ばら色の日々(50年前の地球散歩)

還暦からが大切な人生です。一寸の光陰軽んずべからず。これまでの73年をふまえて新しい挑戦まで真実を語っていきたいとおもいます。片道切符に500ドル。若さで過ごしたヨーロッパ。1969年欧州での滞在を終えた3人の仲間が3万キロのシルクロードの冒険に出た。フランスからカルカッタまでの陸路をVWで。今から50年前の地球散歩の記録。

どうなるCovid19

Covid19の今後
世界の新型コロナ感染者が公式発表に寄れば3000万人を超え死者は100万人を超えた。人はいつまでこのウイルスが猛威を振るうのかに注目し心配している。人類の歴史は、感染症との闘いの歴史でもある。人が免疫を持たない病原体はときに爆発的に感染を広げ、社会を大きく揺るがしてきた。
パンデミックで有名なのが、欧州で14世紀に大流行した「黒死病」(ペスト)。欧州の人口の3分の1を失い、封建社会の崩壊や宗教改革の一因になったとされる。20世紀初めの第1次世界大戦中にはインフルエンザの「スペインかぜ」が流行。米軍から各国の軍隊などに広がった。第2波、第3波と発生し、世界の死者は数千万人とも言われる。パンデミックにはなっていないが、致死率の高さから恐れられているのが、1976年にコンゴ民主共和国(旧ザイール)やスーダンで見つかったエボラ出血熱。アフリカで繰り返し流行し、2014年に再燃したときは1万人以上が亡くなった。

コロナウイルスも以前から脅威になってきた。02年から流行した重症急性呼吸器症候群(SARS〈サーズ〉)もその一つ。やはり中国で初期の感染が起こり、アジアなどで約800人が死亡。12年に見つかった中東呼吸器症候群(MERS〈マーズ〉)では、中東諸国を中心に800人以上が犠牲となった。

日本の歴史にも感染症の爪痕が残る。奈良時代には天然痘が大流行し、政権を担った藤原四兄弟が全員死亡。戦国武将の伊達政宗が片目を失った原因も、幼少期に患った天然痘だと言われる。

コレラもたびたび流行した。日本医史学会の機関紙「日本医史学雑誌」には、江戸時代の1858年からの流行は、開国後に長崎に入港した米国船の感染した乗組員がきっかけで、江戸だけで26万人が死亡したと書かれている。新型コロナウイルスは10月時点で、世界全体の感染者数が3000万人、死者数が100万人をそれぞれ超えており、100年に1度のパンデミックの様相となっている。

 これらのウイルスの内人類が淘汰できたとしているのは天然痘のみ。他のウイルスに至っては依然人類と共に存在している。コロナウイルスのMers,Sarsもワクチンも治療薬も発見されていない。人類が2億年に比べウイルスは50億年前から地球上に存在している。人類はウイルスとともに生きながらえてきたのだ。犠牲になりながらも滅亡に至らずウイルスも宿主の絶滅をさせずにみずからの毒性を弱体化滅亡を避けてきた。
 それではCovid19はどうなるのか?人類の知恵が及ぶと考えるのは人類の傲慢ともいえるものだ。ワクチンや治療薬の開発の努力は続くだろうが何十年とかかるだろう。そのうちにウイルスは姿を変えて人類の中に住み続けることとなるだろう。
 
 ということはコロナウイルスの存在によって経済社会やhumanity自体がどう変化してゆくかのほうが人類にとって大切な課題となる。人間同士の関係が変化すれば国家関係も変化する。接触が回避されると互いの理解など不可能となる。一旦関係が破綻すれば 衝突し戦いが始まる。ウイルスは宿主が戦い合うのをじっと見ている。

マダニ体験記

今や日本の至る所に殺人キラーといわれるマダニが人間を狙っている。マダニにかまれたらどうするのかその体験記がそれなのに非常に少ない。ネットでマダニと検索するとその恐ろしさばかりが解説されSFTSという感染症を発症すると30%か致死に至るとある。そんなに危険なマダニについての情報も少なくかまれたらどうするのかについての体験記もほとんどない。
 何かに残していく為マダニに噛まれた体験記を残しておく。
今年2020年9月3日丹沢の山岳地の盆地で数多くの湧水に恵まれる秦野市。そのなかに葛葉の泉 という軟水の湧水がある。塔ノ岳登山の入り口でもあり登山者が水を汲む場所でもありいまでは駐車場があり広場には綺麗なトイレまで併設されている。横をながれる渓流には木製の橋が架り秦野市の観光政策の重要な場所でもある。とても殺人キラーのマダニなどが生息しているなどとは思われない。しかしマダニは生息して人間を狙っていたのだ。
 小生が東京からコーヒー用の水を汲みに 出かけ葛葉の泉に着いたのは昼の12:30頃。空前の台風10号がいまだ南太平洋に発生しその大きさをニュースが伝えていた。風速70メートルなどといっていたが結局九州の西を過ぎていった。しかしいつもは多くの人が水をくみにくるひとがいる筈なのに誰もいない。いつもは渓流で水遊びの家族もいない。ひとりで18リットルの缶に水を汲み、その間渓流の流れを見ようと約20メートルの芝のように生えてる草むらを歩いて汲んだ水を車に積み帰路した。帰宅してすぐコロナの感染防止の為シャワーを浴びようとすると足首が黒く盛り上がっている。泥がついているのかと思いお湯で流すと泥のようなものはすぐとれたが実は血が固まっていたものだった。傷がのこっていたが皮膚内に黒い遺物が残っていた。家内は大したことはないと言っていたがその日は木曜で近くの皮膚科は休診。次の日に懇意にしている国領の皮膚科に行くとそのきずと黒い異物を見てすぐにマダニと診断。手術して遺物を取り出した。取り出した異物は病理検査に出した。検査結果は2週間かかるし手術して4針縫った。抜糸に2週間同じにかかると言う。感染症ぼうしのための抗菌薬を7日間服用を命じられた。医師曰くこわいのはSFTSという高熱がでて血小板が減少し致死率三割なのだそうだ。感染潜伏期間は6日から2週間十分注意してくださいとのこと。コロナと同じく治療薬はない。血清もない。コロナについてはその恐ろしさから毎日毎日ニュースが流されてマスクと手洗い、ソーシャルディスタンスと世に徹底されているが、それと同じくらいの恐ろしいマダニについての喧伝はない。マダニ駆除のための殺虫剤を撒いていると言う話も聞かない。感染症は第4類の恐怖の感染症なのにだ。
 2週間心配がつのったが指折り数えて熱を測り日の経つのを待つこととなった。そして18日皮膚科にて検査結果無事となった。すぐに秦野を管理する平塚保健所の相原さんに連絡し秦野市に連絡しマダニ注意の看板を出してもらうこととなった。
 以上事実をのこしておくことが肝心で西日本に多く発症するこの感染症が今後の異常温暖化により日本全国に拡大せぬようにと思い体験記を残した。

ポストコロナ推論

コロナウイルスに世界が襲われている。なんと米国では6万人近くが死亡した。朝鮮戦争の戦死者を超えすぐに地獄ベトナム戦争戦死者を超えるだろう。米国の誇る巨大空母がウイルスに感染して動けず米国世界戦略は崩され動けずにいる。世界金融、経済都市ニューヨークがロックダウンされて人影が消えた。トランプタワーにも人影がない。この間米国は100兆円を一挙に決めてコロナ出血を止めようとしたがコロナにより医療もひっ迫しているのが実情である。トランプ大統領はこの事実を真珠湾より9.11より深刻な挑戦と位置付けた。こんなにまで何もできず無様なアメリカを見たことはない。アメリカ国民は今その鬱憤を唇を噛んで忍んでいる。
 誰が、なにが原因なのか、この屈辱をどう晴らすのかこの一点にポストコロナがかかっている。ウイルスは中国武漢で発生した。絶対に否定できない事実である。武漢からアジアに、イタリアに欧州全域に米国に伝播したのも否定できない事実である。発生時期は12月と中国政府からWHOに報告されたとある。がすでにフランスには11月に患者が発生しているとフランス政府が発表した
中国とWHOは示し合わせてウイルス情報を隠匿し発表を遅らせたのも否定できない事実である。また武漢の人口の半数500万人が発表時期に都市から逃げた。中国だけでなく世界中ににげたのも否定できない事実である。患者1人がなんにんにうつすかの指数が2倍だとしても1ヶ月の遅延と人口の拡散がもたらす患者は燎原の火の如く燃え広がる。中国にいてこのウイルスの存在を早期に警告せんとした医師は捕らえられ他の医師はコロナに感染して死亡したのも事実で隠しようもない。中国でかくも情報の隠匿と捏造が可能であるのは一党独裁共産党政権であるからだ。その党首は習近平という。中国14億人の生き死にを握っている。死ねと命令すれば14億人は命をかける。
最近の調査に拠れば米国国民の大多数が中国を敵国とし、中国に鷹揚な民主党でさえ中国抑止に動き始めた。いまや米ソの対立以上の険悪なみらいが待っているとしかかんがえられない。ウイルスによる世界経済の低迷は原油価額の驚くべき下落を引き起こし中東諸国の政治体制にも亀裂が走ってきた。しかしこの時期に中国は航空母艦遼寧によるバシー海峡、尖閣列島、南太平洋から韓国済州島を経過して日本海を脅かし始めた。流石のニューヨーク市長も5月12日経済活動再開を発表した。6万人の国民を情報隠匿により殺された米国の恨みが本格的に中国共産党政権にむかうのはもう時間の問題である。
翻って日本だが強制力もない非常事態宣言では従わない人間が多数いて日本版カジノパチンコ屋はオープンして事態の緊急性も無視している。世界に強制力のない非情宣言なと日本だけのお笑い芸である。
それもこれも敗戦後の平和憲法の為せる技だとすればなんという歴史の皮肉であろうか。確実に対立する米中の戦いは今回のウイルスだけでなく低周波電磁波、もちろん核兵器、バイオ兵器と複雑な対立となる。朝鮮列島は共産化され、ロシアが加わる。一方米国は豪州、日本、フィリピン、台灣とインドによる中国封じ込めに経済、軍事作戦に転じる。現在の憲法は米国の圧力により改正され、自衛隊は軍隊となり、米国から核兵器が装備されるのは必死の情勢となった。ポストコロナはこれまでの様な似非平和日本とはならない。

人類とウイルス

あくまでも人類もまた自然の一部であることを忘れている。人間も死んで地球の土に帰る生き物である。しかし人類はむざむざと死ぬことを拒否してウイルス、細菌、遺伝性病原体、に抗して生命維持に努めてきた。病原体を発見し分析し治療薬を作り、患部を切り取り生命を維持する医療技術を開発してきた。こうして細菌とウイルスに関する麻疹、ペスト、結核、梅毒、HIV, インフルエンザ、そして現在人間を襲っている新型ウイルスに至っている。しかし忘れてはいけない。ペスト治療薬の開発には200年,結核にも数十年の時間を要した。インフルエンザだけは治療薬やワクチンは開発されたが鳥を経由するウイルスを絶滅するには地球上から鳥類を絶滅させなくてはならない。人類もまた地球上の一介の
生き物にすぎないのだ。さて新型コロナだが既に何百万人が感染し20万人以上の人達が死亡しその収束が見えない。治療薬やワクチンの開発も期間も見えない。人類の不安と恐れが増している。人類の七割が罹患すれば人類抗体が出来て収束するという説でスウェーデンでは自然に任せている国もある。しかし罹患者の20%が重症になりそのうち10%が死亡する。600万人の人口で五割としても300万人重症60万人死者6万人。この犠牲者に耐えられる国民なのだろうか。人間は必ず死ぬ。いつどのような形で死亡するが良いのか。人類の歴史をみると、武力による戦死、名誉のための決闘、銃殺されたもの、病に倒れたもの、事故によるもの、山岳にて死亡したもの、自殺したもの、と死に方は複雑である。しかし死はさけられないが殆どの遺されたものに悲しみを残す。人類は自然界の一部にすぎない。どんなに慎重に暮らしても100%大丈夫とはいえない。こうなると宇宙を創造し万物の創造を成したものに任せるしかない。

老人バスターズ コロナ

 圧倒的に高齢者を死に追いやるコロナウイルス。小生を含め70歳以上で基礎疾患のないものなど稀だ。いずれにしろ人間死ぬのだが、すこしでも現生と思うのもむりもない。2030年にはこのままいくと四人に1人が70を超えると言われている。2500万人が高齢者。ここでコロナに50万人から100万人死んでも人口動態に然程影響ないほど高齢化社会なのだ。具体的に考えてみよう。小生がコロナにより死亡したとしよう。困るものなどいないだろう。志村けんのようであれば十日で死亡する。葬式もなく遺族には遺骨のみが残るのみ。生命保険が下り残された遺産も残る。誰も困らないのだ。むしろガンなどで長期療養で周りを困らせることもない。家族には日頃より地中海に散骨せよと言ってあるので墓も必要ない。
 父や義理の父は苦しんで癌で死亡した。2年苦しんだ。苦しんで何かその見返りがあったかとも思うが、どうも違う。父享年70,医者だった義理の父は75だった。小生ももう74歳。近所の内科医は85歳だがもう適齢期だからコロナは怖くないと笑った。
 恐ろしさだけが世を陰鬱に導いているコロナウイルスだが適齢期高齢者には必要以上に恐れる必要はないのかもしれない。
 しかしこの身元不明でメイドインチャイナのウイルスでは嫌だという声も聞こえて来る。

Corona Virus 世界に伝播

 2020年3月12日74歳を迎えた。どうもわたしの誕生日近辺で大災害が起きたり新型肺炎Covit19のパンデミックと色々起きる。従ってどうもおめでとうという雰囲気ではないが戦後のどさくさから74年それでもよく生きてこられた。神に感謝である。
 
 しかし中国武漢から発生したCorona ウイルスの正体が依然みえない。フランスではレストランからルーブルまで閉鎖。世界はコロナウイルスに占領され陰鬱に包まれている。治療薬もなくワクチンもない。アメリカと中国がこのウイルスを巡って争っている。

 

驚くべきコロナの真実

次の小生の推論があたってないことを祈る。
世界に広がる武漢新型肺炎ウイルス。その発生は武漢。中国政府はその発生をひた隠しにしたがもう隠せないと新型コロナウイルスの遺伝子を公表した。しかし発表してない重要な真実があるのではないか。
武漢海鮮市場から30キロに中国の二大生物研究所の一つがある。NBL(国家バイオ研究所)である。デング熱ウイルス、エボラ出血熱の純粋培養、さらにはコロナウイルスの研究を行う。当該研究所はカナダのNBLと提携、中国人研究教授qui shang guoが実権を握り運営する。カナダの研究所とは研究の為のウイルスが互いに捕捉され厳重に移送されたりする。

しかし所詮人間のやること。なんらかの間違いでウイルスが漏れることも全くないとは言えない。
中国政府は人口1100万人大都市武漢を完全封鎖し、10日で2000床の病院を建設した。その大胆策は流石中国という人がいるが事実は違う。そうせざるを得ないまでの状況なのである。はじめから新型ウイルスと発表し、首相対応で無く習近平が対応し、軍の医師が武漢に派遣される。

いわば軍の秘密を握られないように他国からの支援はマスクだけ。米国からの調査は拒否している。
それでは日本の対応だがこの件を報道するマスコミはゼロ。箝口令が敷かれている。WHOもテドロス事務局長は習近平に脅され緊急宣言も出せなかった。遅ればせながら出した時にはもう推測40万人が感染された段階ではなんの役にも立たない。

今後ますますコロナウイルスは世界を襲う。日本は安倍政権のあまさでオリンピックも中止になるだろう。慎重IOCも8月のオリンピックは中止を宣明する以外身を守れない
なん兆円をかけ推進してきたオリンピックが瓦解すればその被害は膨大なものとなる。さすがの自民党政権は崩壊する筈だが野党が結束できるかが問題だ。野党は石破を建てて戦いに挑まなければ勝ち目がない。
さてどういう事態になるのか。緊急事態であることは間違いない。

老人バスターウイルス

高齢者を狙う新型肺炎ウイルス
 中国武漢に発生した新型肺炎は別名(老人殺しウイルス)でもある。2020年2月1日現在感染者は世界で1万人を超え230人が死亡した。その多くが持病を持つ高齢者である。若年層が感染しても重症化する確率は低く子供も感染しにくい。要するに老人を襲うウイルスであり人口動態を正す為に生まれたウイルスではとも巷間言われる。小生もCOPD持病を有する。歳も74歳感染すれば重症化しやすい。
 2025年問題といわれ2025年には団塊世代が後期高齢者となる。国家予算のうち社会保障費が占める割合が増えこのままでは様々な点で困難が生じる。ここで多くの老人が死亡すればこの問題が少し解決に向かうのではというわけである。
 なるほどとは思うが自分がと思うとやり切れない。

韓国文在寅という男

韓国論議が盛んである。最近韓国映画二本を見た。「タクシー運転手」「ある闘いの真実」である。いずれも韓国民主化の歴史を語るときに最も重大な二事件を扱う。
それが光州事件と全斗換時代に民主活動家の抑圧と拷問事件という地濡れられた歴史である。後者は1986年-1987年のことで日本では浮かれた1990年代のバブルのほんのすこし前のことであった。盧武鉉と文在寅はまさにこの時代の申し子であり民主化運動の鉄の意思を有する男なのだ。朴槿恵政権の時代セオル号の沈没とローソクデモの中から韓国の民衆はあの光州事件て無残に死んでいった学生達や若者労働者達を蘇らせ、全トウカン時代の拷問で死んだ学生とデモの中警査隊の放ったガス銃で死んだ無垢な若き命の尊さを思い出したのである。
そして文在寅が大統領となった。この人権派弁護士には癒着もなければ政治的思惑もない。況してや韓国を取り巻く極端に困難な国際環境にも興味はない。あるのは永遠に軍事政権の暴走と金と反共に凝りかためられた韓国の歴史との闘いに尽きる。
かれは言うだろう。現在の指導者の中で一体誰が命を賭けて闘ってきたと言うのか。あのトランプも、プーチンも、英国やフランスの指導者も、況してや親の七光りの安倍では決してないと。
日韓の関係は決して解決しない。する筈がないのである。

最近日韓論

最近日韓関係の悪化についての論評が目につく。文在寅が大統領になって以来韓国からの反日活動が次から次へと繰り出された。慰安婦、レーダー照射、徴用工、Gsomia破棄の手継早の反日政策が採られた。
一方日本は半導体産業に不可欠な部品の韓国への輸出管理を名目に優遇国待遇を解いた。韓国では日本製品不買運動、ボイコット、韓国からの観光の抑制という現象となって露呈している。

小生も現役時、韓国に日本プロ野球の放送権契約の不払いで約2億円の損害を被った。韓国には日本に金を払う奴は馬鹿のやることだという精神が染み込んでいると後からいわれた。1910年朝鮮を併合。朝鮮は属国ではなく日本の領土となった。日本語が教育され、朝鮮人も日本人として徴兵の対象になった。

それから第二次世界大戦に敗れた日本は無条件で海外の領土を全て失う。おりしも1954年北朝鮮が韓国に攻め込む。米国が国連軍を盾に北に対抗し38度を境に南北朝鮮体制となる。

その後の冷戦の関係が悪化。米国、韓国、日本は互いに深い同盟国となり東アジアのバランスをとりつつあった

米韓の関係にもヒビが入ってきている。

余生の実態ー73.5

73.5ヶ月を生きてきた。同年齢の周りを見渡すと街には老人が目立つ。必死に散歩する老人達、ゆっくり休みやすみ歩く高齢者達。2030年には日本人人口の1/4が65歳以上となるという。最近では夫65歳、妻60歳が30年余生いきると仮定して2000万円の預金が必要と発表されて野党が100年安心年金制度はどうなったと自民党にせまっている。ところで私達周りの高齢者家族達はどうしているのだろうか?不安に苛まされているようには見えない。本当だろうか?どうもそうではないのだろうと思うのだ。実態は皆、心身の不安、経済的不安、孤独や生活費に困った高齢者が大多数なのが真実に近いだろう。

その他高齢者を巡る問題が世間を騒がす。高齢者運転事故、80-50問題(80代の親に依存する50代),孤独死、精神的疾患、老人性躁鬱症、これから益々高齢化に伴い生じてくる様々な問題が日本を覆うことになる。
充分だと推定した経済的な背景でさえ思わぬ病気や、家族の不測の事態で大きく変わってくる。老後の人生は計画したものにならない。終の住処と別荘も行けなくなったり病院が無ければ住めない。伊豆や軽井沢の別荘も売りものが目立つ。一方東京23区内の中古マンションの需要が目立つ。

かくいう私も吸いすぎたタバコの影響か近頃どうも体調が良くない。COPDの余生は60ヶ月程度とネットで調べるとあった。あと5年ということか?95まで生きると仮定した2000万円には何の意味もない。老後の生活になにが計画できるというのだろう。

老後の余生は何色としたらいいのだろうか?

2019年3月12日

題記期日を以って満73歳となった。亡くなった母は本当の誕生日は1945年の12月だと言っていた。戦後のドサクサで届けが遅れたそうだ。まだまだと周りは言うが本人から言うと子供頃の貧乏、6歳のときの腸捻転で大腸を何十センチかとった。あの戦後の時代に輸血をしながら半年の入院。よく生きながらえた。浦和病院という内科の病院と記憶している。勿論今はない。
衛生状態もひどい環境で赤痢で多くの児童が亡くなった。皆貧乏で舗装もされてない道路で子供野球をして遊んだ。夕暮れまで遊んでいるとご飯よと母親の声がした。内職しながら母親が夕飯を作っていた。さつまいもやどんどん焼きなどよく食べた。中学に上がると少しずつだが家庭の環境も上がってお弁当にも麦の量は減っていった。母親はそれでも子供のお弁当には気を使って白米の部分をおおくいれてくれた。
そして高校では日本育英会から月に3000円の特別奨学金をもらった。第1期から特別奨学金には試験があった。受験生が多くいたなかなか難しい試験だった。昭和33年のころの月3000円はとても大きかった。高校は浦和高校で優秀な生徒が多かった。大学は色々受かったがICUに行った。奨学金が大学からも出た。授業料は半額。その上日本育英会特別奨学金は最後の年には月に48000円をもらった。大学出の初任給が30000円の時代にだ。特別奨学金は半分返せばよかった。確か1980年頃一括で返した。
この奨学金制度を導入したのは岸信介。安保の岸だったがこの制度には本当に感謝している。現在の奨学金はもらうのは簡単だが取り立ても厳しく利子も付くと聞く。そんなの単なる金貸しだ。馬鹿な制度になった。
大学は至って自由で関東6部だがサッカー部に属し、一方英国人教授のハーディ氏演出で厚生年金会館でシェクスピアを演じた。じゃじゃ馬馴らしと空騒ぎの主役を演じた。大学3年の秋、小田実のなんでも見てやろうに渙発されたのかシベリア経由で放浪の世界旅にでた。途中フランスアルザスの県都のストラスブルグ大学に籍を置いたが結局青春の放浪だ。2年の放浪を終えて陸路でシルクロードを車で踏破し日本に帰り大学に戻り学生運動など新宿西口を騒がしたが就職しないと一生貧乏になるとの恐怖から広告会社電通に入社した。落ちていたら全く違う人生になってただろう。人生とはその時々のサイコロ次第だ。この会社は豪傑が多くて苦労したが自己実現が仕事と割り切ってなんでもやった。満鉄帰りや元憲兵隊長や特攻隊の生き残りや鍋島、薩摩、長州、津軽なとに所縁のある猛者がいっぱいいた。先輩の目立たない人が突然靖国神社の宮司になったり、後で聞いたら南部のお殿様の系譜だった。それでも青春を放浪しストラスブルク大学に籍を置きフランス語を喋る小生が畏れ多くも1979年電通のフランス、パリオフィスを開設した。やっかみも多かったが長くパリにいた。この時代のパリには有名人がゴソゴソ訪れ千客万来の接待が大変だった。ディナーを三席掛け持ちしたこともあった。当時NHKの磯村さんもいて電通のあったオッシュ通りの同じビルにいた。40の時に帰国したが新規事業をやれというわけで映像事業を始めJAL機内のエンタテインメントなどやり色々な映画やテレビ番組をプロデュースした。
取り留めなく書いたが要するに勲章ものもなくかつ法にも触れずに、ローマ法王からは手渡しで数珠をいただいたがまあよく生きてきたものだと思う。この間多くの同僚や先輩が若くして死んでいった。新しい時代のメインコピーやスポーツ、オリンピックから万博、日本の発展の陰に必ず電通マンがいた。今で言う過労死だろうが皆強制されて働いたのでは決して無い。自らの自己実現の為と世の中の時代を作るのは楽しく必死に働いた。
時代は変わったのだが生まれが1945年だろうが1946年であろうが激動の戦後と成長のこの時代に生きてこられて良かったとも思う。

人間万事塞翁が馬

禍福はあざなえる縄の如し。本年小生数え73となった。バラ色の日々の青春の旅立ちから半世紀。よく生きてきたものだ。カイバール峠の雪の絶壁では車輪ひとつの差で死を免れた。そのまま滑落していても発見されることもなく行方不明とされただけだった筈だ。今の私はなく周囲も存在せずこのブログもない。ユーラシアを一緒に放浪した友もすでに亡くなった。同じ景色を話すべくもない。このブログと写真だけがその痕跡を立証している。枕草子だ、徒然草は同じで平安時代の日記ブログに過ぎず大袈裟だが小生の50年前の地球散歩ーバラ色の日々ーの方が後世貴重になるかもしれない。そう思いたい。もう10年も経たぬうちに小生もきえてゆく。人間万事塞翁が馬。禍福はあざなえる縄如しとは正しく至言である。

オフエリアの川の流れのように

オフエリアが川の中に浮かんで流れてゆく。
人生がながれてゆく。だれも止められない人生の時間が。
人との出会いは一瞬で川の流れの柵で出会って目と目を合わせて手と手を
握り唇を合わせては過ぎて行くまぼろしのようだ。
時間を共にすることができたのは幸福だった。もう誰とも会えない
後ろから私を呼ぶ声がする。私の名前覚えてる?
バラ色の日々はもう帰ってこない。

ばら色の日々 50年後 あとがき(3)

思い出は次から次と止めどもなく湧いてくるものだ。1982年道路も凍るパリ12月だった。近代オリンピックをつくったクーベルタン男爵の名をいただくスタジアムで第2回世界女子柔道が開催された。この大会では52kg級で山口香が銀メダル、竪石が無差別級でメダルを取ったが巴投げの英国ブリッグズ、ベルギーの長身ベルグマン等の欧州柔道の躍進がめざましく映った大会となった。日本では大会模様はNHKが放映された。当時NHKのパリは欧州総局であって磯村氏がいたがこの大会の模様は確か秋山カメラマンがしっかり撮影していた。

主催するフランス柔道連盟には名前は失念したが猪熊のライバル柔道家がいた。実直な人で我々の注文にもしっかり対応してくれた。さて我々だが大会の実施には莫大な費用がかかるのだが、その費用を支えるスポンサーを集め始まって間もない女子柔道の世界普及のための放映を実施することだった。日本から同僚の中上氏がパリに長期出張して作業に当たった。スポンサーには小西六などの日本企業がほとんどだった。競技の行われるタタミの周りを看板が囲んだ。

確か48キロ級の優勝戦の時だった。二つあったタタミの場所が一箇所になる。タタミの周りを囲んだスポンサーの看板が片付けられようとされた。その瞬間だった。クーベルタン講堂の客席にいた中上氏がタタミに向かって走って行く。その模様はそのまま実況されている。中上氏は孤軍広告看板をタタミの周りに立てている。周りの関係者はあっけにとられていた。やがて競技は何事もなく進んで行った。
今は亡き中上氏が終わってから言った。[看板を守ることは大会を守ることと一緒だよ!]と。





バラ色の日々後書き(2)

実名を出してももういいだろうと思う。世界放浪の旅後の仕事の半生を綴りながら。横浜を出て横浜に着いた1968年12月以降の事だ。休学していた大学にもどって大学紛争で荒れた余波を縫って今盛んに話題の大手広告代理店に入社した。大阪万博の年だった。1979年には初代のパリ駐在として再度フランスに戻った。戻ったが放浪の旅路に場末のビストロで口にした安ワインと紫ムール貝ほどの美味を其の後味わったことはない。パリ滞在中で二つ思い出の仕事をした。一つが日本でのバチカン展の企画、二つ目が世界女子柔道パリ大会であった。実現中心のパートナー二人(前者古戸氏、後者中上氏)ともこの世にはいない。50代で夭折した。バチカン展は大成功でヨハネパウロ2世が長崎で殉教者を見舞った。柔道パリ大会では女三四郎(山口香)が活躍し其の後の日本女子柔道の先駆けとなった。故人の努力を少しずつだが故人に許しを乞いながら語って行きたいと思う。

バラ色の日々の50年後の後書き(1)

人生とは如何に短いものか。私ももう71歳。あと半年で72歳となる。子供の頃の記憶は新鮮でまるで昨日の事のように想い出される。ましてや1968年、横浜を発ってシベリア経由の世界旅の事はほんの半日前のようだ。今から50年前なのだが、人間の脳は旅先の食べたものの味、世界各地の匂い、風が皮膚を掴む感触、聞こえてくる様々な言語のやりとり、唇の柔らかさやルージュの色から、あたたかさ、まですぐに想い出すことができる神が与えてくれた天賦の器官である。コンピュータではこの間様々なメインテナンスが必要なのだろうが、人間の脳は肉体の存続する限り健康であれば記憶を保持されている。

バラ色の日々は1967-1969の足掛け2年の青春の放浪旅を綴ったものだがそれから50年経った今でもセピア色にはなっていない。眼前にある記憶である。

肉体の滅びる前にもう一度レビューバックしたいと思う。

曼荼羅カルカッタ

カルカッタ子供<




曼陀羅 カルカッタ             

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。

尚当ブログはAmazon KDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)にてネット出版されて購入できます。価額はUS$1ドル。タイトルは『我が追憶のシルクロード」です

 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。


ベナレシ
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生と死がいつも隣り合わせで、死が終わりでなく、来世の始まりとなる輪廻転生の曼陀羅都市ベナレシを早朝発ち、インド最大の都市カルカッタにむかった。カルカッタまでは680キロほどの道のりである。

三万キロ近くを走って未だに快調なエンジン音を出して愛車VWがインドの埃のたつ街道を走っている。街道には車だけでなく、人間がゆっくりと横断し、聖なる牛がそれ以上にゆっくりと横切ってゆく。側道では、犬が車をみて吠えているが、全く気をかけずに静かに長い白い髭をはやした老人たちが屋台の縁台で、チャイを飲んでいる姿が車窓を跳んでゆく。。
 
外の気温は30度近くねっとりと湿気が強い。これが冬だ。夏はどういうことになるのだろうか。今は一月末である。カーラジオから楽器シターのメロディーが流れている。時々小さな集落を通る。白装束のタバーンを巻いた男たちが腰をかがめて何かしている。よく見るとみな小用を足している。インドでは立ち小便の習慣はない。皆座って用を足す。ロータリーのような広場では中央に蛇口のついたバルブから水が出ている。そこで洗濯し、洗顔している群集がいる。ほとんど舗装した道はないから、埃で前が見えないが、そんなにスピードが出せないので危険なことはない。
 
それでもカルカッタに近づき始めると舗装された国道になって次第にスピードをあげてインド最大の都市に向っていった。
 褐色の濁流ガンジスに鉄橋が架かっている.それがハウラー橋である。これほどの鉄橋が突然現れると実際これまで走ってきた農村インドのイメージが壊れるほどだ。大英帝国がインドに架けた橋だが、なにを結ぼうとした橋なのか。搾取した黄金を運ぶ橋が現在はインドの貴重な橋として残っていた。夕日がガンジスの水面に映えていた。
 
早朝のベナレシをでて日が暮れかけていた。街が近くなると道にでこぼこができているのか車が揺れだした。次第に郊外から市中にはいってきているらしいが、暗いままで街の灯で明るくならない。街灯など全くない。通過する家の中からはローソクのひかりがもれている。インド最大の都市に電気がきてない筈はないから、考えた。そうか停電だ。電力事情が悪く停電でその需要に対応しているのだと解釈した。
 
それでも街の中心らしき辺りにくると明るくなったが、道路標識が読めなかった。読めたところで何処が何処だかわからないのだから同じだと諦めて、横に止まったタクシーの浅黒い運転手にこの辺で泊まれるホテルの場所を尋ねた。
「ヒヤリス・チャーリンギストリート。ゴートゥ・サドルストリート。」
サドル通りへ行けといっってるぞ。
「プリーズ ガイドアス」と言うと 
「フォロウミー」と言い残すとさっさと前を走り出した。
何度か道を右や左に折れると真っ暗なところでタクシーが止まった。そこがカルカッタ有数の安宿街のサドル通りだった。あまりにも真っ暗で危険そうな宿屋街にこの我々も怖気づいた。
「YMCA プリーズ」とヒリキが言った。
「オーケー、フォローミー」タクシーがまた走り出した。そして大通りに面した建物の前に止まった。
「ヒヤー、テンルピー ユーハフツゥペイ」運転手が言った。何か到着早々ぼられたが我慢してそれでも案内料と割り切って、ねぎって払った。
 建物はロンドンでよく見た古い建築物に良く似ていた。中に入ると髭を生やした親父風の管理人が受付にいた。本日空きがあるかどうか聞くと
「ユウハブ・ラック。バットオンリー・ドーミトリーベッド。」
個屋でなく大部屋でベッドがおいてあるところだけが空いているという。疲れていて個室でゆっくりして寝たかったがないのでは仕方がない。一泊十ルピー(350円)そこそこだ。大部屋に通されるとベッドに腰を落として寝そべった。天井に大きな十字のファンが廻っていた。

隣のベッドにはフランス語の新聞を読んでいるヒッピー風の西洋人がいた。
「ボンスワール」というとにっこり笑顔をつくった。西洋人の見知らぬ人に対する態度には見習う点が多い。自分が決して敵ではないという笑顔を必ずつくる。何処でもだ。
「今ついたのかい。どこから?」と尋ねた。
「車でベナレシから。十二時間かかったよ。」というと
「ボン・デュー」と答えた。懐かしいフランス語の驚きの表現だった。
「君はここは長いのかい」と尋ねると
「もう二ヶ月になる」という。
「カルカッタはそんなに面白いのかい?」と聞くと
「ノー・ウェイ」と初めて英語で答えた。他に方法があるかいというような調子に聞こえた。
 疲れていたが、まだ寝るには早いし腹が空いていた。外にレストランかないか聞くと、「レストラン?」と驚いたような声を出したが、ニタニタして
「シー・フアット」とわからないような答をした。あることはあるのだろう。シャワーを浴びる前に外に出た。夕方8時になるとさすがに涼しくなっていたが、湿気は強い。

「インド料理がないかな」捜すとそれらしき料理屋があった。店に入ると意外に客がいた。強い香辛料と揚げ物と牛乳の匂いが混じって異様な空気だった。とてもレストランとおいう雰囲気ではない。座るとでぶっと太った店の主人が寄ってきた。
「カリー?」と聞くので
「イエス」と返すと色々な料理を紹介したが、わからないので、
「ノット・ソーマッチ」と言うと
「オーケー」と言うと、メニューをもって引き下がった。
待っている間にビールを注文すると、インドビールらしい瓶を持ってきた。ビールの蓋が既に開いてていた。
「おいあいてるぞ」ヒリキが注意したが、喉がひりひりで、もう胃まで入っていた。これがくせものだった。その後二〜三日とんでもない下痢に悩まされたのだから。
料理が運ばれてきた。チキンのタンドーリ、ダールというカレースープ、チャパティというパンとこめの飯だ。いつも食べていたものだ。これは安心して食べた。右の指三本で食べた。指に蠅がたかってくる。はらってもはらっても蠅は次から次へとよってくる。蠅を追い払うのと口に持ってくる回数は同じ程度である。不衛生だから追い払うのでなく、蠅を間違って口にいれないように追い払っているのだ。ドーミトリーのフランスのヒッピーがニタニタしていたのがよくわかった。勘定をみると驚くほど安かった。
 
宿屋まで歩いた。暗い夜道に目が慣れてくる。来る時は気がつかなかった。暗い道の両側に人が蹲っている。無数の人たちが或る者は横たわり、或る者はこちらを見ている。老婆が物乞いの手をこちらに向けている。暗い路上に人があふれているではないか。目の前を白い装束の男が立った。暗い夜道に赤い目だけが異様に光っていた。
 
カルカッタは百鬼夜行の世界であった。あらゆる人間の姿がそこにある。路上は人間の生活の場所であり壁のない野外の家である。

雨がふれば雨にぬれ、風がふけば風に逢い、寒ければ互いの体で暖をとる。カーストのくびきに縛られ身動きできない最下層の民は路上をついの棲家とする。不思議に肌の色が黒くなればなるほどカーストが低くなると人は言う。本当かどうかわからないが、確かに路上の人たちの肌は黒い。闇の暗さと肌の色が交じると暗闇に人間が溶けだして一体となる。路上に人が一杯という表現は正しくない。路上の闇に人が溶けて漆黒の世界となっているのだ。旅人はこの漆黒の世界に紛れ込むと容易に抜け出すことが出来なくなるという。ヒッピーのフランスの青年もその犠牲者かもしれない。

そういえば半世紀前の我々の少年時代の日本も暗かった。ぼんやりと灯のともる野原で暗くなるまで遊んだ。道路は舗装されていなかったし時たま自動車が通ると砂ぼこりで目が痛かった。家の前の溝には生活排水が垂れ流しで黒いペンキが塗られた木のゴミ箱に生ゴミが腐っていた。冬は寒く、練炭のコタツで一家が暖をとった。夏は暑くアイスキャンディ売りが声をあげて町内を自転車で走っていた。皆が少しでも豊かな生活をめざして働いた。戦争ですべてを失った人たちは平等に貧乏であった。
 
眼前のカルカッタには階級が人々を縛っていた。いかに努力しても報われないとしたら人間はなにを目指せばいいのだろう。ここまで不幸せで、ここまでして人間は生きてゆかねばならないのか。
 
ヤギの首を切断しその首をカーリー神に捧げて経と祈りの儀式をおこなうカーリー寺院がある。斧で首を切られたヤギの胴体はしばらくはぴくぴくと動いている。解体された胴体と肉は路上の民がもってゆく。せめてもの神の恵みがある。まだ人間を犠牲にして神に捧げないだけましなのであろうか。
 
その夜、強烈な下痢で何度も何度も便所とベッドを往復してカルカッタの最初の夜が白々とあけていった。
 我々には一日一ルピーで下男ともいうのだろうか、長身のインド人がついていた。泊まると自動的に世話をやいてくれる。ひどい下痢状態を見て薬を買ってきてくれた。地元の薬で丸薬のようだったが、飲むとそれが効いた。

少し楽になって翌朝から近くのツーリストインフォメーション事務所にカルカッタ以降の道路事情を尋ねにでかけた。
事務所に入ると、インド人特有の彫りの深い美人が対応してくれた。名前をマンジュラといった。見事なブリティッシュイングリシュを話す上流階級出身のようだった。
「フロム・カルカッタ ノウ・ロード ポッシブル」ダッカまでは可能だがビルマも中国も国境を閉ざしていた。カルカッタで袋小路に入ってしまったのだ。
「ゼン・ハウキャン・ウイデゥ?」
「ユウハフ・テゥフライ」日本へはビルマを越えて、飛行機で飛ぶしかない。では愛車VWをどうするか?捨ててゆくわけにもいかない。相談するとマンジュラが言った。
「ユウ・トラストミー?」三人は美人のマンジュラに頷いた。

その日の午後からマンジュラがカルカッタを案内するといって我々を連れまわした。なんといって事務所から外出の許可をとったのかわからないが、楽しそうに案内をした。カーリー寺院、ウィリアム砦、ビクトリアメモリアル、ビルラ寺院、なんとかいうジャイナ教の寺院、それに動物園まで、もういいよとも言えずまわった。正直言ってカルカッタには英国の影響のある建物が目立って余り興味を引くところはなかった。

こうして物憂げだがなにも特別でなくルーティーンで安楽でベッドに横たわっているといつまでもねむくなるカルカッタの生活がだらだらと過ぎていった。側には下男のジャディムがついていて食べたいものをすぐ買ってきてくれたし、タバコは一パイサ(15銭)で一本づつでも買えた。ジャディムはカルカッタから10キロも先の農村にすんでいたようだが、毎日歩いて通ってきていた。我々のほかにも担当する客がいるようだった五人いたとしたって一日五ルピー(75円)にしかならない。浅黒いが長身で気がよかった。カルカッタに逗留してもう十日が過ぎようとしていた。そのうえ、意識のない内に1968年が明けていた。毎年行く年と来る年を祝えるのは安定の象徴以外のなにものでもない。

朝ジャディムが我々を揺り動かした。                     
「受付にマンジュラという娘が待っている。急用だそうだ」
「わかった。すぐ下に下りると伝えてくれないか。」そういって身支度して降りてゆくと、
「インド政庁が貴方達を至急よんでいるの。わるい話じゃない。早くして」マンジュラが言った。
「そう。車の件でね」マンジュラに任せた愛車VWの話のようだ。インド政庁は車で十数分のところにあった。マンジュラは怖ろしそうな衛兵の立つゲートをなれた雰囲気ですいすいとはいってゆく。朝のチャイを嗜んでいる官僚のオフィスの廊下を右に左にかきわけ挨拶しながら進んでゆく。するとどん詰まりの高級オフィスのドアをコンコンと叩いた。中から
「カムイン」と男の声がした。
「アイケイム・ウィズ・マイ・ジャパニーズ・フレンズ」とマンジュラがいうとドアが開いた。40代の恰幅のよいインド紳士が立っていた。
「サンキュウ・フォ・カミング。アイアム・インスぺクション・オフィサー。」と自己紹介した。カルカッタ市の警視にあたるオフィサーで名前はマハンソンという。
「ヒー・イズ・マイ・アンクル」とマンジュラが紹介した。オフィスのなかに招じ入れられた我々にマハンソン氏がソフトにゆっくりと英国英語で話しかけてくる。

「お願いがあるんですよ皆さん。皆さんの愛車をどうなさるんですか。マンジュラがもうご説明したと思いますが、カルカッタからはもうバングラデッシュまでしか車ではいけません。当カルカッタの街路に乗り捨てられても三日か四日で廃車寸前まで略奪されます。売ろうにも闇では罰せられます。そこでです。皆さんの車を救急車としてインド政府に寄贈ねがいたいのです。ご存知のように現在カシミール紛争が続いています。赤十字の車が足りません。如何でしょうか。」丁寧に話が終わった。
「勿論、そのお礼として皆様にキャセイパシフィックの航空券をつぎの目的地まで差し上げます。日本までお帰りであれば日本までです。」と顔の表情を緩めた。

三人は顔を見合わせてみたが答はもう決まっていた。もうそろそろこのカルカッタを出よう。ここにいると人間がだんだんと横着でも怠惰でもどんなことでも許されてしまうカルカッタ奈落に落ち込んでしまうような気がした。
 
百鬼夜行の世界。カルカッタの路上は足の踏み場もない。路上にはありとあらゆるものが売られている。通りは物乞いであふれている。片腕の男、片足の男、盲目の老女、いたいげな体をうる少女、蹲る黒い無数の人影。ある人は「カルカッタは人間のジャングル」と言った。路上の民は輪廻転生を信じる。彼らに迫りくる死は終わりを意味しない。死は転生するのだ。現世が苦しければ苦しいほど新しい生が待っている。日常の死は悲しいことではない。『よどみに浮かぶうたかたはかつきえかつむすびて久しくとどまることなし』。
 
徒然なる空蝉の現世はやがてあの曼陀羅の来世を約束する。

 カルカッタ・デゥムデゥム国際空港に三人がいた。ヒリキは日本に、ゴジーはバンコクからカンボジアに、私はもう少しマカオに寄ってみることにした。ゴジーこと馬渕直樹は戦場のカメラマンとしてプノンペン落城を記録した名うてのジャーナリストとなったが2012年没した。斯く言う私は1970年電通に勤務してパリ支局を創設、後、黒澤最後の作品「まあだだよ」やユニバーサル映画で高倉健とトムセレックが共演した『ミスターベースボール」などの映画に携わった。もうすぐ古希となるが、2002年退社して現在富士山麓の十里木で築窯して焼物にいそしんでいる。ヒリキとはその後45年全く会っていない。横浜の中華料理のオーナーとなっているとかの情報を友達から聞いた。人生は斯くもいろいろでわからないものだが来世にはまた会う機会もあるだろうか。




 

あとがき
     青春と芸術
 もし 昔日をとりもどせるなら
 あの街角に一緒に棲んだあのときを
 君は家先の雀のように、
 私は孤独な羽毛を羽織っていた
 誰も君をデゥンスと呼ばず、私はおとなしくしていた
 一度きりの昔日は失われて
 永遠にもどってこない
             ロバート・ブラウニング 〔著者訳〕

一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を一年有余放浪し、シルクロードを車で横断した。今から四十年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、よっぽどの家庭でないと私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦桟橋から日本を離れる時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 
現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルの方向に向うかだけの違いである。
 
世代という違いもある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時が解決してゆくのかも知れないとも思う。


         




カルカッタ(ホーラー駅)に子供達が住んでいる。
子供達は新聞を集め、空き瓶を集めて売り生活している。
現在フランス人が中心になりLes Galopins deCalcutta)協会が子供達を救う活動を展開している。
団塊文庫もそのお役に立ちたいと願っている。

カルカッタ子供カルカッタ子供

曼荼羅 ベナレシ

終章 曼荼羅 ベナレシ
これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。


ベナレシ
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終章 
 曼荼羅・べなれし

 デリーからベナレシに向っていた。

 ベナレシは聖なるガンジス河沿岸にある古都である。手前に架かる長い鉄橋をわたるとその都の姿が目にはいってくる。何層にも低層の建物が重なって街を構成しているようにみえる。ガンジスは少し濁っているが、悠々と流れの渦をつくっていた。滔々と流れているが、底の流れは急流のように速いという。

 その急流にはまると死体はベンガル湾まで浮かばないことがあると聞いたことがある。

 ベナレシはヒンズー教の聖都である。それよりなにより人生を一瞬にして垣間見たいと思わんものはベナレシに来ればよい。ベナレシの何処でもそれは経験できるのだ。

 栄養失調気味の女の子が物乞いによってくる。背中には更に栄養失調の赤子を背負っている。インド中から瀕死の重病人がここベナレシで焼かれるために運ばれてくる。ガンジスで清められた死体はガーツに運ばれて火葬され、また聖なるガンジスに流される。骨にまだついた肉は空から鳥がついばむ。その鳥を人間が食い、エネルギーとなってまた新たな命をつないでゆくのだ。

 三島由紀夫は『暁の寺』のなかでこのベナレシを「人間の肉の実相。悪臭、病菌、屍毒、ベナレシは華麗なほど醜い一枚の絨毯」と形容している。
 
 我々は三十あるガンジスにおりる階段(ガーツ)のなかで大きな菩提樹がある宿屋をとった。どこでも巡礼の客で混んでいた。

 毎年巡礼者は全インドから百万人以上のヒンズー教徒が訪れるという。ヒンズーの様々な儀式を行う祭司だけで三万人以上いるといわれている。宿屋は巡礼用で多くのヒンズー教徒と一緒だった。草鞋をぬぐとすぐにガンジス川にガーツにそっておりていった。

 ベナレシで臨終を待つ人々は夥しいらしい。ヒンズーの教えではシヴァとその妃ドルガの恵みでベナレシで火葬され、遺灰はガンジス河に散布されると天国にいけると広汎に信じられているという。
 
 ガンジスにでると河まではすぐに入れるよう海水浴場の岸状態で入水し易くなっている。河はとても汚い。汚物が浮かんでいる。そこで老人は髪を洗い、歯を磨きうがいをしている。

 目の前をサリーを着た婦人が河に入っていった。薄着なサリーが次第に水にぬれてゆく。肌寒い水をあびて祈っている。サリーがピタリと肌に吸い付いて女体の輪郭が現れている。そばには沐浴し、洗顔し、洗濯をしている男がいる。岸の岩場にはヨガのポーズをとる哲人が瞑想していた。

 ガンジスの汚濁しているがその豊穣な緑色、キラキラひかる黄金の飾りのついたサリーの色、遠くから上がる赤い炎と白い煙、白い装束の男たちの群れ。色彩の人間サーカスが眼前にある。

 ショックを受けた頭脳と感覚が慣れてくるとよりはっきりとその有様が認識できるようになる。河の中域をぷかぷか浮かぶ白い布にくるまれた物体から人間の足らしきものがはみだしている。はみ出した脚に鳥が寄っていた。その先をみると岸壁が炎に包まれていた。
いやそうではない。屍が火葬されていた。多くの旅行客と野次馬が野辺の見送り客である。花束と白い布に包まれた屍が炎のなかにある。ダリが描くシュールリアリズムの絵を見る感じがする。赤い炎のなかから布からはみでた足がでている。しばらくすると骨灰と燃える薪が白い塊となって空にむけて飛び立っていくように見えた。

 香材と石炭と肉が焼ける匂いで野犬が吠えていた。正に驚くべき光景が眼前にあった。火葬の側の岸辺で子供が衣類を洗っている。火葬された灰が干している衣類の上に舞っていた。哲人が岩礁からこの光景を静かにみていた。

 しかし、この現実をどう説明することができるのか。

 強烈な感覚の混濁か。盗視症状か。既存道徳の崩壊か。それともただ驚くばかりなのか。なにも言葉が出ない。まさに天国と地獄が織り成す曼荼羅であった。
benaresi

歴史上の多彩な人との邂逅

 閑話休題
シルクロードの話を少し脱線しますが、1969年にシルクロードをへて帰国した私は大手広告代理店に入社しました。その後いろいろな仕事をしました。そのなかでとても普通ではお会いできない人たちに邂逅することができました。感謝感謝です。
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 シルクロードのたびの途中ですが、シルクロードで経験した何かが人生の糸となりこよりとなって多彩な人たちとのめぐり合いにつながったものと思います。

 若者よ旅にでよ!と言いたいのです。 

jean paul  II

 生来オープンで物怖じしない性格な所為か本当に多くの偉大な人々とお会いすることが出来ました。思い出の人びとを上げてみました。(1970年代から2002年)敬称略

 1 ジャックシラク (当時パリ市長)2 故笹川良一 (ニース市祭典にて)3 ローマ法王 故ヨハネパウロ2世 (故田丸電通社長シルベスター勲章受賞随行) 4 長島茂雄 (パリにて数度) 5 シャルルアズナブール (ニース アクロポリス国際会議場竣工式典と夕食会)6 故佐藤 文生(自民党広報委員長) 7故 ジャックメディサン (ニース市市長)8 故ニコラ トラサルディ (トラサルディ社長 友人)9 加藤重高 (陶芸家)瀬戸で 10 故黒沢明監督(まだだよ製作)11 ビムベンダース (映画製作)何回も映画について話した12 宮崎駿 (映画製作)プリンセスもののけ 13 ソルベイグドマルタン (女優)フランスの女優 14 カトリーヌドヌーブ (女優)CF 15故 松本清張 (取材) 16 故松本弘子 (マヌカン)カジノ 17 故ピエールカルダン (デザイナー)将軍展開催18 故フランソワライシェンバハ (フランス著名監督 テレビ番組芭蕉製作) 19 クロードルルーシュ(Avenue Hoche スタジオにて) 20 ロリンマゼール 夾竹桃カンタータを創作したいと話した 21 故ホルストダスラー (アディダス社長)ICL創設 22 フランツジョセフ (リヒテンシュタイン)故篠田理事長と 23 デビスカルノ 24岸恵子 (CF撮影) 25 篠田正浩 26故山村聰(CF撮影) 27故 勅使河原宏 (監督)よく食事した 28 故荻須高徳 (画家)パリでよく話した 29 ジェラールガルースト (絵描き) 30 ジャックモーリス (当時フランス大使館公使)31 青木功 (CF) 32 ジャッククルティーヌ (世界柔道連盟)33 故猪熊功  (柔道)カジノにお供した 34 故松前重義(東海大学総長) (柔道)35 アランシャリエル (南仏ボーマニエール オーナーシェフ) 36ピーターユベロス(LA オリンピック)37 久保田一竹 (友禅) 38 そめのざ玄才 (友禅)39 <故石井宏基 (故衆議院議員)マージャン友達だった40 故中山素平 (ウィーンでのOPEC取材)41 故星野仙一 (ミスターベースボール 撮影) 42 高倉健 (ミスターベースボール 撮影) 43 トムセレェック( ハリウッド映画ミスターベースボール監督) 44 故伊丹十三(映画監督) 45 田崎真也(ワイン撮影) 46 ジャンジャックベネックス (監督)友人としてよく話す。 47 リュックベッソン (監督)49 緒方貞子 (大学の恩師) 50 故エドモンド ブランデン (詩人)恩師の恩師 51  52 倉本昌弘  (番組撮影) 53 岸田邦夫 (彫刻家) 54 並河万里 (写真家) 55 牛尾二郎 (経済) 56 ジャックラング (当時フランス文化大臣)57故小坂徳三郎 (ニースにてテニス会議) 58 ソフィーマルソー (女優)59 故ジョルジュドンヌ (舞踏家) 60 故モーリスベジャール (舞踏家) 61 マルセルマルソー (パントマイム) 62 故松村達雄 (まあだだよ) 63 香川京子 (まあだだよ)64 故徳間康快 (プロデューサー) 65 故栗本信實 (写真家) 65シュテファン リップ (写真家) 66武田秀雄 (漫画家) 67 トミーウンゲラー (漫画家) 68モーリス メッセゲ (ハーブ研究の父)69 辻邦生 (芭蕉番組監修) 70 ロジャーコーマン (ハリウッド プロデューサー) 71 エドワードプレスマン (ハリウッドプロデュサー) 72 故アンドレビレ (ピカソ 写真家) 73アランドロン (CF)74 故ポールボキューズ (料理)75 故白柳大司教 (バチカン展) 76 故水島元そごー会長 77
レオンリー (元ロッテ野球選手)78 ジュリードレイファス (女優) 79 ジャックアタリ 80 故イブモンタン(パリでのパーティで一度)(81)故淀川長冶(JALの仕事で)

 中でも写真にもありますがローマ法王、ヨハネパウロ2世にお会いできたことは大変得がたい経験となりました。1980年代日本で開催されましたバチカン展は大成功に終わりました。日本でバチカンの宝物を展示する計画があるとの情報をパリでつかんだ私は早速今は亡き社内の旧友であるF氏に情報を送りました。F氏はその真偽を探りにすぐパリに飛んできました。二人はすぐローマのガルタ神父に合いにローマへと飛んだのです。
 ローマには当時日本から留学していた塚本神父等がいて情報把握につとめてくれました。その後話として公に出来ない事などがありましたが、日本でのバチカン展までこぎつけられたのです。そごーでの開催となりました。この種のイベントは通常国立美術館でやるのが普通ですが百貨店での開催は異例でした。そごーはこのために横浜店に本格的な美術館をつくってしまったほどでした。
現在ダンブラウンの「ダヴィンチコード」が話題となっています。その中で法王の夏の別荘である「カステルガンドルホ」が舞台となっています。日本で開催されたヴァチカン展の成功に対してヴァチカンからその功労者にシルベスター勲章が贈呈されることになり私も随行としてカステルガンドルホのなかに入ることが出来ました。随行ですから待合室で贈呈式を待つ身でしたが、突然待合室のドアが開き法王が現れたのです。「神に感謝、神に感謝」と日本語で唱えながらシシャクをふりながら私を贈呈室にと招いてくれました。部屋に入ると贈呈式が始まり勲章が功労者に贈呈されました。私は皆様の末席で贈呈式を拝謁していました。そのときです。法王が私の前に歩まれて、ロザリオを下さったのです。写真はその時のものです。緊張した瞬間でした。

暗闇に浮かぶ人間の真実

カルカッタ子供

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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暗闇インドの真実
 パキスタン第2の都ラホールから国境の街ワガからインドに入った。1968年当時、印パ状況悪化で国境はものものしかった。銃口を斜めに持った兵隊が検問している。東洋ジャパニの貧乏学生が何故外車VWに乗って何処に行こうとしているのかが検問で何度も問正された。
 
「フーアーユウ?ホエアユーゴー?」とインド訛りの英語で聞いてくる。
 
「ジャパニーズ スチューデンツ.リターン ツー ジャパン」と答える。
 
「パスポート」
 
「オープン ラゲッジ」
 
渋々「オーケー」の繰り返しを何度も経験する。
 

 彼らが調べているのはパキスタンから何の目的でインドに入国したのか?、怪しいものを携行していないか?で、日本人の我々自体には興味を示さなかった。
 
 インドに入って本当に驚いた

 トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと中央アジアを通過してきて涸れた風景に慣れた我々の目に突然「緑」が飛び込んできたのだ。

 インドには木々の緑と畑や水田に野菜と稲の緑があった。自然はなんという条件の変化を人間に与えているのだろうか。パキスタンではめったに見ることがない水牛や鶏が木々の陰で休んでいる。遊牧の民と農耕の民、一方が戒律のイスラムの世界であり、一方は慈悲の仏教の国である。

 2010年現在BRICSと呼ばれる新興諸国の成長が著しい。特に人口14億人の中国とインドはもはや世界の今後を左右するほど注目されている。インドでは米国カリフォルニアのシリコンバレイと併記されるほどのムンバイの発展がある。40年ほど前私が旅したインドからは想像もできない。世界は変化する。特にその経済的、社会的発展の変化は暮らす人間の生活を変貌させる。映画「スラムドッグミリオネアー」に描かれたインドは強烈だったが真理を描き出した。
 


 日本を出てもう一年半になろうとしていた。

 1967年芝浦からロシア船でナホトカに渡りシベリア鉄道でモスクワから夫々の目的をもって過ごした欧州、車でユーラシア中央アジアを横断してきた旅もはるばるインドに来ている。三鷹市長選と、現業ゴミ収集のアルバイトで貯めた500ドルと現金10万円を手に何でも経験してやろうと出た旅も、木々の緑と水田の風景のなかにモンスーンアジアを感じ取ることが出来たし、次第に帰りつつある日本を意識した。 

 我々はインドの首都デリーを目指してスピードを増した。アムリトサール、ジャァンダール、アンバラ、カルナル、パリパットの街を経過したが余り覚えていない。

 旅した今は12月。なのにインドの太陽はギラギラと大地を照らしていた。途中の街で食事をとった。そこがどこの村であったか覚えていないが、或る食堂に入った時の印象は強烈だった。食堂にたどり着く前に用を足しに入った便所に驚いた。大きな糞の池だった。池に板がわたしてある。板の上に座って用を足すのだ。糞が落ちると池からお釣りがかえってきた。大きな糞池だった。

 食堂は池の側にあった。食べるものと出すものが並存する。食べるものにたかる銀蠅をインド人はものぐさそうに追っては食べている。我々は顔を見合わせてどうするか考えたが他に食べるものはない。まだデリーまでは遠い。主人に頼んだカレーが運ばれてきた。野菜のカレーにパチャティ〔インド風パン)と乳酸飲料みたいなダヒーがきた。当然フォークも箸 もない。右手の三本の指を使って食べる。カレーは思ったほど辛くない。それよりたかる蠅がうるさいし非衛生だと手で追っていたが、料理する厨房の状況を思うと蠅を追う気持ちも失せた。
 これほど人馬一体、自然のなすがままとは思っても見なかった。インドは驚きの国だ。

デリーまではパキスタン、ラホールから約6から700キロの距離であった。
 夕方ガンジス川沿いに進むとインドの首都らしい街についた。暗いとにかく暗い街だった。中心街らしき方角に進んでゆく。大きな石の建物が暗いなかに浮かんでいる。それがデリーの中央駅だった。今日泊まる宿を探した。宿屋らしき建物がある横丁にゆくと宿屋の主人が呼び込みをしていた。一泊40から50ルピーで2人部屋があった。冷水シャワーをあびて、マットは硬いが疲れている体にはなんの問題もない。横たわると、とたんにグーグーと寝た。

 次の日、目を覚ますと表通りの喧騒が聞こえる。すぐに自分がどこにいるのか朦朧としていて意識できなかったが、壁にかかっている極彩色の仏陀像のポスターを見て嗚呼そうだインドだとやっと気付く。となりに寝ている2人を起こして表に出た。
 
 インドの首都デリーの目抜き通りらしいところを目指したが、一体どっちが北か南か見当がつかないばかりか、道路に座ってこちらを見ている人たちの姿と白い装束と汚れて黒くなっている白いタバーンの男達、脚をだして貧相だが力のありそうなリキシャの男達、ただ行き交うようにみえる群集に気圧されて近くのチャイ屋にはいるのがやっとだった。
 
 茶は中国とインドが発祥だが、その逆の道を来た。西からティー、テー、チャイ、チャとなった。インドのチャイは紅茶,砂糖、ミルクを鍋で熱々に煮たものである。暑い気候にこの甘くこってりとした熱い飲み物は本当によく合った。
 
 フーフー言いながらチャイをすするとなにか有意義なことを考えることが出来た。人間は食物を口にして噛みながらものを思うことが多い。食べるという人間の最大の欲望を満たしているとき、また同時に霊長類に許され与えられた脳細胞を駆使してものを思うのだ。胃と脳はダイレクトにつながっている。生殖行為もそうである。人間は生殖行為をしながらもあらぬ妄想にしたることが多い。インドはそのような人間の根本について考えさせる。

 インドの通貨はルピーだが、1ルピーは100パイサで1パイサは30銭というところだったが、このパイサは使いでがあった。街には1パイサでタバコの葉を巻いた細いタバコが買えた。これが以外とうまい。チャイは20パイサで飲めた。5円であった。
 
 舗装されていない道路の砂埃が絶えず巻き上がっていたが、吹く風だけが濃密で饐えた匂いのする街の生活に生気を与えているようだった。昼にはカレー料理を食べた。野菜のカレー、タンドーリとよばれるチキンカレーなどと、チャパティー、ダヒー、タマネギのスライスを一緒に食べた。それでも50円かそこいらであった。
 
 街を歩くとそこいらじゅうから人が寄ってくる。脚の不自由な老婆が手の平を差し出して、物乞いをしてくる。それも小さな子供を背にしょっている。振り切って20メートル歩くとまた同じである。ルピーの両替人が寄ってくる。

 チェンジマネー?」

 「ユーアメリカン、チェンジマネー?」

 「ノー、ジャパニーズ」
 と言うと怪訝な顔をした。彼らにとってジャパニーズもアメリカンも同じだった。要するに外貨ドルを持つものと言う意味なのだ。

 私は1946年の3月に生まれた。敗戦の翌年である。記憶に上野のガード下がある。傷痍軍人が白い病院服を身にまとってアコーデオンを弾いていた。浮浪少年たちがたむろしていた。実際の記憶なのかそれともその後みた写真や映像から蓄積されたものかはわからないが、私の脳内に深く刻まれているのは確かだ。デリーの物乞いは敗戦直後の東京の街を思わせた。


 「ワンダラー、15ルピー85パイサ、オーケー?、オーケー?」と言う。1ドル360円の時代であった。約16ルピーとなると1ドルが560円となる。それでも両替人に利益が出るのだ。大概の両替人はボスに雇われた使用人だが手数料がどのくらいはいるのだろうか。我々でも切り詰めれば一日1ドルで食事をまかなえるほどだから手数料収入もたいしたものではないだろう。
 
 夕方3人はデリーに入る前に渡ってきたガンジスにかかる鉄橋まで車を駆った。鉄橋に出るとガンジス河に赤い夕日が映えていた。夕日は貧しいが懸命に生きる人間たちの深層を映し、頑張っても浮かび上がれない人間のいることを詫びるかのようにガンジスを照らしていた。 

 街にもどって宿屋に帰ろうと歩いていた時だった。真っ暗な道だった。前に進もうとする脚が動かない。ひっぱっても抜けない。暗い夜道に目を凝らした。目だけが見えた。多くの人間たちが道路に寝ていた。その中の一人の老婆が足を捕まえて離そうとしない。手の平をこちらに向けていた。背中にぞぞげが走った。密林のなかで気味の悪い蛇にあったかのような悪寒が走った。当時日本も貧しかった。戦後の時代に少年時代をすごした我々もその貧しさを生きてきた。しかしこの貧しさは何なのか。貧しさの程度が違った。貧しさの地獄を暗闇のなかにはっきり見た。
 

パキスタン第二の都市ラホール

 パキスタンの古都ラホール
これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 カラコルム山脈はラホールから100キロ北方にある。7000メートル級の山々が聳えている。新首都イスラマバードを早朝発って夕方にはラホールにいた。約280キロの距離だが何回かの検問と道の不案内で少し時間をとってしまった。
 
 ラホールはパンジャブ州の都でパキスタン第2の都である。ムガール帝国の文化を色濃く残している。ラヴィ河に望みインドとの国境の街ワガが隣接している。現在では1000万人以上が住んでいる都市だが、1968年当時は約400万人が住む都だった。1849年から1947年までイギリスが統治していたため、ヴィクトリア王朝文化の影響がみられる。訪れた11月の末はもう完全な冬で気温零下の日がつづいていた。聞くと夏5月、6月、7月には摂氏45度から50度になる日があるという。
 
 ラホールの記憶はやはり旧市街の印象が強い。バザールや職人街が軒を連ねる旧市街バザールは中近東のバザールと違い観光づれしていない。全く現地の人たちのためのバザールでイスラムの女達が身にまとう黒い覆いの数々までが売られていた。

 我々は旧市街にある300年以上の歴史をもつクークード・デン(Coocoo'd den)キャフェでチャイとパチャティのシンプルな食事をとった。座ると大モスク(バードシャヒー)が見えた。
 
 中央アジアを行く隊商の民に古い格言があるとキャフェの主人が教えてくれた。

 「座っている人間はベッドの敷物みたいなものだ。体を進めるものは悠久の河の流れに似ている」。

 人生は動作にある。旅をする、そして外の世界を知ることは進歩へと人を誘う。

 人間の歴史のなかで最も重要な道はローマと奈良を結ぶ道だそうだ。ある歴史家が言っていた。

 ドイツの歴史家がユーラシアの東西を結ぶルートをシルクロードと名づけたのは18世紀になってからだ。

 紀元前4世紀アレグザンダー大王が東征し、紀元前2Cから1Cにかけてローマの貴族がいたって好んだ絹織物が踏み分けた道、それがシルクロードである。

 シルクロードは従って、一本の道ではない。多くの道が面となって東西をむすぶネットワークとなっていった。唐の時代、中国長安から、ゴビ砂漠、タリム盆地、東トルキスタンを経過し天山山脈、フェルガナ渓谷、タシケントからサマルカンド、ソグディアナ、ブカラ、コレズム、そしてカスピ海に至る。サマルカンドからはバクトリア、カシガダヤ渓谷、テルメス、カブール、ヤルカンド、ペルシャ、シリアそして地中海に至るルートである。
 
 悠久の歴史のなかで、数々の巡礼が、学者が、冒険家がこの道を辿った。中国の僧玄蔵が、ベニスの商人マルコ・ポーロが、アラブの僧アクマド・イブン・ファドンが、ババリアの戦士シルト・ベルガーが、ハンガリーの冒険家アルミン・ヴァンベリが、スエーデンの地理学者ヘディンが、ロシアの科学者アレクシ・フェドチェンコが、スイスのジャーナリスト、エラマイヤトルが、米国の地理学者ラフアエル・パンペリが、フランスのジョゼフ・マルタンが、シルクロードを辿り研究してきた。

 敦煌、ブカラ、テルメスなど壮麗な文化を誇ったシルクロードの遺産はいまやその往時の姿はとどめていない。遺跡は砂漠に埋もれ、廃墟となって後世にその文化を伝えるのみである。

歴史の生き証人ペシャワール

 訪れたのはほんの50年前だった。 
 それから今までたった50年間でさえこれだけ歴史に翻弄された都。古代花の都といわれシルクロードの中心都市だったペシャワールpeshawar mapkhaibar

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 世界の難所といわれアレクザンダーの東征をも困難にしたといわれたカイバール峠を虎口余生からがら越えてパキスタンの西北の歴史都市ペシャワールについた。

 
 いまだからこそ多くの人達がペシャワールを旅してきているが、45年前はそうではなかった。確かにペシャワールはシルクロードの東と西と結ぶ中心都市として栄えたがシルクロードは限られたノマドや商人達の往来する経路で決して一般の民がゆききするような道ではなかった筈である。何故ならこれだけの難所が続く道がそう簡単に一般の民のためであったとは考えられないからである。

 夢や黄金を求める輩か覇権を握る生存競争の道であったに違いない。古代の道は現代の道ではない。古代の道は闘いの道であった。超えなければならぬ命の道であった。そしてペシャワールはこの道からギリシャ、ペルシャ、オスマン、ムガール、トルコ、ソヴィエト、タリバン、アメリカと戦乱の舞台となり歴史のなかで翻弄され続けてきた。カブール川がつくる渓谷がペシャワール平原になり川が何筋かの支流を形成してオアシス都市となった。季節は夏と冬。40度の夏と10度前後の冬である。

 2001年米国ブッシュ政権はアフガン侵攻を開始した。9・11に対するテロ集団とその首領ビンラディン攻撃である。連日CNNがアフガン侵攻を報道する。カブール、カンダハール、ペシャワールは一夜にしてラスベガス並みに世界中で有名な街となった。30数年前に旅して忘れかけていた懐かしい街の名前だった。当時の平和でのんびりとしていた町並みが浮かんだが、一瞬にして闇をつたう砲声と爆破の光の映像報道の前に断ち切られた。毎年何万というアフガン難民がこのペシャワールに流入してきているという。
 
 日本にペシャワールの会があるのを最近知った。日本人医師が毎年16万人もの病人を診察しているという。この活動を12500人の会員がサポートしていると言う。日本人も捨てたもんではない。ホームページをみると「誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」とあった。
 

古への華の都を発つ

    パキスタンの首都ラワルピンディ・イスラマバードに向う。
 1968年タイム誌イスラマバド

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



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 朝もやのなか東西シルクロードの中心都市といわれたペシャワールを発った。

 目指すはカラチから新首都となったイスラマバードと隣接するラワルピンディである。
 
 当時のパキスタンは絶大な権力を握っていたアユブ・カーン大統領に対するデモや暴動が頻発する不安定な状況であった。イスラマバードへの道すがらでさえ政府軍やデモ指導者に交互に何回も車を停められ、そのたびにパスポートを見せて説明を要した。
 
 アユブ・カーンはパキスタン最初の将軍であり陸軍元帥であった。1958年から1969年にかけてパキスタン大統領として米国と連携、冷戦状況の中でソヴィエトに対峙する前線国家としての戦略をとった。当時米国から援助される物資と金額はパキスタン国家予算を超えたという。
 
 カーンは1960年首都をカラチからイスラマバードに移し中央集権国家完成に着手する。首都のグランドデザインをギリシャの建築会社ドキシアディスに依頼した。
 
 どこでもいつでも、「奢れるもの久からず」である。彼の統治のターニングポイントが迫る。それが1965年のインド・パキスタン戦争である。この戦争はインドに対してよりも小国パキスタンに大きな打撃を与えることとなった。そして「タシケントの協約」が結ばれる。パキスタン側の不利な協約はアユブ・カーンの威信を損なうこととなる。不満が国中に満ちてゆく学生、労働者や一般市民までが連日のデモを起こしやがて暴動に発展していった。
 
 一方アユブファミリーの隠された隠匿財産が暴露されてゆく。末期であった1969年には息子のゴハール・アユブが隠匿していた金額4百万ドルが暴露された。
 
 不穏な状況のなかラワルピンディに到着した。パンジャブ州にありギネスブックに世界最古のタクシャシラ大学があった。吐く息が白かった。
 
 新首都イスラマバドは機能により8の区域にしっかりと分かれていた。外交、商業、教育、工業地区等である。出来たばかりの日本大使館を訪問したが余り印象がない。建設されたばかりの新首都は緑も余りなく新しい建築物が目立つ首都であった。生来の明るさですぐにデモに出掛ける学生達とすぐ仲間となった

天下の難関カイバール峠をこえる

    カイバール絶壁で九死一生。
 
 mapkaibaryuku

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 アジアの峠といわれ、歴史上アレクザンダー大王が、ジンギスカーンが、ムガールのバブールが越えてきたカイバール峠。

 しかしカイバール峠は思ったほどの峻厳な峠ではなかった。この峠越えを困難にするのは峠の手前と越えてからにあった。というのは落差100メートルを越える屏風のような断崖を登るのと突然変わる天候にある。

 道はせまく少しでもスリップしたりすれば一巻の終わりとなる。バスで越える人達には旅行者にある運転手への軽率な身のゆだね感から寝てる間に越えてしまうこともある。だが実際に自分でこの峠を運転して超えるのはハードである。

 第一まずどのような道であるのか一切見当がつかない。

 第二に誰かから話を聞いて事前の準備がまったくない。まずなにより峠に関する知識が手元のフランスで買ったアトラスという簡単な地図以外なかったことだ。1969年の我々のカイバール峠車踏破から2年後トヨタがシルクロードを車で横断をやり、そのキャッチフレーズが大冒険キャンペーンだったことからも当時の状況を理解していただけると思う。
 
 ヒンヅークシからの強風で埃の舞うカブールをスイカとガソリンを積んで出発した。岩山の間を抜けて山道が続く。カブールでの温度は確か20度程度あったが次第に温度が下がっていた。雨が降り始めていた。アフガニスタンの降雨は春先と11月後半の時期にある。丁度冬が始まりはじめていた。

 どの程度のぼったのか雨が白いものに変わり始めていた。道路に轍ができて、その上を辿ってゆく。スピードに気をつけて進む。峠を明るいうちに越えるように十分な時間をとってカブールを早朝に出たのだが、車のスピードは時速5キロも出せない。それ以上出すとスリップする。辺りが次第に暗くなってきた。ヘッドライトをつける。ヘッドライトの照明に雪が縦線のように横切ってゆく。行き交う車はない。道路の右側に目をやると暗い虚空、左側は岩山の山肌がみえる。狭い道をゆるゆる登ってゆく。上から一台の車が下りてきた。狭い道である。ハンドルを少し右に切った。その時であった。轍にたまった雪の塊にタイヤがすべった。車は半回転して止まった。上から来た車はかろうじて我々の車をかわすと我々を見ずに降りていってしまった。彼らも必死に運転していたのだろう。
 
 半回転して止まった車からおりた。なんと車の右側のタイヤの半分が断崖にかかっていた。あと数十センチずれていたら100メートルはあるであろう真っ暗闇の断崖にまっさかさまに落下していたであろう。三人は車を素手で押して道路に戻し、そのまま無言でまだ車を押していた。
50メートルほど押したであろうか、ハーとため息を吐いた。仏教では”運否、天賦”という。運不運はすでに天により決まっているというのだ。死ぬものは死ぬ、生きるものは生きるのだ。世に天災も人災もない。人間は仏陀の手の平にのっている。

 峠にでた。やがて車はヒンヅークシの南麓を横切って何事もなかったようにペシャワールの盆地に近づいてゆく。ペシャワールはパキスタンの西端の町である。国境を越えた。

カンダハールからカブールへ(アフガニスタン)

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 


ヒッピーの聖地カブールへ 

 1969年我々はヒッピーだった。小田実の「なんでも見てやろう」に共鳴し、既成の政治や道徳を破壊して新しい何かを模索する世代だった。小学校時代に二部授業を経験し、GHQによる脱脂粉乳で栄養をどうにか補給して育った世代だった。小学校にはまだ下駄で登校したし、夏はパンツ一枚で外で群れをなして遊んでいた。

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 まさしく当時日本はアジアの色を濃く残していた。イスタンブールから今アフガニスタンの首都カブールまでは私にとっては自分の感じるアジアではなかった。トルコも、イランも、アフガニスタンも民族は鼻筋の通った西洋人に近く思えた。ただカブールに到着してカブール川にそって店を構えるバザールにきてみると、モンゴル系のアフガン人がいた。はるかストラスブルグをを出て往路半分、ようやくアジアの片鱗にいた。

アフガン人アフガン人
 
 我々はまずチキンストリートと呼ばれるヒッピーの集まる地区にいった。安宿の前に木で作られた縁台らしきものにヨーロッパやアメリカの若者がハッシシをのんで無気力な目をして横になっていた。近づいても我々になんの興味を示さない。つかの間の陶酔にしたっているのだろう。

 極端なまでの現象は見るものを唖然とさせる。世界の若者をつかんだヒッピーの運動はここカブールで無気力な刹那的陶酔主義と化していた。こうしてカブールはヒッピーの聖地とよばれていたのだ。
 
 カブールは標高1600メートル。朝晩の温度差は20度から30度もある。コーエアズモ山脈とシェルダワザ山脈に囲まれた盆地にある。当時の人口は約20万人。アフガニスタンの首都である。カブール川にそってチャルルチャタバザールがある。バザールに行くと何でも買うことが出来た。豊富な野菜、果物、ざくろは見事な彩りを市場に与えていた。肉は羊、カブール川でとれる川魚まで売っていた。多くの骨董屋が並び古銭屋まであった。カブールは古から職人の街だという。確かに陶器の修復や石を削る職人達を見た。カリファと呼ばれる棟梁が古の技術を伝承していると言う。1979年までは。
 
 現在のカブールは全く事情が違う。カブールの美しい町並みは破壊され瓦礫の街となっている。1979年カブールはソ連により占領された。ソ連撤退後は内戦、そして1996年タリバンの支配。イスラム原理主義のタリバンは写真、音楽を禁止し、政治的論議を禁じた。女性はチャドリと呼ぶ被いをかぶり、女性だけの外出は禁じられ、男性は成人すると髭をそることが禁止されている。1969年我々が見たおおらかで芸術と人生を愛する余裕のアフガニスタンは戦乱に巻き込まれてその片鱗もない。1969年アフガニスタンは確かにきらやかにかがやいていた。

朝霞をぬけてカンダハールにむかう

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 

昨夜のことは一体なんだったのだろう。人は現実に事件に直面して捕らえられて身ぐるみはがれてやっと事の重大さに気づくほどの鈍感さがあるから生きてゆける。 

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 危ないから行くなと言われ頭の中では解かったつもりでも出かけてゆく。危機がそこにせまっていても危機に直面して始めて危機を認識できる。それほど人間はおめでたく出来ている。死の直前といえども、意識がなくなる寸前に自分が死ぬと思うのだろう。楽観とそれを呼ぶなら楽観こそ人を生かしている。楽観こそ次の瞬間にエネルギーを蓄えることができるのだ。
 
 我々はディアレムの朝もやの中、目をさまして、次のアフガン第三の都市、カンダハールに向けて走り始めた。朝食には車中のスイカとディアレムの村で買ったナンですませた。

あふがん1
カンダハール市内風景

カンダハールの市内。アフガン第3の都、活発な商業活動が営まれていた。女性の姿は余りない。



 ディアレムの村をでると砂漠の道は次第に岩山への登りとなる。途中に崩れかけた城の跡が見られる。戦いで有名なファテ・カーンの城だという。ギリシクの村にでると道はボグナ運河を渡る。アフガンの大河ヒルマンド河が見えてくる。この河はヒンヅークシ山脈を源として旅の途中で越えてきたイランとアフガニスタンの国境近くの沼地で消滅する。全長1300キロの河である。ヒルマンド河を渡るとカンダハールの丘が見えてくる。

 カンダハールは22万5千人の人口を有するアフガン第3の都市である。カンダハールの名前はガンダーラからきているらしい。向こうに4000メートル級の山と山脈がみえる。あの山脈を越えてゆくとカブールだ。街に着いた我々はまず銀行を探した。現地通貨アフガンに替えてプリンの類や寒天の菓子を買って食べた。勿論久しぶりの熱いチャイはうまかった。
 
 明日から行く4000メートル級の山岳地帯を思ってアフガンコートを買った。羊の匂いがきつかった。このコートは帰国して何日も日に干したが強烈な匂いは消えなかった。しかし暖かさはなによりだった。

闇の砂漠、ヘッドライトに照らされた白いターバンの一群が、、、

  これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 
真っ暗闇の砂漠を走るヘッドライトに突如照らされた白いターバンの一団。 

 蜃気楼の砂漠に真っ赤な太陽が沈んでゆく。辺りがつるべ落としのように暮れてゆく。砂漠にある光源は昼間の太陽と夜の月と星だけである。

 太陽が沈む。闇がビロードの緞帳のように降りてくる。真っ暗闇である。

 あふがん1あふがん2あふがん3

 昨日ヘラートのチャイハネでチャイを飲んだとき親父が我々に、もしカンダハールに向かうなら昼間走って夜陰は安全な所で休むように言っていたことが気がかりだった。最近盗賊が出没するからだと言う。もう少しで次の村ディアレムに差し掛かる筈だった。

 前方をVWのヘッドライトが照らしている。

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 スピードが無意識に上がっている。砂漠を走る道路の横は砂漠の瓦礫である。ヘッドライトの照らす明るい部分と暗闇に繋がる部分に霞がかかっていた。その時であった。前方から白いタバーンを巻いた一団が目に入った。我々の車に向かって丸太棒を放り投げてきた。それも何本もである。丸太をかわすごとに車体が大きく傾く。運転していたのは大学の自動車部でならしたヒリキである。ヒリキの顔がひきつっている。車は車道を大きくはずれて砂漠の瓦礫の上をボコンボコンと音を出して進んだ。どうにか車は横転せずに車道に戻った。後方を見ると闇の中に白い一団がみるみる消えていった。
 
 人生は一寸先は闇。禍福はあざなえる縄の如し。仏教では運否は天賦なりという。人の運不運は天だけが知っている。

 3人は車を停めず無茶苦茶に走って横転もせず走り過ぎることができた。今から40年前の真っ暗な砂漠のなかのことだっだ。身ぐるみはがれて放り出されて息絶えたとしても何もなかったであろう時代だった。そういえばトルコの日本大使館で言われたことを想い出す。

 ”君達がどこに行こうがいいがここには来なかったし知らないことだ”といわれたことを。

 車は闇に光をかざす村に近づいていった。ディアレムの村である。ディアレムの街路に車を停めて回りをみたがチャイハネがあるでなし、その場でエンジンを切って目を閉じるとそのまま眠りに落ちていった。天は二日後にまた我々に味方することなど知る由もない。

シルクロードの真実

   イランからアフガニスタン国境を行く。

 イラン第3の街メシェッドをでて、一路アフガニスタン国境に向かう。

 アジアとヨーロッパを分けるイスタンブールからもう一ヶ月が過ぎようとしていた。東西を結ぶ絹の道を行けるだけ行く積もりでフランス・ストラスブルグを出発して今イランからアフガニスタンの国境を辿ろうとしている。

 絹の道は物資の移動と輸送の為にあった。そして人間と文明が交錯した。トルコから東、道には必ず商人が泊まる宿屋があった。欧州のホテルとは違い、また極東、東南アジアの中にある宿屋ではない、宿舎とでも呼ぶ存在が目立った。商人宿と呼ぶものである。キャラバンサライ(caravanserai)がそれである。そして実はこのキャラバンサライこそイスラムの女達によって建設され運営されていたのだ。
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 中央アジアのシルクロードは実はイスラムの女が守った道なのである。 モスレムの文明は常に移動を前提に組み立てられていた。アラブの民も非アラブの民も遊牧の民であり移動の歴史を継承している。戦争には大軍をくんで陸路を行ったのである。

 知識を積まんとするものは幾千里を行って師についた。都市の富とは商品の移動と共にあった。またイスラムの宗教の衝動はメッカへの巡礼にあった。現代でもメッカへの巡礼に何千万の信仰者が移動している。厳しく人を寄せ付けないほどの自然環境の中で旅する者を受けつけるのがキャラバンサライであった。

 陸の船、砂漠のオアシス、乾きを癒す水、傷ついた兵士の看護、富の保管、秘密と情報の保持、さすらう男達を荒廃から護る者、それがキャラバンサライとイスラムの女達であった。一人の男に複数の女が必要だった。イスラム教徒の女達はこのキャラバンサライの主人たちであった。現存するバグダッドからメッカまでの古の巡礼のルートは8世紀のペルシャの王の妃が実際に建設したものでダーブズバイダ道となずけられている。
 
 メシェッドを出発した我々は、ジャナタバード、トルバエジャム、タイイエバードと経てアフガニスタンに入りグリアン、カルク、そしてヘラートを目指した。約1000キロの道程である。
 
イラン砂漠イラン砂漠

 イラン側の国境の街がカルカレフ、アフガニスタン側がイスラムカラ。国境についた時にはもう日が暮れていてあたりには明かりもなく真っ暗闇。国境事務所は薄暗い自家発電の裸電球だけのバラックで係り官が暇そうにテーブルにひじをついていた。シャロームと挨拶すると面倒くさそうに対応してくれた。

 片言の英語で「ホエアユーゴ」何処へ行くと聞くから「ジャパン」と答えたら「ジャパニーズは初めてだ」と答えた。いくらなんでも日本人が陸路でこの国境を越えるのは初めてではないと思ったがこの係り官には初めてと言う意味だろう。

 1969年いまから45年前のことだ本当に初めてだったのかもしれない。何か持っているかと聞くから、いつか誰かにあげようと思って機会がなく、財布にしまったままの日本の穴あき五円玉のはいったお守りをあげたら喜んでパスポートにバチーンとビザの判をおしてくれた。当時のパスポートを見てみるとそれはそれはしっかりとした判でおまけに収入印紙まで貼ってあった。

 ビザ

ゾロアスターとペルシャ

   芸術とゾロアスター
zoroaster

 拝火教としても知られ、良く聞く名前のゾロスターについて正確に知っている人は意外に少い。現在キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に多くの影響を与えたと言われるゾロアスターとは一体どんな存在であったのでしょうか。
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 ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「ツアラツーストラはかく語りき」を著わして超人の思想をツアラツーストラ(ゾロアスターのドイツ語名)の口を通じて説いた。またドイツの音楽家リヒャルト・シュトラウスは交響詩「ツアラツーストラはかく語りき」を作曲。その序章は1968年の映画史上の名作、スタンリーキュウブリックが製作、監督、脚本というオールマイティの能力を発揮した「2001年宇宙への旅」に使用されている。

 紀元前のことである。マケドニアのアレグザンダー大王が東征を始めたのが紀元前約250年前、その約300年前、紀元前628年ゾロアスターは職人の子供として生誕したという。幼少時より超人的能力を持ち背後には光が満ちていたという。キリストがソロモン王とダビデ王の両家の血筋をもつ王子であったのと違いゾロアスターは全く血統上のカリスマ性はない。思想史上重要な点は二つあるらしい。一つがヘレニズム時代のオカルト、神秘的宗教の基礎となった点、二つ目に一神教であることだと言う。神はアフラ・マツダという光の神、対立する悪神アリマンとの対立神論。

人類の歴史の中で主要な宗教が成立した時期は仏陀、仏教(紀元前6世紀)ユダヤ教 (紀元前6世紀) キリスト教(紀元)、イスラム教(紀元後7世紀)全て悠久の人類生誕の歴史から見れば本当に短い期間に集中している。常に存在していた超絶対な存在への人類の憧憬と帰依がこの時期集中して形となった。それも複数神ではなく全て絶対なる一神教である。仏教についても仏陀の教えと言う点では一神教のカテゴリーである。

 エジプト、メソポタミヤ、黄河、インダスという四大文明を築き上げた人類はその後紀元前6世紀、苦悩の時代を迎える。行く先のない暗澹たる未来観が人類を襲う。それは人類同士が争い、共食いによる種絶滅の恐怖となってゆく。そこに現在の3大宗教の起源があった。

 現実64歳の私でさえ年を経て先に限界が見えてくると生命の限界を良く考える。死が迫ってくると、恐怖が生じる。永遠の生への思いから自身を絶対なものに帰依させたくなる。宗教とは黄昏に重要な絶対必要な要素なのである。人類の歴史を見ると、紀元前6世紀から紀元後6世紀の間の1200年間が人類の終末からの再生と救済の時期だったのではなかろうか?

 その後現在の21世紀まで人類に絶対的な終末論はない。いはば人類はキリスト教、イスラム教、仏教によって救われているのだ。キリスト教を信ずるもの19億人、イスラム教10億人、そして仏教を信ずるもの3.5億人である。なにも信じない無神論の日本人には救済はないのだろうか。

イラン中央砂漠を行く

    ダシカヴィール砂漠をゆく
イラン砂漠
おいらん砂漠

 砂漠よりむしろ土漠
 
 イランの首都テヘランからカスピ海はすぐそこである。僅か直線距離では40から50キロといったところであろう。我々も黒海カスピ海は必見だと思っていた。

 黒海は既に見た。地図ではカスピ海は近い。そこで昨日の日本商社に電話して様子を聞いた。するとなんとあの5000メートル級のエルボルグ山脈の峠を越えるそうだ。すぐにやめてイラン中央砂漠(正式にはダシカヴィール砂漠)を横断することにした。
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 ガルムサール、セムナン、ダムガン、エマムルド、ザムゼバール、ネイシャブール、そしてマシャッドまでの1200キロに挑む。その前にイランという国についてもう一回整理しておこう。

 イランの正式名称はイランイスラム共和国 (ジョムフーリーイエ・イーラーン)と言う。面積は日本4.5倍。人口は6800万人。広大な砂漠を有する。砂漠と言っても乾いたあのさらさらな砂漠地帯ではない。ワジスとよばれる瓦礫と砂と土が膨大に堆積された地帯である。

 この地帯では、農業は全く出来ない。通貨はリヤール。当時の1ドルは約10000リアル(1リアルは3銭というところか)。通常に泊まるホテルが一泊一ドル。食事は田舎ではほとんど払った感覚はないほどの料金だった。我々は水とガソリンを備蓄して車に積んでいた。特にガソリンは切れたら最後命に関わった。水については豊富にスイカとメロンを積んでいた。面白いのはトイレについて困ったとかの記憶が全くないことである。どうしてなのか今もって不可思議なことの一つである。人間、生理的現象については記憶機能が深化しないのかもしれない。

 我々はこの砂漠の踏破を少し甘く見ていたのかも知れない。テヘランを昼食を済ませて出発した。なぜならテヘランからマッシェッドまでバスで18時間と聞いて、それなら十分10時間ではマッシェッドに到着すると考え、少しゆったりテヘランを出発したのです。砂漠のなかで何もなければでした。それにバスでも砂漠の中を猛スピードで飛ばして18時間でした。ガルムサール、セムナンまでは問題なしでした。セムナンからダシカヴィール砂漠に入ります。砂に覆われたような古都の街ダマガンを過ぎて約20キロ突然右後ろのタイヤがバースト。幸い怪我もなくただ右に傾いてしまった車と我々が残されていました。前も後ろも砂漠。もう暮れ始めていました。一月とはいえ昼間は25度、夜になると冷え込んで吐く息が白い。次の大きな街ダムガンまでは20キロほど。とにかく次の街までたどり着かなくてはと考えた我々は一人が運転、一人がヨットの操縦まがいに左に体重をかけてそりだす。一人は外で走りながら状態を見る。時速10キロ走行を始めた。休んでははしり走っては休みしてダマガンの街に着いたのはもう真夜中。くたくたになって水をのんですぐにパンクのままの車のなかで寝てしまった。
 
早朝目を開けると、しっかり開かれた大きな目が一杯こちらを覗き込んでいた。質素だがきらきらと輝く子供達の好奇心の目だった。東洋人が車のなかで寝ている。車はパンクしている。ドアを開けて一歩外にでると、砂漠の朝のギラギラの太陽と昨日から何も食べていないのとで体がフラッとした。

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イスラム的生活

  テヘランの記憶

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テヘランではどういう理由か思い出せないが、たしか市内の中心で当時百貨店があった目抜き通りの斜め向いにあった商社を訪れた。商社の駐在員が親切に対応してくれた。その上、同社のイラン人の従業員を紹介してくれてテヘランの街を案内までしてくれた。1960年代のことだから半世紀前である。
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 来訪する日本人も少なかったに違いなかった。30代半ばの紳士的イラン人の名前を覚えていないが自宅にまで招待されて夕食をごちそうになった。こちとら若気の至りでさまざまな不躾な質問をしてしまったのを覚えている。
 
 夕食をつくってくれた奥さんに、次から次にこれはなんですか?なんの料理ですか?と言う類の質問ばかり。困った奥さんが助けをご主人に求めた。ご主人は我々に対峙して突然説法をはじめました。

 「イランの料理の基本は。。。」ついに大上段からの講義が始まりました。

 「そもそも古代文明では、料理は生存のための芸術でした。メディカル、哲学、文化が互いに影響し合い生み出されたものです。イランでは料理技術の基本は、血液の浄化=温、冷静=冷、陰鬱=乾、陽気=湿の4要素を組み合わせてつくりあげています。温と冷の概念はゾロアスター教に由来するものです。」話す内容と言い方とでますますテンションがあがってきた。

「まず、食材には温属と冷属が存在します。温属と冷属とを調和させて料理をつくることが大切だとゾロアスター教は教えています。」

「温属に属するもの:家禽類、麦、砂糖、ある種の野菜、果物 」

「冷属に属するもの:牛肉、魚、米、乳製品、大部分の野菜」

 例えば目の前にある料理はマストキアールというサラダだが、ヨーグルトが冷属、ミントが冷属、あとの野菜 キューリ、タマネギ、乾しぶどう、胡桃が温属。

「どうですかわかりますか?」
 
 一同ただただ頷くのでした。「こちらはご飯とさくらんぼで味付けた鶏の料理でアルバロポロどうですか 絶妙な調和ではないですか。」
 
「飲み物はアルコールは抜きですが、お茶、ドゥールというヨーグルト飲料、メロンジュースがあります。」                                       
 中でもざくろは特においしい飲み物でした。え!あのざくろが!と思う方に説明です。ざくろをイランではこうして飲むのです。まず大きなざくろの実を良く洗います。周りの皮を丹念に親指で何度も押します。決してあせってはいけません。丁寧にやさしくです。そうするとざくろは柔らかい赤い玉となります。内側からさわさわとざくろのジュースの音がします。皮の一箇所に楊子で穴をあけてチュウチュウと口をつけて吸うのです。ですからざくろは飲むのです。

 食事の会話で打ち解けた我々は食後ご主人とイスラム的生活についていろいろな会話をしました。イスラムのさまざまな戒律、習慣、宗派、についてでした。その中で印象的で今でもしっかり覚えていることがあります。イスラム的性の考え方です。 
 街を歩くと多くの女性が顔をベールで覆っています。イスラムの戒律は厳しい。若者の性はどうなっているのか質問したのです。ご主人は答えました。
 
 アラーはこう言っています。「姦淫するなかれ。姦淫は下品な行為である。」イスラムでは性の衝動は常に結婚と共になくてはなりません。男は15歳、女は9歳から結婚が可能となります。結婚前の姦淫はイスラム法では鞭打ち100回、懲りずに4回すると死刑。マスターベーションはイスラム法では下品な行為であり、してはならない行為です。衝動を抑圧するには下の毛をそることです。育毛は性欲を増すと考えられています。ホモとレズにはもっと厳しい。結婚していないアクティブパートナーには100回の鞭打ち、パッシブパートナー厳罰。結婚している同性愛者は死刑。
 現代日本にイスラム法を適用するとどうなるのでしょうか?

エルズルムからタブリッツそしてテヘランへ

中央アジアを行く
teheraniran king
 
黒海からトルコの温泉を味わいながら少しばかりの休息をとって中央アジアを東に東にむかう。トラブソンからの中央アジアの小さな歴史上の都市が続いている。トラブソンーグミュシャーネーバイブルトーエルズルムーアグリードグベヤジットーマクーーナクシバンーマランドータブリッツーハシュトルドーミアネーアルスーザンシャンーカターアブハールーカズバンーカラジーテヘランにいたる約2000キロの旅である。
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ほとんどが海抜1000メートル以上あり且つ半砂漠状態のなか道路が続いている。経過した街々の特徴を記す。トラブソンの見所はなんといてもヌメラの僧院である。丘陵の崖地にへばりつくようにビザンチン様式の僧院が建っている。宗教とは不可能を可能とする。グミュシャーネはトルコ東部の州都である。ハルシット河の渓谷に建設されたローマ時代からの街である。現在では40万人弱の人口を抱える。

エルズルムで一泊した。ホテルは一軒あるだけだが一泊100円相当のトルコリラだった。泊まっていると突然ポリスの検閲が部屋に入ってきた。なんでも強盗がでたそうだ。しかしポリスといっていたが私服だった。我々は三人で夜遅くまで起きていたので気づいたのだが、どっちが強盗なのか分かったものではない。睡眠薬をつかった強盗らしい。

田舎にはいると米国ドルが通用しないので翌朝朝早くホテルの傍の一軒しかない銀行でトルコリラに換金に出かけた。早朝の9時なので早すぎたかなと思ったが、意外や意外、もう開いている上人だかりができている。トルコには列をつくる習慣は存在していなかった。とにかく人が群れているのである。誰が受付しどの人が次対応されるかは全くわからない。何もしないと永遠に自分の番がこないと知って叫んだ。日本語でだ。俺の番だ!注意が向けられた。列が自然にできた。やっと両替がすんだのは10時を回っていた。考えてみれば列など作るほうが人間的でない。古今東西,悠久の歴史が証明するように「先取り特権」という万人が認める常識がある。先につばをつけたものを自分の領有としていたではないか?列をつくるなど弱者の法であり、人類が生存してゆくには強者生存こそ正しい。したがってトルコが正しいのである。

 ドグバヤジットの街は隣国イランに20キロの国境にある。アララット山登頂の拠点でもある。マクの街はイラン側の国境の街だ。1600メートルの高地にある。ナクシバンの街は現在ではアゼルバイジャン共和国の首都となっている。ここは、トルコ、イランと国境を接してる。そしてイランの都テヘランに至る。

テヘランの人口は1100万人、標高1200から1600メートルある高原の都市である。テヘラン市街のいたるところにパーレヴィ国王の肖像画が掛けられていた。1969年当時、正にパーレヴィ国王独裁の時代だった。日本の企業も多くテヘランに進出していた。三井、三菱などが石油の利権を争っていた。イランと日本の関係は深い。米国ブッシュがイランの核開発でイラクの次はイランだと騒いでいる。テヘランは山麓の斜面に開いた街だ。すぐ北には5000メートル級のエルブルズ山脈が迫っている。

 当時独裁を誇っていたパーレヴィ国王は3回結婚した。一回目がエジプトのファラオの娘、二回目がソラヤ、そして三人目が写真のファラディバである。22歳で父の跡目で国王となった。第二次大戦ではドイツと関係を深めた。1967年には自身を「王の王」と宣言して皇帝となった。統治には秘密警察SAVAKを使って徹底的に反対者をつぶした。市民権や政治的自由は存在しなかった。そして1978年から1979年逃亡していたアヤトラ・ホメイニがパリから帰国して宗教クーデタを起こす。パーレヴィ国王は追放され、放浪して逃亡生活を送る。失意のまま1980年最初の妻の地エジプトカイロで死亡した。イランに戻ることは出来なかった。人の一生とは誠に短く儚いものだとつくづく思う。(続く)

途中ですが少し、

閑話休題
シルクロードの話を少し脱線しますが、1969年にシルクロードをへて帰国した私は大手広告代理店に入社しました。その後いろいろな仕事をしました。そのなかでとても普通ではお会いできない人たちに邂逅することができました。感謝感謝です。
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 シルクロードのたびの途中ですが、シルクロードで経験した何かが人生の糸となりこよりとなって多彩な人たちとのめぐり合いにつながったものと思います。

 若者よ旅にでよ!と言いたいのです。 

jean paul  II




生来のオープンマインドで人と逢うことが出来る所為か本当に多くの偉大な人々とお会いすることが出来ました。思い出の人びとを上げてみました。
1 ジャックシラク (当時パリ市長)2 笹川良一 (ニース市祭典にて)3 ローマ法王 ヨハネパウロ2世  4 長島茂雄 (パリにて数度) 5 シャルルアズナブール (ニース アクロポリスでの夕食会)6 佐藤 文生(自民党広報委員長) 7 ジャックメディサン (ニース市市長)8 ニコラ トラサルディ (友人)9 加藤重高 (陶芸家)瀬戸で 10 黒沢明監督(まだだよ製作)11 ビムベンダース (映画製作)何回も映画について話した12 宮崎駿 (映画製作)もののけ姫 13 ソルベイグドマルタン (女優)フランスの女優 14 カトリーヌドヌーブ (女優)CF 15 松本清張 (取材) 16 松本弘子 (マヌカン)カジノ 17 ピエールカルダン (デザイナー)将軍展開催18 フランソワライシェンバハ (テレビ番組芭蕉製作) 19 クロードルルーシュ(Avenue Hoche スタジオにて) 20 ロリンマゼール 夾竹桃カンタータを創作したいと話した 21 ホルストダスラー (アディダス社長)ICL創設 22 フランツジョセフ (リヒテンシュタイン)篠田理事長と 23 デビスカルノ 24岸恵子 (CF撮影) 25 篠田正浩 26山村聰(CF撮影) 27 勅使河原宏 (監督)よく食事した 28 荻須高徳 (絵描き)パリでよく話した 29 ジェラールガルースト (画家) 30 ジャックモーリス (当時フランス大使館公使)31 青木功 (CF) 32 ジャッククルティーヌ (世界柔道連盟)33 猪熊功  (柔道)カジノにお供した 34 松前重義(東海大学総長) (柔道)35 アランシャリエル (南仏ボーマニエール オーナーシェフ) 36 ピーターユベロス(LA オリンピック)37 久保田一竹 (友禅) 38 そめのざ玄才 (友禅)39 石井宏基 (故衆議院議員)マージャン友達だった40 中山素平 (ウィーンでのOPEC取材)41 星野仙一 (ミスターベースボール 撮影) 42 高倉健 (ミスターベースボール 撮影) 43 トムセレェック (ミスターベースボール) 44 伊丹十三(映画監督) 45 田崎真也(ワイン撮影) 46 ジャンジャックベネックス (監督)友人としてよく話す。 47 リュックベッソン (監督)49 緒方貞子 (大学の恩師) 50 エドモンド ブランデン (詩人)恩師の恩師 51  52 倉本昌弘  (番組撮影) 53 岸田邦夫 (彫刻家) 54 並河万里 (写真家) 55 牛尾治朗 (経済) 56 ジャックラング (当時フランス文化大臣)57小坂徳三郎 (ニースにてテニス会議) 58 ソフィーマルソー (女優)59 ジョルジュドンヌ (舞踏家) 60 モーリスベジャール (舞踏家) 61 マルセルマルソー (パントマイム) 62 松村達雄 (まあだだよ) 63 香川京子 (まあだだよ)64 徳間康快 (プロデューサー) 65 栗本信實 (写真家) 65シュテファン リップ (写真家) 66武田秀雄 (漫画家) 67 トミーウンゲラー (漫画家) 68モーリス メッセゲ (ハーブ研究の父)69 辻邦生 (芭蕉番組監修) 70 ロジャーコーマン (ハリウッド プロデューサー) 71 エドワードプレスマン (ハリウッドプロデュサー) 72 アンドレ・ビレ (ピカソ 写真家) 73アランドロン (CF)74 ポールボキューズ (料理)75 白柳大司教 (バチカン展) 76 水島元そごー会長 77
レオンリー (元ロッテ野球選手)78 ジュリードレイファス (女優) 79 ジャックアタリ 80 イブモンタン(パリでのパーティで一度)(81)淀川長冶(JALの仕事で) ・・・・・・・・・・・・・・・
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 中でも写真にもありますがローマ法王、ヨハネパウロ2世にお会いできたことは大変得がたい経験となりました。1980年代日本で開催されましたバチカン展は大成功に終わりました。日本でバチカンの宝物を展示する計画があるとの情報をパリでつかんだ私は早速今は亡き社内の旧友であるF氏に情報を送りました。F氏はその真偽を探りにすぐパリに飛んできました。二人はすぐローマのガルタ神父に合いにローマへと飛んだのです。
 ローマには当時日本から留学していた塚本神父等がいて情報把握につとめてくれました。その後話として公に出来ない事などがありましたが、日本でのバチカン展までこぎつけられたのです。そごーでの開催となりました。この種のイベントは通常国立美術館でやるのが普通ですが百貨店での開催は異例でした。そごーはこのために横浜店に本格的な美術館をつくってしまったほどでした。

アララット山とトルコの温泉

   ノアの箱舟と温泉
ararat

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 黒海沿岸の街トラブソンから山道を登ってゆく。目指す街はエルズルム。黒海から標高2000メートル。だらだらと登ってゆく。道は舗装されていない。細い山道が続く場所は細心の注意が必要だ。夜間の運転は盗賊の恐れもあるとかで昼間走行した。

 エルズルムに近づくと左手に富士山が見える。いや富士山にそっくりなのである。それが標高5137メートルのアララット山である。トルコ最東端のアルメニア、アゼルバイジャン、イラン国境の山で、大アララット山(5137M)と小アララット山(3914M)とがある。
 
 しかしこの山はむしろ旧約聖書、創世記の中で語られる「ノアの箱舟」伝説で有名である。神によってアダムとイブがつくられて人がこの世に満ちてゆく。神はしかし地上に人が増え始め人の悪が増し常に悪いことばかりしているのを見て言う。「私は人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、全てのいけとしいけるものを」そして大洪水を起こす。

 アダムの系図の中に神に従う無垢なノアがいた。ノアとは慰めという意味である。神はノアに命じた。「大きな箱舟を作り妻と三人の息子夫婦、それに雄と雌のさまざまな動物達と食糧を乗せなさい。」
 
ノアが600歳の時、大洪水がおきる。40日間洪水がつづく。地上の生物はことごとく息絶えた。150日後に水が引き始める。箱舟は「第七の月の十七日に箱舟はアララット山の上に止まった。」ノアは洪水の後350年生きて950歳になって死んだ。
 
 アララット山はトルコの名前はアグリ・ダギと言う。苦難の山という意味である。マルコポーロの東方見聞録にも登場し、前人未踏の山として紹介されている。19世紀になってようやくドイツ人物理学者によって登頂されたが1990年クルド人との政治的問題で登頂が禁止されている。
 
 近年アララット山の頂上近くで植物のつるやタールで固めた船らしい化石が発見されその真偽が話題となった。旧約聖書のアララット山の伝説は人々の暮らしのなかにしっかりいきていることが証明された話題だった。
 
 アララット山は火山である。周囲に多くの温泉が湧き出ている。このことは現在でも余り知られていない。トルコの温泉は全て天然賭け流しでどこかの国の循環温泉や偽温泉などあり得ない。湯治の客が行くところで観光地ではない。トルコ西部と東部に分布していて、東部では黒海沿岸の都市サムソンの80キロ手前にハヴサ、ハママヤーユ、薬効あらたかなアイデル、などがある。我々はエルズルムから少し行った、ディアティンという場所を訪れた。緑の山と清流の地に温泉の湯気が見えてくる。突然モスクの小さいような建築物があり、それが温泉であった。管理者らしいムスターファに
 
 ”メルハバ”こんにちはと挨拶するとびっくりしていた。日本人など初めて見るのだろう。英語など全く通じない。ジェスチャーゲームである。
 
 ”温泉ここ入りたい!”手で丸いお金の格好を見せて、
 
 ”いくら” 一人50クルシュ10円の入湯料だった。持っているタオルを見せると
 
 ”オケー”とそこだけ英語だった。
中に入ると脱衣場らしい。脱いでその辺に衣服を置いた。ただ貴重品があるので三人が交代で入ることにした。全部脱ごうとするとさっきのムスターファが泡ふいて跳んできた。
 
 ”ノーノー”パンツを押さえた。なるほど下半身を露出してはいけないらしい。パンツを穿いたままドアを開けるとなんと露天風呂である。もうもうと湯気が遠くから見えたわけが分かった。湯床の底から直接湧いている。ぶくぶくと音を立てて湧いている。温度は少し高めだが入っていられないほどではない。先客は四・五人だけ。トルコの老人達である。
 
 ”どこから来た?”と聞いて来た。
 
 ”ニッポン”、通じない、”ジャパン”、通じない。
 
 ”エルツール”そうあの遭難したトルコ船の名前を言った。
 
 ”ジャポーニ””トーゴー”老人達の目が変わった。特別な親密な顔になった。
 それからが大変だった。温泉の中の食堂に連れられて行った。
 
 ”何が食べたい、何飲みたい”日本人歓迎大会となってしまった。
トルコのビール、ワイン、巣のまま出される蜂蜜、チーズ 等など。
温泉に飛び込んではまた歓迎、トルコの温泉は篤い親切な温泉の湯だった。
 
シルクロードロマン DVD-BOX III /趣味教養

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NHK特集 シルクロード デジタルリマスター版 第2部 ローマへの道 DVD-BOX II  /ドキュメンタリー

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トルコ ヨーロッパナンバーの秘密

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これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 1969年代の事だ。トルコ・イスタンブールからアンカラまでの幹線道路でお目にかかった何台もの新品のベンツ、BMW,VWなどの欧州車の秘密。

 欧州ナンバーの車がすいすいと走っている。どう考えても納得がいかない。それも欧州ナンバーのままである。欧州に移住したトルコ人が里帰りして乗っている台数では明らかにない。
 
 その秘密がアンカラで判明した。我々がアンカラの中心街に駐車したときだ。どこからともなく男が近づいてきた。当然ドイツで購入した我々の車のナンバーの横にはドイツ登録を意味するアルファベットのDステッカーが貼られている。
 
 ”車の引き取り先はあるのかい?”
 
 ”3ヶ月かそれとも6ヶ月?”と英語で話しかけてきた。意味が分からなかった。
 
 ”これからイラン、アフガニスタンと向かうから売るわけにはいかないんだよ。”説明すると
 
 ”なんだ”という風に離れていった。
 
 1969年当時アジア諸国は日本を除くと自動車生産国はない。当然外国から自動車を輸入している。その上関税が恐ろしく高い。300%、400%はざらである。車一台で大きな邸宅が買えるという国もある。

 現在でもシンガポール、マレーシアの関税は非常に高く私の友人は買った車に住んでいる。車を買ったので家に住む余裕がないのである。それでも車に乗りたい連中はどうしていたのか。先に書いたがドイツには当時でも100万人以上のトルコ人が移住していた。

 彼らは里帰り時にドイツ車をレンタルする。レンタカーであるからほとんど新品である。長期で借りる。ドイツからトルコまで直線で高速道路で突っ走ってくれば二日で到着できる。且つメルセデスで走れば快適な旅行となる。帰りは前回乗ってきた違うベンツのレンタカーに乗って帰るのである。トルコでメルセデスを購入するとドイツの3倍も4倍もする。例えばドイツでの価額が100万円とするとトルコでは400万円、ドイツでのレンタカー代が一ヶ月5万円とすると3ヶ月で15万円で新品に乗れるのである。所有したい客の場合はレンタカーではなく中古のベンツをドイツで買ってそれを運転してトルコに里帰りするのである。客は旅行者の登録となっている車に乗るのである。関税はかからない。こうして何回かトルコとドイツの間を運転すると商売となるのである。
 
 近寄ってきたトルコ人は我々の車が欧州ナンバーであることを確認して客を紹介しようとしたのであった。陸続きであればの人間の知恵である。このトルコが現在EU加盟を申請している。認可されると関税が取り払われる。欧州車メーカーにとっては中央アジアに大きなマーケットが出現する。トルコのEU加盟には欧州産業の中央アジアマーケット進出の狙いが背景にあることを忘れてはならない。
 
 アンカラからサムソン、黒海沿岸沿いにトラブソンと車を走らせた。早朝の沿岸を走るとすれ違う車のほとんどが大型のトラックとトレーラーであった。後ろから追い抜く車には満載の燃料や食料品が積まれている。対向車はほとんど空である。生活関連のあらゆる物資がヨーロッパから運ばれてゆく。この現象はイランに入っても同じだった。

 サムソンからトラブソンまでは黒海の入り江を過ぎ、岬を越えて、また入り江をゆく。朝日に輝く黒海を左手に見ながらすすんでゆく。約200キロくらいあっただろうか。やがて坂の多いトラブソンの街に着いた。
 疲れていた我々は車の中で少し休んでいた。少し皆寝たのかも知れない。気がつくと車の周りが騒がしかった。小さな子供達で囲まれていた。見知らぬ三人の若い東洋人が車の中で寝ていたのだから不思議だったのだろう。目と目が合った。きらきらとした子供の目だった。
 
 ”シャローム”と言うと子供達が一斉に笑った。
 
 車を降りて、お茶を飲むまねをしてチャイハネを探すと子供達が先に立って案内する。大きな柳の木のある黒海に面した眺めのいいチャイハネだった。そこで牛肉の煮込みタスケバブとトルコパンと蜂蜜いりのチャイを頼んだ。
 食べている時も子供達がチャイハネの窓から我々をのぞいている。本当に珍しいのだろう。しかし少しすると飽きたのか子供達は自分等のそれぞれの遊び場所に散っていった。
 チャイハネを出ると一人の少年が我々のことを待っていたかのように佇んでいた。
 
 ”シガーラ”といってタバコを出した。買ってくれといっている。要らないと言っても
 ”シガーラ、シガーラ”と左手にタバコを載せて引き下がらない。傍に妹なのか髪の毛が少し赤い女の子が心配そうに見ていた。無視して車に戻ろうとしたとき、少年の右手がないのに気がついた。少年は障害を抱えていた。さっきの子供達の仲間ではなかった。生活のためタバコを売っていたのだ。
 一リラ二十クルシュのタバコを買った。二リラを渡すともじもじしながら
 
 ”ノーマネー”と言った。お釣りはチップとして頂戴と言っているのだと勝手に解釈して
 
 ”オーケー”と手で言うと、待っていた少女と急ぎ足で去っていった。
 
 チャイハネから少し行ったところに安宿らしいところを見つけた。ベッドが置いてある簡単な宿であったが、とにかく体を休めたかった。久しぶりにシャワーを浴びるとベッドに横たわった。うとうとと夕方まで寝ていた。
 目を覚ますと三人で夕飯を食べに外に出た。もう二月だった。やはり寒かったが多分6〜7度くらいだったろう。寒さの記憶はない。
 安宿の入り口に昼間のタバコ売りの少年がまた立っていた。
 
 ”ユー、サンキュウ”とどこで覚えたのか英語で言って左手を差し出した。右手の袖はポケットにだらっと、ささるようにしまわれていた。
 
 私が”ノーモア、シガーラ”と言って傍を通りすぎようとすると、私を押し戻すようにして言った。
 
 ”ヒア、マネー”小さな手の平のなかに小銭が握られていた。少年はお釣りを返しにきたのだった。少年と目が合った。きらきらとした子供らしいが正直そうな目が微笑んでいた。お釣りを受け取ると後ろにいた少女が恥ずかしそうに笑っていた。クルド人難民だったのかもしれない。一旦でも少年の正直さを疑った自分が恥ずかしかった。

 
 
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勇敢女兵士アマゾネス伝説の地

黒海アマゾネス伝説 

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トルコの首都アンカラからは東イランに向かって二つのルートがある。


 そのまま東の街シヴァスを経由してエルズルムに至るのと北に向かい黒海沿岸ずたいにサムソン、トラブソン、そしてエルズルムに至る道である。我々は黒海を見たかった。一路アンカラから北西に向かう。約400キロで最初の黒海沿岸の都サムソンにでる。このルートをとった。同じく夜アンカラを出発すると早朝黒海沿岸に到着した。
 
 黒海はボスフォラス海峡で地中海と繋がっている内海である。地中海から海水が流入し、沿岸の大陸から多くの河川が注いでいる。ダニューブ河はその内の一河川である。黒海の広さは42万平方キロメートル、深さは2200メートルもある。沿岸諸国にはブルガリア、トルコ、ルーマニア、ウクライナ、ロシアそしてグルジアがある。
 
 港の堤防に立つとなぜ黒海と命名されたのか良く理解できる。地中海の港では水深まで透明で小さな魚が射す光線にきらきら反射するほど良く見えた。ここ黒海にはそれがない。透明度は水深5メートルだという。地中海のそれは35メートルと報告されている。決して水質が汚染しているからではない。実際世界でもトップクラスの水質でクリアであるといわれている。その原因は海の水深が2200メートルもあることと高い塩分濃度にあるらしい。流入する海水や河川の水が海底にとどき表面まで回転することがない。このため低酸素循環となり海底には地球古代の生物の層が未だにそのまま堆積されているといわれている。
 
 ギリシャ時代からマウレ・タラッッタ(ダーク・シー)と呼ばれてきた。黒海沿岸の街サムソンは近代トルコ独立の父、ケマル・アタチュルクの生誕の地であり、独立戦争の発祥の地である。アタチュルクの博物館から生誕の家を訪れた。日本で言えば伊藤博文や西郷隆盛に当たるのであろう。多くのトルコ人が訪れていた。
 
 昼食に大衆食堂のようなところに入ると、アンチョビの入ったサラダがあった。アンチョビは黒海の名産でカタクチイワシをオリーブ油でつけたもので塩味がきいていて旨かった。深海魚は低酸素のため生存していないらしい。
 
 サムソンの街で一番驚いたのが街で聞いたアマゾネス伝説であった。映画にもなったあのアマゾネスである。紀元前1200年ころだという。ここサムソンに勇敢な女兵士でアマゾネス軍団が存在したという。アマゾンとは片乳房という意味だそうだ。弓をひき相手を狙う女兵士は弓を引くために邪魔になる右の乳房を切り取ったという。アマゾネス軍団は最後追われて中南米に渡ったという。この壮絶な話はそして世界一の大河に住むアマゾネス伝説となっていった。。勇敢なアマゾネスの棲む河それがアマゾン河だというのだ。黒海の街サムソンで聞いた話だ。
 
 
 黒海

首都アンカラまでひとっ走り

我が家のトルコ絨毯
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 イスタンブールから600キロ、夕刻イスタンブールを発って夜中ぶっとうしで運転して早朝アンカラに到着した。洗濯板のような道路だった。
 
 アンカラは標高900メートルの高原にある。周囲は肥沃な小麦畑と黒い森にかこまれている。既に紀元前8000年前に集落として構成されアクワッシュとヒッタイトにより紀元前3000年前に原始的都市構造となったと記録されている。

 以降、東と西のせめぎあう歴史的戦場となった。ハッティ、ヒッタイト、フリギア、ガラティア、ローマ、ビザンチン、セルジュク、オスマン とすべてが自分の主権の為に戦い統治をおこなった。現代のアンカラは1920年、アタチュルクが政府をここアンカラに置き首都となっている。
 
 現在、トルコはEU加盟に申請をおこなっている。ドイツには約400万人のトルコ人が住んでいる。トルコとドイツとの経済活動は実に活発に行われている。しかしEU加盟が実現するとこのトルコ労働力が欧州に流れ込み、このまま行くと1500万人から2000万人の労働者が欧州各国に自由に入り込み欧州各国の労働市場が大混乱すると心配されている。首都アンカラは20世紀初頭から欧州の都市を模範に建設されている。公園を配し広い大通り(ブルバール)が街を走っている。キジライ大通りに立つとここがアジアであることを忘れてしまう程である。
 
 我が家には19世紀のトルコのアンチーク・カーペットが2枚ある。いずれも居間に敷かれて使用されている。赤と青と黄を主体として国花のチューリップが織り込まれている。壁に吊るして鑑賞しながら保存するよう言われていたが、日本の家屋には不可能なため敷いてしまっている。このため消耗が進んでいる。これまでお客さんが来ても未だこの絨毯についてなにかの会話があったかといえば、まったく無かった。日本の文化のなかに絨毯がはいったのは明治時代からである。シルクロードの東端の日本に絨毯文化が入ってこなかったのは何故なのか?不思議でさえある。この二枚のカーペットは十数年前の欧州駐在時パリで購入した。購入時トルコのカーペットについてよく研究した。

 そもそも、織物の起源は、ウラルアルタイの中央アジアだそうである。多くの異民族がアジアを移動していた。中央アジアの気候は厳しい。ゴートの毛でテントが編まれた。11世紀セルジュクがトルコとイランを占領してこの織物技術を広めてゆく。オスマントルコの時代、部族の定着が始まる。織物も定着した土地の名前と不可分になってゆく。こうしてマルマラ海沿岸のヘレケで制作された織物がオスマントルコの居城の修飾用となった。14世紀から15世紀、トルコ絨毯は欧州の王侯貴族に愛好され、当時の巨匠アーチスト例えば、ホルバインやヴァンダイクがトルコ絨毯を描いていった。こうしてトルコ絨毯はヘレケの他、ウサク、ベルガマ等々で良質なカーペットが作製されていった。現在、トルコのカーペットは中心的デザイン、シンボル、色彩を少しずつ変革させながらもそのモチーフを変えずに伝承されている。アンチークカーペットの中には、博物館でしか鑑賞できないものもある.我が家の二枚の19世紀アンチークカーペットもヘレケ産でその種の鑑賞用のものだが、居間で使用されその美しいチューリップの姿をみせてくれている。

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土耳古(トルコ)を東に東に

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href="https://livedoor.blogimg.jp/sonjin59/imgs/d/1/d1f2527a.JPG" target="_blank">map of Turkey

 深夜のイスタンブールを出た。ボスフォラス橋を渡るとヨーロッパからアジアとなる。橋から感慨をもってはるかボスフォラス海峡を眺めた。ヒリキは何事もないようにハンドルを握っている。彼は大学で自動車部に所属していた。当時の自動車部は自動車自体の構造とか修理とかを中古車を解体して研究するようなところで、かっこよくラリーに参加して女の子からもてるようなとこではなかったような印象があった。
 
 ”空冷ファンベルトの音が滑らかだな”
 
 ”アクセルワイアが踏みやすい”などと言いながらドイツシュツットガルトでVWのビートルを選んでいたのを想い出した。
 
 ”トルコからは夜運転することにする。”とヒリキが宣言した。
 
 ”夜走行して昼は着いたところを見学する。でないと、この旅は単なる車で走ったことだけになる。それでは意味がない。”ヒリキの主張はもっともだった。
 
 ”俺が運転するから文句を言うな”ヒリキはいい出すと頑固なとこがある。
 
 ボスフォラス橋を渡ると一路首都アンカラを目指した。距離約600キロ、東京から大阪までの距離ということになる。東名高速道路が出来て四・五年後のことだ。トルコのいわば主要幹線であるイスタンブールからアンカラまでは当然しっかりした道路があると思い込んでいた。

 確かに広い道路だがイスタンブールを出て100キロくらい走ると突然車が揺れだした。道路が洗濯板状態なのである。どうしてなのか舗装していない。いわば日本の戦後と同じ砂利をローラーで固めた道であった。強い風で道路の土部分が飛んで溝が規則的にできている。正に洗濯板なのであった。その道を後ろからどんどん抜いてゆくのが定期運行のバスである。屋根の上に荷物を積んで高速でぶっ飛ばして行く。
 
 ”なんていうことだ。”我々も時速110キロは出していた。
バスは130キロは出ている。それも中古のバスで洗濯板状態の道の所為か飛んでいるような状態で走っていた。
 
 ”あれはいつか事故を起こすぞ”ヒリキが言った。
 
 バスの次は二・三台のメルセデスベンツが抜いて行った。
 
 ”あのベンツは新品だぜ、どういうことなのかな?”理由が分からないがトルコの夜道を新品の大型ベンツが二・三台つながって走ってゆくのが奇妙だった。理由は首都アンカラで判明するが後に譲ろう。
 
 イスタンブールから300キロくらいを走っただろうか、道の右側にバスが転倒していた。バスから火の手が上がっていた。真っ暗闇であった。赤い火の手のなか脱出した乗客があえいでいた。老婆が頭から血をだしながら泣いていた。
 
 車を止めてバスに近づくが火の手であぶない。脱出した乗客に車内から水をもってきて渡した。他になにが出来るのか。言葉もわからない。連絡の取りようもない。ただ立ち尽くすだけだった。そのうち後続の車が何台か止まりトルコ語で緊急対応をしていたが、連絡を取るのだろうまた緊急発車していった。
 
 ”先を行こう。”
 
 ”我々に出来ることはここまでだ”ヒリキが言った。
 
 フォルクスワーゲンのエンジンをかけた。アクセルを踏むと現場から離れてゆく。またヘッドライトが前方を照らしている。何も無かったように車はスピードを増していった。
 
 ”あれが我々だったら、そのまま行方不明処理だな。”
 
 ゴジーが突然後部座席から声を出した。確かに車が燃えて書類もなくなって車の残骸と黒こげの遺体が残る。何週間後かに警察に届けられるが身元不明で調査停止となる可能性が高い。三人は突然怖くなって黙ってしまった。
 
 
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イスタンブール・グランバザールの秘術

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。
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ウスクダラ健康法

 朝空腹とコーランの音楽で目が覚めた。ドミトリーベッドの一角で朝のお祈りをしているアラブの青年がいた。お祈りは所かまわずというわけだ。彼らにとってアラーに祈ることはすべてに優先する。それも朝である。人間という人間は起きなくてはならない。疲れていたり、二日酔いなどで朝起きられないなど堕落の上にもほどがある。人間の屑である。まあそういう訳でお祈りに付き合って起きた。
 
 ゴジーもヒリキも起きていた。連れ合って朝食をとりに外にでた。一月末、早朝のイスタンブールは寒かった。着ているコートの衿をたてて近くのチャイハネに入った。三人はフランスのバゲットより少し塩気があるトルコパンと蜂蜜入りチャイを注文した。

 ある本によれば、東洋と西洋を分けているのは茶のアルファベットでのつづりだという。日本、中国では茶はcha ,インドからトルコまでchai,である。ところがギリシャからは、茶はte,the.teaとなる。CとTがアジアと欧州を分けるという説である。どうも結果文化論ではないかと思う。chaiでもteaでも茶が東洋のものであることは確かである。
 今日の予定を決めた。
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 ”昨日の話が心配だから日本領事館に行こう。”ヒリキが言った。
 
 ”役人に話したってしょうもないだろう。なにかしてくれるのか?”ゴジーが語尾を意味ありげに上げて言った。
 
 ”行方不明というのもなんだから一応アジアに車で向かったということは領事館に残しておこう”私が言った。
 
 ”分かったよ”不満そうにゴジーが従った。

 確か新市街のタキシム広場近くに領事館があったように思う。記憶に広場で食べたカバブのサンドイッチがあるからである。それ以外にタキシム広場には行った覚えはない。領事館を訪ねるとガランとしていた。入り口で目的は何かとトルコ人の受付が聞くので、

 ”これからイラン、アフガニスタン、パキスタン、インドに車で行くので届けに来た”と言うと、            
 ”じゃビザを取りに来たのか?トルコにビザは必要ない。

 ”当たり前だ、我々はもうトルコにいるんだから、と拉致があかない。 
 
 ”日本人領事館の書記官はいないのか”と尋ねた。
 
 ”いるが目的がはっきりしないと取り次げない”堂々めぐりが始まった。
 
 ”もう面倒だから帰ろう”とゴジーがしびれをきらして言った時、
 
 ”どうしましたか?” 書記官らしい日本人が通りかかって言った。
 部屋に通されて目的を言うと、
 
 ”困りましたネ、アジア方向は危険ですからね。領事館では承諾したとは言えないですよ。要するに責任取れないんです。”
 
 ”領事館は止めたんだが行ってしまったとしか言えないんです”何か不幸を予知するような言い方をした。
 
 ゴジーがそれ見たことかという顔をした。結局領事館に来た意味は無かった。日本の外務省が在留する邦人の為に尽力したなどの話はスリランカの津波災害の時以外この40年間聞いたことがない私は外務省など無用だと今でも思っている。税金の大浪費である。

 広場の近くのドネルカバブのサンドイッチを食べながら、グランバザールでも見学しようということになった。ガラタ橋をわたるとすぐにバザールの入り口が見えてきた。適当に車を駐車してバザールに入っていった。バザール内部に一歩入ると、とにかく暗い。目がなれるまでに時間がかかる。慣れた目に土むき出しの通路の左右に小さな店屋がどこまでも続いているのが見えてくる。

 屋根が掛かっていて明り取りがある。明り取りから入ってくる光と下から巻き上がるほこりとが出会ってきらきら光って見える。ほこりの光の乱舞である。
 皮革,生地、金銀、トルコ石などの宝石、骨董、絨毯、雑貨などの店が並ぶ。冷やかし半分で店屋を見て歩いた。

 フランス語には、出鱈目だが商売の極意を言う言葉として「マルシャン・ド・タピ」というのがある。もともと価額があやふやなものをいかに高く価値をつけて売るかという技術をいう。バザールはその商売技術の全てを見ることができる。絨毯屋に呼び止められた。
 
 ”そこの東洋の色男、絨毯を見てみてよ、そん所そこらの絨毯じゃないよ。知らないと思うからいうけど、世界に絨毯といや、トルコとペルシャだよ。トルコの糸はダブルノット、ペルシャはシングルだ。丈夫さが違う。平米40万ノッツの網目がある。御代は見てのお帰りよ。”

 上野のアメ横と変わらない。言葉があやふやな英語と日本語の違いがあるだけだ。絨毯が平置きされている。壁にはシルクやゴート・ウールの見事に織られた絨毯が吊り下がっている。この時は真面目に絨毯屋の説明を聞いていなかったが、後々十数年後に、絨毯に興味を持った私がトルコ絨毯を調べてみるとその店の質と価額は決して悪くなかった。むしろ騙されても買っておけば良かったと後悔するほどだ。現在ではもう本物のアンティーク絨毯は普通の値段では手が届かない。特にカサス地方のコザク、アナトリア地方のクラ、イズミール地方のミラ、イスタンブール近郊のヘレケ、ベルガマのアンティーク絨毯は博物館でないと見ることもできない。
 人のいいゴジーが宝石屋につかまっていた。トルコ石を見せられていた。
 
 ”宝石屋がトルコ石の原石が出るところを案内すると言ってるぜ。どうする?”
 
 ”我々貧乏学生だから金ないって言っても行こう行こうってしつこいだよ”
 
 ”まあそれも経験だし我々三人だから取って食うわけでもないだろう”行くことに決めて若い宝石屋を車に乗せて20分ばかりボスフォラス橋を渡ってアジアサイドに行くとトルコ石の研磨場に着いた。
 
 研磨場には四、五人が実際に石を研磨していた。どういうわけかゴジーが熱心に説明を聞いていた。
 
 ”安いらしい。目の前で研磨している以上本物だし買うことにしたよ。”あっさりとゴジーが150ドルくらいのトルコ石のついたペンダントを買っていた。誰のためか知らない。
 
 ”皆さんにお礼に秘密のトルコ式健康法を伝授しましょう”店の主人が言った。どうせたいしたものではないだろうとは思ったがせっかくだから教えてもらうことにした。
 ブロークンだが要領を得た英語で話しはじめた。
 
 ”ユーノウ・ザ・ワード コンフりクト? コンフリクト ミーンズ ストレス”
 
 ”ストレス カムズ フロム ユア デザイア(欲望)”
 
 ”イト イズ イージー ツー ノウ ユウ ハブ コンフリクト オア ノット”
 要するに葛藤を抱えた人かどうかは一目で分かると言っている。
 
 ”アイ トレエインド メニー イアズ イスラム テンプルズ””アンド ディスカバードシークレツ オブ ヘルス”
 
 ムスターファはイスラム教寺院で修行して健康法を発見した。
 
 ”シークレッツ イズ ブリージング” 秘術は呼吸法である。
 
 ”ファースト、(以降は日本語で訳して説明する。)足を肩幅に開く。膝は軽くまげる
 
 ”そして、息を吸う時足の裏の親指の付け根あたりに体重をかける。こうすると足が微妙に外に反り返る。息を吐くときは足全体に体重をかける。この時足の裏は地面にフラットになる。
 
 ”アンド ユウー アスピレート セイイング マホ ホエン インヘーリング、メッド ホエン エクスヘーリング。”吸う時 マホといい、吐くときメッドと呼吸する。
 
 ”ゼア イズ ポーズ”両手を手のひらを上にして臍の下五センチあたりにゆったりと組む。両手で楕円を組む。息を吸うタイミングで両手で作った楕円で大地のエネルギーを掬い取る。そのまま円を描いて上にもってきて顎の下まで持ってくる。今度は息を吐く。両手は顎の前で、下を向いた手の平のままもとの臍の五センチのところまでまっすぐに下ろす。
 
 ”アンド ユウ レイズ ハンズ アップ ツーヘブン” 息を吸うタイミングで真っ直ぐそのまま垂直に手をあげバンザイする。そして息を吐いて両手を左右に開いておろして行く。最後に手を最初の臍五センチに戻して瞑想する。
 
 ”ディス イズ イスラム ベストヘルス シークレツ”
 
 我々も一緒にやってみた。大地のエネルギーが丹田に満ちてくるような気がした。三人はこの方法をイスタンブールに着いた港にちなんで「ウスクダラ健康法」となずけた。健康法はインドカルカッタまで長旅の車から降りる度に実践した。1952年にブロードウェイでヒットしたのが「ニューフェイス」でヒット曲がウスクダラ ギテリケ アルドギリヤンウーというメロディーだった。江利チエミが歌って日本でもヒットした。憂いのウスクダラは雨だった。というような意味だときく。





 

回想のイスタンブール

  古の都コンスタンティノープルに着く(The alexander arrived Constantinople.)
 
 すっきりとした半曇りの空だった。早朝の甲板に出ると、藍と青の雲間から洩れた黄金色の光線が、丘の上に見えるモスクの薄茶色の丸い屋根と3本の尖塔に反射していた。

 前方に大きく陸地を結んで架かる橋が見え、その手前に低く安定した橋が横たわっていた。両岸は早朝の水蒸気色の靄が古い街の上を覆っているように見える。低く海峡にくっつくようにはじまる街は段々になって丘になり、丘には何本もの尖塔を抱えたモスクが天に話しかけるように伸びていた。モスクから単調だが深みのあるコーラン音調が流れては消え、街からはアナトリアの民族楽器サズの物悲しい音が聞こえてくるようだった。

 隣にゴジーとヒリキが来ていた。
 
 ”ここがイスタンブールか”
 
 ”そのようだな”
 
 ”あれがモスクか? ブルーモスクがあれか?”ゴジーがいつもの遠くを見る目で、自分に確認するように言った。
 
 ”ここイスタンブールに今いるなんて信じられない。”ヒリキがうめくように言った。
 
 マケドニアの王アレグザンダーの名前をもつ客船は、イスタンブールの沖に停泊した。そこからフェリーが客と車を運ぶ。イスタンブールで降りてゆく客は数十人のようだ。船長は正式な格好で船客を送り出した。
 
 ”グッドラック””良い楽しい旅を”降りる客と握手して別れてゆく。

 フェリーはヨーロッパサイドの旧市街のフェリー発着場に接岸されるようだった。船の中でイスタンブールの地図を開いた。イスタンブールはアジアとヨーロッパを結び、黒海とマルマラ海を結んでいる。ヨーロッパサイドは旧市街と新市街が自然の海峡の両岸にあり、ガラタ橋が両市街を結んでいる。ヨーロッパとアジアを結ぶのがボスフォラス橋である。
 
 ”豪華な船旅をしてしまったな。ところでみんな金はどの程度残ってる?。”
 
 ”まだ十分あるよ。どうして”ヒリキが聞き返した。
 
 ”どのようなことがおこるか分からないから最低三人の日本へ帰る船賃は残しておかないとな”
 
 ”それで幾ら残しておけばいいのかな”
 
 ”余裕を見て、そうだな一人15万円は残して置こう”

 <64歳になった今と同じような会話をしていたと思うとなにかおかしい。>

 三人は少し現実に戻って、各々の財布の中味を考えた。
 
 ”イスタンブールはユースホステルに泊まろう”まだまだ先の長い旅を思って、ヒリキが提案した。
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 車と船客はエミノヌ・ウスクダラからイスタンブールの土を踏んだ。
 ユースホステルは予約はしていなかったがオフシーズンだから問題ないと思っていた。スルタンアーメット地区にあった。エミノヌで降りた我々は地図を見ながら丘を登っていった。イエニセリレ通りが東西に旧市街を貫いていた。住所を見つけたり東西南北の方向については三人は一年半の漂白の旅から間違うことはなかった。ヒッチハイクで欧州を渡り歩いた。

 <東西南北が分からなければ命に関わることになる。いわば、命を懸けて身に着けた生活の知恵だった。地図一つでどこへでも正確に行ける自信が今もある。戌年だからではない。>
 
 ユースホステルへの道すがらが圧巻だった。イエニセルリ通りを西に少しゆくとグランバザールがあり、すこしゆくと左手にトプカピ宮殿が見え、さらにブルーモスクが巨大な姿を見せてくる。目指すユースホステルはこのスルタンアーメット地区にあった。旧市街のど真ん中の一等地にユースホステルがあった。その上マルマラ海が少し見える。
案の定ホステルは空いていた。二階建ての簡単な造りで清潔な感じがした。
 
 ”メイアイヘルプユウ?”薄くなった頭を撫でながら30代後半の受付のトルコ人が応対した。登録用紙に住所、名前、パスポート番号、何泊するか、旅の目的地等を埋めてゆく。旅の目的地にジャパンと書いた。
 
 ”車で旅しているらしいが日本までどう帰るんだい?”受付の男が聞いて来た。
 
 ”いけるところまで行きたいんだ”と答えると、
 
 ”そうだな、アンカラまでならそんなに危険じゃない”                 

 ”それから東はデインジャラスだ。イスタンブールの日本領事館で計画を相談したほうがいい。去年イギリス人で同じ道でインドを目指した青年が行方不明になったが領事館に届けていなかったので行方不明のまま放置されたと聞いているから。”諭すように言った。
 
 ”明日日本領事館に行ってみるよ、ありがとう”と返事した。

 二階にドーミトリタイプの清潔なベッドが並んでいた。一泊10トルコリアル、 約200円だった。シャワーを浴びて早速外に出た。
 一月のイスタンブールは、海からの風が冷たかった。地中海性気候で温暖ではあるが、気をつけないと風邪を引きやすい。
 
 ”昼飯何か温かいもの食べよう”
 
 ”トルコ料理何か知ってるか?”
 
 ”知ってるわけないだろ”

 ”とにかく探そう”
 騒がしい大通りを下ってゆくと左手に料理屋らしい店を見つけた。カバブと看板が掛かっている。
 
 ”ここにしよう”
 店内に入るとトルコ人で込んでいて皆昼食をとっていた。料理人が自分の腹の太さと同じくらいの肉を円筒の周りで焼いてよく切れそうな包丁で肉をそいでいた。
 
 ”あれだ あれだ あれ食べよう”中年の注文ききに指差した。それがケバブという料理だった。飲むまねをしたら、

 ”テュルキー?”と聞いて来た。
 
 ”イエス”と言うとラキという酒瓶が来た。飲むとギリシャのアニスの酒ウゾーと同じだった。ここはまだヨーロッパだった。
 最後にトルココーヒーを飲んだ。ギリシャよりずっと濃い味がした。
 
 昼食をとって外に出た。街路に面して6本の尖塔を持った巨大なモスクの姿があった。スルタン・アーメット・ジャミー・ブルー・モスクである。広場をはさんで左手にもさらに巨大な建築物がその壮麗な姿を見せていた。それがあのギリシャ正教の総本山アヤソフィアであった。三人は呆気にとられたようにその場に立ち竦んでいた。

 マケドニアの王アレグザンダーが東に向かって進軍を始めた時、その拠点はここイスタンブールだった。そしてペルシャを征服する。東征はさらにアフガニスタン、インドを目指さんとする。その時アレグザンダーは突然の病にかかって夭折する。その遺体はここイスタンブールに葬られた。考古学博物館にはアレグザンダーの棺がある。ローマの大帝コンスタンチノスによって建設され、コンスタンティノープルとよばれたこの街がイスタンブールになったのは1930年3月のことでしかない。ユスティニアヌス帝の時ビザンティン帝国の都となり、1453年メーメット2世のオスマントルコの首都となる。

 現在イスタンブールほど人種と宗教の坩堝となっている街はない。そして歴史上何度かの人種の虐殺事件を引き起こしてきた。アルメニア人、トルコ人、ペルシャ人、ユダヤ人、ギリシャ人、アラブ人、クルド人、そして、ギリシャ正教、キリスト教、ローマカトリック、ユダヤ教、マホメッドの各宗派が複雑なモザイク構造社会を造り出している。

 人類文明のクロッシングロード・イスタンブール。三人は壮麗なモスクと重厚なアヤソフィアの前にただ立ち尽して過ぎし人間の業の深さを想った。(続く)

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地中海ロードス秘話

エーゲ海ロードス島・シーン1
 船室の一角に朝の太陽の光が差し込んでいた。快適な睡眠だった。清潔なシーツと柔らかい枕から身を起こすとウッと背伸びをして光の差し込む窓の外を見やった。窓外に白い家が丘の上まで連なっている陸地が見えた。

 船はロードス島経由でイスタンブールに向かっていた。早朝ロードス島に着いていた。身繕いをして隣室のドアを叩いた。ゴジーもヒリキももう起きていた。
 
 ”ロードス島らしいな。どうする。”ゴジーが言った。
 
 ”船会社の説明では上陸してもいいし船に滞在していてもいいらしい、船が大きすぎて岸壁にはつけない、フェリーで岸壁まで行って上陸するので島に渡ると夕方まで船には戻れないと確か言っていた。”ヒリキが説明した。
 
 ”ここまで来て島を見ないでどうする。”
 
 ”島になんか見るとこあんの”千葉弁でゴジーが聞いた。
 
 ”まあ行ってみよう、船にいてもやること無いだろう”
 
 ”そうだな”と皆が納得した。
 
 食堂で朝食をとると三人は島への上陸時間に予定されていた朝9時に甲板に集まった。夕方5時に港に集合する約束で、既にフェリーが横付けされていた。寄航時に使う階段からフェリーに移動した。フェリーに乗った客はあまり多くないようだった。見飽きているのかもしれない。ガイド用のパンフレットが渡されていた。ヒリキが英語の説明文を見ながら解説してくれた。
 
 ”ロードス島はエーゲ海と中近東の沿岸地域との交差路の位置にあり、地球上の三大陸、アジア、ヨーロッパ、アフリカのミーティングポイントでもある。”
 
 ”おい、ヒリキ、ミーティングポイントも日本語に直せよ”とゴジーが冷やかした。
 
 ”ロードスとはローズから命名されたともいう。エーゲ海の薔薇という意味だ。古代ギリシャ時代の最も富んだ島であった。歴史では紀元前4000年に植民され、海上貿易で栄え入港玄関には太陽神ヘリオスの像が立っていた。が現在では鹿の像に替わっている。”
 
 ”エーゲ海の薔薇か。なるほど、見えてきたよ。”
 
 フェリーが表玄関のマダラキ港に横付けされた。真っ青な空、紺碧の海、真っ白な家々に太陽が降り注いでいる。一月末なのに全く冬を感じない。すばらしい気候と風景であった。

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 <ここで歴史を紐解いてみよう。>                                  このエーゲ海の薔薇と呼ばれる豊かですばらしい景勝の地は動乱の歴史に揉まれてきた。紀元前164年にローマの属領となり、その後330年以降ビザンティン帝国の重要拠点となる。7世紀にはアラブの手に落ち衰弱してゆく。1309年エレサレムの聖ヨハネ騎士団のものとなり、1096年から開始された十字軍以降の西方キリスト教世界の砦となった。16世紀オスマントルコが占領。教会をモスクに変えた。この時期から国際都市としてのロードスが歴史から消えてゆく。そして再度歴史に姿を現すのが、20世紀初頭からのイタリア軍の占領であった。1944年英国空軍の空襲で多くの歴史遺産が崩壊した。ギリシャ政府は1961年から文化遺産の保存に努めた。遺産の保存に貢献したのが、文化庁の長官にもなった「日曜日はだめよ」の女優メリーナ・メルクーリであった。
 
 現在日本ではロードス島は「ロードス島戦記」として、パソコンユーザー向けRPGでのほうが有名となっている。剣と魔法によって支配される架空の世界フォーセリアに存在する「呪われた島」ロードスを舞台に剣士バーンが「ロードスの騎士」として成長してゆく物語である。
 
 三人はマダラキ港から船客の後について島行脚にでかけることになった。マダラキ門をくぐると中世期のオーベルジュ(ホテルと言う意味)のあるセミ広場に出る。少しゆくとロードス島で最も美しいといわれるアルギロカストロ広場に出る。少し登るとアレグザンダー広場から騎士団通りが続いている。石造りの要塞風の家が道の両側に迫ってくる。道は聖ヨハネ騎士団の居城に突き当たる。

 この島は今でも十字軍の時代からの聖ヨハネ騎士団の陰が色濃く残っている。当時旅行中の私達には騎士団とは何なのかよく理解出来ずにいた。旅に出ても自分のもっている以上のものは得ることが出来ないと聞いたことがある。昔アメションという言葉があった。行っただけの旅をそう表現した。蓄積された経験と知識があって初めて旅は意味を持つ。
 
 それから十数年後の1980年代初頭、私は作家松本清張先生の作品取材調査に随行してフランス北西部謎の村ジゾールにいた。ジゾールは聖堂騎士団伝説の村である。ロードスが聖ヨハネ騎士団であればジゾールは聖堂騎士団の村であった。
 
 ”それでジゾールの謎と言い出したのはいつごろからですか”

 ”聖堂騎士団の謎とはなんですか”先生が丁寧に村から派遣された役人に聞いていた。分厚い眼がねと独特な唇が印象的だった。

 先生は当時生命保険の会社が宣伝用に無料で配っていた小さなノートを一杯日本から持ってきていてそれに細かい字を書きつけていた。私はフランス語の通訳をしたが、私も伝説が現実となって現れてきていることに驚いた。村の人達が700年にも亘り語りつぎ現在でもジゾール城財宝の謎とされているのがこれである。当時先生はバチカンの暗部ともいわれるアンブロシアーノ銀行についての取材も急いでいた。何らかの関連を直感されたのかも知れない。
 
 <60年代、一人の民間人ジェラール・セドがジゾールの謎「聖堂騎士団は我々の中にいる」を突然出版した。>

 ジゾール村で豚の飼育業を始めた彼は村のロジェ・ルホワという老人を雇う。彼が中世からの城ジゾール城に伝わる伝説を語りはじめる。地下80メートルの牢獄の奥に中世独特の建造物がもう一つある。それは地下の城砦である。セドは村に資金を保証して信頼をかちとると地下を掘り始める。そして地下80メートルの地下に埋まったもう一つの城址を発見する。そしてこの地下城址からのトンネルは何十キロにものびて,はるかセーヌ河岸まで続くという。舞台の主人公が聖堂騎士団という騎士たちであった。自分達の最後に騎士団はその財宝を地下に埋めたという。

これが<ジゾールの財宝の伝説>である。話は1095年のローマ教皇ウルバヌス二世の時代までさかのぼる。教皇はセルジュクトルコに占領された聖地エレサレムの奪還をフランスの騎士たちにクレモナの教会会議で呼びかける。フランス王シャルルはフランスの騎士と中心にエレサレム奪還に立ち上がる。十字軍である。結果シリア、パレスチナにエレサレム王国や十字軍王国が出来上がった。ロードスの聖ヨハネ騎士団もそのなかの一団であることは言うまでもない。                                      
 聖堂騎士団は12世紀のはじめエレサレム王国で巡礼道の治安を守るためフランスの騎士を母体に成立され、1128年には修道会となり教皇の許可を得て欧州全体からの寄付と広大な領地を有して近隣の領主への金融にまで乗り出してゆく。その強大な権力は教皇まで動かしたと言う。しかし十字軍の活動は1291年までで終了してゆく。強大化するオスマントルコの前に衰退してゆくのである。結局資金と権力を失って騎士団は次第に追い詰められてゆく。絶対権力を有する王制の前には騎士団は邪魔となった。ドイツ騎士団、聖堂騎士団、そして聖ヨハネ騎士団は伝説を抱えて滅びていった。東方世界から膨大な略奪を重ねた巨大な財宝を隠して。財宝の一部は現在ルーブル美術館などの西方の美術館を飾っている。ルーブルのサラモトケのニケーやバチカンのラオコーンはロードス島で制作されたとされている。ロードス島を領地とした聖ヨハネ騎士団に属する財宝であった。

 松本清張先生とのジゾールの謎の逸話は当時の文芸春秋の記事となった。財宝が発見された話はまだない。現在、これらの騎士団の存在は完全に歴史から姿を消したようにみえるが、騎士団の秘儀や団結の掟はフリーメイソンとして残っているし、また十字軍の御旗は赤十字のシンボルとして目にすることが出来る。2003年のイラク戦争に際して、ブッシュ大統領は米国と連携する軍を十字軍と称した。連携した日本の自衛隊も十字軍だったことになる。イスラム世界からみると十字軍は完全な侵略者でしかなかった。十字軍が悲惨に終わったことは歴史が証明している。派遣した王朝と為政者はそれが為に滅びた。歴史は正直に雄弁である。
 
 ”腹がすいたな、どっかで昼飯だ” ゴジーが言った。

 タベルナを探した。聖ヨハネ騎士団城の反対側を見るとお土産屋が並んでいた。奥に目をやると料理屋らしい店があった。店にはいって、
 
 ”ミックス、スブラキ スリー、プリーズ” と注文すると、
 
 ”アリガト、サンコスブラキ。ネ”誰が教えたのか奇妙な日本語が返ってきた。マグロ漁船の日本人の船員が教えたのかもしれないと思った。ロードスのワインとトマト、オリーブ、カジキ、マグロ、サラダ菜をオリーブ油と塩と胡椒で味付けしたスブラキは旨かった。
 
 帰りがけに聖ヨハネ騎士団城跡に立つと壁に「Fert,Fert,Fert」と文字が彫られていた。ラテン語だった。「耐えろ、耐えろ、耐えろ」栄枯盛衰のなかで天涯最後、諦めきれぬ騎士たちの怨念の言葉が聞こえてくる。

 視線を暮れなずむエーゲ海に移すと霞んではいたが対岸トルコが見える。何世紀にも亘って対岸まで18キロしかない距離にイスラム教徒とキリスト教徒が対峙して来たのだった。その時突然昨夜のカジノを思い出した。ゼロの目が出て一瞬にして多額のチップが消えた。”見てなさいよ!明日仕返ししてやるから”女が激しい目をしていた。怨念と執念の目だった。(続く)
 

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エーゲ海上の喜劇「ヤッテミーオとカジーノ」

  エーゲ海巡航船上のカジノ
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 もう愛車となったアフリカ戦線の名車VWを乗せて、オランダ船籍の豪華客船「アレグザンダー号」は漆黒のエーゲ海を順調に航行していた。突然贅沢なフランス料理を食べ旨いイタリアワインを飲み過ぎた。腹ごなしに甲板にでて波をさいて進む方向に歩いた。船尾から船首まで歩くと結構の腹ごなしになった。ゴジーもヒリキも船室でゆったりしているのだろう。

 <よくデュッセルドルフからギリシャまで3000キロ余り無事に運転して来られたものだ。>ーーー疲れていて当たり前だ。今夜はゆっくり寝ようと思った。船内に戻って、食堂の前を行って、エレベーターの前に立った。上の階から人が降りてきた。着飾った中年の婦人だった。降りて目が逢うと、
 
 ”カジノはどこなの?”ーーー
 ときれいな英語で聞いて来た。イギリス人らしい。ネクタイを着けて背広姿の私を船のスタッフだと思ったのだろう。確かにこのオランダ船籍の船にはかって殖民地だったインドネシア人らしい東洋人が働いていた。そういえばイギリス、ロンドンには香港からの中国人とインド人を多く見たし、フランスにはベトナム人が多かった。旧殖民地と宗主国との関係は簡単に切れるものではない。夫婦の離婚よりも複雑でその関係は深く長く続かざるを得ないもののようだ。
 
 ”確か、このコリドーを行ってダイニングルームを過ぎてボーディングの中だとおもいますよ”と言うと
 
 ”あなたクルーではないの?あらご免なさい”慌てて言った。
 
 ”大丈夫、気にしないでください”ーーー
 
 ”有難う”
 
 英国人らしく丁寧だが慇懃に言うと、有閑マダムは離れていった。その時だ。なるほど船上のカジノが見たくなった。

 貧乏学生にはカジノとはフランス語の授業で「モナコにはカジノがあります」という文章で出合っただけの存在だった。幸い背広姿だしネクタイもしていた。

 決心してカジノルームの前に立った。ーーー中を窺うと船にこんなに人が居たのかと思うほど込んでいた。受付で船室ナンバーと名前を言うと通してくれた。赤い絨毯が敷かれて天井からシャンデリアが輝いていた。ルーレットらしい台が三台とブラックジャックといわれるトランプを使う賭けの台が数台並んでいた。奥にはバーのカウンターがあって中年太りの夫婦や葉巻をくゆらしながらルーレットの台を見ている人達で一杯だった。

 若い美人の女がディーラーをやっている台が一番人を集めていた。台の周りに十・五・六人が座れる椅子がある。その周りに二列になって人が台を囲んでいる。私は後ろに立って成り行きを見守ることにした。数字が並んでいる。1から36までの数字と0である。それに1st12.2nd24.3rd36 と描いてある枠、1〜18.19〜36 の二枠、奇数と偶数の二枠と赤と黒の枠が盤面にある。
 
 ディーラーはフランス語で客にオージュ、オージュ、張った!張った!と促すと客が一斉に盤面に誰が張ったか分別できるように工夫された赤、黄色、みどり、ピンクなどのチップを張り始める。チップは米国ドルだった。一ドル(360円)が最低で二ドル、五ドル、十ドル、二十ドル、五十ドル、百ドル(36000円)と分かれて金額がチップに書かれていた。高額のルーレット勝負だった。ディーラーがホイールと呼ばれる円盤にボールを投げ込む。止まったところが当たりの数字である。数字は赤と黒に分かれている。ーーー現在ではこんなこと常識だが当時知る人は少なかった。
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 台の周りを見ていると先ほどエレベーターでカジノの場所を聞いて来たマダムが座っていた。自分の前のチップが貯まっていた。調子がいいらしい。彼女なりの法則で必ずディーラーがホイールを回した後、時間ぎりぎりまで待ってチップをディーラーに渡して張ってもらっていた。紙に出目の数字を記録していた。チップは一ドルだった。フィナーレ・スリーとかフィナーレ・ファイブと言って張っていた。フィナーレ・スリーとは最後の数字が3となるもので、3,13.23.33の四つのチップ、フィナーレ・ファイブも同じく四つあるので八枚渡してそれぞれ張ってもらっている。その日の記録でよく出ている末尾数字に賭けている。これが以外と来るのである。数字がくるとチップは35倍となってきていた。周りの人達が彼女に乗り始める。彼女の運に便乗し始める。それがたまにくると盤面の周りがドット沸く。美人のディーラーは無表情でチップを渡してゆく。明らかに胴元の大赤字である。何度か客側が勝って沸いた。ーーー客はそこで止めるべきだった。

 ディーラーが若いスリムな男に代わっても流れは変わらず客側の勝利が続いた。マダムは同じ手法で張っていた。そろそろここで大勝負とマダムがチップのほとんどを高額チップに替えた。そしてフィナーレスリーとコールした。百ドルチップ四枚がディーラーによって張られた。客のほとんどがマダムの運に賭けた。テーブルが大小のチップで山のようになった。ホイールでボールが回っている。最初シャーと乾いた音を立てて高速で回っていた玉がしばらくするとカランカランと数字を囲むエッジとの衝突音となる。ボールが不意に止まった。0ゼロだった。テーブル周りがオーとどよめいた。ゼロには誰も張っていなかった。赤黒、偶数奇数、三分の一も全て胴元の総取りだった。ディーラーはさっきと同じように無表情に長いひしゃくのようなものでチップを集めてゆく。マダムがゆっくり席を立った。ーーーあれほどあったチップが一瞬で消えていた。
 
 ”明日も勝負よ!”ーーーマダムが若い男のディーラーに悔しそうに言った。
 
 ディーラーは狙った数字に落とせるのだろうか。私にはとてもそのように思えない。落とせれば客と組めば大もうけが出来てしまう。客と組んで大もうけした話を聞いたことはない。しかし人間には神業ともいえる技術が見につくことがある。狙って狙って一定のスピードでホイールを回してボールを投げ入れると狙った数字が出る確立が高まることは確かであろう。要は執念である。ロシアの作家、ドストエフスキーは極貧のなか、多額の借財を抱え、人生を賭けてルーレットに挑んだ。そして執念で勝利し自殺せずにすんだという。
 
 <人生は一回しかない勝負のようなものである。>しかしルーレットとは違う。ルーレットは必ず出る目がある。一つの目があるのみである。そしてその目が全てである。ほかには無い。人生には出る目は複数ある。どの目が充足と福であるかは目を出す自分自身が決めることだ。
 
 カジノの窓から外をみると暗い海に白い波が立っていた。エーゲ海の上をアレグザンダー号は人達のさまざまな人生を乗せて一路東に向かっていた。(続く)


 

暗い地中海と満天の星

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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プトレマイオスの見た天空の恒星と昴

 三人は腹ごしらえに甲板に出た。アレグザンダー号はその巨大な図体を順調に前進させていた。夜の地中海は天空の星と満月の光で照らされて薄明かりだった。

地中海の島ロードス島では一年の内300日が晴天だという。<月にむら雲などという風情はない。>

満天の星が輝いている。天元を仰いだ。オリオンの星座がみえ、その下にこぐま座が続く。少し東方向のおおぐま座にひしゃくの形の北斗七星が独特の形を広げていた。

星を形としてとらえたのは古代エジプト時代だという。メソポタミア文明にも星の形の記述が発見されたが、星座として今日の姿としたのは西暦100年頃、アレキサンドリアの天文学者プトレマイオスだという。オリオン座、ふたご座、等古代ギリシャに由来する星座をまとめて「トレミーの48星座」としたことにより成立したそうである。現在では国際天文学連合(IAU)が定めた88星座の分類により,名称の定義と各星座の範囲が厳格にきめられているとある。

各恒星は星座内での光度の順番によりギリシャ語のアルファベットでα、β、γと名づけられている。土星はかに座の恒星であり、火星はおうし座の恒星である。勿論α星であろう。ギリシャ時代に星座には全て神話が形成された。神話を基にホロスコープ(星占い)が出来上がっていった。ただ、さんかい座のプレディアスだけが例外でこの星が昴(スバル)である。

昴は神話からも自由で独立している。
 
夜のエーゲ海の空は雲ひとつない。空に点々の星ではない、正に降るような星屑だったことを覚えている。
 
ゴジーと非力は肌寒くなったのか、船室に戻っていった。私は少し感傷的になって、暗い海と満天の空を厭かず眺めていた。甲板の向こうにいた若いカップルがふざけあって嬌声をあげていた。
 ストラスブルグの下宿をでて、ドイツ、スイス、オーストリア、イタリア、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャを既に走ってきた。そして夜漆黒のエーゲ海を渡っている。(続く)
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陽光と至福の地中海クルーズ

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 中国の詩人欧陽修は人生の五つの幸福をこう表現した。
 一に 曰く、 長寿
 二に 曰く、 富裕多財
 三に 曰く、 庚宇(健康)
 四に 曰く、 崇尚 (修徳)
 五に 曰く、 其命善終
 
船上の客の多くが上の三つの幸福の条件を満たしていた。ただし四と五を犠牲にして。

 
図体の割りに不釣合いな高い音調の汽笛が鳴った。船は岸壁から徐々に離れ始めた。きれいに洗浄され磨かれた甲板からヨーロッパ大陸の南端ピレウスの港とギリシャの街、かすむペロポネソス半島が見えた。紺碧の地中海、真っ青の空、まばゆい太陽、白い家々、なんというすがすがしさか。ルーブルの名匠の絵も大英博物館のダイヤとエメラルドの王冠もかなわないめくるめく色彩の乱舞だった。自然の景観だった。三人はその地中海にいた
 
ゴジー、非力、と私の三人は朝早くギリシャ、ピレウスの港に停泊する、ザ・アレグザンダー号に乗船した。1000人の客を収容できる豪華客船でオランダの船籍だった。アムステルダム、マルセイユ、ナポリ、アテネ、イスタンブールを結んでいる。船の名前には必ず定冠詞ザがつくと中学校の英語の授業で習った。その通りアレグザンダー号のパンフレットにザ がついていた。この世の中に固有で一個しか存在しないものに定冠詞をつける。他に、複数形の固有名詞、(山、諸島、連邦、家族)水に関する固有名詞(川、海、海峡、半島)、乗り物(船、列車、飛行機)にザがつく。

しかし神様をあらわすゴッドにはザはつかない。太陽神を頂いたエジプト、アポロンを核とする多神教のギリシャ、そしてローマ、神は複数だった。複数の多様な神に定冠詞はおかしいからつかないのだろう。ギリシャ語とラテン語にはきっちりとした冠詞の語法がある。我々がロゴス(論理)、パトス(感情)などと使う言葉はギリシャ語の抽象名詞だが冠詞がしっかりつく。その上名詞が活用する。その上名詞の活用にあわせて冠詞が活用する。古代ギリシャ語はソフォス(英知)の結晶だった。現代のギリシャ人と古代の人達は本当に一緒の人種なんだろうかと失礼ながら思った。

 我々は二等船室の客だった。三泊四日の旅に一人120ドル(4万3000円)を払った。当時日本で大卒の初任給が約2万円の時代だった。2か月分の給料だから現在では40万円くらいに当たる。豪華な旅の対価だった。

 船室は二人部屋で二部屋用意されていた。オフシーズンなのか船客はまばらだった。船室には、シャワーとトイレ、二段ベッド、ソファーと椅子、スーツケース置きがあり床に絨毯が敷かれていた。スーツケースでなく寝袋つきのパックを置くと妙にうまく収まった。丸い窓がありそこから波柱を見ることができた。

 ベッドに横たわるとふっくらしていてこれまで宿泊したどのホテルより快適だった。

 すぐ三人はアレグザンダー号の探検に出かけた。エレベーターで二階上がると大きな食堂が一等、二等、三等と分かれていた。ビリヤードとブリッジルームがあって舞台があるダンスフロアとカジノルームが続いていた。迷子になるような広さだった。後部甲板にはプールがあり白いサンデッキが規則的に並んでいた。出会う客は中老年のいかにも裕福なカップル、中年の男と若い愛人風の女、幸せに見える家族、新婚旅行なのかいちゃつく若いカップルが多かった。皆アムステルダムから乗ったのか、マルセイユからかきれいな身なりで時間と金をもてあましているような風情だった。いざと言うときのために持ってきたリュックの一番下で窮屈そうにしていたしわくちゃの背広をプレスにだした。夕食はネクタイが必要だった。

 船室は私とゴジーが一緒だった。シャワーを浴びてベッドに横たわると気持ちがよくて夕食まで寝た。船は地中海を巡航していた。

 時計を見ると午後5時半だった。二、三時間寝た。

 ”よく寝てたな”ソファーで本を読んでいたゴジーが言った。
 
 ”背広プレス出来上がってるぜ、サービスで無料だってよ、一日五枚分ローンドリー無料だそうだ。”
 
 ”そうか、じゃー片っ端からローンドリーに出そうぜ”私が言った。
 
 ”お前そんなに着てるものあんのか?”二人は顔を見合わせて笑った。

 背広に着替えてネクタイつけると馬子にも衣装か貧乏パッカーには見えなかった。隣の部屋のヒリキを呼んでディナーにでかけた。エレベーターに乗るとでっぷり太った中年の夫婦と一緒になった。ブロンドの髪の毛を巻いてしわが目立つ顔をこちらに向けて婦人が我々を一瞥した。指に何個もの光るものをしていた。麝香の匂いがエレベーターを満たしていた。
 
 ”こんな女じゃ立つものも立たないな”分からないだろうとゴジーが日本語でつぶやいた。
 
 女を見るとこっちに厳しい眼を向けた。直感は恐ろしい。
 
 二等食堂はそんなに込んでいなかった。タキシードの蝶ネクタイのボーイが我々を案内して海の見えるテーブルについた。テーブルはコットンのクロスでカヴァーされていてナイフとフォークが何本も並んでいた。
 
 ”おい食べ方知ってるか”ゴジーに聞いた。そんな時代だった。
 
 ”周りをみてれば分かるよ”ゴジーが答えた。
 
 そういえば本格的フランス料理など食べたことは無かった。日本も1968年には洋食はあったが本格的フランス料理など帝国国ホテルでもいかないとなかった。三人とも上野の精養軒どまりだった。

 それから43年を思う、なんという変わり方だろう。今では日本には何でもある。ないものの方が珍しい。全てを経験してしまった。

<全てを経験して覇気のない老女のようになってしまった。>

胸躍る興奮と手が震えんばかりの感動ももう久しい。たった40年のことだ。社会には偽装と粉飾が満々ている。若者はすぐキレル。キレテ簡単に人を殺める。変化はこの40年間の間で鮮明になった。実は変化の担い手は自分達ではなかったか?

 ”本日の料理をご紹介します。”ウェイターが料理の説明を英語で始めた。

 ”まずアントレにフェンネル風味のサモンのマリネ、スープにアスパラのポタージュ或いは、コンソメ、メインにサーロインステーキ、子羊のロティ 或いは すずきのブリュイイェ”説明を聞いて分かるわけがない。
 
肉か魚かということで注文した。
 
”オールライト サー”慇懃に答えたウェーターの横顔を見た。----横顔が嗤っているように思えた。料理は素晴らしかった。
 
”旨すぎ”感動したヒリキがうめいた。ワインはイタリアの酒ヴァルポリチェッラを頼んだ。
 
窓の外はもう闇に包まれていた。よく磨かれた窓ガラスに三人が映っている。ワイングラスを挙げてガラスの二人に乾杯した。気持ちよく微笑する二人の顔が印象的だった。
 
”チップを置くんじゃないか。----いくら置こうか?”ヒリキが気がついて聞いた。
 
”そうだな、あと二日あるからサービスが落ちるとやだから---2ドル置こう”とーーー大枚紙幣を置いた。

 テーブルを立つとウェーターが飛んできてサンキュウ、サンキュウとお世辞を言った。満腹で腹ごなしにボードルームを見て歩いた。ーーーカジノがあった。(続く)






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豪華客船でアテネからイスタンブールへ

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 清水の舞台から飛び降りた。オランダアメリカン、豪華客船に車を乗せてアテネからイスタンブールへ
 アクロポリスのパルテノン神殿で旅の余情に浸ってゆっくりして、オモニア広場の安ホテルに戻ると受付の若いギリシャ青年が各国から流れ着いてきたパッカー達の相手をしていた。
 
 ”ヘイ、アクロポリスは歩いてどのくらいかーーー地下鉄はないのか?”

 アメリカの若者がハッシシの匂いをプンプンさせながら大声で鼻にかかるようなアメリカ英語で聞いていた。アメリカ人ほど海外に出ると傍若無人な国民はない。自分達が一番えらい人種だと思っている。パリで出会った中年のアメリカ人ビジネスマンは、シャンゼリぜ大通りで、
 
 ”これはチャンゼライゼストリートか?”ーーーと聞いて来たことがあった。

 エルメスはハーミーズだし、チョコレートのゴディヴァはゴダイヴァ、エトワール広場はイートイレ広場となる。少しは他国の文化にも関心を払うべきである。

 ”ヤサース、ヤサース”と挨拶するとギリシャの若者が、にっこりして、

 ”パルテノンはどうだった?”と訛りのある英語で聞いてきた。

 ”パーフェクトだ。アテネはすばらしいよ。ところで今日の夕食だが典型的ギリシャ料理を食べたいんだが、”と聞くと、地図を広げてプラカ地区を指した。

 ”ここにいけばタヴェルナが並んでいるからよさそうなとこに入ればいい”と教えてくれた。
 
 少し休んで夕方ぶらりと歩いた。教えられたプラカ地区に出かけた。地区のそばまで来るとアラブの音楽のような独特の音楽が耳に入ってきた。ギリシャ音楽でブズキと言うらしい。
 客が一杯居て、騒がしい店をみつけた。民族衣装に身を包んだ中年女がテーブルまで案内してくれた。
 
 ”ヤサース、何にするの”
 
 ”グレコ・オイノス、オイノス”ーーーギリシャワイン、ワインとコイネー(大学で習った古代ギリシャ語)で言うと”ネーネー”はい、はいと応じてくれた。分かったらしい。女は指で黄色い色のボトルを指して手を口に持っていって美味しいよという素振りをした。

 ”ネーネー”と相槌をうった。レッチーナという酒らしい。テーストしてみると松脂の風味がした。料理にスブラキという串焼きを注文した。香辛料が利いていた。
 レッチーナは旨かった。瞬く間に一本がなくなった。三人は二本目を注文して、やっと明日からどうしようという気になった。アテネから先に道路はない。あるのは地中海だけだった。
 
 ”東に向かうんだから船に車を乗せられればそれでトルコに行けばいい”とゴジーがスブラキを食べながら言った。
 
 ”車を乗せる客船があるかな”首をひねってみたが誰も答えはない。
 
 ”明日朝アテネの港町ピレウスに行って聞いてみよう”気持ちよいレッチーナの酔いでどうでもよくなってきた。レッチーナはもう三本目にはいっていた。値段も聞かずに食べ飲んだ。なんてたって三人にはストックホルムのアルバイトで貯めた大金があった。
 
 翌朝早く眼を覚ました。松脂が効いたのか気持ちよく眼が覚めた。受付にピレウスまではどう行くのか聞くと、道が複雑だから地下鉄で行くといいと路線図を渡してくれた。三人は外に出て地下鉄の駅を探したが反対に道に迷って、<タクシーにしよう>と決めた。
 
 ”ピレウス”とタクシーに言うと、なにも言わずに車をだした。<ピレウスまで地下鉄で20分から30分だとホテルで教えられていた。>車は郊外を行って海辺の見えるところまできたがもう一時間以上走っていた。メーターは入っているが、相当の金額のようだ。

 ”ピレウスはまだか?”と強く英語で言った。
 
 ”ここさ!”と運転手がぶっきらぼうに答えた。
 
 ”110ドラクマ”1100円だった。大分回り道をされたらしい。ここで何か英語で文句を言ってみてもしょうがない。道が分からないのだから。タクシーに乗る前に値段交渉をするべきだったと後悔した。ゴジーが80ドラクマを渡した。30ドラクマ足らないとギリシャ語で騒いでいたが、周りに人が集まり始めると捨て台詞を残して行ってしまった。騙したことがばれると思ったのだろう。
 
 ピレウスの港は広かった。歩きまわって歩き回って疲れ果ててカフェリオンで休んだ。縁台のようなテーブルでコーヒーを飲んでいると赤ら顔のギリシャ人が寄ってきた。
 
 ”あなた日本人?日本人めずらしい。わたしギリシャ人”ーーーあっけに取られている三人を見るとどうだという顔をして、
 
 ”はだこて、よこはま、こうべ、うつくしい、日本だいすき”、ヨーロッパの端っこのピレウスで日本語を聞いた。
 
 ”あなた達なにしてる?”
 
 ”イスタンブールまで車のせる客船探してる”と中国人の話す日本語のようになって聞くと、
 
 ”くるまのせる、なに?”要するに難しい日本語は分からない。
英語でトルコまで車も一緒に乗せられる客船の会社をさがしてる”と言うと、
 
 ”大丈夫?お金高いよ!”と言う。
 ギリシャは海洋国とされる。大きな客船で車を運べる国際間船便は多数あると思っていた。事実は違っていた。確かに海運国だがギリシャ領域内の海運ビジネスはギリシ国籍の船にしか認められなかった。ミコノス、ロードス、クレタなどの地中海クルーズはギリシャ国籍の船が独占していた。このため外国国籍の船はギリシャを寄港地とするビジネスをせざるをえず、必然的に大型客船で国際間航行をしていた。
 
 ”オランダのかいしゃの船、車はこべる。知っている。あんないする。”
はるばるきたぜ!だこて! 奇妙な音階で歌っていた。船員の昔を懐かしむようにブズキ音調と混じった音階だった。”泣いたてきみが、泣いたてきみが、、、
 連れられて行ったのは、オランダアメリカンシップカンパニーという会社だった。大きな船の写真が飾ってある。
 
 ”キャン アイ ヘルプ ユウ?”奥から背の高い紳士が出てきた。目的とイスタンブールまで行きたいのだがと言うと、
 
 ”ポッシブル、ウィズ 120ドル(4万3000円)、イーチ”<明日朝現在寄航中のアレクザンダー号が出るという>

 ”1000人が乗る船だという。船はロードス島、ミコノス島を経由してイスタンブールまで行くという。勿論車も乗せられる。プールがありカジノもあるという。3泊4日でイスタンブールに着く。
 
 三人は顔を見ながら頷いた。それくらいしたっていいだろう。必死になって貯めた金だが惜しくなかった。金を払って予約した。ばら色の明日からの旅を想った。ピレウスの港の空と紺碧の海がそれを約束しているようだった。だこて ないたてきみがーーー初老の元船員が歌っていた。昔愛した肌のきめ細かい東洋の女を懐かしむように。(続く)
 
 
 

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紺碧のエーゲ海とアクロポリス

これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。>


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  欧州漂白そして1969年初頭アクロポリスに佇む。
 (今から45年前のことを思い出して書いている。)

 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 たまたま仕事でパリでフランスの歴史上人物アルベルト・カーンが残した未現像写真を世に顕すというプロジェクトに携わった。19世紀半ば大富豪の父親の遺産を相続したアルベルトは体が不自由で歩けなかった。そこで彼はプロの写真家を数十名雇う。地球の地点を指定して写真家を派遣した。自分が見てみたい地球上の地点だった。写真家達は数年かけて撮影してパリの彼のもとに作品を残したのであった。その大半が未現像で残っていた。中に日本を撮ったものがあった。侍と色町、裸の芸者までが撮影されていた。彼はオリエンタルリズムのなかにエグゾティズムロマンスをもとめていたのであろう。想像の日本を愛した彼は、パリの一角に日本庭園を造っている。残念ながらこのことを知る人は少ない。
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 現在ではネットで何でも情報が手に入るし、飛行機にのれば何時間後には目的地にいる。便利この上ない時代となった。しかしすぐ手にはいると判ると人間はそのことに興味を失いがちとなる。

 アルベルト・カーンには世界を見ることは不可能だった。不可能だから想像を逞しくすることが出来た。想像は執念となった。そして実際の写真が乗り物となりその地に彼を連れていくことが出来た。

 <写真は魔法の絨毯となった。>
 
織り目がしっかりしていて、模様に陰影があって、人物が織り込まれていて、使われて色が変色していてもいい。そのほうが魔法の絨毯にふさわしい。今カメラ業者がどんどんとフィルム生産を止め始めている。デジタルに専業するという。確かに変色せず永久に保存できるデジタルが良いのかも知れない。しかしこのことは、テープがCDになりCDがMDにと言うような変化と同列ではない。人間の眼は耳よりずっと五感のなかで保守的だからである。

 <百聞は一見に如かず>

と言う。眼で実際に得た情報は脳裏に深く刻まれる。立体物の陰影は人生の経験と結びついてきらびやかな想像の世界を創造することが出来る。このことは、最近の全ての事を刹那的に解決しようとする現象と無関係ではない。確かにデジタル技術により、瞬時に対象物を捉え瞬時に記録として残留させ、永久に質の劣化のない映像が永続する。
 <しかし完全でない人間が完全を求めるの余り自分の存在を忘れてしまうということはないか?>

 <セピア色に変色して古びた旅行カバンにしまわれてもなお変色したがゆえに時代の過ぎたことが胸に迫るということはないのか?。>

 <忘却されずに大切に保管されたことへの伝えられる人間の情感をどうするのか?。>
 存在するものと時間が意味するもの。よく考えてみる価値がある問題だと思う。

 表題に戻ろう。エーゲ海の根元ともいえるギリシャ第二の都市テッサロニケを早朝後にした。アテネまで約800〜900キロと聞いた。高速道路がアテネまで続いている。テッサロニケを出ると車窓からオリンポスの山々が見えてくる。ギリシャの土壌は白く耕作に向いていないのか羊の放牧が見え、葉っぱが風にゆれて銀色になったり濃い緑に反転したりするオリーブの林が続いていた。オリーブの木は日本から出てこのとき初めて見た。背丈が2メートルから3メートルくらいでしっかりした幹をしていた。調べたらなんと300年実をつけると言う。硬質の木でさまざまな木工細工に適しているという。有史以来人間の生活とともにあった。オリーブの記述は旧約、新約聖書に何度もあらわれることから良くわかる。

 腹がすいて高速を少し出て、小さな村に入っていった。なにか温かいものが欲しかった。老人が座っていた。
 
 ”ヤサース、タベルナ?タベルナ?”と車を降りて痛い腰をさすりながら繰り返した。
 
 ”ヤサース”老人は言って手で向こうを指した。
 
 ”カラ・エカリストウ”ありがとう、と覚えたてのギリシャ語を使った。

 白っぽい石をつみあげた建物がタベルナだった。中に入ると昼時で四、五人が食事をとっていた。

 ”ヤサース”と言って三人がテーブルに着いた。皆突然の東洋人で驚いたような顔をしていた。店の主人はこちらを向いて<何か食べたいのか?>というようなジェスチャーをした。当たり前だろと思ったが、
 
 ”ネー、ネー” と相槌をうった。隣を見ると中年の婦人が挽き肉となすとチーズの煮た温かそうなものを食べていた。無礼とは思ったが、これこれと指差した。それがムサカという代表的ギリシャ料理とは後で知った。コーヒーを注文するとネスカフェかと聞いてきた。
 
 ”ネスカフェだってよ。田舎だからインスタントコーヒーしかないのかな”勝手に類推して
 
 ”ネー、ネー”と言うと、立派な入れたてのコーヒーが運ばれてきた。あとで謎が解けた。西欧式コーヒーをネスカフェと言い、ドロドロで茶碗の底にコーヒーの粉末が残るギリシャ独特のコーヒーをカフェというのだそうだ。食事を終えて勘定を聞くとなんと三人で30ドラクマ(約300円)だった。

 車を出すと道を聞いた老人がまだ座っていた。この村の道路標識みたいだった。手を上げて

 ”エカリストウ”と言うと白く生えた顎鬚を撫でながらゆっくり頷いた。ギリシャの田舎、老人の周りの時がゆっくり過ぎてゆく。

 高速に入って時速120キロで飛ばした。標高2911メートルのオリンポス山を後ろにラリサの街を過ぎてゆく。前方に標高3000メートルのパルナソス山が雪を頂いて見えてくる。この山の裾野を越えるともうアテネである。(続く)
 

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紺碧のエーゲ海

エーゲ海を望む。Aegean Sea

早朝のエーゲ海が見える。藍より濃い緑色の海に雲間を破って糸すじのような光線がさしていた。テッサロニケの街は今眠りからようやく覚めたように乳白色の霞を映している。

三人はフーと深くため息ついてその美しさに見とれていた。アレクサンダー大王の妹であるテッサロニケの名前からつけられた街だという。紀元前三世紀のことだそうだ。現在世界遺産となっっている。
 
“来たな”
 
”来てしまったな”ヒリキが言った。

 神絶対の一元文明から人間を主体とするヘレニズムを興したギリシャに来た。貧乏だったがどうにか食いつなぎながら、北欧でアルバイトし、がむしゃらに滞在した欧州の一年有余を想った。
 
”やれば出来るじゃないか。
 ゴジーが頷きながら二人の顔を見ていた。昨夜の口喧嘩のあと一人で真夜中を運転し続けたことを言ったのか、それともここまでの欧州での自分の経験を言ったのかどうでもいいことだった。ヴェニスで買った紺のビロードのジャケットとジーンズがとてもよく似合っていた。ヒリキは黙って、ただ美しい光景を脳裏に焼き付けているようだった。

 ”海岸まで行こう、ホテルなど後だ。”
 街を縦断した。
 
 ”なんて美しいんだ。”
 空気は乾いていて朝日がまぶしかった。

 海岸は砂浜ではなく船着き場が続いていた。車を無造作に道路わきに止めて歩きはじめた。そういえば昨日のソフィアでの夕食から何も口に入れていない。健康な食欲で腹がクーと鳴った。通りの名前はわすれたが、見事な海岸通りが街の涯まで続いていた。突然、海岸からすこし入った脇道からなんともいえない食欲をそそる匂いがする。
 
 ”何かな”三人が期待でニヤっとした。真っ白に壁を塗った料理屋から匂ってくる。
 
 ”おい、タベルナって書いてあるぜ、看板見てみろよ”
 
 ”タベルナで食べるのかよ”ヒリキ君が面白くない冗談をいった。
店屋の中を外から窓沿いに窺ってみた。
 
 ”あれ!もしかしたら、たこだよ、たこ焼いてるぜ”
 
 ”うそだろ、ヨーロッパじゃたこは怪奇でグロテスクで食べっこないよ”

 ”じゃーあれは何だよ?”
 
 皆で目を凝らした。小さなたこをまるのまま焼いていた。たまらず店屋になだれ込んだ。昼食用の準備をしているところだった。
 
 ”オーキー、オーキー”店屋のウェイターが呼び止めた。

 ”だめだ、だめだ、”まだ店屋は開いてない。
 <ギリシャ語ではイエスはネー、ノーはオーキーというらしい。>
 なんか反対の語感がするがすぐ覚えた。腕時計を見せて11時からだからあと一時間散歩でもして来い、らしいことを言った。
 
 ”ネー、ネー”といって、たこの焼けているほうを見て食べる真似をして見せた。たこはパーフェクトだった。食べる前に水で薄めると白濁するウイキョウの酒ウゾーを飲んだ。独特の味と鼻にぬけるウイキョウの香りが正面のエーゲ海の青さと軽い空気とよく合った。

 この種の酒にはアニスでつくるのとウイキョウでつくるのとがあるらしい。アニスの酒はアニゼットといって南仏に多い。アニスはギリシャ、小アジア一帯に自生するハーブで強い太陽のもとで生育する。古代エジプトではミーラの保存用にこのアニスとクミンが使われたと言う。

 現在では、日本でもハーブ園などで多く見ることが出来るし、自宅の庭でも生育を楽しむことができる。
 
 ギリシャ料理にどのようなものがあるのか分からず、注文したらカバブのような串焼きが出された。香辛料が強く利いていた。なにかヨーロッパとは違う香りが鼻からぬけていった。
 
 ギリシャは大学時代の私には、特別に因縁深かった。新約聖書を読みたくて古代ギリシャ語を学んだ。大学には古代ギリシャ語の講座があった。古代ギリシャ語はコイネーという。現代日常のギリシャ語とは全く違うもので(神は愛である)、(ホー テオス アガペ エスティン)などの世俗から離れた表現を勉強した。

 ギリシャ文字は今も昔も同じだから発音することができた。意味がわからずギリシャ語のメニューを声をだして読んでみるとほかの二人が感心したように私を見た。それよりウェイターが東洋人がギリシャ語を読むなんてという顔をしていた。一から十まではコイネーも一緒だった。エネス、デューオ、トレイス、テスアレス、レンテ、エクス、オクト、エネア、デカという。
 勘定をすませて店を出た。お腹が一杯で幸せだった。小さな子供達が学校の帰りか私達東洋人を見つけて珍しいのか、
 
 ”ヤサース、ヤサース” ハロー、ハローと叫んでいた。昔の自分達の子供時代を想った。昭和20年台半ばの自分達の幼年時代を想った。状況は全く違うがイメージが重なって見えた。(続く)
 
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バルカン半島を行く

 今から45年前のユーゴスラビア。

淋しかった。暗かった。ユーゴは第一次世界大戦の引き金になったし、現在でも内戦が続いている。

多くの国に分裂した。

民族や宗教の違いが生む争いのみぞは本当に深い。

幸い日本にはバルカン半島がもつような深い溝はない。

若い時期にバルカンを通過した想い出は当時気がつかないまでも、なにか異様なものを自分に遺した。

 クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルヴィア、マケドニアがどう違うのか理解できますか?

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 バルカン化という言葉があるそうだ。宗教、民族、風習、言語、地域などの要素で分裂、混迷に至り統一から分裂にいたる現象を言う。

 今まさにトリエステからテッサロニケまでのバルカンを辿ろうとしている。1969年ここはユーゴスラヴィア。チトー大統領がユーゴとスラヴィアをまとめて成立させた国家だ。ほかにバルカン半島にはアルバニアとブルガリアがある。ベオグラードでは中心街のホテルに泊まった。ベオとは白いと言う意味でグラードとはスラブ語で街とか言う意味だ。ドナウ河とサヴァ河の合流する丘の上に築かれた町である。朝起きると街にでた。ホテルに到着したのが夜だったので全く街の輪郭はつかめなかった。

 一歩ホテルを出ると葉を落としているが街路樹が整然としていて美しかった。対面にオフィスビルらしい建物があり、金髪の若い女性が働いていた。確かにヨーロッパの町だったがイギリス、フランス、イタリアなどの西欧の雰囲気と違う。
 吐く息が白い。寒い。

 角のカフェーで飲み物を注文した。舌足らずに聞こえるスラヴ語で若い娘が注文を聞いてくれた。笑顔はない。しょうがないから働いているという風情だった。    

 三人は英語で聞いてみた。
                                    
 ”独身なの”。
 はじめ、からかわれたと思ったのか表情がかたい。飲み物を持ってきた時、ゴジーがカメラを取り出した。 

 ”撮っていい?”彼が聞いた。                                    
”ノー、ノー、 バットホワイ?”彼女が聞きかえした。                  

 ”ビコーズ、ユー、ベリープリティー”ゴジーが言った。                  

 彼女が初めて笑窪をつくった。顔がわれて笑顔になった。それではと思って、現地通貨ディナールがなかったのでイタリアリラを見せたら全く無視された。フランスフランはどこの紙幣という顔をした。ドイツマルクの厚くしっかりした紙幣をみせたら計算できない。仕方なく米国ドルで一ドル渡した。三人分のコーヒー代だった。一ドル360円の時代だった。
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 ベオグラードはサヴァ河とドナウ河の合流点を見渡す丘の上にあった。すばらしい眺めだった。丘の一番高いところにカレメグダンという公園と要塞があった。サヴァ河とドナウ河を見下ろす戦略上完璧な街だ。ケルト人がこの地に前三世紀に拠点を造った。その後スラブ系民族が移住し、オスマントルコがその後移住する。歴史上この街は40回破壊された。最近のNATOの空爆は記憶に新しい。

 三人は生まれてはじめて中欧の街を歩いた。出会う人達の表情が硬い。だが道を聞くと身振り手振りで親切に教えてくれる。公園には年老いた人達が日向ぼっこをしていた。何時間も動かず、通過する人達や足元にまで飛んでくる小鳥たちの動きに見入っていた。自分達の青春の日々を思い出しているのか表情が時々緩んだりした。

<旅はいろいろな姿を見せてくれる。>

 旅は人生と同じだと言う作家がいた。人生に幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、があるように、旅も、出発し、多くのことを得、学習し、エネルギーを使いはてて、やがて終わる。小さな、目に見える人生を経験するため人は旅に出るような気がする。

 ホテルに戻った。チェックアウトの時間だった。すばやく荷物をまとめて我らの愛車VWは次の都ブルガリアのソフィアに向かった。

 当時のパスポートを取り出して、ユーゴとブルガリアの税関の印を捜した。ひとつGURBULAK HUDUT KAPISIというのがある。多分それであろう。冬季オリンピックのあったサライェボ、スコピエを経由するアドリア海沿いを通る道もあったが一直線にソフィアに向かった。高速道路だったかどうか忘れた。問題ない道だった。ブルガリアの首都まで約7〜800キロだったろう。時速100から120キロの限界で飛ばした。それでもソフィアに着いたのはもう夕方だった。腹ペコだったのでホテルを捜す前にレストランを捜した。ベオグラードより寒かった。聞くと標高550メートルあるそうだ。ヨーロッパで一番標高が高い首都だそうだ。

 ソフィアという首都に入るとコンクリートの建物が目立つ。それも現代的で洗練されたコンクリートの建物でなく、無数の醜いコンクリートのアパートの群れである。殺風景でとても首都の歴史など感じない。それでも中心街の旧市街には聖ソフィア教会がありローマ時代の遺跡が残っていた。聖ネデリア広場という中心の普通の居酒屋に入ってビール、とビーフストロガノフらしいスープを頼んだ。疲れていた。チェコのビールでピルゼンの冷たいビールが食道から胃に入っていった。ゴジーだけが元気だった。食べたら自分が運転するからギリシャまで行っちゃおうと言った。

 ”おいおい”と思った。

 ”お前は体が人一倍元気だけど俺らはへとへとなんだぜ!”

 ”ひとのことも考えろ!”

言い争いになった。その時黙っていたヒリキが言った。

 ”どっちでもいい、喧嘩はよせ!”

 幸い食べるとまたエネルギーが補給された。高速道路からのソフィアの印象は最悪だった。醜いコンクリートのアパートの中から脱出するように夜中のギリシャ行きがはじまった。ゴジーが居眠りしないように四六時中横で話しかけた。いや休まずなんでもいいから質問して答えさせた。

 高速道路だった。朝六時を過ぎてようやく白々と空が明けてきた。ギリシャとの国境に着いた。ギリシャの第二の港町テッサロニケは近い。丘を越えた。前面に白々と明ける空の下、未だ眠りから覚めないで沈んでいる町の灯がきらきらと光っていた。

 テッサロニケの街だった。二日でバルカン半島を縦断してしまった。(続く)

 
ベオグラド

ユーゴスラビア〜ブルガリア〜ギリシャを行く



 朝靄にけむるヴェニスの街が見えた。後ろ髪をひかれるようにヴェニスをあとにした。ヴェニスホテルに二泊した。受付で支払いを済ませた。幾らくらいだったか覚えていない。覚えていないくらいの値段だったのだろう。陸地側のヴェニスの町は想像のヴェニスとは程遠くむしろ工場地帯のような乱雑さがあった。美しく最高峰の文化の粋を築き上げたヴェニスを乱雑でむしろ退廃した地域がバックアップして支えていた。この二律背反は、ついには辿り着いたインドのカルカッタまで二万五千キロの全ての現象に共通していた。

 <貧富、美醜、信義と裏切り、反抗と盲従、顕彰と侮蔑、平等と偏見、自由と束縛、愛と憎しみ等々が一枚のコインの表裏一体をなしていた。>
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 いったん信義が崩壊すると倍の憎しみが返ってくる。これからゆくバルカン半島、ギリシャとトルコの有史以来の反目、アラブ諸国間の主導権闘争、インドとパキスタンの戦争、全ての地域に大きな問題が横たわっていた。

 我々はまずユーゴの西端の町トリエステに向かった。トリエステの町はアドリア海に面して後背に切り立つ崖の山を有していた。海に面して左手にバルカン半島、右手にイタリア半島が見える。バルカンすなわちギリシャ文明とローマ文明の分水地点がこのトリエステの町である。

 車窓から見る町の建物はたいへんクラシックで中世を思わせた。歴史を見るとこの町はかってローマ帝国の主要な町で、その後ビザンチンに属しさらにヴェニスの属領となり1328年にはオ−ストリア帝国となりユーゴに帰属したのはつい何十年前のことであった。住民のほとんどがイタリア人でありその対抗策として多くのスラブ人が送り込まれた。当然言語の違い、文化の違いが相克を生んだ。古めかしいが統率のとれた町並みをみるとその中に人種と文化の違いから大きな相克が存在しているのが理解できないくらいである。

 わたしがいたフランスの街ストラスブルグがそうであった。アルザスロレーヌはドイツとフランスの間の戦乱の炎の舞台となった。住民はある時はドイツ人となりまたある時はフランス人となった。ストラスブルグの中心にあるカテドラルの中に文字はない。また尖塔は一本しかない。住民の眞の願いが集約されているように思えた。

 我々日本人は海という自然の国境で囲まれている。海水浴に行ってこれが国境とつながっているとは考えない。国境を無法に越えると捕らえられたり射殺されたりするという現実を知らない。考えないから無関心となる。無関心だから無用心となる。隣国が日本人を拉致しても気がつかず関心を払わなかった。国境という概念に甘いのである。だから余程の教育を強制した時代以外には国家という概念にも余り関心をもたない。隣にいる同じ日本人という人種には過度なまでのアノマりーを発揮するのにだ。

 車はVW独特の空冷エンジンの音をさせながら順調にトリエステの町を過ぎてユーゴスラヴィア領を行った。リューブリアナ、ザグレブを通過した。ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを目指した。現在ではクロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビアという国になっている。1969年当時は全部がユーゴスラヴィアであったことは言うまでもない。ベオグラードで一泊してブルガリアの首都ソフィアを経由してギリシャの港町のテッサロニケに向かう。
 
 東欧のユーゴスラヴィアに入ると町並みが一変する。暖色で明るいイタリアからはいったせいか特に寂しい。人々の顔に笑顔が消える。眉間にしわのある人が多い。貧しい。これが共産主義国の実体なのか。資本論にこの寂しさについての説明はなかった。
 途中で高速道路わきの休息所に寄った。
 
 入ると簡単なスープとサンドイッチなどがおいてあった。受付カウンターのようなところで注文すると、

 <”そこの注文書になにが欲しいかチェックしな”> と受付の男が命令した。

横柄な態度でむかっとしたが、こちらもトリエステからなにも食っていないで腹ペコで従った。欲しいものに×をつけてもってゆくと注文書に判を押してはじめてサンドイッチとスープが手に入った。ガソリン購入にはパスポートを見せた。
 早朝のトリエステから我々がユーゴスラヴィアに到着したのは,もう夜中だった。(続く)愛車VWベオグラド
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