[シルクロード] ブログ村キーワード 
断わらなくてはならない。シルクロード踏破1968は三人の力で可能だった。たった一人ではとても不可能というものだ。アフガニスタンの砂漠では白頭巾の盗賊にも出合ったし、カイバール峠では雪のなか立ち往生もした。でもどうにかやり遂げたのも三人の青春の力と多少の運があったからだ。

 その二人にこの記録について許しを得てはいない。だが許してくれるだろう。全くのノンフィクションではないことも。

 もう43年も前の青春の記録を。
6087bdc5-s

にほんブログ村 旅行ブログ 大陸横断・大陸縦断へ
にほんブログ村




我でなく我々。

 ここまで私は常に一人称単数で表してきた。ここで実情を語る必要がある。実に1967年秋横浜から日本を発ったのは友人二人と一緒だった。我々は三鷹にあるキリスト教系大学の同窓生であった。一学年180人というこの大学では全学生の名前と姿くらいは相互に認識するくらいだった。同学年だった我々は、互いの家庭の事情まで理解するような間柄だった。

千葉県の柏出身でスポーツマン、幼い時父親を亡くしたM.N氏,あだ名は朝方5時男ゴジー何やるにしても最後の最後までやらず切羽詰まって朝5時からというところから名がついた。、埼玉県出身で自動車部、どちらかというとノンポリのH.T氏あだ名暗い非力ヒリキである。当時大学の3年時を終了し、ご他聞にもれず学園紛争のまっただ中で大学本館を占拠し大学自治を主張したりした。政治が授業みたいなものだった。毎日学生同志で激論した。

「自己批判」と称する言葉をよく使った。デモにもよく参加した。「資本論」を仲間で読んだ。今後両氏を無断だがあだ名で呼ばしてもらう。ヒリキは無関心だった。気になってよくその理由をたずねた。くだらないといっていた。深遠をみる目だった。三人とも逼塞感があった。なにかしなくてはという逼塞感打破のリビドーを共有していた。

 ある日先輩でJTBに就職しているI氏と大学で会った。三人ともよく知っていた。I氏からシベリア鉄道の話を聞いた。聞いている目が光った。それだという顔をしていた。しかし皆金がなかった。Mが三鷹市長選挙の応援アルバイトをみつけてきた。革新系の候補だった。三人で三鷹市内を駆けずり回った。団地が多かった市内で辻にたって応援の演説をやった。演説は学園紛争の演説調だった。候補は見事に当選した。アルバイト代を奮発してくれた。我々のシベリア鉄道の話をきいて三鷹市のごみあつめの現業アルバイトも紹介してくれた。その年夏は暑かった。汗とごみにまみれて必死に旅行費用をためた。

1967年夏真っ盛りの中、三人とも計画した金をため準備を整えた。パスポートをとった。旅券は発行の日から帰国するまで有効であった。ただし6ヶ月以内に出国しないと無効となると書かれている。観光のためのパスポートだが今のように5年だとかの期限はない。出先日本領事館がない国が多いせいもあったのであろう。

 1967年8月30日三人は横浜からソヴィエト船に乗ってナホトカにむかっていた。モスクワを経由してストックホルムまで三人は一緒だった。三人の目的がそれぞれ違っていた。スエーデンの首都で三人は別れた。ゴジーはスエーデンの北部で過ごした。ヒリキはストックホルム大学に入学した。私はイギリスに向かった。
 翌年1968年夏ストックホルムで三人は再会した。夏のアルバイトをまた三人でした。三ヶ月してまた別の行動のため分かれた。

 そして1968年三人は日本に帰国することを決めた。どう帰るかでもめたが、飛行機はやめた。せっかくシベリア鉄道できたのだから、鉄道で中近東、アジアを回って帰ろうという意見が出た。それもやめた。歩いていくのがいいがそれも大変なので、車を買っていけるところまで行こうということになった。

 三人は私のいたストラスブルグに集まった。計画を練った。まずドイツ、シュツトガルトで車を買う、アルプスを越えてスイス、イタリア、ユゴスラヴィア、ギリシャ、フェリーでイスタンブール トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドを経由する3万キロの道のりだった。考えると大変な道のりだが、100%問題ない魅力一杯の旅に思えた。無事にインドカルカッタまで3ヶ月かけて到着したが、今考えるとよくできたものだと驚く。(続く)