黒澤監督の生誕100年。映画製作に関わった経験をもつ小生も黒澤監督の最後の作品「まあだだよ」に関わることができ監督にも直に話しをすることができたことをありがたい経験だとその機会を与えてくれた人たちに感謝している。

 「まあだだよ」は内田百?の原作から監督がシナリオを描いたものだ。弟子と先生との変わらぬ敬愛といたわりを日々の交友のなかでしみじみと描いた小品である。

 小品だが、徹底した映画製作は変わらない。戦後の荒廃した街角や時代をうつすセットは忠実に再現された。
当然時間と製作費がかかった。だがそれだけのシーンの連続だと思っている。

 不幸にもこの作品が黒澤監督の最後の映画製作となった。七人の侍や乱に見られるような豪壮な作品が黒澤であるようなイメージだが、「夢」や「まあだだよ」のような作品内面を写す映画も黒澤であることに監督の広さをみたいのである。

 小生が関わった他の映画作品には米国のユニバーサル映画社が製作した「Mr.Baseball」スケピシ監督、高倉健、主演、そして、「Until the end of the world」ドイツ ビム・ベンダース監督がある。いずれも深くかかわった思い出深い作品である。

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大陸横断 遥かなる追憶のシルクロード


今なら400万円くらいのお金になるだろう。                  

そのくらいの大金をもって西ベルリンからヒッチハイクで<ダハオ>という街に向かった。どういう経路を行ったのかいまはっきり覚えていない。確か二日かかった。トラックは南ドイツに向かっていた。アウトバーンの標識にミュンヘンの文字が見えた。40歳代の中年トラック野郎は英語はできなかったが、もうはげが目立つが金髪で歯がタバコで黄色かった。ダハオという街に住んでいた。南ドイツから西ベルリンに食料を運ぶ長距離をやって長いとわかった。

南ドイツのダハオという街がどのような所か全く知識のないまま長距離トラックに乗ってダハオに着いた。静かな街だった。南ドイツ独特の服装をした人びとが行き交っていた。街のZentrum(中心)でおろしてもらった。<ダンケゼア>と叫ぶとビッテとにっこり応じてくれた。

とりあえず中心の小さなホテルをとった。しばらくしてダハオの街を見ようとホテルの受付にいろいろと英語でたずねた。そこでここに強制収用所があったことを聞いた。アウシュヴィツは知っていた。ダハオについては全く知らなかった。教えられた道を行った。強制収容所跡があった。門があり無料で見学できるようになっていた。中にバラックが並び鶏舎小屋のように二階ベッドが続いている。ガス室があり、記念館には歯、髪の毛、囚人服が展示されていた。この収容所はドイツでの最初の強制収容所で当初はナチス突撃隊が敵外者を拉致し監禁するための施設であった。映画「戦場のピアニスト」の舞台となったとも言われている。

ミュンヘン郊外のこの町ダハオに1933年の1月30日のナチス政権が樹立され同年の3月22日に建設されたと記録にあった。建設当時5000人の収容を目的としたが、1933年から1945年までの12年間に20万6000人以上の収容をしたとあった。その大部分の収容者が死んだ。その歴史からまだ23年しか経っていなかった。収容所の芝生は青々としていた。芝生の下に死んでいった無実の人間の叫びが聞こえるようだった。

その時から日本では全く意識したことのない事、ユダヤ人とは何者?が私の永遠のテーマとなった。なぜヒットラーはユダヤの民をこのように絶滅せんとしたのか。シェクスピアは「ベニスの商人」の中でユダヤ人のシャイロックに語らせている。

<借金のかたを生きている人間の肉で返せと。>

 現代の世界、米国ブッシュ政権から、オバマ民主党政権となった。しかしアフガニスタンへの増派、イラクではいまだ政治的混乱がつづいている。2008年のリーマン危機での米国の凋落がはじまったが、依然として世界は米国の覇権のもと動いている。ドルが世界通貨であり、そのほかの通貨はカジノのチップみたいなものでドルに変換できるから実体があるだけだ。ドルで借金を抱えたものは生きた自分の肉体を切り刻むしかないのであろうか。

「赤い盾」という本があった。現在生じている全ての現象の由縁をユダヤ資本ロスチャイルドから説きほぐした。リーマン、ゴールドマン、ベアシュターン、などの投資銀行は米国ユダヤであった。金融資本主義が米国ユダヤの力を一瞬だが弱めたようにみえる。だが見えるでけで本質はなにも変わっていない。(続く)