終章 曼荼羅 ベナレシ

ベナレシ


終章 
 曼荼羅・べなれし

 デリーからベナレシに向っていた。ベナレシは聖なるガンジス河沿岸にある古都である。手前に架かる長い鉄橋をわたるとその都の姿が目にはいってくる。何層にも低層の建物が重なって街を構成しているようにみえる。ガンジスは少し濁っているが、悠々と流れの渦をつくっていた。滔々と流れているが、底の流れは急流のように速いという。
その急流にはまると死体はベンガル湾まで浮かばないことがあると聞いたことがある。
ベナレシはヒンズー教の聖都である。それよりなにより人生を一瞬にして垣間見たいと思わんものはベナレシに来ればよい。ベナレシの何処でもそれは経験できるのだ。
栄養失調気味の女の子が物乞いによってくる。背中には更に栄養失調の赤子を背負っている。インド中から瀕死の重病人がここベナレシで焼かれるために運ばれてくる。ガンジスで清められた死体はガーツに運ばれて火葬され、また聖なるガンジスに流される。骨にまだついた肉は空から鳥がついばむ。その鳥を人間が食い、エネルギーとなってまた新たな命をつないでゆくのだ。
三島由紀夫は『暁の寺』のなかでこのベナレシを「人間の肉の実相。悪臭、病菌、屍毒、ベナレシは華麗なほど醜い一枚の絨毯」と形容している。
 我々は三十あるガンジスにおりる階段(ガーツ)のなかで大きな菩提樹がある宿屋をとった。どこでも巡礼の客で混んでいた。毎年巡礼者は全インドから百万人以上のヒンズー教徒が訪れるという。ヒンズーの様々な儀式を行う祭司だけで三万人以上いるといわれている。宿屋は巡礼用で多くのヒンズー教徒と一緒だった。草鞋をぬぐとすぐにガンジス川にガーツにそっておりていった。
ベナレシで臨終を待つ人々は夥しいらしい。ヒンズーの教えではシヴァとその妃ドルガの恵みでベナレシで火葬され、遺灰はガンジス河に散布されると天国にいけると広汎に信じられているという。ガンジスにでると河まではすぐに入れるよう海水浴場の岸状態で入水し易くなっている。河はとても汚い。汚物が浮かんでいる。そこで老人は髪を洗い、歯を磨きうがいをしている。
目の前をサリーを着た婦人が河に入っていった。薄着なサリーが次第に水にぬれてゆく。肌寒い水をあびて祈っている。サリーがピタリと肌に吸い付いて女体の輪郭が現れている。そばには沐浴し、洗顔し、洗濯をしている男がいる。岸の岩場にはヨガのポーズをとる哲人が瞑想していた。
ガンジスの汚濁しているがその豊穣な緑色、キラキラひかる黄金の飾りのついたサリーの色、遠くから上がる赤い炎と白い煙、白い装束の男たちの群れ。色彩の人間サーカスが眼前にある。
ショックを受けた頭脳と感覚が慣れてくるとよりはっきりとその有様が認識できるようになる。河の中域をぷかぷか浮かぶ白い布にくるまれた物体から人間の足らしきものがはみだしている。はみ出した脚に鳥が寄っていた。その先をみると岸壁が炎に包まれていた。
いやそうではない。屍が火葬されていた。多くの旅行客と野次馬が野辺の見送り客である。花束と白い布に包まれた屍が炎のなかにある。ダリが描くシュールリアリズムの絵を見る感じがする。赤い炎のなかから布からはみでた足がでている。しばらくすると骨灰と燃える薪が白い塊となって空にむけて飛び立っていくように見えた。
香材と石炭と肉が焼ける匂いで野犬が吠えていた。正に驚くべき光景が眼前にあった。火葬の側の岸辺で子供が衣類を洗っている。火葬された灰が干している衣類の上に舞っていた。哲人が岩礁からこの光景を静かにみていた。
しかし、この現実をどう説明することができるのか。
強烈な感覚の混濁か。盗視症状か。既存道徳の崩壊か。それともただ驚くばかりなのか。なにも言葉が出ない。まさに天国と地獄が織り成す曼荼羅であった。
benaresi