一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を体験し、シルクロードを車で横断した。今から45年前のことだ。当時海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。横浜を出る時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。

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 シュツットガルトとアルプス越え
 
元陸軍中将の父を幼少時に失い母子家庭で育った熱血漢のゴジー,スマートで学園紛争の話をくだらないといった暗い目をしていたヒリキ.私達はフランス、ストラスブルグの私の下宿に集まって、決心した。陸路で地面を伝って日本に帰ろう。ドイツ、シュツットガルトで車を買って、いける所まで行って、後は各自の判断で別れよう。三人は同時に頷いた。

出発に際してストラスブルグの一本尖塔のカテドラル広場に面したアルザス料理屋のカマツェルで祝宴をはった。アルザスの特産シュクルートとブラットヴルスト、フォアグラのステーキ、それにアルザスのリースリングワインを食卓に並べて欧州に来て始めての贅沢な食事をとった。ストックホルムでためたアルバイトの金が潤沢に懐にあった。久しぶりによく飲んだ。

飲むと日本を出てからの一年有余の各自の出来事を話した。ゴジーのスエーデン北部の町の話。なんとかいった肉感的なスエーデン娘との情事。メルメという小さなスエーデン北部から何回も送られてきた絵葉書に書いてあったことの反芻。そして君みたいに学校に行けず残念だった等等。さんざん喋った。ヒリキだけは黙って聴いていた。喋ると秘めている願掛けが消えてしまうかのように黙っていた。

 1969年初頭私達はしびれるような寒さのストラスブルグを発った。ドイツ、シュツットガルトで車を購入し、ヨーロッパアルプスを越え、イタリアからユーゴスラヴィアを経由してギリシャ、アテネでフェリーに車を乗せて、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、できればビルマ、タイ、マレーシア、そしてシンガポール、またフェリーでホンコン、台湾そして九州、本州までの計画であった。日本までの走行距離2万5000キロ。

 ストラスブルグから汽車でドイツに入りシュツットガルトまではなんのことはない。三人が冗談を言っているうちに着いた。シュツットガルトは自動車産業の街である。駅に入る線路脇に中古車販売センターが並んでいた。(写真)。ドイツオペル、VW,BMW,ベンツさすがにドイツ。日本では中古車でさえ高級である車が所狭しとならんでいる。

高級中古車外車のオンパレード。日本で買う何分の一の値段であった。いかに日本での関税が高く、外車ディーラーが儲けているかであった。国民には知れず、知らさず、知り置かず。為政者は全くずるい。特に島国日本では国民が外界の情報を認識するまでに時間がかかる。この時間のギャップを悪用する人間のなんと多いことか。

 閑話休題、三人のうち大学で自動車部にいたヒリキが車の下を見たりエンジンをかけてふかしてみたりした。ベンツは気がひけた。BMW,とVWをみた。値段は7万キロ走行済のBMWミーディアムクラスで約20万円、VWのビートル 走行距離5万キロが約10万円だった。

店の親父はどうせ買う金などないくせにという風情だった。確かに背中にリュックを背負い、ジーパンに防寒のダッフルコートの我々が中古車とはいえ、買う風体に見えなかったとしてもなんの不思議もない。

 <”ヴィアハーベンゲルト”>(カネならアルよ)とアルサス訛りで言ったら、

 <”ミューグりィッヒツーベツァーレン?”>(大丈夫か?払えるって!)

と驚いた声をだした。ビールをしこたま飲んだのだろう赤い顔から紫色の血管が浮き出していた。ヒリキが言った。
<確かVWは第二次世界大戦の時ドイツ軍がアフリカ戦線で勝利を収めたときの軍用車だ。熱に強く空冷。中近東の砂漠地帯には最適。>
 
 車の知識にあまり詳しくない二人はそれで十分だった。パスポート、フランスの滞在許可証、それに現金でWVがいとも簡単にその場で手に入った。驚くべき自動車社会だった。(続く)
 シュツットガルトシュツットガルト