2010年 謹賀新年

 新しい年がきた。2010年のメインイベントは5月からの中国万博、と6月からの南アでのワールドカップ。

 一方世界を包む多くの問題、解決すべき多くの課題が山積する。

 小生今年で64歳。住むマンションが古い古いといって文句をたれるが、本人より30年も新しい。配管が古い、エレベーターが古ぼけてみっともないなどとほざいているが、自分をよくみりゃそれより老いぼれているに違いない。

 元気にやるか、やるっきゃない。

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 今年は7月に10年ぶりのやきものの個展を深大寺で、8月にはフランス旅行を計画している。
 




 1968年秋ベルリン(カイザーウィルヘルム教会とチェックポイントチャーリー
 ホテルからカイザーウィルヘルム教会の崩れた姿が見えた。街路樹のプラタナスの木から葉っぱが散りかけていた。ドイツ皇帝ウィルヘルム1世と鉄血宰相ビスマルクにより成立したドイツ帝国を記念して1895年に完成したネオロマネスクの教会だそうだ。

1943年の連合国のベルリン空襲で破壊された。現在破壊されたまま保存されている。広島の原爆ドームを想い起こさせた。連合国はドイツに原爆を使っていない。ドイツには多くのユダヤ人が強制収容所にいた。原爆はユダヤ人が発明した。

 壁を見に行った。チェックポイントチャーリーを通って東ベルリンを見たかった。Uバーンを使ってチャーリーに着いた。検問所だ。検問所の手前に博物館があった。いかに多くの人間が東から西に逃げいかに東に殺されたかを説明してあった。

西と東の検問所間は50メートルくらいだったか。真ん中に鉄条網で区切られ道が、くの字にまがっていた。壁は東によって建設されたので検問所も東が作ったと思っていた。西から東に向かうときのほうが厳しかった。聞くところこのチャーリー検問所は西が作ったもので東ドイツを経由して西ベルリンに入る連合国側の検問所ということだ。このほかにA検問所、B検問所があった。チャーリーとはC検問所のニックネームである。
 長い壁が続いていた。東ベルリンに入っていった。住民の姿が見えない。集合住宅のビルは古ぼけて黒っぽくすすけたような色をしていた。さみしかった。

1987年、このベルリンの状況の中ヴィムヴェンダース監督が「ベルリン天使の詩」という映画を撮った。1991年私は仕事で同監督からの日本からの投資要請に応えて当時の上司を説得して「世界の涯まで」を製作したが、製作にかかった1989年ベルリンの壁がくずれた。

映画はテーマを大きく変更せざるを得なくなった。完成された映画は評価されなかった。しかし私には大切な思い出の映画である。

 ベルリンには三、四日程度滞在した。ホテルに滞在して、しっかり観光してアイスヴァインなどのドイツ料理を食べた。金を使えば滞在は快適になった。しかしどうも面白くない。金を使う観光旅行をしに欧州にきたんじゃない。幸いベルリンは陸の孤島であった。ベルリンから西ドイツに行くには東ドイツを通るしかない。普通は汽車か飛行機を使った。調べたらヒッチする方法があった。

長距離トラックを見つけるのだ。これは面白い。荷物集積場でトラック運転手を探した。居た。西ベルリンからダハオに向かうのだそうだ。ダハオがどこだかはじめ判らなかったが西ドイツであることは確かである。そこから汽車にのればいいと臍を固めた。涼しさを増した10月初旬朝トラックで西ベルリンを後にした。

 ブランデンブルグ