ばら色の日々(50年前の地球散歩)

還暦からが大切な人生です。一寸の光陰軽んずべからず。これまでの73年をふまえて新しい挑戦まで真実を語っていきたいとおもいます。片道切符に500ドル。若さで過ごしたヨーロッパ。1969年欧州での滞在を終えた3人の仲間が3万キロのシルクロードの冒険に出た。フランスからカルカッタまでの陸路をVWで。今から50年前の地球散歩の記録。

アクロポリス・パルテノン神殿に佇む4

ソクラテスやプラトンから2000年後のアクロポリスに佇む。
紀元前408年、プラトンは師ソクラテスに出会う。アテネのデモクラシーに幻滅してシシリーに渡り378年アテネに帰りアカデミーを開く。ソクラテスとプラトンの舞台がアクロポリスのパルテノン神殿である。1969年初頭の冬のオリンポスの太陽と、空に向かって立つエンタシスの柱の下、崩れた石の上に三人は佇んだ。
 朝眼を覚ました。今日はどこで眼を覚ましたのか、起きて少し考える。そうだアテネにいる。昨日夜遅くアテネに着いた。中心のオモニア広場で一泊150ドラクマ(約1500円)でホテルを見つけた。疲れていたので吟味せずここら辺でいいだろうと勝手に決めて泊まった。受付に下りてゆくと案外親切だった。三人は受付で地図をもらって早速ホテルをでて朝食のためのカフェを捜した。ギリシャではカフェーはカフェリオンと呼ばれる。
 ”ネスカフェでなくカフェー”と言うと本物のギリシャコーヒーが来た。ドロツとして舌に豆の粉が残った。蜂蜜をぬったトーストを注文した。ギリシャほどさまざまな種類の蜂蜜を産する地方はない。ほとんどの薬草とハーブの原種は地中海と小アジアを原産地とすることがその理由であろう。
 私達はカフェリオンで朝食を済ませて、まずはなんといってもアクロポリスのパルテノン神殿に登ることにした。歴史や社会の教科書の最初のページにピラミッドとともに常に見たあのパルテノン神殿である。カフェリオンを出て、オモニア広場からスタディオウ通りをまっすぐに行く。するとアテネの中心シンタグマ広場にでる。左手に国立庭園をみながらアマリアス通りを行くと、左手にゼウス・オリンプス寺院があり、デオニソス・アレパギトウ通りに出る。右手丘の上にパルテノン神殿が見えてくる。そこから緩やかな階段を登り左に折れてもう少し登るとパルテノン神殿に入るための入場券売り場となる。確か一人20ドラクマ(200円)くらいだったか以外に高かった記憶がある。ここからアクロポリスの丘に登ってゆく。周囲にでデォニソス劇場やオデオンなどの遺跡が残っている。登りの道は大きな石が転がっている隙間に造られている。登り切るとそこに青い空に白いエンタシスの柱がまぶしく立つパルテノン神殿があった。神殿に立つとギリシャの街が見渡せた。神殿の一角の大きな石の上に立ち、佇んだ。冬で石は冷たかった。2000年の歴史を経てきた石は冷たいひやりとした印象を与えた。
 ”ハロー、ハロー” 物売りの少年が近ずいてきた。この寒いのに半ズボンでひざ小僧が黒かった。ギリシャの青と白の小さな国旗を売っていた。要らないとジェスチャしても立ち去る気配がない。反対側を見ると母親らしい女が幼女を抱いてこちらを見ていた。母親に向かって少年が何か言った。聞きなれない言葉だった。勿論ギリシャ語のようではなかった。多分トルコの言葉だったのであろう。強く要らないという振りをしたら傍にいたアメリカ人らしい観光客にからみついていった。その時彼らが国を渡り歩くジプシーじゃないかと思った。
 それから十数年後のパリで接遇中の日本人がよく、このジプシーの被害にあった。一家が役割を分担して金品を狙っておそってくる。一人が新聞を広げて注意を向けている最中にほかの一人がもっているバッグをひったくる。追いかけて行ってつかまえても途中で第三の子供が受け取って姿を隠してしまっている。よしんば捕まえて警察に突き出しても彼らは無国籍なのでフランスの法律の適用外で釈放される。ジプシーに国境はない。もう何百年と自由に国境を移動して生活してきた。音楽や舞踊を職業として生きてきた。彼らに生活の糧を得る手段がだんだんとなくなってきている。追い詰められたジプシーは生活のため罪深い行為に追い込まれていっている。 
 冬の時期のアクロポリスは人影もまばらだった。パルテノンの神殿は静かにアテネの街を見下ろしていた。軍神アテーナイを祭る神殿で追い詰められてゆくジプシーの危うい未来を想った。(続く)
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紺碧のエーゲ海とアクロポlリス(I)5

欧州漂白そして1969年初頭アクロポリスに佇む。
 今から40年前のことを思い出して書いている。幸い白黒だが写真が残っていた。現在90歳の母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。たまたま仕事でパリでフランスの歴史上人物アルベルト・カーンが残した未現像写真を世に顕すというプロジェクトに携わった。19世紀半ば大富豪の父親の遺産を相続したアルベルトは体が不自由で歩けなかった。そこで彼はプロの写真家を数十名雇う。地球の地点を指定して写真家を派遣した。自分が見てみたい地球上の地点だった。写真家達は数年かけて撮影してパリの彼のもとに作品を残したのであった。その大半が未現像で残っていた。中に日本を撮ったものがあった。侍と色町、裸の芸者までが撮影されていた。彼はオリエンタルリズムのなかにエグゾティズムロマンスをもとめていたのであろう。想像の日本を愛した彼は、パリの一角に日本庭園を造っている。残念ながらこのことを知る人は少ない。
 現在ではネットで何でも情報が手に入るし、飛行機にのれば何時間後には目的地にいる。便利この上ない時代となった。しかしすぐ手にはいると判ると人間はそのことに興味を失いがちとなる。アルベルト・カーンには世界を見ることは不可能だった。不可能だから想像を逞しくすることが出来た。想像は執念となった。そして実際の写真が乗り物となりその地に彼を連れていくことが出来た。写真は魔法の絨毯となった。織り目がしっかりしていて、模様に陰影があって、人物が織り込まれていて、使われて色が変色していてもいい。そのほうが魔法の絨毯にふさわしい。今カメラ業者がどんどんとフィルム生産を止め始めている。デジタルに専業するという。確かに変色せず永久に保存できるデジタルが良いのかも知れない。しかしこのことは、テープがCDになりCDがMDにと言うような変化と同列ではない。人間の眼は耳よりずっと五感のなかで保守的だからである。”百聞は一見に如かず”と言う。眼で実際に得た情報は脳裏に深く刻まれる。立体物の陰影は人生の経験と結びついてきらびやかな想像の世界を創造することが出来る。このことは、最近の全ての事を刹那的に解決しようとする現象と無関係ではない。確かにデジタル技術により、瞬時に対象物を捉え瞬時に記録として残留させ、永久に質の劣化のない映像が永続する。しかし完全でない人間が完全を求めるの余り自分の存在を忘れてしまうということはないか?セピア色に変色して古びた旅行カバンにしまわれてもなお変色したがゆえに時代の過ぎたことが胸に迫るということはないのか?。忘却されずに大切に保管されたことへの伝えられる人間の情感をどうするのか?。存在するものと時間が意味するもの。よく考えてみる価値がある問題だと思う。
 表題に戻ろう。エーゲ海の根元ともいえるギリシャ第二の都市テッサロニケを早朝後にした。アテネまで約800〜900キロと聞いた。高速道路がアテネまで続いている。テッサロニケを出ると車窓からオリンポスの山々が見えてくる。ギリシャの土壌は白く耕作に向いていないのか
羊の放牧が見え、葉っぱが風にゆれて銀色になったり濃い緑に反転したりするオリーブの林が続いていた。オリーブの木は日本から出てこのとき初めて見た。背丈が2メートルから3メートルくらいでしっかりした幹をしていた。調べたらなんと300年実をつけると言う。硬質の木でさまざまな木工細工に適しているという。有史以来人間の生活とともにあった。オリーブの記述は旧約、新約聖書に何度もあらわれることから良くわかる。腹がすいて高速を少し出て、小さな村に入っていった。なにか温かいものが欲しかった。老人が座っていた。
 ”ヤサース、タベルナ?タベルナ?”と車を降りて痛い腰をさすりながら繰り返した。
 ”ヤサース”老人は言って手で向こうを指した。
 ”カラ・エカリストウ”ありがとう、と覚えたてのギリシャ語を使った。
白っぽい石をつみあげた建物がタベルナだった。中に入ると昼時で四、五人が食事をとっていた。”ヤサース”と言って三人がテーブルに着いた。皆突然の東洋人で驚いたような顔をしていた。店の主人はこちらを向いて”何か食べたいのか?”というようなジェスチャーをした。当たり前だろと思ったが、
 ”ネー、ネー” と相槌をうった。隣を見ると中年の婦人が挽き肉となすとチーズの煮た温かそうなものを食べていた。無礼とは思ったが、これこれと指差した。それがムサカという代表的ギリシャ料理とは後で知った。コーヒーを注文するとネスカフェかと聞いてきた。
 ”ネスカフェだってよ。田舎だからインスタントコーヒーしかないのかな”勝手に類推して
 ”ネー、ネー”と言うと、立派な入れたてのコーヒーが運ばれてきた。あとで謎が解けた。西欧式コーヒーをネスカフェと言い、ドロドロで茶碗の底にコーヒーの粉末が残るギリシャ独特のコーヒーをカフェというのだそうだ。食事を終えて勘定を聞くとなんと三人で30ドラクマ(約300円)だった。
 車を出すと道を聞いた老人がまだ座っていた。この村の道路標識みたいだった。手を上げて”エカリストウ”と言うと白く生えた顎鬚を撫でながらゆっくり頷いた。ギリシャの田舎、老人の周りの時がゆっくり過ぎてゆく。
 高速に入って時速120キロで飛ばした。標高2911メートルのオリンポス山を後ろにラリサの街を過ぎてゆく。前方に標高3000メートルのパルナソス山が雪を頂いて見えてくる。この山の裾野を越えるともうアテネである。(続く)
 

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エーゲ海の港町テッサロニケ

エーゲ海を望む。Aegean Sea
早朝のエーゲ海が見える。藍より濃い緑色の海に雲間を破って糸すじのような光線がさしていた。テッサロニケの街は今眠りからようやく覚めたように乳白色の霞を映している。三人はフーと深くため息ついてその美しさに見とれていた。アレクサンダー大王の妹であるテッサロニケの名前からつけられた街だという。紀元前三世紀のことだそうだ。現在世界遺産となっっている。
 “来たな”
 ”来てしまったな”ヒリキ君が言った。神絶対の一元文明から人間を主体とするヘレニズムを興したギリシャに来た。貧乏だったがどうにか食いつなぎながら、北欧でアルバイトし、がむしゃらに滞在した欧州の一年有余を想った。
 ”やれば出来るじゃないか。”ゴジーが頷きながら二人の顔を見ていた。昨夜の口喧嘩のあと一人で真夜中を運転し続けたことを言ったのか、それともここまでの欧州での自分の経験を言ったのかどうでもいいことだった。ヴェニスで買った紺のビロードのジャケットとジーンズがとてもよく似合っていた。ヒリキ君は黙って、ただ美しい光景を脳裏に焼き付けているようだった。
 ”海岸まで行こう、ホテルなど後だ。”
街を縦断した。
 ”なんて美しいんだ。”空気は乾いていて朝日がまぶしかった。
海岸は砂浜ではなく船着き場が続いていた。車を無造作に道路わきに止めて歩きはじめた。そういえば昨日のソフィアでの夕食から何も口に入れていない。健康な食欲で腹がクーと鳴った。通りの名前はわすれたが、見事な海岸通りが街の涯まで続いていた。突然、海岸からすこし入った脇道からなんともいえない食欲をそそる匂いがする。
 ”何かな”三人が期待でニヤっとした。真っ白に壁を塗った料理屋から匂ってくる。
 ”おい、タベルナって書いてあるぜ、看板見てみろよ”
 ”タベルナで食べるのかよ”ヒリキ君が面白くない冗談をいった。
店屋の中を外から窓沿いに窺ってみた。
 ”あれ!もしかしたら、たこだよ、たこ焼いてるぜ”
 ”うそだろ、ヨーロッパじゃたこは怪奇でグロテスクで食べっこないよ”
 ”じゃーあれは何だよ?”
皆で目を凝らした。小さなたこをまるのまま焼いていた。たまらず店屋になだれ込んだ。昼食用の準備をしているところだった。
 ”オーキー、オーキー”店屋のウェイターが呼び止めた。”だめだ、だめだ、まだ店屋は開いてない。”ギリシャ語ではイエスはネー、ノーはオーキーというらしい。なんか反対の語感がするがすぐ覚えた。腕時計を見せて11時からだからあと一時間散歩でもして来い、らしいことを言った。
 三人は”ネー、ネー”といって、たこの焼けているほうを見て食べる真似をして見せた。たこはパーフェクトだった。食べる前に水で薄めると白濁するウイキョウの酒ウゾーを飲んだ。独特の味と鼻にぬけるウイキョウの香りが正面のエーゲ海の青さと軽い空気とよく合った。この種の酒にはアニスでつくるのとウイキョウでつくるのとがあるらしい。アニスの酒はアニゼットといって南仏に多い。アニスはギリシャ、小アジア一帯に自生するハーブで強い太陽のもとで生育する。古代エジプトではミーラの保存用にこのアニスとクミンが使われたと言う。現在では、日本でもハーブ園などで多く見ることが出来るし、自宅の庭でも生育を楽しむことができる。私はこのときから28年後、所属する大手広告代理店のプロジェクトとしてフランス政府観光局とプロヴァンスキャンペーンをやり、南仏のハーブと物産などを日本に紹介し本も出版したりした。
 ギリシャ料理にどのようなものがあるのか分からず、注文したらカバブのような串焼きが出された。香辛料が強く利いていた。なにかヨーロッパとは違う香りが鼻からぬけていった。
 ギリシャは大学時代の私には、特別に因縁深かった。演劇好きで日比谷公会堂にギリシャ悲劇を良く見に行った。新約聖書を読みたくて古代ギリシャ語を学んだ。大学にはあの川田先生が主宰する古代ギリシャ語の講座があった。古代ギリシャ語はコイネーという。現代日常のギリシャ語とは全く違うもので(神は愛である)、(ホー テオス アガペ エスティン)などの世俗から離れた表現を勉強した。ギリシャ文字は今も昔も同じだから発音することができた。意味がわからずギリシャ語のメニューを声をだして読んでみるとほかの二人が感心したように私を見た。それよりウェイターが東洋人がギリシャ語を読むなんてという顔をしていた。一から十まではコイネーも一緒だった。エネス、デューオ、トレイス、テスアレス、レンテ、エクス、オクト、エネア、デカという。
 勘定をすませて店を出た。お腹が一杯で幸せだった。小さな子供達が学校の帰りか私達東洋人を見つけて珍しいのか、
 ”ヤサース、ヤサース” ハロー、ハローと叫んでいた。昔の自分達の子供時代を想った。昭和20年台半ばの自分達の幼年時代を想った。状況は全く違うがイメージが重なって見えた。(続く)
 


 tessalonikeギリシャ

バルカン半島を行く

クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルヴィア、マケドニアがどう違うのか理解できますか?
 バルカン化という言葉があるそうだ。宗教、民族、風習、言語、地域などの要素で分裂、混迷に至り統一から分裂にいたる現象を言う。
今まさにトリエステからテッサロニケまでのバルカンを辿ろうとしている。1969年ここはユーゴスラヴィア。チトー大統領がユーゴとスラヴィアをまとめて成立させた国家だ。ほかにバルカン半島にはアルバニアとブルガリアがある。ベオグラードでは中心街のホテルに泊まった。ベオとは白いと言う意味でグラードとはスラブ語で街とか言う意味だ。ドナウ河とサヴァ河の合流する丘の上に築かれた町である。朝起きると街にでた。ホテルに到着したのが夜だったので全く街の輪郭はつかめなかった。一歩ホテルを出ると葉を落としているが街路樹が整然としていて美しかった。対面にオフィスビルらしい建物があり、金髪の若い女性が働いていた。確かにヨーロッパの町だったがイギリス、フランス、イタリアなどの西欧の雰囲気と違う。
 吐く息が白い。寒い。角のカフェーで飲み物を注文した。舌足らずに聞こえるスラヴ語で若い娘が注文を聞いてくれた。笑顔はない。しょうがないから働いているという風情だった。    三人は英語で、                                    ”独身なの”と聞いてみた。はじめ、からかわれたと思ったのか表情がかたい。飲み物を持ってきた時、ゴジーがカメラを取り出した。 ”撮っていい?”彼が聞いた。                            ”ノー、ノー、バットホワイ?”彼女が聞きかえした。                  ”ビコーズ、ユー、ベリープリティー”ゴジーが言った。                  彼女が初めて笑窪をつくった。顔がわれて笑顔になった。。それではと思って、現地通貨ディナールがなかったのでイタリアリラを見せたら全く無視された。フランスフランはどこの紙幣という顔をした。ドイツマルクの厚くしっかりした紙幣をみせたら換算率が不明だった。仕方なく米国ドルで一ドル渡した。三人分のコーヒー代だった。一ドル360円の時代だった。
 ベオグラードはサヴァ河とドナウ河の合流点を見渡す丘の上にあった。すばらしい眺めだった。丘の一番高いところにカレメグダンという公園と要塞があった。サヴァ河とドナウ河を見下ろす戦略上完璧な街だ。ケルト人がこの地に前三世紀に拠点を造った。その後スラブ系民族が移住し、オスマントルコがその後移住する。歴史上この街は40回破壊された。最近のNATOの空爆は記憶に新しい。
 三人は生まれてはじめて中欧の街を歩いた。出会う人達の表情が硬い。だが道を聞くと身振り手振りで親切に教えてくれる。公園には年老いた人達が日向ぼっこをしていた。何時間も動かず、通過する人達や足元にまで飛んでくる小鳥たちの動きに見入っていた。自分達の青春の日々を思い出しているのか表情が時々緩んだりした。旅はいろいろな姿を見せてくれる。旅は人生と同じだと言う作家がいた。人生に幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、があるように、旅も、出発し、多くのことを得、学習し、エネルギーを使いはてて、やがて終わる。小さな、目に見える人生を経験するため人は旅に出るような気がする。
 ホテルに戻った。チェックアウトの時間だった。すばやく荷物をまとめて我らの愛車VWは次の都ブルガリアのソフィアに向かった。
 当時のパスポートを取り出して、ユーゴとブルガリアの税関の印を捜した。ひとつGURBULAK HUDUT KAPISIというのがある。多分それであろう。冬季オリンピックのあったサライェボ、スコピエを経由するアドリア海沿いを通る道もあったが一直線にソフィアに向かった。高速道路だったかどうか忘れた。問題ない道だった。ブルガリアの首都まで約7〜800キロだったろう。時速100から120キロの限界で飛ばした。それでもソフィアに着いたのはもう夕方だった。腹ペコだったのでホテルを捜す前にレストランを捜した。ベオグラードより寒かった。聞くと標高550メートルあるそうだ。ヨーロッパで一番標高が高い首都だそうだ。ソフィアという首都に入るとコンクリートの建物が目立つ。それも現代的で洗練されたコンクリートの建物でなく、無数の醜いコンクリートのアパートの群れである。殺風景でとても首都の歴史など感じない。それでも中心街の旧市街には聖ソフィア教会がありローマ時代の遺跡が残っていた。聖ネデリア広場という中心の普通の居酒屋に入ってビール、とビーフストロガノフらしいスープを頼んだ。疲れていた。チェコのビールでピルゼンの冷たいビールが食道から胃に入っていった。ゴジーだけが元気だった。食べたら自分が運転するからギリシャまで行っちゃおうと言った。
 ”おいおい”と思った。
 ”お前は体が人一倍元気だけど俺らはへとへとなんだぜ!”
 ”ひとのことも考えろ!”
言い争いになった。その時黙っていたヒリキが言った。
 ”どっちでもいい、喧嘩はよせ!”
 幸い食べるとまたエネルギーが補給された。高速道路からのソフィアの印象は最悪だった。醜いコンクリートのアパートの中から脱出するように夜中のギリシャ行きがはじまった。ゴジーが居眠りしないように四六時中横で話しかけた。いや休まずなんでもいいから質問して答えさせた。
 高速道路だった。朝六時を過ぎてようやく白々と空が明けてきた。ギリシャとの国境に着いた。ギリシャの第二の港町テッサロニケは近い。丘を越えた。前面に白々と明ける空の下、未だ眠りから覚めないで沈んでいる町の灯がきらきらと光っていた。
 テッサロニケの街だった。二日でバルカン半島を縦断してしまった。(続く)

 
ベオグラド

トリエステ、ベオグラド、ソフィア、テッサロニケを行く

ユーゴ、ブルガリア、ギリシャを行く
 朝靄にけむるヴェニスの街が見えた。後ろ髪をひかれるようにヴェニスをあとにした。ヴェニスホテルに二泊した。受付で支払いを済ませた。幾らくらいだったか覚えていない。覚えていないくらいの値段だったのだろう。陸地側のヴェニスの町は想像のヴェニスとは程遠くむしろ工場地帯のような乱雑さがあった。美しく最高峰の文化の粋を築き上げたヴェニスを乱雑でむしろ退廃した地域がバックアップして支えていた。この二律背反は、ついには辿り着いたインドのカルカッタまで二万五千キロの全ての現象に共通していた。貧富、美醜、信義と裏切り、反抗と盲従、顕彰と侮蔑、平等と偏見、自由と束縛、愛と憎しみ等々が一枚のコインの表裏一体をなしていた。いったん信義が崩壊すると倍の憎しみが返ってくる。これからゆくバルカン半島、ギリシャとトルコの有史以来の反目、アラブ諸国間の主導権闘争、インドとパキスタンの戦争、全ての地域に大きな問題が横たわっていた。
 我々はまずユーゴの西端の町トリエステに向かった。トリエステの町はアドリア海に面して後背に切り立つ崖の山を有していた。海に面して左手にバルカン半島、右手にイタリア半島が見える。バルカンすなわちギリシャ文明とローマ文明の分水地点がこのトリエステの町である。車窓から見る町の建物はたいへんクラシックで中世を思わせた。歴史を見るとこの町はかってローマ帝国の主要な町で、その後ビザンチンに属しさらにヴェニスの属領となり1328年にはオ−ストリア帝国となりユーゴに帰属したのはつい何十年前のことであった。住民のほとんどがイタリア人でありその対抗策として多くのスラブ人が送り込まれた。当然言語の違い、文化の違いが相克を生んだ。古めかしいが統率のとれた町並みをみるとその中に人種と文化の違いから大きな相克が存在しているのが理解できないくらいである。わたしがいたフランスの街ストラスブルグがそうであった。アルザスロレーヌはドイツとフランスの間の戦乱の炎の舞台となった。住民はある時はドイツ人となりまたある時はフランス人となった。ストラスブルグの中心にあるカテドラルの中に文字はない。また尖塔は一本しかない。住民の眞の願いが集約されているように思えた。我々日本人は海という自然の国境で囲まれている。海水浴に行ってこれが国境とつながっているとは考えない。国境を無法に越えると捕らえられたり射殺されたりするという現実を知らない。考えないから無関心となる。無関心だから無用心となる。隣国が日本人を拉致しても気がつかず関心を払わなかった。国境という概念に甘いのである。だから余程の教育を強制した時代以外には国家という概念にも余り関心をもたない。隣にいる同じ日本人という人種には過度なまでのアノマりーを発揮するのにだ。
 車はVW独特の空冷エンジンの音をさせながら順調にトリエステの町を過ぎてユーゴスラヴィア領を行った。リューブリアナ、ザグレブを通過した。ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを目指した。現在ではクロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビアという国になっている。1969年当時は全部がユーゴスラヴィアであったことは言うまでもない。ベオグラードで一泊してブルガリアの首都ソフィアを経由してギリシャの港町のテッサロニケに向かう。
 東欧のユーゴスラヴィアに入ると町並みが一変する。暖色で明るいイタリアからはいったせいか特に寂しい。人々の顔に笑顔が消える。眉間にしわのある人が多い。貧しい。これが共産主義国の実体なのか。資本論にこの寂しさについての説明はなかった。
 途中で高速道路わきの休息所に寄った。
 入ると簡単なスープとサンドイッチなどがおいてあった。受付カウンターのようなところで注文すると、
 ”そこの注文書になにが欲しいかチェックしな” と受付の男が命令した。
横柄な態度でむかっとしたが、こちらもトリエステからなにも食っていないで腹ペコで従った。欲しいものに×をつけてもってゆくと注文書に判を押してはじめてサンドイッチとスープが手に入った。ガソリン購入にはパスポートを見せた。
 早朝のトリエステから我々がユーゴスラヴィアに到着したのは,もう夜中だった。(続く)愛車VWベオグラド

水の都ヴェニスIII5

三日目の朝早くヴェニスを発った。                     三日分のホテルの予約はしていたが一日早めた。昨日の晩餐で決めた。すばらしい料理だった。皆が心地よい酔いの中にいた。サンマルコ広場から少しリヤルト橋方向に行くと小さな教会に囲まれた広場がある。広場に面して二軒のリストランテがある。教会の壁にへばりつくように存在する小さめの料理屋に入った。何も事前の情報があったわけでもない。欧州の遍歴を潜り抜けてきた三人にはどこが旨そうかすぐわかった。まず外から見て中で働くものに笑顔があること、食べている人たちの会話が弾んでいること、ウェイターの目がひっきりなしに動いていること、この三つの条件を見る。三人とも欧州のレストランでアルバイトしたおかげである。予約はしていないと言うと、ペルファヴォーレ、シ、シと笑顔で席に通してくれた。三人の直感どうり感じがよい。店の入り口にアンティパストの料理が並んでいる。アルテォショのマリネ、ポルチーニやニョッキのヴィネグレット、サーディンや蛸の酢ずけ、海鮮の幸と山の幸がアンティパスティとして料理され並んでいる。客は目で見て選ぶ。当たり外れなどほとんどない。三人はパスタに手長えびのタリアテーレ、その後各自肉、魚を注文して、ワインはリストを見てヴァルポリチェッラのリゼルヴァを奮発した。1964年のヴィンテージだった。
 東京オリンピックの年、1964年に三人は東京三鷹にあるキリスト教系大学に入学した。近くの国立、慶応、早稲田を同時に受験した私は自慢ではないが、すべてに合格した。しかしこの三鷹の大学は変わっていた。試験は知能試験のようだったし、広大な敷地に牧場があった。全寮制で訪れた寮は武蔵野の森の中にあった。本館の前の広場は青々とした芝生で立ち入り禁止などという無粋な看板などなかった。合格した私はもうこの大学への入学を決めていた。一学年180名だった。そのほとんどが寮に寄宿した。食堂があり三食ともここで食べた。学費はワークスカラシップなど軽減する方法があり、成績優秀なものは学費が免除された。私は日本育英会から奨学金をもらった。大学の学費も半分になって一年確か三万円だったと思う。中島飛行場の滑走路だったまっすぐな道が本館まで続いている。桜がきれいだった。M君とは同じ班だっだ。彼ははじめ寮に入らず千葉県の柏から通っていたが、通いきれずに私と同じ寮にはいってきた。H君は家から通っていた。一学年180名足らず、全学生で400名程度、そのほとんどが寮に住んでいた。授業、食堂、図書館、課外部活動、一年もすればみな顔見知りだった.教授陣も学内に住んでいた。オープンハウスと称された教授が学生を招いての会合がよくもたれた。海外からの留学生も数多かった。アメリカばかりでなく香港、インド、インドネシア、アフリカからの学生もいた。入学して二年目から学園紛争が始まった。はじめは食堂の値上げ反対からだった。次に学費値上げ反対、三項目闘争、能検テスト導入反対と続いた。M君と私は闘争の中にいた。本館を占拠して何ヶ月も篭城した。授業はなかったし出来なかった。H君は冷ややかに闘争を見ていた。暗い目をして僕らを見ていた。彼も母子家庭で生活が苦しかったと後で聞いた。彼の目には金のある子弟の政治遊びくらいにしか見えなかったのだろう。誤解だった。
 三人はヴァルポリチェッラの心地よい酔いのなか、心情を吐露した。一年有余の欧州放浪について話した。ガンバスのタリアテーレはことのほか旨かった。肉はキャレダニョウを頼んだ。骨に付いた子羊の肉は柔らかかった。あまりにも旨くて食道と胃が舌にとどまっている肉に早く下りて来いと叫んでいた。生まれて初めてこんなに旨いものを食べた。三人とも一緒だった。昭和二十年台半ばに小学校に入学した。皆貧しかった。貧しかったが平等だった。貧乏でもあまり傷つかなかった。米国と欧州は違った。こんなに旨いものを食べていた。なんという違いだ。腹が立ってきた。最後にエスプレッソを飲んで決めた。明日早くヴェニスを発とう。
 勘定を払って晩餐がおわった。ヴァポレットに乗るためにサンマルコ広場にもどった。夜の潮風は冷たかった。広場を街灯が照らしていた。遠くにサンマジョーレ寺院が見える。がむしゃらに過ごした欧州の漂白の一年有余を想った。あれだけ見たかった欧州から今、一歩一歩遠ざかりはじめている。一杯に膨らんだゴム風船からすこしすこし空気が抜けてゆく感じがする。暗いヴェニスの空を仰いだ。下宿先のフェルディナンとシモーヌ、野ウサギを一緒に追ったピエールの顔が浮かんで消えた。雲間から涙でかすんだ右弦の月が見えた。(続く)venicevenice

永遠の水の都 II4

 ヴェニスホテルは夜中騒がしかった。眠ろうとしたがあまり寝れなかった。朝方寝た。三人は二部屋を二対一に分けた。くじ引きで勝ったものが一人部屋になった。私が一人で寝た。対面同士の部屋を取ったのが失敗だった。隣の部屋からあの時の女の声がした。客を歓ばそうとしているのか声が大きかった。終わると客がバタンとドアをしめてドタドタと階段を下りていった。朝食をとりに階下の食堂におりてゆく。中程のテーブルで別途料金となっている朝食を注文した。まだ二人は寝ているのか食堂にいなかった。エスプレッソ、目玉焼き、とパンをたのんだ。窓際のテーブルにそれとわかる女がコーヒーを飲んでいた。食堂に居るのは我々二人だった。年の頃30前後だろうか、網タイツとミニスカート、上に毛皮のコートを着ていた。色っぽい女だった。朝、若い男がこのホテルで一人朝食をとっているのを訝しい目で見ていた。彼女の吸う青いタバコの煙が朝の光に消えていった。”ボンジョルノ”と挨拶すると、うれしそうにこちらにむいてウィンクした。それだけの会話だったが十分に会話したように思えた。以外にエスプレッソは香ばしい匂いがした。女のつけていた動物系香水の匂いは気にならなかった。また今日の夜彼女の吐く息を聞くのだろうか?想像して体中がドキドキした。
 朝食を終えて部屋にもどった。ホテルは三日予約していた。今日は何をするか考えた。二人が起きたのか廊下で日本語が聞こえた。朝食に行ったのだろう。窓からは海が見えたが煤煙の立つ工場が邪魔だった。ベッドに寝そべると寝ていなかったせいか朝食で胃に食物がたまったせいか少し寝た。20〜30分くらいだったろう。気持ち良かった。朝寝、朝酒、朝湯というが、若い体に気持ちよいのは朝寝だ。ドアのノックの音で幸せな朝寝は簡単に破られてしまった。
 今日の予定を決めた。ヴェニス島の散策、サンマルコ寺院の見学、夜旨いパスタを食おう。今日は車でサンタルチア駅傍の駐車場に止めることにした。車で海を渡った。島に入る前に駐車場がある。そこから島に向かう汽車が見える。ヴェニス島とそこに向かう汽車。すばらしい景色だった。22年後同じ場所にいた。ドイツのロードムービー監督ヴィム・ウェンダースの映画「世界の涯まで」の撮影立会いであった。ルー・リードの音楽、ソルヴェイグ・ド・マルタン、ウィリアム・ハート、サム・ニール、ジャンヌ・モローが共演した。上司を説得してこの映画に投資を決定してのヴェニスの立会いだった。背が高くめがねが似合う監督は小津監督を尊敬していた。フランス人で「ベルリン天使の詩」で起用された女優ソルヴェイグ・ド・マルタンは少し肉感的だった。よくフランス語で会話した。日本での撮影があり笠智衆が出演。日本のシーンは新宿の雑踏と箱根、奈良屋で撮影された。ルー・リードの音楽が陰影を醸し出した。現代のホメーロス、オデュッセイのように、父と断絶の子との邂逅。未来の核衛星の地球への落下。盲目の妻の脳に直接の映像を結ぶ技術の発見。地球を横断するロードムーヴィだった。二十数億円の大作だった。難しい内容だった。成功しなかったが思い出深い作品となった。
 三人はヴァポレットに乗ってリアルト橋まできて降りた。フェーロ河岸をリアルト橋に行って、右折するとバルトォメオ小広場に出る。四月二日小道を行く。マルザリエと呼ばれる商店街が続く。服飾品、宝石商、鏡、ムラノのガラス細工屋でにぎわっている。カピテラ、オルォジアの商店パサージュを散策してゆく。サンマルコ広場への入り口に時計台跡がある。くぐるとサンマルコ広場だ。広場に面してフローリアンとクアドリの二軒のカフェーがある。バイロン、ゲーテ、ジオルジュ・サンド、ミュッセ、ワグナーを迎えたと記録にあるそうだ。前日と同じようにヴェニス式サンドイッチとビールで軽く昼食を済ませてサンマルコ寺院に入った。
 ビザンティン形式の寺院は美しかった。奥の院に福音の使徒たちが黄金で刻まれていた。パラドーロというものだ。時代の頂点を飾ったのであろうか。
 最近の日本も小泉政権のもと二極化がすすんで貧富の差がめだつようになってきた。100億円稼いだ青年の話がトピックになっている。世界史上に残る偉大な文化財は今騒がれていることなど問題にならない貧富の差のなかで誕生してきた。エジプトのピラミッド、ギリシャの神殿、ローマの遺跡、中国の万里の長城、インドのタージマハール、日本の法隆寺 そしてヴェニスの街である。無数の奴隷、無産階級、貧乏人、無名の職人が世界の文化遺産を創造したのだ。確かに無限の金が背景にあった。無限の金と権力がある人間がいた。それは現代の誰もかなわない権力と資産だった。
 唐詩選から東波が浮かんだ:
 人有悲歓离会、月有隕晴円缺。
 此事古難全、但愿人長久、千里共嬋娟。
 (人に悲喜離合あり、月に曇晴れいんけつあり。
 古より完全なく、永久をのぞんで千里離れて同じ月を眺める。)筆者訳
(続く)<veiceveice

水の都ヴェニス5

東洋と西洋の融合を果たした永遠の水の都ヴェニス
 歴史の教科書と美術書でしかお目にかかれなかった水の都ヴェニスが海の中に浮いていた。1969年冬、シュツットガルトで手に入れたフォルクスワーゲンでいとも簡単に憧の水の都に到達せんとしていた。やむにやまれず日本をでて、後ろを振り向かずにがむしゃらではあったが、欧州に辿り着き一年有余を過ごし今帰途に着くため陸地伝いで東に向かっている。途中にヴェニスがあった。陸地側から見たヴェニスは海の向こうにあった。何本かの中世色の尖塔がかすんでいた。日本から常に携行している唐詩選から、李白の詩が浮かんだ。
 chuang qian ming yue guang,yi shi di shang sou.
ju tou wang ming yue,di tou si gu xian.
 床前明月光、疑是地上霜
 挙頭望明月、低頭思故郷
ヴェニスは帰途の途上にあった。海のかなたに尖塔がかすんでいる。季節はまさに厳冬。たずねる人はヴェニスになにを求めるのか。アドリア海の根元に位置するヴェニスの海辺に白波がたっていた。
 我々は島の物価が高いことを避けて陸地側の安ホテルをさがした。名前はヴェニスホテルだった。駐車場がそれでもついていた。オレンジ色のネオンで飾っていた。歴史の街ヴェニスからは想像できない原色の飾りだった。入ると胸の高さと腹の高さが一緒の中年イタリア女が受付にいた。キネーゼ(中国人)か?と聞いてきた。まだ日本人より東洋人といえば中国人だった。ジャポネーゼだと言うと、アローラ(だからなんなの。)と答えた。一泊何リラだったか覚えていない。夜中に男と女がもめている声がした。イタリア版連れ込み宿だった。
 車を置いて、汽車でヴェニスのサンタルチア駅についた。陸地側から約四、五キロの距離だが、ラグーンと呼ばれる干潟の上を行った。三人とも無口だった。M君はたいまいを出してドイツで購入したカメラのファインダーをひっきりなしにのぞいていた。写真に活路を求めるというようなことをいっていた。二人は聞き流していた。その彼が1975年のサイゴン陥落の最後まで写真を撮っていた。プノンペン陥落では大腿部を貫銃痩され重症を負った。彼の写真は日本のマスコミを飾った。そしてクメールの娘と結婚した。H君の方は車の運転で疲れたのかそれとも違う何かを考えていたのか寡黙だった。たまになにが可笑しいのかイタリア語を聞いて笑っていた。意味がわかる筈がないのに。
 サンタルチア駅からヴァポレット(水上タクシー)に乗った。ヴェニスに車は入れない。水上タクシーがグランカナル(大運河)を行く。フランス語を習得していたのでイタリア語は類推できた。それ以上にイタリア人はフランス語がわかる。困ったらフランス語で会話した。
 ピアツァレローマにある日時計にはラテン語でヴェニスの標語が刻まれていた。「Horas non numero nisi serenas」静溢に価値あり。117の島があり、150の運河が掘られ、400の橋で結ばれている。運河は<capo>,小広場は,<campo>,小道<calle>,河岸は<riva>,館の下のパサージュは<sotoportego>とよばれている。運河の裏の小道をゆくとまさにヴェニスの静溢さを満喫できる。ヴァポレットはヴェニスの中心サンマルコに向かう。約30分の船の上から右岸、左岸に大理石の館が続いている。独特のファサードが見るものにやさしい。河岸には床屋のマークのような杭がうたれている。海水が館の玄関まで行っていた。冬は特に潮が高いと聞いた。ヴァポレットはすいていて両岸を見るたびに右、左に揺れながら移動した。ヴェニスは西暦810年にリド島にいたマロモッコ人が現在のリアルト橋に居を定めたのが最初といわれている。そのリアルト橋をくぐるとサンマルコ広場は近い。遠くにサンジョオルジョ・マジョーレ教会、とサンタマリア・サルーテ教会が見えてくる。伝説は白い十字架をくわえた鳩が移住者を導いたとある。横80メートル、奥行き160メートルのサンマルコ広場には鳩がいっぱいいる。皆がえさをあたえている。小さな子供が鳩とたわむれている。いつまでもいつまでも戯れていた。
 三人はサンマルコ広場に面して座る椅子とテーブルが置かれた野外でビールとフランスパンでできたサンドイッチを食べた。なかにチーズとコルニションがはいっていた。太陽が出ていて明るかった。まだ行く先は遠い。(続く)
 
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イン川の街インスブルックからブレンナー峠を行く 19695

シュツットガルトから25000キロの旅が始まった。
 今から39年前のことだ。ドイツから日本に地べたを伝って帰るなど誰も考えなかったし、そんな事をやるなんて馬鹿の上阿呆に近かった。その後何年かして確かトヨタ自動車がスポンサーとなってシルクロード横断を果たしたことが報じられたことを覚えている。シルクロードをその後多くの文人や冒険家が行って旅行記をものした。皆その事実とシルクロード横断のすばらしさを語って見せた。日本人があまり知らないか、誰も発見したことのないシルクロードを語った。そこにはもうシルクロードを行くという既定のプロジェクトがあった。いわばシルクロード山を挑む山岳隊の冒険記みたいだった。
 私達三人にはそんな思い上がったものはなかった。日本に帰るのに陸地伝いで行きたかっただけだ。始めから行き着くところまで行こうと約束していた。道があるのはそこを通った人たちがいたからだ。道が続いているのは歴史上多くの人達が歩き族けていたからだ。なにも冒険でもなんでもない。その上我々にはヒットラーが作ったといわれる国民車でアフリカ戦線の優秀軍用車のフォルクスワーゲンがあった。結局この優秀車はパンク一回だけで25000キロを走り、1969年のカシミール戦争の救急車としてインド政府のお役にたったのだから。出発にあたり三人で約束をした。ひとつ、いけるところまで行って自由に互いの行く先を縛らない。二つ、喧嘩になったら三人目はどちらにも味方しないこと。三つ、運転中は必ず助手席が起きていること。単純だがこの三つの約束のお陰で死なずにインド、カルカッタに到着できた。運命の神様は何回も我々を死の淵からよびもどした。確かに危険があった。神様は旅の途中で君たちはまだ死ねないと言っていたように素直に今思う。アフガニスタンでの夜中の山賊たち、カイバール峠でのきりたつ崖からの落下寸前の奇跡。トルコの洗濯板のような道路での一回転。運命の神様はいつも三人側にいた。旅はもちろん危険であった。そこで人知れず朽ち果て行方不明になっていたかもしれない。しかし旅とはいつもそのようなものではなかったか。芭蕉がみちのくの旅にでたのも、「旅に病んで夢は枯野のかけめぐる」、イタリア ジェノバの人マルコポーロも、止むにやまれず旅に出たはずだ。おろしや国酔夢譚の大黒屋光太夫はロシヤに捕らえられた結果、冒険になってしまった。誰も肩に力をいれて旅に出たのではない。
 話をもどす。シュツットガルトを出発して一路オーストリアのインスブルックを目指した。ドイツのアウトバーンは快適である。その上無料であった。どこかの国のように新幹線と高速通行料が変わらないなどという馬鹿な国はない。120キロでインスブルックまでとばした。先を急ぐので街をみている暇はない。ここがインスブルックという街かと高速からの遠景ですました。さてこれからだ。ヨーロッパ、アルプス越えが待っている。ヨーロッパ、アルプスはフランス語でアルク・アルパンといわれているようにアーチ状にフランスのコルシカ島から始まってユーゴにまでのびてイタリアの頭にかぶっている帽子のようなものだ。歴史上の重大事となったナポレオンのアルプス越え、象を使ったといわれるハンニバルのセントバーナード峠越えなどはアルプス越えの困難さを今につたえている。パリのルーブル美術館にアルプスを越えるナポレオンを描いたダビッドの絵がある。ナポレオンはサンベルナー峠を越えてイタリアに攻め入った。困難な峠で過去多くの人間が遭難した。その時遭難者を助けた名犬種がサンベルナー犬である。
 我々はインスブルックの南西のアグザム、マッテルを迂回してブレンナー峠を目指した。旧道18号線はヨーロッパ橋を通過してシュツバイタルの分岐を過ぎシル河の作るウィップタル渓谷を登っていく。街道の町は古くからの宿場町である。ブレンナー峠まで200メートル、高速道路の導入路を過ぎると国境の検問所がある。オーストリアとイタリアの官吏がいる。このブレンナ峠を旅したアブレヒト・デューラーの銅版画が残っている。この峠は石器時代のアイスマンの時代から利用され中世の神聖ローマ帝国皇帝たちがローマへの道として通行した。
 峠を越えるとイタリアである。建物の色が暖色になってくる。車は高速道路に戻ってパドヴァをめざす。パドバの町は高速からは見えない。パドバは古くからの大学町である。ガリレオが教授をしていた大学がある。それよりなにより大学時代、厚生年金会館で公演したシェクスピアの喜劇「じゃじゃ馬馴らし」の舞台である。喜劇は中世パドバ大学の学生ペトルキオと土地の令嬢カテリーナとの恋物語である。私はトラニオという役を演じた。その最初のせりふ:「Since for the great desire to see fair padua,nurcery of arts......」芸術のゆりかご、美しきパドバにが思い出される。1967年のゼッフィレリ監督の映画ではペトルキオをリチャード・バートン、カテリーナをエリザベス・テーラーが演じた。そして遠く向こう海の中にベニスの街がみえてきた。(続く)オーストリアaustria

車と三人の仲間3

シュツットガルトとアルプス越え
 元陸軍中将の父を幼少時に失い母子家庭で育った熱血漢のゴジー,スマートで学園紛争の話をくだらないといった暗い目をしていたヒリキ.私達はフランス、ストラスブルグの私の下宿に集まって、決心した。陸路で地面を伝って日本に帰ろう。ドイツ、シュツットガルトで車を買って、いける所まで行って、後は各自の判断で別れよう。三人は同時に頷いた。出発に際してストラスブルグの一本尖塔のカテドラル広場に面したアルザス料理屋のカマツェルで祝宴をはった。アルザスの特産シュクルートとブラットヴルスト、フォアグラのステーキ、それにアルザスのリースリングワインを食卓に並べて欧州に来て始めての贅沢な食事をとった。ストックホルムでためたアルバイトの金が潤沢に懐にあった。久しぶりによく飲んだ。飲むと日本を出てからの一年有余の各自の出来事を話した。ゴジーのスエーデン北部の町の話。なんとかいった肉感的なスエーデン娘との情事。メルメという小さなスエーデン北部から何回も送られてきた絵葉書に書いてあったことの反芻。そして君みたいに学校に行けず残念だった等等。さんざん喋った。ヒリキだけは黙って聴いていた。喋ると秘めている願掛けが消えてしまうかのように黙っていた。
 1969年初頭私達はしびれるような寒さのストラスブルグを発った。ドイツ、シュツットガルトで車を購入し、ヨーロッパアルプスを越え、イタリアからユーゴスラヴィアを経由してギリシャ、アテネでフェリーに車を乗せて、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、できればビルマ、タイ、マレーシア、そしてシンガポール、またフェリーでホンコン、台湾そして九州、本州までの計画であった。日本までの走行距離2万5000キロ。
 ストラスブルグから汽車でドイツに入りシュツットガルトまではなんのことはない。三人が冗談を言っているうちに着いた。シュツットガルトは自動車産業の街である。駅に入る線路脇に中古車販売センターが並んでいた。(写真)。ドイツオペル、VW,BMW,ベンツさすがにドイツ。日本では中古車でさえ高級である車が所狭しとならんでいる。高級中古車外車のオンパレード。日本で買う何分の一の値段であった。いかに日本での関税が高く、外車ディーラーが儲けているかであった。国民には知れず、知らさず、知り置かず。為政者は全くずるい。特に島国日本では国民が外界の情報を認識するまでに時間がかかる。この時間のギャップを悪用する人間のなんと多いことか。現在でも欧米とくに米国の現象が3年から5年後に日本を襲うという。ITバブルのエンロンそして四年後のライブドアである。
 閑話休題、三人のうち大学で自動車部にいたヒリキが車の下を見たりエンジンをかけてふかしてみたりした。ベンツは気がひけた。BMW,とVWをみた。値段は7万キロ走行済のBMWミーディアムクラスで約20万円、VWのビートル 走行距離5万キロが約10万円だった。店の親父はどうせ買う金などないくせにという風情だった。確かに背中にリュックを背負い、ジーパンに防寒のダッフルコートの我々が中古車とはいえ、買う風体に見えなかったとしてもなんの不思議もない。”ヴィアハーベンゲルト”(カネならアルよ)と言ったら、”ミューグりィッヒツーベツァーレン?”(大丈夫か?払えるって!)と驚いた声をだした。ビールをしこたま飲んだのだろう赤い顔から紫色の血管が浮き出していた。ヒリキが言った。確かVWは第二次世界大戦の時ドイツ軍がアフリカ戦線で勝利を収めたときの軍用車だ。熱に強く空冷。中近東の砂漠地帯には最適。と説明した。車の知識にあまり詳しくない二人はそれで十分だった。パスポート、フランスの滞在許可証、それに現金でWVがいとも簡単にその場で手に入った。驚くべき自動車社会だった。(続く)
 シュツットガルトシュツットガルト

雑感

シルクロード横断を記述する前に 雑感
 一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を体験し、シルクロードを車で横断した。今から39年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。そんな中「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦を出る時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルを有するかだけの違いである。しかしニートだけがわからない。親からの援助で親の家に住み何もしない。保護のなかで外との接触をしない。エネルギーは燃えない。このまま親の援助がなくなると政府の保護にはいり生活保護をうけることになる。問題はこのニート達である。解決のない解決を求める人達にどう対応してゆくのだろう。
 世代という違いがある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時代が解決してゆくのかも知れないと思う。

Dahau to Strasboug 1968 autumn

StrasbougStrasboug

Dahau to Strasboug 19684

ダハオからストラスブルグの下宿に凱旋(財布に6000フラン)
 南ドイツの強制収容所跡が脳裏に残ったまま、ミュンヘンを経由してライン河を渡り対岸のフランス・アルザスの県都ストラスブルグに3ヶ月振りに戻った。石の建物で一寸東京駅に似た駅舎に着いたのはもう深夜に近かった。バスもなかったので思い切って駅から下宿のある郊外のホーエンハイムまでタクシーに乗った。欧州に来て始めてのタクシーだった。駅から五、六キロであった。いつも自転車で大学まで通った道をタクシーでいった。下宿の前まで来た。下宿先のヒッケル家は大工家業でもありもう寝静まっていた。玄関のベルを鳴らした。中からいつも世話になってばかりいたおかみさんのシモーヌが出てきてくれた。タクシーで帰ってきた貧乏学生の私を見て唖然としていた。タクシー代はあるのか心配そうにしていた。ジェ・アセ・ダルジャン(金はふんだんさ)と言うと信じられないようなふりをした。下宿代は一ヶ月100フラン(8000円)だった。お土産にシモーヌにドイツで買ったゾリンゲンの調理道具を買っていった。シモーヌは寝たばかりの旦那のフェルディナンと息子のピエールをわざわざ起こして帰ってきた私のために夜食とアルザスのリースリングワインで乾杯してくれた。小さかったが心のこもった歓迎パーティだった。お土産を皆に手渡すとヴレモン!(本当か)と言いながら喜んでくれた。私のストラスブルグへの小さな凱旋だった。
 そのフェルディナンもシモーヌももうこの世にいない。ピエールは美容師のクリスと結婚して大学の医学部で働いている。もう50代だ。この世で確かなのは唯一時間が過ぎ去ってゆくことだけだ。死ぬということが必ず待っている。一緒にラインの支流に小船を出して釣りをよくした大工のフェルディナン、大好きなラパン(野うさぎ)料理とアルザスの名酒リースリングの白ワイン辛口を愛したフェルディナンも屈託のないパ・ド・プロブレム(人生問題なし)が口癖のシモーヌももうこの世にはいない。シモーヌは街の百貨店で売り子のパートをして生活を助けていた。シモーヌが言った。北欧のアルバイトはどうだったの?私は言った。パ・ド・プロブレムさ、6000フランも貯めたよ。え!6000フラン!セパヴレ(うそでしょ)。本当さ、北欧で皿洗いと工場でダブルで働いたんだよ。そして貯めた。フェルディナンもシモーヌもあっけにとられていた。
 そして次の日から又大学へ通った。講座はもう始まっていた。先生は同じでまた帰ってきたかと言って迎えてくれた。モージェというフランス語の教科書の最後の方にまで進んでいた。先生からフランス語を教える資格を取れる試験があるが受けてみないかといわれた。挑戦した。もう一歩のところで落ちたと先生から聞いた。慰めだったのかもしれない。こうして2年目のストラスブルグの日々が過ぎていった。(続くシモーヌとフェルディナン

大金懐にヒッチ 西ベルリンをでる。1968年秋

今なら400万円くらいのお金になるだろう。                  そのくらいの大金をもって西ベルリンからヒッチハイクでダハオという初めて聞く街に向かった。どういう経路を行ったのかいまはっきり覚えていない。確か二日かかった。トラックは南ドイツに向かっていた。アウトバーンの標識にミュンヘンの文字が見えた。40歳代の中年トラック野郎は英語はできなかったが、もうはげが目立つが金髪で歯がタバコで黄色かった。ダハオという街に住んでいた。南ドイツから西ベルリンに食料を運ぶ長距離をやって長いとわかった。
南ドイツのダハオという街がどのような所か全く知識のないまま長距離トラックに乗ってダハオに着いた。静かな街だった。南ドイツ独特の服装をした人びとが行き交っていた。街のZentrum(中心)でおろしてもらった。ダンケゼアと叫ぶとビッテとにっこり応じてくれた。とりあえず中心の小さなホテルをとった。しばらくしてダハオの街を見ようとホテルの受付にいろいろと英語でたずねた。そこでここに強制収用所があったことを聞いた。アウシュヴィツは知っていた。ダハオについては全く知らなかった。教えられた道を行った。強制収容所跡があった。門があり無料で見学できるようになっていた。中にバラックが並び鶏舎小屋のように二階ベッドが続いている。ガス室があり、記念館には歯、髪の毛、囚人服が展示されていた。この収容所はドイツでの最初の強制収容所で当初はナチス突撃隊が敵外者を拉致し監禁するための施設であった。映画「戦場のピアニスト」の舞台となったとも言われている。ミュンヘン郊外のこの町ダハオに1933年の1月30日のナチス政権が樹立され同年の3月22日に建設されたと記録にあった。建設当時5000人の収容を目的としたが、1933年から1945年までの12年間に20万6000人以上の収容をしたとあった。その大部分の収容者が死んだ。その歴史からまだ23年しか経っていなかった。収容所の芝生は青々としていた。芝生の下に死んでいった無実の人間の叫びが聞こえるようだった。その時から日本では全く意識したことのない事、ユダヤ人とは何者?が私の永遠のテーマとなった。なぜヒットラーはユダヤの民をこのように絶滅せんとしたのか。シェクスピアは「ベニスの商人」の中でユダヤ人のシャイロックに語らせている。借金のかたを生きている人間の肉で返せと。
 現代の世界、米国ブッシュ政権がアフガニスタン、イラクと戦争をすすめている。日本も自衛隊を派遣している。世界は米国の覇権のもと動いている。ドルが世界通貨であり、そのほかの通貨はカジノのチップみたいなものでドルに変換できるから実体があるだけだ。ドルで借金を抱えたものは生きた自分の肉体を切り刻むしかないのであろうか。「赤い盾」という本があった。現在生じている全ての現象の由縁をユダヤ資本ロスチャイルドから説きほぐした。今、日本でもライブドアの堀江社長が逮捕され大騒ぎしている。株の100分割だとか、粉飾決算だとかいっている。テクニカルなことに惑わされてはいけない。その背景は何なのかしっかり考えるべきではなかろうか。(続く)

1968年 秋 ベルリン

1968年秋ベルリン(カイザーウィルヘルム教会とチェックポイントチャーリー
 ホテルからカイザーウィルヘルム教会の崩れた姿が見えた。街路樹のプラタナスの木から葉っぱが散りかけていた。ドイツ皇帝ウィルヘルム1世と鉄血宰相ビスマルクにより成立したドイツ帝国を記念して1895年に完成したネオロマネスクの教会だそうだ。1943年の連合国のベルリン空襲で破壊された。現在破壊されたまま保存されている。広島の原爆ドームを想い起こさせた。連合国はドイツに原爆を使っていない。ドイツには多くのユダヤ人が強制収容所にいた。原爆はユダヤ人が発明した。
 壁を見に行った。チェックポイントチャーリーを通って東ベルリンを見たかった。Uバーンを使ってチャーリーに着いた。検問所だ。検問所の手前に博物館があった。いかに多くの人間が東から西に逃げいかに東に殺されたかを説明してあった。西と東の検問所間は50メートルくらいだったか。真ん中に鉄条網で区切られ道が、くの字にまがっていた。壁は東によって建設されたので検問所も東が作ったと思っていた。西から東に向かうときのほうが厳しかった。聞くところこのチャーリー検問所は西が作ったもので東ドイツを経由して西ベルリンに入る連合国側の検問所ということだ。このほかにA検問所、B検問所があった。チャーリーとはC検問所のニックネームである。
 長い壁が続いていた。東ベルリンに入っていった。住民の姿が見えない。集合住宅のビルは古ぼけて黒っぽくすすけたような色をしていた。さみしかった。
1987年、このベルリンの状況の中ヴィムヴェンダース監督が「ベルリン天使の詩」という映画を撮った。1991年私は仕事で同監督からの日本からの投資要請に応えて当時の上司を説得して「世界の涯まで」を製作したが、製作にかかった1989年ベルリンの壁がくずれた。映画はテーマを大きく変更せざるを得なくなった。完成された映画は評価されなかった。しかし私には大切な思い出の映画である。
 ベルリンには三、四日程度滞在した。ホテルに滞在して、しっかり観光してアイスヴァインなどのドイツ料理を食べた。金を使えば滞在は快適になった。しかしどうも面白くない。金を使う観光旅行をしに欧州にきたんじゃない。幸いベルリンは陸の孤島であった。ベルリンから西ドイツに行くには東ドイツを通るしかない。普通は汽車か飛行機を使った。調べたらヒッチする方法があった。長距離トラックを見つけるのだ。これは面白い。荷物集積場でトラック運転手を探した。居た。西ベルリンからダハオに向かうのだそうだ。ダハオがどこだかはじめ判らなかったが西ドイツであることは確かである。そこから汽車にのればいいと臍を固めた。涼しさを増した10月初旬朝トラックで西ベルリンを後にした。

 ブランデンブルグ

ストックホルムで大金をためてストラスブルグに帰る。1968年夏

大金40万円を懐にフランス・ストラスブルグに帰る。
 ストックホルムで約3ヶ月必死にアルバイトして40万円の大金が貯まった。5000クロナであった。日本の大卒初任給が当時2万円程度であったから20ヶ月分ということになる。物価の変遷をみてみる。コーヒー一杯の値段である。(東京銀座)昭和20年(1945年)5円、昭和25年(1950年)30円、昭和30年(1955年)50円、昭和35年(1960年)60円、昭和40年(1965年)80円、昭和45年(1970年)120円 そして現在の銀座でのコーヒー一杯は800円くらいだろう。1968年の値段を100円とすると実に8倍である。すぐに比較はできないが当時の40万円の金額を理解してもらえると思う。この大金をもってストックホルムをでた。金ができたので欧州エクスプレスでストックホルムの中央駅を出発した。また来ることもあるだろうと思っていたが、その後1979年会社から派遣されて欧州に10年近く滞在したが、どういう風の吹き回しかストックホルムを訪れていない。不思議である。とにかく、フランス、ストラスブルグまでの経路を決めた。まずベルリンで壁を見ること、ベルリンから飛行機でフランクフルト、フランクフルトからライン河沿いに黒い森(シュヴァルツヴァルト)を経てストラスブルグに帰る経路だった。もうすでに初秋、乾いた風に落ち葉が舞う。湿度が極めて低い北欧の秋、肺に入る空気は軽い。汽車はスエーデンの大学町ウプサラを過ぎて一路ドイツとの国境に向かう。国境で係官がパスポートのチェックにきた。スエーデン出国の判がおされて国境の街マルメからドイツ国境の街リュベックにフェリーでバルチック海峡を渡った。リユベックからベルリンは近い。車窓から北ドイツの穀倉地帯がみえる。針葉樹林の多いドイツはフランスに比べると森が暗い。太陽も幾分赤い。黄色味をおびたフランスの太陽とはやはり違う。ドイツに入ると皆が破裂音のきついドイツ語を話していた。あたりまえのことだが、面白かった。スエーデン語はゲルマン系なのかノルマン系なのか知らないが、ダンケがタックでやはり似ていた。耳に聞こえる感じはドイツ語よりねばっこい。日本でいえば東北弁ぽかった。
 ベルリンに着いた。西ベルリンの中心部のホテルにとまった。ホテルにしっかりとまったのは欧州滞在でこれが何度目だったか、ベッドのシーツが快適だった。

1968年 夏 白夜のストックホルムIII

どうしているのだろう あの時の仲間たち (1968年夏 ストックホルム) 39年前のほんの一時期に縫合しただけの友達達、その後全く会ってない人たち。しかし今とてもよく顔立ちと着ていたものと彼らの笑顔を思い出すことができる。ほんの一、二ヶ月の邂逅でしかなかった。ひとなつこい笑顔で親分肌だったH氏、ベトナム脱走兵だったジミー、話すと舌足らずの英語が気になった。本国との連絡はついているのだろう。フォルクスワーゲンに乗っていた。スエーデンは中立国で脱走兵がたくさんいた。郊外の中年スエーデン夫婦宅に居候してベッドを三人で共有していたI氏、合気道3段で東欧の大男を熨していたM氏、フィンランドからの学生アルバイトでとてもかわいい金髪のピルヨ。その妹のヒルカ。ほんの短い北欧の夏を一緒に過ごしたかけがえのない友だった。みな20代だった。若かった。H氏からはトマトケチャップ工場で、I氏とは駅の傍のレストランで、M氏とはホテルのレストランで、ピルヨとヒルカとは帆船で一緒だった。ベトナム脱走兵の米国人のジミーとはよくディスコで遊んだ。ガムラストンという街の中心街は古い昔の北欧街の姿を残していた。その一角にアパートを借りたが、ふるくて趣はあったが不潔だった。ガムラストンにディスコがあった。ビートルズで踊った。よくスエーデン女をナンパしようとしたが、金髪スエーデン女はとても傲慢だった。肌が合わなかった。街のなかはバスを交通手段とした。小さな街なのでどこに行くのも不便はなかった。ストックホルム大学に留学していた日本人もいたが、話が面白くなかった。
 アルバイトの方は依然としてダブルで働いた。場所は変えた。少しずつ条件はよくなった。帆船アフチャップマンでの警護のアルバイトは合気道三段のM氏から紹介を受けてやった。日本人はみな空手をやると思っていたのか特に条件がよかった。一時間10クローナ(800円)になった。三日働くと当時の日本での大卒初任給だった。お陰でこの仕事だけで20万円相当をためることができた。仕事が終わるともう夜中の2時ころだった。まだ太陽があった。眠くなる暇がなかった。皆で飲み、現在を考え、がむしゃらで先のわからない青春を抱きしめていた。
 やがて8月の後半を過ぎ9月を迎えていた。北欧の秋は早い。涼しい風に冷たい風が混じるようになってくる。もう白夜はない。9月皆がすぐくる冬将軍の準備をし始める。まだ夏を欲しいものは南欧の国々に旅立っていった。我々にも次の準備が待っていた。9月中旬私の財布には5000クローナ(約40万円)の大金がたまっていた。
 

1968年 夏 ストックホルムII

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1968年 夏 白夜のストックホルムII4

1968年白夜のストックホルム 3ヶ月のアルバイトで貯めた金なんと5000クローナ(日本円で40万円)
 今からもう足掛け39年前の話だ。パスポートを取るにも大変な時代だった。外貨規制があり観光で持ち出せる外貨は信じられないだろうが、500ドル(1ドル=360円)だった。日本円で18万円だが、それでも500ドルを貯めるために学生だった私は三鷹市市長選の応援アルバイトや市内ごみ清掃現業のアルバイトを3ヶ月、家庭教師2軒を半年、でようやく10万円、残りは親戚や家から借りた。1968年の大卒初任給は大体で2万円近辺であったろう。帰国して半年後、1970年に給料の比較的良い最大手の広告会社に就職したがその時3万8500円だったのだから。その500ドルで日本を出発してストックホルムでのアルバイトをするまで約10ヶ月学費、食費、交通費、下宿費をだしてフランス、ストラスブルグで生活した。10ヶ月で58キロの体は52キロにやせていた。要するに疲れすぎの栄養不足状態だった。もともとフランスでは風呂につかる習慣はなかったが、公衆のデゥーシュとよばれるシャワーつきの銭湯があったがもったいないのでお湯を下宿で沸かして体をふいた。疲れていたのだろう、なかなか朝起きられなかった。とにかく眠たかった。大学の講座によく遅刻した。下宿のホーエンハイムから大学まで自転車で通った。約30分の道のりだった。今はその通ったところに欧州議会がある。畑が続いていた。よくピエールとライン河の土手でうさぎを追った。食料にするため真面目に追ったが無駄だった。子供と栄養不足の学生には到底むりだった。それから十数年後フランス、パリに会社の駐在として派遣されていた私は当時のアディダス・フランス社のダスラー社長とストラスブルグ郊外の本社で会議をもっためストラスブルグに向かった。ストラスブルグの街は変わっていなかった。ただ自分が変わっていた。少し自由を犠牲にして得た金銭、失った時間と荒唐無稽な夢。何かを求めてひたすら生活した時代、現実に見えた何かは、このようなことだった。今、ストラスブルグはセピアに変色してはいるが、確実に鈍くなった脳裏に常に存在している。
 話を白夜のストックホルムに戻そう。アルバイト先を探した。街の目立つレストラン、工場を直接訪ねて雇用を依頼した。幸い英語がどこでも通じた。外国人、特に東洋人。始め相手は当惑していた。フランスの学生証を見せた。安心したのか中央駅傍のレストランと郊外のトマトケチャップ工場が臨時アルバイトとして雇ってくれた。フランス語をしゃべると相手のスエーデン人の態度が丁寧になった。交渉してレストランは夜勤としてくれた。工場の仕事はベルトコンベヤーに乗ってくるケチャップ瓶がベルト上に規則的に乗っているよう監視することだった。退屈で時間を売ることだった。1時間5クローナにはなった。1クローナは当時80円程度だったと思う。約400円程度。朝8時から4時まで8時間働いた。一日40クローナ(3000円程度)になった。昼食は工場で食べた。ほとんど無料だった。その足で駅傍のレストランで皿洗いをした。高級な皿洗い機があった。ぬるい湯に浸して皿洗い機にかければよかった。5時から12時まで働いた。一時間4クローナ、一日30クローナになった。当然夕飯は無料でティーボーンステーキを食べた。一ヶ月がすぎた。財布には1500クロナ(約12万円)あった。現在の日本に中国やフィりィピンから多くの外国人労働者が来ている。得る報酬は本国と比べるととんでもない高額になる。39年前日本と北欧との差は外国人学生アルバイトでもこんなにあった。8月初旬仕事や生活になれた私はディスコに出かけたりや仕事を一緒にするフィンランドからの女子学生と付き合うようになっていった。現在もあるが港に面して超高級ホテルのグランドホテルがあるが、道を隔てて遊覧帆船が接岸している。遊覧帆船は確かアフチャップマンといった。この帆船での夜勤監視のアルバイトをはじめた。ヨーロッパ各国からの富裕階級の人間達の社交場となっていた。警護の既成ユニフォームを着せられた。そこでさまざまな人間模様を目撃した。富裕な人間達には必ずコバンザメが着いていた。おべっかを使って生きてゆく人間達。働かずに富裕に生きてゆける人間達。欧州、北欧の街ストックホルムの夏は整然とした福祉国家の体裁をかぶり平等社会の様子ながら、実際は階級社会であることをしっかり露呈していた。(続く)

 

1968年夏 白夜の北欧ストックホルム4

2de6d6aa.JPG1968 stockholmへの道

白夜の北欧ストックホルム 1968年夏4

1968年夏 白夜のストックホルム
 激動の年、1968年夏白夜のストックホルムにやっとのことで、たどり着いた。ストックホルム郊外の町に住んでいた友人の下宿先にむかった。教えられた住所に郊外電車に乗ってむかった。現在私の住んでいる小田急線の高架と新しい駅のような無機質の町が横たわっていた。北欧の国スエーデンは当時世界一流の福祉国家であった。人口800万人。北部キルナには今後100年国民が暮らしていけるだけの鉄鉱石が埋蔵されているとされていた。しかしこの寂しさはなんなのだろう。郊外電車で約20分ばかり都心から行った町はおとぎ話のような一戸建ての家が立ち並んでいた。まったく整然と整備された町を歩いて談笑する住民はなかった。老人達が圧倒的に多く北欧独特のくるぶしをはらした老人達が杖を頼りにあるいていた。
 北欧の夏、夜の闇はない。沈み行く太陽はあっという間にあがってきた。丁度このころだ。北欧の国のフリーセックスが世界の話題となっていた。自由な何にも縛られないセックスという意味だろうくらいしか理解していなかった。どうも違うという経験をこの時目撃した。夏だが少し肌寒い郊外の四辻の道路、午後10時くらいだった。まだ明るいが夜だということの認識だけのためだろう黄色味の道路灯がついていた。まっすぐのびた道路をまだ十四,五歳の金髪のミニスカートをはいたかわいらしい女の子が歩いてくる。駅の方角から同じ位の年格好の男の子がすれ違った。男の子の手がのびて体を抱いた。女の子ははじめはいやだというジェスチャーをしていたが、無理やりでない男の子の感覚をおぼえたのか抱き合い始めた。まだ太陽がのこる道路上の出来事であった。私には、セックスや性的な感性はどこか未だ暗さとどこかつながっていた。全く卑猥さや暗さから開放された性。それは、一方むしろ無機質な有機生物行為ではなかったか。このようなことは、その後、働いたレストランやトマトケチャップ工場や野外公園のスカンセンパークでのウェイターの仕事上でもいろいろと経験した。中でも忘れないように、ここで書きとめておきたいのは、ストックホルム港の南に位置する小さな島にあるスカンセン公園でのことである。スカンセン公園はストックホルムの夏の行事である白夜のお祭りが催される。夏至の日が白夜の祭りの日である。市民が集まって本当に短い夏を味わいつくす。この日は日本的にいえば無礼講の日である。私はこのスカンセン公園にある野外レストランでウェイターのアルバイトをしていた。野菜の種類のない北欧の食事は豊富な肉類にサラダ菜とトマトがそえられたメニューがどこでも中心であった。それにボトルのままのむテュボルグなどのビール。レストランの横から北欧の森が島をつつんでいる。沈まない太陽。白夜のなかで木々の中から真っ白な肉体が踊りでてきた。次から次へと身に何も着けていない老若男女が踊っていた。それは霞のかかった黒い森と黄みのある沈まない太陽との自然の舞踏のようであった。(続く)

1968 夏 ストックホルムへの道4

1968 stockholmへの道1968 stockholmへの道

1968 夏 ストックホルム

1968年 夏 ストックホルム
 五月のパリからストラスブルグに帰った私は眩いばかりのフランスの春を経験した。零下18度や20度の冬は曇天の空のもと人の気持ちを憂鬱にする。曇天は4月の終わりまで続いた。太陽はこの冬の間に数日しか出なかった。しかし陽光の5月は突然やってきた。花という花が一斉にこの時をまっていた。日本の春ボケ、梅、桜というような時間の間隙はない。一斉に花が咲く。ボッティチェリの絵のように。突然自然が甦る。Renaitreするのだ。ルネッサンスの語源が良くわかる。
 大学前広場のマロニエの紅白の花が満開となり、ストラスブルグの大学講座も三学期目の終わりを告げようとしていた。夏休みが近かずいていた。同時に私の懐具合も切迫しつつあった。どうにかしないと下宿費も学費も払えなくなる。夏休みの学生アルバイト先をみつけなくては。当時欧州では外国人学生のアルバイトは一般的に許されていた。ストラスブルグの街中でもレストランや大学食堂での皿洗いなどのアルバイトが紹介されたが、1時間当時で50サンチーム(約35円)。8時間働いて300円以下。こちとら夏以降一年間の学費、食費、下宿費を貯めなくてはならない。そこで決心したのが北欧でのニ個所アルバイトであった。朝から4時まで工場、4時からレストランの仕事の掛け持ちアルバイトであった。まず北欧にむけてストラスブルグをたった。七月の初頭、ヒッチでドイツを経由する。ライン河をわたりドイツにはいり国境の街ケールからアウトバーンの入り口でヒッチ開始。ストックホルムまでと書いたボードを持って高速に立つ。約1時間 車が止まる。用意していたリュックを引っさげて車に乗る。車の主が言う、マンハイムまでだがいいか?勿論ダンケシェーンだ。車のなかでデタラメだが要するにしっかりとコミュニケーションを笑顔をたやさずとる。でないと互いに初めてだから息が詰まって良い結果は決して生まない。突然降ろされたり罵られたりとかの事件が時たま起こっていた。
 マンハイム、デュセルドルフ、ボン、フランクフルト、ハノーバー、を経てストックホルムまで何十台の車をヒッチしたか良く覚えていないくらいだ。一生賢明ヒッチした。良く辛抱強く待てたものだと思う。若いこと、未知への興味は疲れなど吹き飛ばした。食事は止った町でパン屋でサンドイッチ、夜は安い宿屋で食べた。中には家に招かれて食事をいただきとまらせてくれた。その時頂いた新婚早々の夫婦の写真があるが名前は忘れてしまった。40年前のことであった。あの夫婦が健在であればもう70歳になるであろう。時間は刻々と正確に過ぎて行く。ドイツ北部の町からフェリーで北欧スエーデンの首都ストックホルムに着いたのはヒッチを初めて1週間後であった。(続)

パリ 5月革命 1968

パリ1968パリ1968

パリ5月1968年5

Paris,Mai,1968
 1968年、興奮の年であった。映画監督ゴダールの作品はその時代の空気を象徴している。1968年4月フランス東部の大学街ストラスブルグにも学生が集会をひらいていた。ユダヤ系フランス人学生がその中心にいた。ドゴールを倒せと叫んでいた。寒く長い陰鬱なフランスの冬を過ごしてもてあまし気味のエネルギーが満ちていた。もう誰も止められなかった。フランスの学生の反体制エネルギーはパリにむかっていた。ド・ゴール体制を崩壊させたパリ五月革命(フランス大革命の精神を取り戻せ)と学生、労働者が立ち上がった運動はこうして始まった。その中に自分がいた。1968年時代の興奮があった。音楽は時を疾走し、時代がゴーロワーズの黒タバコの臭いで充満していた。そしてパリ五月革命、日本では新宿騒乱とつながって行った。しかし今振り返ってみる。その時発した問は何だったのだろうか。
 1968年5月3日、パリ大学ナンテール分校で学生がエドガーフォール文部大臣にたいしてオブジェクション(異議申立て)のデモをおこした。学費と食費の値上げがきっかけとなった。運動は全フランスに広がり労働者がその運動に続いていった。5月11日ついにサンジェルマンに集合した民衆はバリケードをつくりパリの石畳を掘り武器をつくり警察隊と真っ向から衝突、大学は閉鎖された。この中に後の社会党政権の文化大臣となったジャックラングがいた。1979年から1987年まで仕事で滞仏した私は同氏とインタビューの約束があったが都合でながれた。後悔している。
 デモ隊の中ではアンテルナショナルとマルセイエーズが歌われた。国歌が革命歌なのだ。もともと1789年の大革命の際ストラスブルグの青年将校が作詩作曲したとされライン軍軍歌であったのをマルセイユの連盟軍が行進時に歌われ1795年に国歌となったという。
 その詩は正に革命歌である。
 起て祖国の子等よ
 栄えある日は近い
 暴虐のとりでに
 見よ 旗は血にそみぬ
 とれ武器を組め隊伍を
 進め進め我祖国の自由を守れ
1968年5月15日 ストラスブルグに戻った。(続く)
 
 パリの市場パリ

Strasboug 〔Jan.to July 1968)4

StrasbougStrasboug

ストラスブルグ( Jan. to July、1968)

 プティット・フランスとよばれるかわいい街並み、と戦乱の嵐に翻弄されたライン河の街がストラスブルグ。一本の尖塔だけのカテドラル、とローマ時代アルゲンツール(銀の街)と呼ばれ多くのユダヤの民が住んでいたことでも有名な街。普仏戦争、第一次世界大戦の戦場となり1968年当時でもライン河の流域に多くトーチカが残っていた。住民はアルザシアンと呼ばれ、アルザス語を日常言語としている。アルザス語はほとんどドイツ語に近くフランス語の系列ではない。しかしフランスなので公用語はフランス語。私が本当にお世話になったホーエンハイムの下宿ヒッケル家では、父親はフランス語はほとんどしゃべれない。母親はフランス語ができるが、息子ピエールとの会話はアルザス語。複雑な欧州の戦乱の歴史を直に感じる。
 現在このストラスブルグには欧州議会が置かれ欧州の政治、経済、社会の様々な問題が討議され調整されている。正に適所と言うべきだろう。ここにゲーテやシラーが学んだストラスブルグ大学がある。医学部と神学部は欧州で有名。文学部の正面にゲーテの銅像がある。外国人のためにシヴィリザション講座があり、まずこの講座に登録した。フランス語の講座である.大学には街のなかに大学食堂が4つあった。確か当時1フラン25サンティームで食事ができた。(1フランは70円程度)以外に高いと思われそうだが違う。まずアントレがあり、鴨や牛肉の料理がつき、サラダとチーズがあり最後にコーヒーと果物がついた。勿論ハーフボトルだがワインが付いた。これが大学食堂の料理かと全く感心したものだ。お陰で貧乏学生の割りには充実した食生活を送ることが出来た。この外にユダヤ人学生のために二つの学生食堂があった。よくそちらにも顔をだした。街でたった一人の日本人学生に親切だった。大体中国人と日本人の違いに関心はなかった。要するに東洋人であった。我々がガーナ人とケニヤ人の違いに無関心であるかのようなものだ.フランス語は難しい言語だった。必死に勉強したがなかなか身につかなかった。どうにかフランス語が使えるようになったのは下宿の息子のピエールとの会話の練習があったからだ。私が数学を教え彼がフランス語をコーチしてくれた。
 講座には欧州のほとんどの国からの学生がいた。すぐ友となった。大学の前の広場でサッカーをした。その後連絡はとっていない。みな何をしどういう人生を送っているのだろうか。
 ながく寒い冬が終わろうとしていた。広場のチューリップが咲き、フランス桜が咲き始めた。フランスのこの時期はストライキの季節であった。しかしこの年は学生の集会の方が多かった。そして5月となった。パリ、ナンテール大学で学生の大規模なデモが起きていた。(続く)
























Dover,Paris to Strasboug

ストラスブルグ郊外Hoenheimストラスブルグ駅着1967

Dover,Paris to Strasboug 1967 (40年前の記憶)

 掲載している写真は皆43年も前のものだ。カメラはZenza Bronicaの二眼レフ。持つとズシッと重くてすりガラスのような投射体に映っている対象を見ながらシャッターを押して撮影した。勿論すでにカラーフィルムがあったが貧乏学生には高かったのでモノクロフィルムを使った。

 今見るとカラーのものよりモノクロのほうがしっかりと記憶を呼び起こす。どこでどのような思いでシャッターを押したのかがよみがえる。街路樹のブールバールを通るバス、IMG_0765aセーヌ河畔の町並みIMG_0766a
、マルシェの八百屋の人懐っこいパリジャン、IMG_0814a凱旋門からみたエッフェル塔IMG_0815aなど1968年の五月革命半年前のパリである。

 1979年(昭和54年)に再度パリに今度は企業の駐在員として赴任したのだが、1967年のパリがあまりにも印象が強すぎて脳を慣らすのに苦労したのを覚えている。

 当時パリに行くのにはまだ地中海を経由するマサジェム・マリチムという船回路があった。二ヶ月かかる。パリは遠くにあるのがいい。いや夢は遠くになければと思う。その点私は幸福だった。周りに日本人はいなかった。自分ひとりのパリを味わうことができた。

 いまではそれでも12時間かかるが半日でパリに着く。飛行機代も割安を探せば当時の値段とは比較にならない。便利だが感慨がない。苦労がないから印象が刻まれない。一枚のモノクロの写真さえ何十倍の記憶を呼び起こす。一粒の小さな仁丹が口腔内にひろがるように、(たとえが古いか)、シュワーとパリがよみがえる。

 幸せはパリのルイビトンでもなく、ヘルメスでもなく、ましてや団体でゆく旅にはない。安心の対極に不安だが自分で発見するのが面倒だが本当に大きい幸せなんだと思う。



 ドーバー、パリ、ストラスブルグ 

 足掛け43年前のことになる。昨日のことのようだ。昨日のことのように鮮烈に記憶しているということではない。昨日のことのように早く時がすぎていったのだ。

 英国中部のリッチフィールドを立ってロンドンを経由しドーバー海峡をわたって対岸のフランス、カレーに入り汽車は一路パリに向かった。パリは憧れの街だった。パリに入る手前にサン・カンタンと言う駅があった。駅哨が抑揚のある声でサン・カンタン、サン・カンタンと汽車の到着をつげていた。パリはもう目の前。左手の山の上にモンマルトルのサクレクール寺院がみえはじめて、ついにパリ北駅に着いた。1967年の年末のことだ。1歩汽車を降りると吐く息が一気に凍るように白く散った。
                         
 背中に全財産のリュックを負ってシベリア鉄道横断中に知り合った日本人画家の住所に向かった。パリにくるようなら是非寄ってと言われていた。凱旋門に近い地下鉄アルジェンティン駅で降りて坂の途中のアパルトマンのレドショセー(一階)にあった。連絡してあったので快く迎えてくれた。二三泊した様におもう。というのは12月31日皆でモンマルトルの丘にのぼって新年を祝ったことをはっきり覚えているからだ。レヴェイヨン(Reveillon)という。

 丘に集まった老若男女がキスをしながら1968年の新春を祝った。アダモ、アズナブール、ポルナレフの歌が流れていた。21歳、何もが自由だった。安ワインがこの世の特上の味がした。ムール貝の白ワイン煮の食べ方を隣の中年女がフランス訛りの英語で教えてくれた。美味かった。こんなに美味いものがあったのかと思った。広場でダンスが始まった。腰に手を回して一列になって汽車のように長く長く音楽にあわせて踊ってゆく。ダンスの列はサクレクール寺院の前で折れていた。

 所持金500ドルを握りしめ横浜を出発したのだが、1968年の夏には北欧でアルバイトしてと考えていた。1968年の七月まで金が続くと考えていが、甘かった。パリに滞在したのでは1ヶ月も到底もたない。田舎の街で物価が安く外国人向けの講座がある大学町を捜した。それがドイツとの国境の街ストラスブルグであった。アルサスロレーヌ州のフランス第七番目の街であり、ゲーテやシラーが学んだ大学街であった。激烈な1968年が始まった。(続く)
 

England to FranceIII

A教授とB

A教授とバーミンガムに向かう

England to France4

イギリス滞在からフランスへ
 なるべく早く欧州生活2年を終えてシルクロードの旅にとりかかりたいのだが、どうしても書いておかなければということが多くてこまります。その中にオックスフォード名誉教授で詩人でもあり、東京大学でも教鞭をとったことのあるB教授のことがあります。日本でシェククスピア演劇を共にしたA教授の師がB教授でした。英国で同氏は詩人としても有名でした。1967年の英国滞在時持病の喘息をおして一介の東洋からのヒッピーまがいの青年に大英美術館を案内していただきその上教授の自宅に招待していただいたのです。ゆっくりといわゆるオックスフォード英語をはなすB教授からは、英国の伝統と誇りがあふれていました。夫人も詩人でゆったりと平凡な日常生活の喜び、悩み、苦しみを言葉にしています。

 滞在した英国中部のリッチフィールドには18世紀の英国文学を支えたジェームス・ボズエルの銅像があります。現在の英語の基礎ともなった「英語辞典」をたった一人でつくりあげたサミュエル・ジョンソンと行動をともにしてその発言と言行をかきとめた人です。その関係はコナンドイルのシャーロックホームズのモデルともなったものです。
 バーミンガムにも良く出かけました。若者向けのパブに入るとビートルズの曲がかかっていました。中華料理屋で点心をよくたべました。
 その間A教授からリーズ大学で勉強を進められました。しかしシェクスピアは本場にくればくるほど遠く感じられました。前回も書きましたが、英語の自信が全く打ち砕かれたからです。その上、しっかり英語を話してないと馬鹿にされるのではという気持ちが日に日に大きくなりとてもこの地で学ぶ気にはなりませんでした。しかし一方経済的にここを離れてどうやって行くのか悩みました。
 そしてフランスに行くことを決心しました。理由は簡単でした、パリに行きたいそれだけです。決心を教授に伝えると翌朝リッチフィールド駅までA教授が見送ってくれました。その後A教授はエディンバラ大学やナイジェリア大学で教えていたようですが連絡がとれていません。(続く)
ブランデン氏とハーディ氏

England1967

England

England<

若き日々〔1967〜1969)II4

 1967年12月、大都市ロンドンへの海の玄関ティルベリー港についた。ユーラシア大陸を東西に横断して自分の足でヒッチハイクしてはじめてあのロンドンに到着したという満足感に寒さなど感じなかった。ヒッチで手紙で予約してあった市内のユースホステルにはいった。このとき初めてユースホステルなるものを見た。清潔でシャワーの完備された施設に先進国の姿をみた。町に出て市場でリンゴを買ったがユースの一泊の値段と大して変わらなかった。ロンドンにニ三泊し、ヴィクトリア駅から英国人のA大学教授のもとに向かうことにした。日本の大学で指導をうけたA教授はリーズ大学に帰任していた。住んでいるのは英国中部にあるリッチフィールドという小さな町であった。A教授は当時40才台、英文学の教授であったがシェクスピア専攻の彼は日本でシェクスピアの演劇公演を自前で打つ面白い人間で、我々は大学生の中で演劇と英語のできる人間を集めて新宿の厚生年金大ホールで『じゃじゃ馬ならし」と『空騒ぎ」を上演した。当時のジャパンタイムスにその模様が掲載されている。「空騒ぎ」で主役ベネディクトを演じた。シェクスピアは魅力があった。出来ればリーズ大学で勉強できれば、と考えていた。
英語には少し自信があったのだが、ロンドンに着いてまず困ったのがその言葉であった。聞き取れないのだ。話すのはいいのだが、聞き取れない。それまで中学、高校、大学と10年やって自信をもっていた英語が聞き取れない。すぐに英語嫌悪症にかかった。
とりあえずヴィクトリア駅からバーミンガム行き汽車にのった。間違って一等の切符を買ってしまった。ここに第2の嫌悪症の原因となる事件が起きた。一等ワゴンに席を見つけ腰を下ろしたのだが、山高帽の男が近ずいてきた。「そこのイェローここはイエローの乗るところじゃない。」明確にそういった。「なにを言う。切符を見ろ。のってなにが問題だ」そこまで言うのが精一杯であった。幸い周囲の英国人が我々のいさかいをなだめたが、人種偏見を実際公衆の面前でお見舞いされた。汽車は何事もなく約3時間で田舎町のリッチフィールドに到着した。(続く)

シルクロードを行く(1967〜1969)若き日々の記録5

シルクロードシルクロード
新年愉快!!
 今年還暦を迎えた。来し方60年胸中多くのことがあったが、1967年〜1969年の冒険は語るに価値あるものといえる。39年前のことだ。大学紛争のさなかその中にいて閉塞感と脱力状態の殻を脱ぐように初秋芝浦から所持金500ドル、日本円10万円、片道切符で日本をでた。ナホトカ、カバロフスク、シベリア鉄道でモスクワ、ホテルヨーロパに3日滞在後、鉄道でヘルシンキ、フェリーでストックホルムに着いた時にはもう10月下旬であった。
丁度その頃小田実の「なんでも見てやろう}五木寛行「蒼ざめた馬をみよ」などが時代をひっぱっていた。ストック(マドリ、コペンなど拠点都市はそう呼んだ)にも何人かの日本人がきていた。皆目がぎらぎらしていた。ベトナムからの脱走兵もいた。すぐなか良くなれた。前に前にと突っ込みがちにストックをヒッチハイクで出発したのはもう11月の半ばを過ぎていた。冬の北欧はマイナス20度をこえる。高速道路は凍結防止剤がまかれて目の前をすぎてゆく車輪の跡がくっきりと白く残っていた。パッカーとあとでなずけられた格好でスエーデンの西の港ヨーテボリまで約600キロ,10台の車にのった。言葉は必要なかった。伝える前に相手がこちらの蛮勇にあきれていた。
しかし面白いものだ。同じように無鉄砲な人間は必ずいるものだ。日本人ではないが、イギリス人というのも以外に無鉄砲のようだ。凍りつくヨーテボリ港に一人イギリス人のパッカーと泊まる場所をさがした。夜中12時を過ぎてどこも閉まっていた。外は零下20度をこえていた。建築中の住宅をさがした。あった。そこで夜を過ごした。寝袋の表面が朝起きると板のようにバリバリと音がした。
その日ヨーテボリからフェリーでイギリスに向かった。大学で指導を受けた英国人の教授がイギリスに帰り、来るなら来いといってくれていた。英国中部のリーズ大学で教授をしていた。(続く)

中国語検定試験に受験 60歳の挑戦4

2005年8月思うところがあって中国語をやり始めました。仙川にあるカルチャーセンターで中国語クラスに2週間に1度通いはじめました。やる以上なんらかの目的とはげみをと考えて中国語検定試験をうけることにしました。試験は3月、6がつ、11月と年3回中国語検定協会が主催しておこなっています。試験は1級、二級、3級、4級、準4級と分れています。ヒアリングと筆記試験があり、それぞれで級にもよりますが、60%から80%をとらなければなりません。小生ははじめて3ヶ月なので3級と4級を受験しました。結果合格来年は3月に二級を目指したいとおもっています。60歳からの挑戦ですが面白く頭の体操になります。興味あるかたはやりがいあります。

2006年から新しくここで出発です。

36ea0e97.jpgブログを他のところでやってきましたが、2006年は新しくここに挑戦です。ヨロシク
2006年還暦です。
子いわく耳順う年となりました。
これまで広告会社新規領域やりました。
ふりかえればよくやりました。
この間知り合った人、大変な人数です。ヨハネパウロ法王からセーヌ河の橋下clochardまで、徳川のお殿様から代々木公園のホームレスの方まで。
少しずつ語ってゆきます。
メインはしかし48歳の抵抗で始めた陶芸人生です。富士の裾野に窯を築いて陶芸三昧です。ですから芸術のジャンルとしました。個展をつうじてこれからもやってゆきます。2006年は夏中国の景徳鎮陶芸大学に留学するつもりです。
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