ばら色の日々(50年前の地球散歩)

還暦からが大切な人生です。一寸の光陰軽んずべからず。これまでの73年をふまえて新しい挑戦まで真実を語っていきたいとおもいます。片道切符に500ドル。若さで過ごしたヨーロッパ。1969年欧州での滞在を終えた3人の仲間が3万キロのシルクロードの冒険に出た。フランスからカルカッタまでの陸路をVWで。今から50年前の地球散歩の記録。

雑感

シルクロード横断を記述する前に 雑感
 一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を体験し、シルクロードを車で横断した。今から39年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。そんな中「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦を出る時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルを有するかだけの違いである。しかしニートだけがわからない。親からの援助で親の家に住み何もしない。保護のなかで外との接触をしない。エネルギーは燃えない。このまま親の援助がなくなると政府の保護にはいり生活保護をうけることになる。問題はこのニート達である。解決のない解決を求める人達にどう対応してゆくのだろう。
 世代という違いがある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時代が解決してゆくのかも知れないと思う。

Dahau to Strasboug 1968 autumn

StrasbougStrasboug

Dahau to Strasboug 19684

ダハオからストラスブルグの下宿に凱旋(財布に6000フラン)
 南ドイツの強制収容所跡が脳裏に残ったまま、ミュンヘンを経由してライン河を渡り対岸のフランス・アルザスの県都ストラスブルグに3ヶ月振りに戻った。石の建物で一寸東京駅に似た駅舎に着いたのはもう深夜に近かった。バスもなかったので思い切って駅から下宿のある郊外のホーエンハイムまでタクシーに乗った。欧州に来て始めてのタクシーだった。駅から五、六キロであった。いつも自転車で大学まで通った道をタクシーでいった。下宿の前まで来た。下宿先のヒッケル家は大工家業でもありもう寝静まっていた。玄関のベルを鳴らした。中からいつも世話になってばかりいたおかみさんのシモーヌが出てきてくれた。タクシーで帰ってきた貧乏学生の私を見て唖然としていた。タクシー代はあるのか心配そうにしていた。ジェ・アセ・ダルジャン(金はふんだんさ)と言うと信じられないようなふりをした。下宿代は一ヶ月100フラン(8000円)だった。お土産にシモーヌにドイツで買ったゾリンゲンの調理道具を買っていった。シモーヌは寝たばかりの旦那のフェルディナンと息子のピエールをわざわざ起こして帰ってきた私のために夜食とアルザスのリースリングワインで乾杯してくれた。小さかったが心のこもった歓迎パーティだった。お土産を皆に手渡すとヴレモン!(本当か)と言いながら喜んでくれた。私のストラスブルグへの小さな凱旋だった。
 そのフェルディナンもシモーヌももうこの世にいない。ピエールは美容師のクリスと結婚して大学の医学部で働いている。もう50代だ。この世で確かなのは唯一時間が過ぎ去ってゆくことだけだ。死ぬということが必ず待っている。一緒にラインの支流に小船を出して釣りをよくした大工のフェルディナン、大好きなラパン(野うさぎ)料理とアルザスの名酒リースリングの白ワイン辛口を愛したフェルディナンも屈託のないパ・ド・プロブレム(人生問題なし)が口癖のシモーヌももうこの世にはいない。シモーヌは街の百貨店で売り子のパートをして生活を助けていた。シモーヌが言った。北欧のアルバイトはどうだったの?私は言った。パ・ド・プロブレムさ、6000フランも貯めたよ。え!6000フラン!セパヴレ(うそでしょ)。本当さ、北欧で皿洗いと工場でダブルで働いたんだよ。そして貯めた。フェルディナンもシモーヌもあっけにとられていた。
 そして次の日から又大学へ通った。講座はもう始まっていた。先生は同じでまた帰ってきたかと言って迎えてくれた。モージェというフランス語の教科書の最後の方にまで進んでいた。先生からフランス語を教える資格を取れる試験があるが受けてみないかといわれた。挑戦した。もう一歩のところで落ちたと先生から聞いた。慰めだったのかもしれない。こうして2年目のストラスブルグの日々が過ぎていった。(続くシモーヌとフェルディナン

大金懐にヒッチ 西ベルリンをでる。1968年秋

今なら400万円くらいのお金になるだろう。                  そのくらいの大金をもって西ベルリンからヒッチハイクでダハオという初めて聞く街に向かった。どういう経路を行ったのかいまはっきり覚えていない。確か二日かかった。トラックは南ドイツに向かっていた。アウトバーンの標識にミュンヘンの文字が見えた。40歳代の中年トラック野郎は英語はできなかったが、もうはげが目立つが金髪で歯がタバコで黄色かった。ダハオという街に住んでいた。南ドイツから西ベルリンに食料を運ぶ長距離をやって長いとわかった。
南ドイツのダハオという街がどのような所か全く知識のないまま長距離トラックに乗ってダハオに着いた。静かな街だった。南ドイツ独特の服装をした人びとが行き交っていた。街のZentrum(中心)でおろしてもらった。ダンケゼアと叫ぶとビッテとにっこり応じてくれた。とりあえず中心の小さなホテルをとった。しばらくしてダハオの街を見ようとホテルの受付にいろいろと英語でたずねた。そこでここに強制収用所があったことを聞いた。アウシュヴィツは知っていた。ダハオについては全く知らなかった。教えられた道を行った。強制収容所跡があった。門があり無料で見学できるようになっていた。中にバラックが並び鶏舎小屋のように二階ベッドが続いている。ガス室があり、記念館には歯、髪の毛、囚人服が展示されていた。この収容所はドイツでの最初の強制収容所で当初はナチス突撃隊が敵外者を拉致し監禁するための施設であった。映画「戦場のピアニスト」の舞台となったとも言われている。ミュンヘン郊外のこの町ダハオに1933年の1月30日のナチス政権が樹立され同年の3月22日に建設されたと記録にあった。建設当時5000人の収容を目的としたが、1933年から1945年までの12年間に20万6000人以上の収容をしたとあった。その大部分の収容者が死んだ。その歴史からまだ23年しか経っていなかった。収容所の芝生は青々としていた。芝生の下に死んでいった無実の人間の叫びが聞こえるようだった。その時から日本では全く意識したことのない事、ユダヤ人とは何者?が私の永遠のテーマとなった。なぜヒットラーはユダヤの民をこのように絶滅せんとしたのか。シェクスピアは「ベニスの商人」の中でユダヤ人のシャイロックに語らせている。借金のかたを生きている人間の肉で返せと。
 現代の世界、米国ブッシュ政権がアフガニスタン、イラクと戦争をすすめている。日本も自衛隊を派遣している。世界は米国の覇権のもと動いている。ドルが世界通貨であり、そのほかの通貨はカジノのチップみたいなものでドルに変換できるから実体があるだけだ。ドルで借金を抱えたものは生きた自分の肉体を切り刻むしかないのであろうか。「赤い盾」という本があった。現在生じている全ての現象の由縁をユダヤ資本ロスチャイルドから説きほぐした。今、日本でもライブドアの堀江社長が逮捕され大騒ぎしている。株の100分割だとか、粉飾決算だとかいっている。テクニカルなことに惑わされてはいけない。その背景は何なのかしっかり考えるべきではなかろうか。(続く)

1968年 秋 ベルリン

1968年秋ベルリン(カイザーウィルヘルム教会とチェックポイントチャーリー
 ホテルからカイザーウィルヘルム教会の崩れた姿が見えた。街路樹のプラタナスの木から葉っぱが散りかけていた。ドイツ皇帝ウィルヘルム1世と鉄血宰相ビスマルクにより成立したドイツ帝国を記念して1895年に完成したネオロマネスクの教会だそうだ。1943年の連合国のベルリン空襲で破壊された。現在破壊されたまま保存されている。広島の原爆ドームを想い起こさせた。連合国はドイツに原爆を使っていない。ドイツには多くのユダヤ人が強制収容所にいた。原爆はユダヤ人が発明した。
 壁を見に行った。チェックポイントチャーリーを通って東ベルリンを見たかった。Uバーンを使ってチャーリーに着いた。検問所だ。検問所の手前に博物館があった。いかに多くの人間が東から西に逃げいかに東に殺されたかを説明してあった。西と東の検問所間は50メートルくらいだったか。真ん中に鉄条網で区切られ道が、くの字にまがっていた。壁は東によって建設されたので検問所も東が作ったと思っていた。西から東に向かうときのほうが厳しかった。聞くところこのチャーリー検問所は西が作ったもので東ドイツを経由して西ベルリンに入る連合国側の検問所ということだ。このほかにA検問所、B検問所があった。チャーリーとはC検問所のニックネームである。
 長い壁が続いていた。東ベルリンに入っていった。住民の姿が見えない。集合住宅のビルは古ぼけて黒っぽくすすけたような色をしていた。さみしかった。
1987年、このベルリンの状況の中ヴィムヴェンダース監督が「ベルリン天使の詩」という映画を撮った。1991年私は仕事で同監督からの日本からの投資要請に応えて当時の上司を説得して「世界の涯まで」を製作したが、製作にかかった1989年ベルリンの壁がくずれた。映画はテーマを大きく変更せざるを得なくなった。完成された映画は評価されなかった。しかし私には大切な思い出の映画である。
 ベルリンには三、四日程度滞在した。ホテルに滞在して、しっかり観光してアイスヴァインなどのドイツ料理を食べた。金を使えば滞在は快適になった。しかしどうも面白くない。金を使う観光旅行をしに欧州にきたんじゃない。幸いベルリンは陸の孤島であった。ベルリンから西ドイツに行くには東ドイツを通るしかない。普通は汽車か飛行機を使った。調べたらヒッチする方法があった。長距離トラックを見つけるのだ。これは面白い。荷物集積場でトラック運転手を探した。居た。西ベルリンからダハオに向かうのだそうだ。ダハオがどこだかはじめ判らなかったが西ドイツであることは確かである。そこから汽車にのればいいと臍を固めた。涼しさを増した10月初旬朝トラックで西ベルリンを後にした。

 ブランデンブルグ

ストックホルムで大金をためてストラスブルグに帰る。1968年夏

大金40万円を懐にフランス・ストラスブルグに帰る。
 ストックホルムで約3ヶ月必死にアルバイトして40万円の大金が貯まった。5000クロナであった。日本の大卒初任給が当時2万円程度であったから20ヶ月分ということになる。物価の変遷をみてみる。コーヒー一杯の値段である。(東京銀座)昭和20年(1945年)5円、昭和25年(1950年)30円、昭和30年(1955年)50円、昭和35年(1960年)60円、昭和40年(1965年)80円、昭和45年(1970年)120円 そして現在の銀座でのコーヒー一杯は800円くらいだろう。1968年の値段を100円とすると実に8倍である。すぐに比較はできないが当時の40万円の金額を理解してもらえると思う。この大金をもってストックホルムをでた。金ができたので欧州エクスプレスでストックホルムの中央駅を出発した。また来ることもあるだろうと思っていたが、その後1979年会社から派遣されて欧州に10年近く滞在したが、どういう風の吹き回しかストックホルムを訪れていない。不思議である。とにかく、フランス、ストラスブルグまでの経路を決めた。まずベルリンで壁を見ること、ベルリンから飛行機でフランクフルト、フランクフルトからライン河沿いに黒い森(シュヴァルツヴァルト)を経てストラスブルグに帰る経路だった。もうすでに初秋、乾いた風に落ち葉が舞う。湿度が極めて低い北欧の秋、肺に入る空気は軽い。汽車はスエーデンの大学町ウプサラを過ぎて一路ドイツとの国境に向かう。国境で係官がパスポートのチェックにきた。スエーデン出国の判がおされて国境の街マルメからドイツ国境の街リュベックにフェリーでバルチック海峡を渡った。リユベックからベルリンは近い。車窓から北ドイツの穀倉地帯がみえる。針葉樹林の多いドイツはフランスに比べると森が暗い。太陽も幾分赤い。黄色味をおびたフランスの太陽とはやはり違う。ドイツに入ると皆が破裂音のきついドイツ語を話していた。あたりまえのことだが、面白かった。スエーデン語はゲルマン系なのかノルマン系なのか知らないが、ダンケがタックでやはり似ていた。耳に聞こえる感じはドイツ語よりねばっこい。日本でいえば東北弁ぽかった。
 ベルリンに着いた。西ベルリンの中心部のホテルにとまった。ホテルにしっかりとまったのは欧州滞在でこれが何度目だったか、ベッドのシーツが快適だった。

1968年 夏 白夜のストックホルムIII

どうしているのだろう あの時の仲間たち (1968年夏 ストックホルム) 39年前のほんの一時期に縫合しただけの友達達、その後全く会ってない人たち。しかし今とてもよく顔立ちと着ていたものと彼らの笑顔を思い出すことができる。ほんの一、二ヶ月の邂逅でしかなかった。ひとなつこい笑顔で親分肌だったH氏、ベトナム脱走兵だったジミー、話すと舌足らずの英語が気になった。本国との連絡はついているのだろう。フォルクスワーゲンに乗っていた。スエーデンは中立国で脱走兵がたくさんいた。郊外の中年スエーデン夫婦宅に居候してベッドを三人で共有していたI氏、合気道3段で東欧の大男を熨していたM氏、フィンランドからの学生アルバイトでとてもかわいい金髪のピルヨ。その妹のヒルカ。ほんの短い北欧の夏を一緒に過ごしたかけがえのない友だった。みな20代だった。若かった。H氏からはトマトケチャップ工場で、I氏とは駅の傍のレストランで、M氏とはホテルのレストランで、ピルヨとヒルカとは帆船で一緒だった。ベトナム脱走兵の米国人のジミーとはよくディスコで遊んだ。ガムラストンという街の中心街は古い昔の北欧街の姿を残していた。その一角にアパートを借りたが、ふるくて趣はあったが不潔だった。ガムラストンにディスコがあった。ビートルズで踊った。よくスエーデン女をナンパしようとしたが、金髪スエーデン女はとても傲慢だった。肌が合わなかった。街のなかはバスを交通手段とした。小さな街なのでどこに行くのも不便はなかった。ストックホルム大学に留学していた日本人もいたが、話が面白くなかった。
 アルバイトの方は依然としてダブルで働いた。場所は変えた。少しずつ条件はよくなった。帆船アフチャップマンでの警護のアルバイトは合気道三段のM氏から紹介を受けてやった。日本人はみな空手をやると思っていたのか特に条件がよかった。一時間10クローナ(800円)になった。三日働くと当時の日本での大卒初任給だった。お陰でこの仕事だけで20万円相当をためることができた。仕事が終わるともう夜中の2時ころだった。まだ太陽があった。眠くなる暇がなかった。皆で飲み、現在を考え、がむしゃらで先のわからない青春を抱きしめていた。
 やがて8月の後半を過ぎ9月を迎えていた。北欧の秋は早い。涼しい風に冷たい風が混じるようになってくる。もう白夜はない。9月皆がすぐくる冬将軍の準備をし始める。まだ夏を欲しいものは南欧の国々に旅立っていった。我々にも次の準備が待っていた。9月中旬私の財布には5000クローナ(約40万円)の大金がたまっていた。
 

1968年 夏 ストックホルムII

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1968年 夏 白夜のストックホルムII4

1968年白夜のストックホルム 3ヶ月のアルバイトで貯めた金なんと5000クローナ(日本円で40万円)
 今からもう足掛け39年前の話だ。パスポートを取るにも大変な時代だった。外貨規制があり観光で持ち出せる外貨は信じられないだろうが、500ドル(1ドル=360円)だった。日本円で18万円だが、それでも500ドルを貯めるために学生だった私は三鷹市市長選の応援アルバイトや市内ごみ清掃現業のアルバイトを3ヶ月、家庭教師2軒を半年、でようやく10万円、残りは親戚や家から借りた。1968年の大卒初任給は大体で2万円近辺であったろう。帰国して半年後、1970年に給料の比較的良い最大手の広告会社に就職したがその時3万8500円だったのだから。その500ドルで日本を出発してストックホルムでのアルバイトをするまで約10ヶ月学費、食費、交通費、下宿費をだしてフランス、ストラスブルグで生活した。10ヶ月で58キロの体は52キロにやせていた。要するに疲れすぎの栄養不足状態だった。もともとフランスでは風呂につかる習慣はなかったが、公衆のデゥーシュとよばれるシャワーつきの銭湯があったがもったいないのでお湯を下宿で沸かして体をふいた。疲れていたのだろう、なかなか朝起きられなかった。とにかく眠たかった。大学の講座によく遅刻した。下宿のホーエンハイムから大学まで自転車で通った。約30分の道のりだった。今はその通ったところに欧州議会がある。畑が続いていた。よくピエールとライン河の土手でうさぎを追った。食料にするため真面目に追ったが無駄だった。子供と栄養不足の学生には到底むりだった。それから十数年後フランス、パリに会社の駐在として派遣されていた私は当時のアディダス・フランス社のダスラー社長とストラスブルグ郊外の本社で会議をもっためストラスブルグに向かった。ストラスブルグの街は変わっていなかった。ただ自分が変わっていた。少し自由を犠牲にして得た金銭、失った時間と荒唐無稽な夢。何かを求めてひたすら生活した時代、現実に見えた何かは、このようなことだった。今、ストラスブルグはセピアに変色してはいるが、確実に鈍くなった脳裏に常に存在している。
 話を白夜のストックホルムに戻そう。アルバイト先を探した。街の目立つレストラン、工場を直接訪ねて雇用を依頼した。幸い英語がどこでも通じた。外国人、特に東洋人。始め相手は当惑していた。フランスの学生証を見せた。安心したのか中央駅傍のレストランと郊外のトマトケチャップ工場が臨時アルバイトとして雇ってくれた。フランス語をしゃべると相手のスエーデン人の態度が丁寧になった。交渉してレストランは夜勤としてくれた。工場の仕事はベルトコンベヤーに乗ってくるケチャップ瓶がベルト上に規則的に乗っているよう監視することだった。退屈で時間を売ることだった。1時間5クローナにはなった。1クローナは当時80円程度だったと思う。約400円程度。朝8時から4時まで8時間働いた。一日40クローナ(3000円程度)になった。昼食は工場で食べた。ほとんど無料だった。その足で駅傍のレストランで皿洗いをした。高級な皿洗い機があった。ぬるい湯に浸して皿洗い機にかければよかった。5時から12時まで働いた。一時間4クローナ、一日30クローナになった。当然夕飯は無料でティーボーンステーキを食べた。一ヶ月がすぎた。財布には1500クロナ(約12万円)あった。現在の日本に中国やフィりィピンから多くの外国人労働者が来ている。得る報酬は本国と比べるととんでもない高額になる。39年前日本と北欧との差は外国人学生アルバイトでもこんなにあった。8月初旬仕事や生活になれた私はディスコに出かけたりや仕事を一緒にするフィンランドからの女子学生と付き合うようになっていった。現在もあるが港に面して超高級ホテルのグランドホテルがあるが、道を隔てて遊覧帆船が接岸している。遊覧帆船は確かアフチャップマンといった。この帆船での夜勤監視のアルバイトをはじめた。ヨーロッパ各国からの富裕階級の人間達の社交場となっていた。警護の既成ユニフォームを着せられた。そこでさまざまな人間模様を目撃した。富裕な人間達には必ずコバンザメが着いていた。おべっかを使って生きてゆく人間達。働かずに富裕に生きてゆける人間達。欧州、北欧の街ストックホルムの夏は整然とした福祉国家の体裁をかぶり平等社会の様子ながら、実際は階級社会であることをしっかり露呈していた。(続く)

 

1968年夏 白夜の北欧ストックホルム4

2de6d6aa.JPG1968 stockholmへの道

白夜の北欧ストックホルム 1968年夏4

1968年夏 白夜のストックホルム
 激動の年、1968年夏白夜のストックホルムにやっとのことで、たどり着いた。ストックホルム郊外の町に住んでいた友人の下宿先にむかった。教えられた住所に郊外電車に乗ってむかった。現在私の住んでいる小田急線の高架と新しい駅のような無機質の町が横たわっていた。北欧の国スエーデンは当時世界一流の福祉国家であった。人口800万人。北部キルナには今後100年国民が暮らしていけるだけの鉄鉱石が埋蔵されているとされていた。しかしこの寂しさはなんなのだろう。郊外電車で約20分ばかり都心から行った町はおとぎ話のような一戸建ての家が立ち並んでいた。まったく整然と整備された町を歩いて談笑する住民はなかった。老人達が圧倒的に多く北欧独特のくるぶしをはらした老人達が杖を頼りにあるいていた。
 北欧の夏、夜の闇はない。沈み行く太陽はあっという間にあがってきた。丁度このころだ。北欧の国のフリーセックスが世界の話題となっていた。自由な何にも縛られないセックスという意味だろうくらいしか理解していなかった。どうも違うという経験をこの時目撃した。夏だが少し肌寒い郊外の四辻の道路、午後10時くらいだった。まだ明るいが夜だということの認識だけのためだろう黄色味の道路灯がついていた。まっすぐのびた道路をまだ十四,五歳の金髪のミニスカートをはいたかわいらしい女の子が歩いてくる。駅の方角から同じ位の年格好の男の子がすれ違った。男の子の手がのびて体を抱いた。女の子ははじめはいやだというジェスチャーをしていたが、無理やりでない男の子の感覚をおぼえたのか抱き合い始めた。まだ太陽がのこる道路上の出来事であった。私には、セックスや性的な感性はどこか未だ暗さとどこかつながっていた。全く卑猥さや暗さから開放された性。それは、一方むしろ無機質な有機生物行為ではなかったか。このようなことは、その後、働いたレストランやトマトケチャップ工場や野外公園のスカンセンパークでのウェイターの仕事上でもいろいろと経験した。中でも忘れないように、ここで書きとめておきたいのは、ストックホルム港の南に位置する小さな島にあるスカンセン公園でのことである。スカンセン公園はストックホルムの夏の行事である白夜のお祭りが催される。夏至の日が白夜の祭りの日である。市民が集まって本当に短い夏を味わいつくす。この日は日本的にいえば無礼講の日である。私はこのスカンセン公園にある野外レストランでウェイターのアルバイトをしていた。野菜の種類のない北欧の食事は豊富な肉類にサラダ菜とトマトがそえられたメニューがどこでも中心であった。それにボトルのままのむテュボルグなどのビール。レストランの横から北欧の森が島をつつんでいる。沈まない太陽。白夜のなかで木々の中から真っ白な肉体が踊りでてきた。次から次へと身に何も着けていない老若男女が踊っていた。それは霞のかかった黒い森と黄みのある沈まない太陽との自然の舞踏のようであった。(続く)

1968 夏 ストックホルムへの道4

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1968 夏 ストックホルム

1968年 夏 ストックホルム
 五月のパリからストラスブルグに帰った私は眩いばかりのフランスの春を経験した。零下18度や20度の冬は曇天の空のもと人の気持ちを憂鬱にする。曇天は4月の終わりまで続いた。太陽はこの冬の間に数日しか出なかった。しかし陽光の5月は突然やってきた。花という花が一斉にこの時をまっていた。日本の春ボケ、梅、桜というような時間の間隙はない。一斉に花が咲く。ボッティチェリの絵のように。突然自然が甦る。Renaitreするのだ。ルネッサンスの語源が良くわかる。
 大学前広場のマロニエの紅白の花が満開となり、ストラスブルグの大学講座も三学期目の終わりを告げようとしていた。夏休みが近かずいていた。同時に私の懐具合も切迫しつつあった。どうにかしないと下宿費も学費も払えなくなる。夏休みの学生アルバイト先をみつけなくては。当時欧州では外国人学生のアルバイトは一般的に許されていた。ストラスブルグの街中でもレストランや大学食堂での皿洗いなどのアルバイトが紹介されたが、1時間当時で50サンチーム(約35円)。8時間働いて300円以下。こちとら夏以降一年間の学費、食費、下宿費を貯めなくてはならない。そこで決心したのが北欧でのニ個所アルバイトであった。朝から4時まで工場、4時からレストランの仕事の掛け持ちアルバイトであった。まず北欧にむけてストラスブルグをたった。七月の初頭、ヒッチでドイツを経由する。ライン河をわたりドイツにはいり国境の街ケールからアウトバーンの入り口でヒッチ開始。ストックホルムまでと書いたボードを持って高速に立つ。約1時間 車が止まる。用意していたリュックを引っさげて車に乗る。車の主が言う、マンハイムまでだがいいか?勿論ダンケシェーンだ。車のなかでデタラメだが要するにしっかりとコミュニケーションを笑顔をたやさずとる。でないと互いに初めてだから息が詰まって良い結果は決して生まない。突然降ろされたり罵られたりとかの事件が時たま起こっていた。
 マンハイム、デュセルドルフ、ボン、フランクフルト、ハノーバー、を経てストックホルムまで何十台の車をヒッチしたか良く覚えていないくらいだ。一生賢明ヒッチした。良く辛抱強く待てたものだと思う。若いこと、未知への興味は疲れなど吹き飛ばした。食事は止った町でパン屋でサンドイッチ、夜は安い宿屋で食べた。中には家に招かれて食事をいただきとまらせてくれた。その時頂いた新婚早々の夫婦の写真があるが名前は忘れてしまった。40年前のことであった。あの夫婦が健在であればもう70歳になるであろう。時間は刻々と正確に過ぎて行く。ドイツ北部の町からフェリーで北欧スエーデンの首都ストックホルムに着いたのはヒッチを初めて1週間後であった。(続)

パリ 5月革命 1968

パリ1968パリ1968

パリ5月1968年5

Paris,Mai,1968
 1968年、興奮の年であった。映画監督ゴダールの作品はその時代の空気を象徴している。1968年4月フランス東部の大学街ストラスブルグにも学生が集会をひらいていた。ユダヤ系フランス人学生がその中心にいた。ドゴールを倒せと叫んでいた。寒く長い陰鬱なフランスの冬を過ごしてもてあまし気味のエネルギーが満ちていた。もう誰も止められなかった。フランスの学生の反体制エネルギーはパリにむかっていた。ド・ゴール体制を崩壊させたパリ五月革命(フランス大革命の精神を取り戻せ)と学生、労働者が立ち上がった運動はこうして始まった。その中に自分がいた。1968年時代の興奮があった。音楽は時を疾走し、時代がゴーロワーズの黒タバコの臭いで充満していた。そしてパリ五月革命、日本では新宿騒乱とつながって行った。しかし今振り返ってみる。その時発した問は何だったのだろうか。
 1968年5月3日、パリ大学ナンテール分校で学生がエドガーフォール文部大臣にたいしてオブジェクション(異議申立て)のデモをおこした。学費と食費の値上げがきっかけとなった。運動は全フランスに広がり労働者がその運動に続いていった。5月11日ついにサンジェルマンに集合した民衆はバリケードをつくりパリの石畳を掘り武器をつくり警察隊と真っ向から衝突、大学は閉鎖された。この中に後の社会党政権の文化大臣となったジャックラングがいた。1979年から1987年まで仕事で滞仏した私は同氏とインタビューの約束があったが都合でながれた。後悔している。
 デモ隊の中ではアンテルナショナルとマルセイエーズが歌われた。国歌が革命歌なのだ。もともと1789年の大革命の際ストラスブルグの青年将校が作詩作曲したとされライン軍軍歌であったのをマルセイユの連盟軍が行進時に歌われ1795年に国歌となったという。
 その詩は正に革命歌である。
 起て祖国の子等よ
 栄えある日は近い
 暴虐のとりでに
 見よ 旗は血にそみぬ
 とれ武器を組め隊伍を
 進め進め我祖国の自由を守れ
1968年5月15日 ストラスブルグに戻った。(続く)
 
 パリの市場パリ

Strasboug 〔Jan.to July 1968)4

StrasbougStrasboug

ストラスブルグ( Jan. to July、1968)

 プティット・フランスとよばれるかわいい街並み、と戦乱の嵐に翻弄されたライン河の街がストラスブルグ。一本の尖塔だけのカテドラル、とローマ時代アルゲンツール(銀の街)と呼ばれ多くのユダヤの民が住んでいたことでも有名な街。普仏戦争、第一次世界大戦の戦場となり1968年当時でもライン河の流域に多くトーチカが残っていた。住民はアルザシアンと呼ばれ、アルザス語を日常言語としている。アルザス語はほとんどドイツ語に近くフランス語の系列ではない。しかしフランスなので公用語はフランス語。私が本当にお世話になったホーエンハイムの下宿ヒッケル家では、父親はフランス語はほとんどしゃべれない。母親はフランス語ができるが、息子ピエールとの会話はアルザス語。複雑な欧州の戦乱の歴史を直に感じる。
 現在このストラスブルグには欧州議会が置かれ欧州の政治、経済、社会の様々な問題が討議され調整されている。正に適所と言うべきだろう。ここにゲーテやシラーが学んだストラスブルグ大学がある。医学部と神学部は欧州で有名。文学部の正面にゲーテの銅像がある。外国人のためにシヴィリザション講座があり、まずこの講座に登録した。フランス語の講座である.大学には街のなかに大学食堂が4つあった。確か当時1フラン25サンティームで食事ができた。(1フランは70円程度)以外に高いと思われそうだが違う。まずアントレがあり、鴨や牛肉の料理がつき、サラダとチーズがあり最後にコーヒーと果物がついた。勿論ハーフボトルだがワインが付いた。これが大学食堂の料理かと全く感心したものだ。お陰で貧乏学生の割りには充実した食生活を送ることが出来た。この外にユダヤ人学生のために二つの学生食堂があった。よくそちらにも顔をだした。街でたった一人の日本人学生に親切だった。大体中国人と日本人の違いに関心はなかった。要するに東洋人であった。我々がガーナ人とケニヤ人の違いに無関心であるかのようなものだ.フランス語は難しい言語だった。必死に勉強したがなかなか身につかなかった。どうにかフランス語が使えるようになったのは下宿の息子のピエールとの会話の練習があったからだ。私が数学を教え彼がフランス語をコーチしてくれた。
 講座には欧州のほとんどの国からの学生がいた。すぐ友となった。大学の前の広場でサッカーをした。その後連絡はとっていない。みな何をしどういう人生を送っているのだろうか。
 ながく寒い冬が終わろうとしていた。広場のチューリップが咲き、フランス桜が咲き始めた。フランスのこの時期はストライキの季節であった。しかしこの年は学生の集会の方が多かった。そして5月となった。パリ、ナンテール大学で学生の大規模なデモが起きていた。(続く)
























Dover,Paris to Strasboug

ストラスブルグ郊外Hoenheimストラスブルグ駅着1967

Dover,Paris to Strasboug 1967 (40年前の記憶)

 掲載している写真は皆43年も前のものだ。カメラはZenza Bronicaの二眼レフ。持つとズシッと重くてすりガラスのような投射体に映っている対象を見ながらシャッターを押して撮影した。勿論すでにカラーフィルムがあったが貧乏学生には高かったのでモノクロフィルムを使った。

 今見るとカラーのものよりモノクロのほうがしっかりと記憶を呼び起こす。どこでどのような思いでシャッターを押したのかがよみがえる。街路樹のブールバールを通るバス、IMG_0765aセーヌ河畔の町並みIMG_0766a
、マルシェの八百屋の人懐っこいパリジャン、IMG_0814a凱旋門からみたエッフェル塔IMG_0815aなど1968年の五月革命半年前のパリである。

 1979年(昭和54年)に再度パリに今度は企業の駐在員として赴任したのだが、1967年のパリがあまりにも印象が強すぎて脳を慣らすのに苦労したのを覚えている。

 当時パリに行くのにはまだ地中海を経由するマサジェム・マリチムという船回路があった。二ヶ月かかる。パリは遠くにあるのがいい。いや夢は遠くになければと思う。その点私は幸福だった。周りに日本人はいなかった。自分ひとりのパリを味わうことができた。

 いまではそれでも12時間かかるが半日でパリに着く。飛行機代も割安を探せば当時の値段とは比較にならない。便利だが感慨がない。苦労がないから印象が刻まれない。一枚のモノクロの写真さえ何十倍の記憶を呼び起こす。一粒の小さな仁丹が口腔内にひろがるように、(たとえが古いか)、シュワーとパリがよみがえる。

 幸せはパリのルイビトンでもなく、ヘルメスでもなく、ましてや団体でゆく旅にはない。安心の対極に不安だが自分で発見するのが面倒だが本当に大きい幸せなんだと思う。



 ドーバー、パリ、ストラスブルグ 

 足掛け43年前のことになる。昨日のことのようだ。昨日のことのように鮮烈に記憶しているということではない。昨日のことのように早く時がすぎていったのだ。

 英国中部のリッチフィールドを立ってロンドンを経由しドーバー海峡をわたって対岸のフランス、カレーに入り汽車は一路パリに向かった。パリは憧れの街だった。パリに入る手前にサン・カンタンと言う駅があった。駅哨が抑揚のある声でサン・カンタン、サン・カンタンと汽車の到着をつげていた。パリはもう目の前。左手の山の上にモンマルトルのサクレクール寺院がみえはじめて、ついにパリ北駅に着いた。1967年の年末のことだ。1歩汽車を降りると吐く息が一気に凍るように白く散った。
                         
 背中に全財産のリュックを負ってシベリア鉄道横断中に知り合った日本人画家の住所に向かった。パリにくるようなら是非寄ってと言われていた。凱旋門に近い地下鉄アルジェンティン駅で降りて坂の途中のアパルトマンのレドショセー(一階)にあった。連絡してあったので快く迎えてくれた。二三泊した様におもう。というのは12月31日皆でモンマルトルの丘にのぼって新年を祝ったことをはっきり覚えているからだ。レヴェイヨン(Reveillon)という。

 丘に集まった老若男女がキスをしながら1968年の新春を祝った。アダモ、アズナブール、ポルナレフの歌が流れていた。21歳、何もが自由だった。安ワインがこの世の特上の味がした。ムール貝の白ワイン煮の食べ方を隣の中年女がフランス訛りの英語で教えてくれた。美味かった。こんなに美味いものがあったのかと思った。広場でダンスが始まった。腰に手を回して一列になって汽車のように長く長く音楽にあわせて踊ってゆく。ダンスの列はサクレクール寺院の前で折れていた。

 所持金500ドルを握りしめ横浜を出発したのだが、1968年の夏には北欧でアルバイトしてと考えていた。1968年の七月まで金が続くと考えていが、甘かった。パリに滞在したのでは1ヶ月も到底もたない。田舎の街で物価が安く外国人向けの講座がある大学町を捜した。それがドイツとの国境の街ストラスブルグであった。アルサスロレーヌ州のフランス第七番目の街であり、ゲーテやシラーが学んだ大学街であった。激烈な1968年が始まった。(続く)
 

England to FranceIII

A教授とB

A教授とバーミンガムに向かう

England to France4

イギリス滞在からフランスへ
 なるべく早く欧州生活2年を終えてシルクロードの旅にとりかかりたいのだが、どうしても書いておかなければということが多くてこまります。その中にオックスフォード名誉教授で詩人でもあり、東京大学でも教鞭をとったことのあるB教授のことがあります。日本でシェククスピア演劇を共にしたA教授の師がB教授でした。英国で同氏は詩人としても有名でした。1967年の英国滞在時持病の喘息をおして一介の東洋からのヒッピーまがいの青年に大英美術館を案内していただきその上教授の自宅に招待していただいたのです。ゆっくりといわゆるオックスフォード英語をはなすB教授からは、英国の伝統と誇りがあふれていました。夫人も詩人でゆったりと平凡な日常生活の喜び、悩み、苦しみを言葉にしています。

 滞在した英国中部のリッチフィールドには18世紀の英国文学を支えたジェームス・ボズエルの銅像があります。現在の英語の基礎ともなった「英語辞典」をたった一人でつくりあげたサミュエル・ジョンソンと行動をともにしてその発言と言行をかきとめた人です。その関係はコナンドイルのシャーロックホームズのモデルともなったものです。
 バーミンガムにも良く出かけました。若者向けのパブに入るとビートルズの曲がかかっていました。中華料理屋で点心をよくたべました。
 その間A教授からリーズ大学で勉強を進められました。しかしシェクスピアは本場にくればくるほど遠く感じられました。前回も書きましたが、英語の自信が全く打ち砕かれたからです。その上、しっかり英語を話してないと馬鹿にされるのではという気持ちが日に日に大きくなりとてもこの地で学ぶ気にはなりませんでした。しかし一方経済的にここを離れてどうやって行くのか悩みました。
 そしてフランスに行くことを決心しました。理由は簡単でした、パリに行きたいそれだけです。決心を教授に伝えると翌朝リッチフィールド駅までA教授が見送ってくれました。その後A教授はエディンバラ大学やナイジェリア大学で教えていたようですが連絡がとれていません。(続く)
ブランデン氏とハーディ氏

England1967

England

England<

若き日々〔1967〜1969)II4

 1967年12月、大都市ロンドンへの海の玄関ティルベリー港についた。ユーラシア大陸を東西に横断して自分の足でヒッチハイクしてはじめてあのロンドンに到着したという満足感に寒さなど感じなかった。ヒッチで手紙で予約してあった市内のユースホステルにはいった。このとき初めてユースホステルなるものを見た。清潔でシャワーの完備された施設に先進国の姿をみた。町に出て市場でリンゴを買ったがユースの一泊の値段と大して変わらなかった。ロンドンにニ三泊し、ヴィクトリア駅から英国人のA大学教授のもとに向かうことにした。日本の大学で指導をうけたA教授はリーズ大学に帰任していた。住んでいるのは英国中部にあるリッチフィールドという小さな町であった。A教授は当時40才台、英文学の教授であったがシェクスピア専攻の彼は日本でシェクスピアの演劇公演を自前で打つ面白い人間で、我々は大学生の中で演劇と英語のできる人間を集めて新宿の厚生年金大ホールで『じゃじゃ馬ならし」と『空騒ぎ」を上演した。当時のジャパンタイムスにその模様が掲載されている。「空騒ぎ」で主役ベネディクトを演じた。シェクスピアは魅力があった。出来ればリーズ大学で勉強できれば、と考えていた。
英語には少し自信があったのだが、ロンドンに着いてまず困ったのがその言葉であった。聞き取れないのだ。話すのはいいのだが、聞き取れない。それまで中学、高校、大学と10年やって自信をもっていた英語が聞き取れない。すぐに英語嫌悪症にかかった。
とりあえずヴィクトリア駅からバーミンガム行き汽車にのった。間違って一等の切符を買ってしまった。ここに第2の嫌悪症の原因となる事件が起きた。一等ワゴンに席を見つけ腰を下ろしたのだが、山高帽の男が近ずいてきた。「そこのイェローここはイエローの乗るところじゃない。」明確にそういった。「なにを言う。切符を見ろ。のってなにが問題だ」そこまで言うのが精一杯であった。幸い周囲の英国人が我々のいさかいをなだめたが、人種偏見を実際公衆の面前でお見舞いされた。汽車は何事もなく約3時間で田舎町のリッチフィールドに到着した。(続く)

シルクロードを行く(1967〜1969)若き日々の記録5

シルクロードシルクロード
新年愉快!!
 今年還暦を迎えた。来し方60年胸中多くのことがあったが、1967年〜1969年の冒険は語るに価値あるものといえる。39年前のことだ。大学紛争のさなかその中にいて閉塞感と脱力状態の殻を脱ぐように初秋芝浦から所持金500ドル、日本円10万円、片道切符で日本をでた。ナホトカ、カバロフスク、シベリア鉄道でモスクワ、ホテルヨーロパに3日滞在後、鉄道でヘルシンキ、フェリーでストックホルムに着いた時にはもう10月下旬であった。
丁度その頃小田実の「なんでも見てやろう}五木寛行「蒼ざめた馬をみよ」などが時代をひっぱっていた。ストック(マドリ、コペンなど拠点都市はそう呼んだ)にも何人かの日本人がきていた。皆目がぎらぎらしていた。ベトナムからの脱走兵もいた。すぐなか良くなれた。前に前にと突っ込みがちにストックをヒッチハイクで出発したのはもう11月の半ばを過ぎていた。冬の北欧はマイナス20度をこえる。高速道路は凍結防止剤がまかれて目の前をすぎてゆく車輪の跡がくっきりと白く残っていた。パッカーとあとでなずけられた格好でスエーデンの西の港ヨーテボリまで約600キロ,10台の車にのった。言葉は必要なかった。伝える前に相手がこちらの蛮勇にあきれていた。
しかし面白いものだ。同じように無鉄砲な人間は必ずいるものだ。日本人ではないが、イギリス人というのも以外に無鉄砲のようだ。凍りつくヨーテボリ港に一人イギリス人のパッカーと泊まる場所をさがした。夜中12時を過ぎてどこも閉まっていた。外は零下20度をこえていた。建築中の住宅をさがした。あった。そこで夜を過ごした。寝袋の表面が朝起きると板のようにバリバリと音がした。
その日ヨーテボリからフェリーでイギリスに向かった。大学で指導を受けた英国人の教授がイギリスに帰り、来るなら来いといってくれていた。英国中部のリーズ大学で教授をしていた。(続く)

中国語検定試験に受験 60歳の挑戦4

2005年8月思うところがあって中国語をやり始めました。仙川にあるカルチャーセンターで中国語クラスに2週間に1度通いはじめました。やる以上なんらかの目的とはげみをと考えて中国語検定試験をうけることにしました。試験は3月、6がつ、11月と年3回中国語検定協会が主催しておこなっています。試験は1級、二級、3級、4級、準4級と分れています。ヒアリングと筆記試験があり、それぞれで級にもよりますが、60%から80%をとらなければなりません。小生ははじめて3ヶ月なので3級と4級を受験しました。結果合格来年は3月に二級を目指したいとおもっています。60歳からの挑戦ですが面白く頭の体操になります。興味あるかたはやりがいあります。

2006年から新しくここで出発です。

36ea0e97.jpgブログを他のところでやってきましたが、2006年は新しくここに挑戦です。ヨロシク
2006年還暦です。
子いわく耳順う年となりました。
これまで広告会社新規領域やりました。
ふりかえればよくやりました。
この間知り合った人、大変な人数です。ヨハネパウロ法王からセーヌ河の橋下clochardまで、徳川のお殿様から代々木公園のホームレスの方まで。
少しずつ語ってゆきます。
メインはしかし48歳の抵抗で始めた陶芸人生です。富士の裾野に窯を築いて陶芸三昧です。ですから芸術のジャンルとしました。個展をつうじてこれからもやってゆきます。2006年は夏中国の景徳鎮陶芸大学に留学するつもりです。
ヨロシク
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