掲載している写真は皆50年も前のものだ。カメラはZenza Bronicaの二眼レフ。持つとズシッと重くてすりガラスのような投射体に映っている対象を見ながらシャッターを押して撮影した。勿論すでにカラーフィルムがあったが貧乏学生には高かったのでモノクロフィルムを使った。

 今見るとカラーのものよりモノクロのほうがしっかりと記憶を呼び起こす。どこでどのような思いでシャッターを押したのかがよみがえる。街路樹のブールバールを通るバス、IMG_0765aセーヌ河畔の町並みIMG_0766a
、マルシェの八百屋の人懐っこいパリジャン、IMG_0814a凱旋門からみたエッフェル塔IMG_0815aなど1968年の五月革命半年前のパリである。

 1979年(昭和54年)に再度パリに今度は企業の駐在員として赴任したのだが、1967年のパリがあまりにも印象が強すぎて脳を慣らすのに苦労したのを覚えている。

 当時パリに行くのにはまだ地中海を経由するマサジェム・マリチムという船回路があった。二ヶ月かかる。パリは遠くにあるのがいい。いや夢は遠くになければと思う。その点私は幸福だった。周りに日本人はいなかった。自分ひとりのパリを味わうことができた。

 いまではそれでも12時間かかるが半日でパリに着く。飛行機代も割安を探せば当時の値段とは比較にならない。便利だが感慨がない。苦労がないから印象が刻まれない。一枚のモノクロの写真さえ何十倍の記憶を呼び起こす。一粒の小さな仁丹が口腔内にひろがるように、(たとえが古いか)、シュワーとパリがよみがえる。

 幸せはパリのルイビトンやヘルメスを買えることでもなく、ましてや団体でゆく安心旅にはない。安心の対極には不安だが自分で発見する旅がある。面倒で苦労してようやくたどり着く旅。そこに他の誰もが味わえない本当に大きい意味ある旅があるんだとしみじみ思う。

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 ドーバー、パリ、ストラスブルグ 

 足掛け43年前のことになる。昨日のことのようだ。昨日のことのように鮮烈に記憶しているということではない。昨日のことのように早く時がすぎていったのだ。

 英国中部のリッチフィールドを立ってロンドンを経由しドーバー海峡をわたって対岸のフランス、カレーに入り汽車は一路パリに向かった。パリは憧れの街だった。パリに入る手前にサン・カンタンと言う駅があった。駅哨が抑揚のある声でサン・カンタン、サン・カンタンと汽車の到着をつげていた。パリはもう目の前。左手の山の上にモンマルトルのサクレクール寺院がみえはじめて、ついにパリ北駅に着いた。1967年の年末のことだ。1歩汽車を降りると吐く息が一気に凍るように白く散った。
                         
 背中に全財産のリュックを負ってシベリア鉄道横断中に知り合った日本人画家の住所に向かった。パリにくるようなら是非寄ってと言われていた。凱旋門に近い地下鉄アルジェンティン駅で降りて坂の途中のアパルトマンのレドショセー(一階)にあった。連絡してあったので快く迎えてくれた。二三泊した様におもう。というのは12月31日皆でモンマルトルの丘にのぼって新年を祝ったことをはっきり覚えているからだ。レヴェイヨン(Reveillon)という。

 丘に集まった老若男女がキスをしながら1968年の新春を祝った。アダモ、アズナブール、ポルナレフの歌が流れていた。21歳、何もが自由だった。安ワインがこの世の特上の味がした。ムール貝の白ワイン煮の食べ方を隣の中年女がフランス訛りの英語で教えてくれた。美味かった。こんなに美味いものがあったのかと思った。広場でダンスが始まった。腰に手を回して一列になって汽車のように長く長く音楽にあわせて踊ってゆく。ダンスの列はサクレクール寺院の前で折れていた。

 所持金500ドルを握りしめ横浜を出発したのだが、1968年の夏には北欧でアルバイトしてと考えていた。1968年の七月まで金が続くと考えていが、甘かった。パリに滞在したのでは1ヶ月も到底もたない。田舎の街で物価が安く外国人向けの講座がある大学町を捜した。それがドイツとの国境の街ストラスブルグであった。アルサスロレーヌ州のフランス第七番目の街であり、ゲーテやシラーが学んだ大学街であった。激烈な1968年が始まった。(続く)