ヒッピーの聖地カブールへ
 1969年我々もヒッピーだった。小田実の「なんでも見てやろう」に共鳴し、既成の政治や道徳を破壊して新しい何かを模索する世代だった。小学校時代に二部授業を経験し、GHQによる脱脂粉乳で栄養をどうにか補給して育った世代だった。小学校にはまだ下駄で登校したし、夏はパンツ一枚で外で群れをなして遊んでいた。まさしく当時日本はアジアの色を濃く残していた。イスタンブールから今アフガニスタンの首都カブールまでは私にとっては自分の感じるアジアではなかった。トルコも、イランも、アフガニスタンも民族は鼻筋の通った西洋人に近く思えた。ただカブールに到着してカブール川にそって店を構えるバザールにきてみると、モンゴル系のアフガン人がいた。はるかストラスブルグをを出て往路半分、ようやくアジアの片鱗に出会った。アフガン人アフガン人
 我々はまずチキンストリートと呼ばれるヒッピーの集まる地区にいった。安宿の前に木で作られた縁台らしきものにヨーロッパやアメリカの若者がハッシシをのんで無気力な目をして横になっていた。近づいても我々になんの興味を示さない。つかの間の陶酔にしたっているのだろう。極端なまでの現象は見るものを唖然とさせる。世界の若者をつかんだヒッピーの運動はここカブールで無気力な刹那的陶酔主義と化していた。こうしてカブールはヒッピーの聖地とよばれていたのだ。
 カブールは標高1600メートル。朝晩の温度差は20度から30度もある。コーエアズモ山脈とシェルダワザ山脈に囲まれた盆地にある。当時の人口は約20万人。アフガニスタンの首都である。カブール川にそってチャルルチャタバザールがある。バザールに行くと何でも買うことが出来た。豊富な野菜、果物、ざくろは見事な彩りを市場に与えていた。肉は羊、カブール川でとれる川魚まで売っていた。多くの骨董屋が並び古銭屋まであった。カブールは古から職人の街だという。確かに陶器の修復や石を削る職人達を見た。カリファと呼ばれる棟梁が古の技術を伝承していると言う。1979年までは。
 現在のカブールは全く事情が違う。カブールの美しい町並みは破壊され瓦礫の街となっている。1979年カブールはソ連により占領された。ソ連撤退後は内戦、そして1996年タリバンの支配。イスラム原理主義のタリバンは写真、音楽を禁止し、政治的論議を禁じた。女性はチャドリと呼ぶ被いをかぶり、女性だけの外出は禁じられ、男性は成人すると髭をそることが禁止されている。1969年我々が見たおおらかで芸術と人生を愛する余裕のアフガニスタンは戦乱に巻き込まれてその片鱗もない。1969年アフガニスタンは確かにきらやかにかがやいていた。