活になれた私はディスコに出かけたり仕事を一緒にするフィンランドからの女子学生と付き合うようになっていった。現在も港に面して超高級ホテルのグランドホテルがあるが、道を隔てて遊覧帆船が接岸している。遊覧帆船は確かアフチャップマンといった。この帆船での夜勤監視のアルバイトをはじめた。ヨーロッパ各国からの富裕階級の人間達の社交場となっていた。

 警護の既成ユニフォームを着せられた。そこでさまざまな人間模様を目撃した。富裕な人間達には必ずコバンザメが付いていた。おべっかを使って生きてゆく人間達。働かずに富裕に生きてゆける人間達。欧州、北欧の街ストックホルムの夏は整然とした福祉国家の体裁をかぶり平等社会の様子ながら、実際は階級社会であることをしっかり露呈していた。(続く)

 

白夜のストックホルム

 今年去っていった忘れえぬ人々、エコール・ガイダル、ロバート・マクナマラ、ジャック・ケンプ、コラソン・アキノ、クロード・レビストラウス、インゲマル・ヨハンソン、アービング・クリストル、ウヲルター・クロンカイト、エドワード・ケネディ、パール・サミュエルソン、ノム・ヒョン、ラインハルト・モーン、エルツール・オスマン、ココティラー、バイツラ・メフスード、ネダ・アガソルタン、ジャンヌ・クロード、アンドリュー・ワイエス、レシェック・コワコフスキー、マース・カニングハム、ユーニス・ケネディー、アリシア・デ・ロチャ
 皆世界を動かした人たちである。この中の何人の名前を知っているだろうか?

 いつからか日本人は世界のことに無関心になった。

 日本だけが特別であるかのように思ってはいないだろうか?日本で起こっていることはいまや全世界で起きていることであり、共通のテーマがほとんどだということに気付いているだろうか?

 高齢少子化、環境、介護、年金、教育、雇用、税収、財政脆弱、縮小経済、などの問題から身近なゴミの焼却の問題までが世界共通の問題なのだ。

 もうすこし世界でなにが起こっているかに関心がなくては、(とくに若者が)日本の将来が危ぶまれる。

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 1968年夏 白夜のストックホルム
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 激動の年、1968年夏白夜のストックホルムにやっとのことで、たどり着いた。ストックホルム郊外の町に住んでいた友人の下宿先にむかった。教えられた住所に郊外電車に乗ってむかった。

現在私の住んでいる小田急線の高架と新しい駅のような無機質の町が横たわっていた。<北欧の国スエーデンは当時世界一流の福祉国家であった。>

人口800万人。北部キルナには今後100年国民が暮らしていけるだけの鉄鉱石が埋蔵されているとされていた。<しかしこの寂しさはなんなのだろう。>郊外電車で約20分ばかり都心から行った町はおとぎ話のような一戸建ての家が立ち並んでいた。まったく整然と整備された町を歩いて談笑する住民はなかった。老人達が圧倒的に多く北欧独特のくるぶしをはらした老人達が杖を頼りにあるいていた。IMG_5428-gamla-stana現在のストック・ガムラストン

 北欧の夏、<夜の闇はない。>沈み行く太陽はあっという間にあがってきた。

丁度このころだ。北欧の国の<フリーセックス>が世界の話題となっていた。自由な何にも縛られないセックスという意味だろうくらいしか理解していなかった。どうも違うという経験をこの時目撃した。

夏だが少し肌寒い郊外の四辻の道路、午後10時くらいだった。まだ明るいが夜だということの認識だけのためだろう黄色味の道路灯がついていた。まっすぐのびた道路をまだ十四,五歳の金髪のミニスカートをはいたかわいらしい女の子が歩いてくる。駅の方角から同じ位の年格好の男の子がすれ違った。男の子の手がのびて体を抱いた。女の子ははじめはいやだというジェスチャーをしていたが、無理やりでない男の子の感覚をおぼえたのか抱き合い始めた。まだ太陽がのこる道路上の出来事であった。IMG_5538-gamla-stan3a夏ストックホルム

私には、セックスや性的な感性はどこか未だ暗さとどこかつながっていた。全く卑猥さや暗さから開放された性。それは、一方むしろ無機質な生物行為ではなかったか。このようなことは、その後、働いたレストランやトマトケチャップ工場や野外公園のスカンセンパークでのウェイターの仕事上でもいろいろと経験した。

中でも忘れないように、ここで書きとめておきたいのは、ストックホルム港の南に位置する小さな島にあるスカンセン公園でのことである。スカンセン公園はストックホルムの夏の行事である白夜のお祭りが催される。夏至の日が白夜の祭りの日である。市民が集まって本当に短い夏を味わいつくす。この日は日本的にいえば無礼講の日である。

 私はこのスカンセン公園にある野外レストランでウェイターのアルバイトをしていた。野菜の種類のない北欧の食事は豊富な肉類にサラダ菜とトマトがそえられたメニューがどこでも中心であった。それにボトルのままのむテュボルグなどのビール。レストランの横から北欧の森が島をつつんでいる。<沈まない太陽。白夜のなかで木々の中から真っ白な肉体が踊りでてきた。次から次へと身に何も着けていない老若男女が踊っていた。それは霞のかかった黒い森と黄みのある沈まない太陽との自然の舞踏のようであった。>(続く)

1968 夏 ストックホルム

 1985年、私の人生では、他にありえないような素晴らしい感動がありました。それが、ヨハネ・パウロ2世(Jean Paulo deux)に拝謁できたことです。このことはもう少し後でお話したいと思います。IMG_0863a

 1968年私は右も左もわからぬヒッピーまがいの眼ぎらぎらの貧乏学生でした。日本を出るとき握り締めていた500ドル、片道切符のヨーロッパ、肝心の兵糧が途絶えてきた。外地で金がなくなったら本当にどうしていいかわからなくなる。

 そこでアルバイトだ。今みたいに金がなくなったら、銀行送金で頼むなんて出来ません。そんなことしたら、外為法違反でつかまる時代です。海外に送金するには日銀の本店までいかなくてはなりませんでした。

 私はドイツとフランスの国境の町ストラスブルグからアルバイトならスエーデン(何故なら、スエーデンの貨幣クローナは世界で一番強かったのですから)と決めてヒッチでスエーデンに旅たちました。

 今日本で働く闇の中国人のようです。

 時代はめぐるのです。いつか日本人が中国にアルバイトに出かける日がくるでしょう。確実に。

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 1968年 夏 ストックホルム

 五月のパリからストラスブルグに帰った私は眩いばかりのフランスの春を経験した。

 零下18度や20度の冬は曇天の空のもと人の気持ちを憂鬱にする。曇天は4月の終わりまで続いた。太陽はこの冬の間に数日しか出なかった。

 <しかし陽光の5月は突然やってきた。>花という花が一斉にこの時をまっていた。日本の春ボケ、梅、桜というような時間の間隙はない。一斉に花が咲く。ボッティチェリの絵のように。突然自然が甦る。Renaitreするのだ。ルネッサンスの語源が良くわかる。

 大学前広場のマロニエの紅白の花が満開となり、ストラスブルグの大学講座も三学期目の終わりを告げようとしていた。夏休みが近かずいていた。同時に私の懐具合も切迫しつつあった。どうにかしないと下宿費も学費も払えなくなる。<夏休みの学生アルバイト先をみつけなくては。>当時欧州では外国人学生のアルバイトは一般的に許されていた。ストラスブルグの街中でもレストランや大学食堂での皿洗いなどのアルバイトが紹介されたが、1時間当時で50サンチーム(約35円)。8時間働いて300円以下。

 こちとら夏以降一年間の学費、食費、下宿費を貯めなくてはならない。<そこで決心したのが北欧でのニ個所アルバイトであった。>

 <朝から4時まで工場、4時からレストランの仕事の掛け持ちアルバイトであった。>まず北欧にむけてストラスブルグをたった。ーーー七月の初頭、ヒッチでドイツを経由する。ライン河をわたりドイツにはいり国境の街ケールからアウトバーンの入り口でヒッチ開始。<ストックホルム>までと書いたボードを持って高速に立つ。ーーーー約1時間 車が止まる。用意していたリュックを引っさげて車に乗る。車の主が言う、<マンハイムまでだがいいか?>勿論ダンケシェーンだ。車のなかでデタラメだが要するにしっかりとコミュニケーションを笑顔をたやさずとる。でないと互いに初めてだから息が詰まって良い結果は決して生まない。突然降ろされたり罵られたりとかの事件が時たま起こっていた。

 (マンハイム、デュセルドルフ、ボン、フランクフルト、ハノーバー、を経てストックホルムまで何十台の車をヒッチしたか良く覚えていないくらいだ。)一生賢明ヒッチした。(良く辛抱強く待てたものだと思う。)若いこと、未知への興味は疲れなど吹き飛ばした。食事は止った町でパン屋でサンドイッチ、夜は安い宿屋で食べた。中には家に招かれて食事をいただきとまらせてくれた。

 <その時頂いた新婚早々の夫婦の写真があるが名前は忘れてしまった。>40年前のことであった。あの夫婦が健在であればもう70歳になるであろう。IMG_0770a

 <時間は刻々と正確に過ぎて行く。>ドイツ北部の町からフェリーで北欧スエーデンの首都ストックホルムに着いたのはヒッチを初めて1週間後であった。(続)

ライン川国境の古都市ストラスブルグ

青春とは悩みと切り離せない。自分にどれほどのことが出来るのか、自信などない。恋の悩みもある。ちょっと咳がでれば肺がんじゃないかとも悩む。若いということは悩むことだ。悩むから成長する。エネルギーもでる。

 青春の友は歴史と哲学の書だ。当時洋書ではハイデッガーの「存在と時間」、「聖書」「「シェクスピア」、「資本論」和書では「奥の細道」、小説では「平家物語}をむさぼり読んだ。なにか悩みを解決できるのではと読んだ。

 そのときはわかったような気がした。しかし何も解決しなかった。

 そして大学二年19歳のとき学費の値上げがきっかけで学園紛争に突入していった。雪が舞う日だった。本館を机や椅子などを使ってバリケードをはった。自らの学びの舎を自ら閉じた。大人たちに対する不信が根本にあったように思う。或いは悩みのはけ口だったのかも知れない、初めはそんな政治闘争ではなかった。結果は東大安田講堂、浅間山荘と流れていったこの闘争の源は若者が持つ悩みの結集の一滴だったのだ。

 それからもう半世紀が過ぎようとしている。少しでもこれからの人たちに自分が経験したことや反省すべきことを語りついでおかなくてはならない。そうすれば自分が当時悩んだことなどと同じような悩みに、「一つのヒント」となる筈だ。

 そんなこと「いらぬおせっかい」とおもう人もいるかもしれない。が、そうでもないだろうとも思う。
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、 アルサスの古都市 Strasbourg無題-スキャンされた画像-21a


プティット・フランスとよばれるかわいい街並み、と戦乱の嵐に翻弄されたライン河の街がストラスブルグ。

一本の尖塔だけのカテドラル、とローマ時代アルゲンツール(銀の街)と呼ばれ多くのユダヤの民が住んでいたことでも有名な街。普仏戦争、第一次世界大戦の戦場となり1968年当時でもライン河の流域に多くトーチカが残っていた。

住民はアルザシアンと呼ばれ、アルザス語を日常言語としている。アルザス語はほとんどドイツ語に近くフランス語の系列ではない。しかしフランスなので公用語はフランス語。私が本当にお世話になったホーエンハイムの下宿ヒッケル家では、父親はフランス語はほとんどしゃべれない。母親はフランス語ができるが、息子ピエールとの会話はアルザス語。複雑な欧州の戦乱の歴史を直に感じる。

 現在このストラスブルグには欧州議会が置かれ欧州の政治、経済、社会の様々な問題が討議され調整されている。正に適所と言うべきだろう。無題-スキャンされた画像-28a

ここにゲーテやシラーが学んだストラスブルグ大学がある。医学部と神学部は欧州で有名。文学部の正面にゲーテの銅像がある。外国人のためにシヴィリザション講座があり、まず貧乏パック旅行者の私は学生になるのが一番とこの講座に登録した。フランス語の講座である.

 大学には街のなかに大学食堂が4つあった。学生になれば、学生食堂が使える。日本を出るとき高校卒業証書がフランスではバカロレアという大学入学の資格になると調査しておいたので、英訳して持っていたのが役立った。

 確か当時1フラン25サンティームで食事ができた。(1フランは70円程度)以外に高いと思われそうだが違う。まずアントレがあり、鴨や牛肉の料理がつき、サラダとチーズがあり最後にコーヒーと果物がついた。勿論ハーフボトルだがワインが付いた。これが大学食堂の料理かと全く感心したものだ。お陰で貧乏学生の割りには充実した食生活を送ることが出来た。

 この外にユダヤ人学生のために二つの学生食堂があった。よくそちらにも顔をだした。

 街でたった一人の日本人学生だった。いや街でたったひとりの日本だった。

 大体中国人と日本人の違いに関心はなかった。要するに東洋人であった。我々がガーナ人とケニヤ人の違いに無関心であるかのようなものだ.

 フランス語は難しい言語だった。日本でフランス語を何単位かとっていたが、そんなのはゼロ。必死に勉強したがなかなか身につかなかった。どうにかフランス語が使えるようになったのは下宿の息子のピエールとの会話の練習があったからだ。私が数学を教え彼がフランス語をコーチしてくれたIMG_0753a

 講座には欧州のほとんどの国からの学生がいた。すぐ友となった。大学の前の広場でサッカーをした。その後連絡はとっていない。みな何をしどういう人生を送っているのだろうか。IMG_0759a

 ながく寒い冬が終わろうとしていた。広場のチューリップが咲き、フランス桜が咲き始めた。フランスのこの時期はストライキの季節であった。しかしこの年は学生の集会の方が多かった。そして5月となった。パリ、ナンテール大学で学生の大規模なデモが起きていた。

 最近中公新書から「物語 ストラスブールの歴史」という本が出版された。内田日出海さんという人が書いている。先にやられてしまった。残念!
 
 

Dover, Paris, Strasboug 1967

掲載している写真は皆45年も前のものだ。カメラはZenza Bronicaの二眼レフ。持つとズシッと重くてすりガラスのような投射体に映っている対象を見ながらシャッターを押して撮影した。勿論すでにカラーフィルムがあったが貧乏学生には高かったのでモノクロフィルムを使った。

 今見るとカラーのものよりモノクロのほうがしっかりと記憶を呼び起こす。どこでどのような思いでシャッターを押したのかがよみがえる。街路樹のブールバールを通るバス、IMG_0765aセーヌ河畔の町並みIMG_0766a
、マルシェの八百屋の人懐っこいパリジャン、IMG_0814a凱旋門からみたエッフェル塔IMG_0815aなど1968年の五月革命半年前のパリである。

 1979年(昭和54年)に再度パリに今度は企業の駐在員として赴任したのだが、1967年のパリがあまりにも印象が強すぎて脳を慣らすのに苦労したのを覚えている。

 当時パリに行くのにはまだ地中海を経由するマサジェム・マリチムという船回路があった。二ヶ月かかる。パリは遠くにあるのがいい。いや夢は遠くになければと思う。その点私は幸福だった。周りに日本人はいなかった。自分ひとりのパリを味わうことができた。

 いまではそれでも12時間かかるが半日でパリに着く。飛行機代も割安を探せば当時の値段とは比較にならない。便利だが感慨がない。苦労がないから印象が刻まれない。一枚のモノクロの写真さえ何十倍の記憶を呼び起こす。一粒の小さな仁丹が口腔内にひろがるように、(たとえが古いか)、シュワーとパリがよみがえる。

 幸せはパリのルイビトンやヘルメスを買えることでもなく、ましてや団体でゆく安心旅にはない。安心の対極には不安だが自分で発見する旅がある。面倒で苦労してようやくたどり着く旅。そこに他の誰もが味わえない本当に大きい意味ある旅があるんだとしみじみ思う。

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 ドーバー、パリ、ストラスブルグ 

 足掛け43年前のことになる。昨日のことのようだ。昨日のことのように鮮烈に記憶しているということではない。昨日のことのように早く時がすぎていったのだ。

 英国中部のリッチフィールドを立ってロンドンを経由しドーバー海峡をわたって対岸のフランス、カレーに入り汽車は一路パリに向かった。パリは憧れの街だった。パリに入る手前にサン・カンタンと言う駅があった。駅哨が抑揚のある声でサン・カンタン、サン・カンタンと汽車の到着をつげていた。パリはもう目の前。左手の山の上にモンマルトルのサクレクール寺院がみえはじめて、ついにパリ北駅に着いた。1967年の年末のことだ。1歩汽車を降りると吐く息が一気に凍るように白く散った。
                         
 背中に全財産のリュックを負ってシベリア鉄道横断中に知り合った日本人画家の住所に向かった。パリにくるようなら是非寄ってと言われていた。凱旋門に近い地下鉄アルジェンティン駅で降りて坂の途中のアパルトマンのレドショセー(一階)にあった。連絡してあったので快く迎えてくれた。二三泊した様におもう。というのは12月31日皆でモンマルトルの丘にのぼって新年を祝ったことをはっきり覚えているからだ。レヴェイヨン(Reveillon)という。

 丘に集まった老若男女がキスをしながら1968年の新春を祝った。アダモ、アズナブール、ポルナレフの歌が流れていた。21歳、何もが自由だった。安ワインがこの世の特上の味がした。ムール貝の白ワイン煮の食べ方を隣の中年女がフランス訛りの英語で教えてくれた。美味かった。こんなに美味いものがあったのかと思った。広場でダンスが始まった。腰に手を回して一列になって汽車のように長く長く音楽にあわせて踊ってゆく。ダンスの列はサクレクール寺院の前で折れていた。

 所持金500ドルを握りしめ横浜を出発したのだが、1968年の夏には北欧でアルバイトしてと考えていた。1968年の七月まで金が続くと考えていが、甘かった。パリに滞在したのでは1ヶ月も到底もたない。田舎の街で物価が安く外国人向けの講座がある大学町を捜した。それがドイツとの国境の街ストラスブルグであった。アルサスロレーヌ州のフランス第七番目の街であり、ゲーテやシラーが学んだ大学街であった。激烈な1968年が始まった。(続く)
 

わが追憶のシルクロード

 無題-スキャンされた画像-34aボズウエル・ジョンソン像
今から43年前の記録である。1967年だから昭和42年のことだ。我々には西暦より昭和で言ったほうが時代状況がすぐに浮かぶのは何故だろう。

 昭和42年、美濃部都知事が誕生、寺山修二の天井桟敷、吉田茂が死亡、タイガースがデビュー、羽田での学生デモ、タバコはハイライトが人気で、街には坂本九の世界の国から、伊東ゆかりの小指の思い出が流れていた。

 昭和42年の10月、横浜からナホトカ、ウラジオストック、ハバロフスクを経由してシベリア鉄道でモスクワ、レニングラードからヘルシンキ、船でスエーデンのストックホルム、ヒッチでヨーテボリ、フェリーでイギリスの港町ティルベリーに着いたのはもう11月の末だった。

 詰めに詰め込んだ重いナップサックと寝袋を背に21歳、体重54キロ、ガリガリの体だがエネルギーと眼をぎらぎらさせながらの旅だった。イギリス中部のリッチフィールドの恩師の家にたどり着いた時の安堵感から一週間は寝てばかりいたことを覚えている。それでも旅はまだその一歩をすすめただけだった。

写真はみな当時の二眼レフ、ゼンザブロニカで撮ったものです。


England to France イギリス滞在からフランスへ

 なるべく早く欧州生活2年を終えてシルクロードの旅にとりかかりたいのだが、どうしても書いておかなければということが多くてこまります。その中にオックスフォード名誉教授で桂冠詩人でもあり、東京大学でも1924年から27年まで教鞭をとったことのあるエドモンド・ブランデン教授のことがあります。氏の日本での業績は松島や屋島に詩碑があることからもわかります。

IMG_0817aブランデン氏とハーディ氏IMG_0742a当時ブランデン氏宅
日本でシェククスピア演劇を共にしたハーディ教授の師がブランデン教授でした。英国で同氏は詩人としても有名でした。1967年の英国滞在時持病の喘息をおして一介の東洋からのヒッピーまがいの青年に大英美術館を案内していただきその上教授の自宅に招待していただいたのです。ゆっくりといわゆるオックスフォード英語をはなすB教授からは、英国の伝統と誇りがあふれていました。クレア夫人も詩人でゆったりと平凡な日常生活の喜び、悩み、苦しみを言葉にしています。

 滞在した英国中部のリッチフィールドには18世紀の英国文学を支えたジェームス・ボズエルの銅像があります。現在の英語の基礎ともなった「英語辞典」をたった一人でつくりあげたサミュエル・ジョンソンと行動をともにしてその発言と言行をかきとめた人です。その関係はコナンドイルのシャーロックホームズのモデルともなったものです。

 バーミンガムにも良く出かけました。若者向けのパブに入るとビートルズの曲がかかっていました。中華料理屋で点心をよくたべました。

 その間A教授からリーズ大学で勉強を進められました。しかしシェクスピアは本場にくればくるほど遠く感じられました。前回も書きましたが、英語の自信が全く打ち砕かれたからです。

 その上、しっかり英語を話してないと馬鹿にされるのではという気持ちが日に日に大きくなりとてもこの地で学ぶ気にはなりませんでした。しかし一方経済的にここを離れてどうやって行くのか悩みました。

 そしてフランスに行くことを決心しました。理由は簡単でした、パリに行きたいそれだけです。決心を教授に伝えると翌朝リッチフィールド駅までハーディ教授が見送ってくれました。その後教授はエディンバラ大学やナイジェリア大学で教えていたようですが連絡がとれていません。元気でいれば84歳の筈です。
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