東洋と西洋の融合を果たした永遠の水の都ヴェニス

 歴史の教科書と美術書でしかお目にかかれなかった水の都ヴェニスが海の中に浮いていた。1968年冬、シュツットガルトで手に入れたフォルクスワーゲンでいとも簡単に憧の水の都に到達せんとしていた。やむにやまれず日本をでて、後ろを振り向かずにがむしゃらではあったが、欧州に辿り着き一年有余を過ごし今帰途に着くため陸地伝いで東に向かっている。

 ヴェニスがあった。陸地側から見たヴェニスは海の向こうにあった。何本かの中世色の尖塔がかすんでいた。日本から常に携行している唐詩選から、李白の詩が浮かんだ。

 <chuang qian ming yue guang,yi shi di shang sou.>

< ju tou wang ming yue,di tou si gu xian.>

 床前明月光、疑是地上霜

 挙頭望明月、低頭思故郷

 季節はまさに厳冬。たずねる人はヴェニスになにを求めるのか。アドリア海の根元に位置するヴェニスの海辺に白波がたっていた。

 我々は島の物価が高いことを避けて陸地側の安ホテルをさがした。名前はヴェニスホテルだった。駐車場がそれでもついていた。オレンジ色のネオンで飾っていた。歴史の街ヴェニスからは想像できない原色の飾りだった。入ると胸の高さと腹の高さが一緒の中年イタリア女が受付にいた。

 <キネーゼ(中国人)か?>と聞いてきた。まだ日本人より東洋人といえば中国人だった。

 <ジャポネーゼ>だと言うと、

 <アローラ(だからなんなの。)>
と答えた。一泊何リラだったか覚えていない。

 夜中に男と女がもめている声がした。イタリア版連れ込み宿だった。
 
 車を置いて、汽車でヴェニスのサンタルチア駅についた。陸地側から約四、五キロの距離だが、ラグーンと呼ばれる干潟の上を行った。三人とも無口だった。M君はたいまいを出してドイツで購入したカメラのファインダーをひっきりなしにのぞいていた。写真に活路を求めるというようなことをいっていた。二人は聞き流していた。

 その彼が1975年のサイゴン陥落の最後まで写真を撮っていた。プノンペン陥落では大腿部を貫銃痩され重症を負った。彼の写真は日本のマスコミを飾った。そしてクメールの娘と結婚した。H君の方は車の運転で疲れたのかそれとも違う何かを考えていたのか寡黙だった。たまになにが可笑しいのかイタリア語を聞いて笑っていた。意味がわかる筈がないのに。

 サンタルチア駅からヴァポレット(水上タクシー)に乗った。ヴェニスに車は入れない。水上タクシーがグランカナル(大運河)を行く。フランス語を習得していたのでイタリア語は類推できた。それ以上にイタリア人はフランス語がわかる。困ったらフランス語で会話した。

 ピアツァレローマにある日時計にはラテン語でヴェニスの標語が刻まれていた。

 「Horas non numero nisi serenas」静溢に価値あり。

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 117の島があり、150の運河が掘られ、400の橋で結ばれている。運河は<capo>,小広場は,<campo>,小道<calle>,河岸は<riva>,館の下のパサージュは<sotoportego>とよばれている。

 運河の裏の小道をゆくとまさにヴェニスの静溢さを満喫できる。ヴァポレットはヴェニスの中心サンマルコに向かう。約30分の船の上から右岸、左岸に大理石の館が続いている。独特のファサードが見るものにやさしい。河岸には床屋のマークのような杭がうたれている。海水が館の玄関まで行っていた。冬は特に潮が高いと聞いた。

 ヴァポレットはすいていて両岸を見るたびに右、左に揺れながら移動した。

 ヴェニスは西暦810年にリド島にいたマロモッコ人が現在のリアルト橋に居を定めたのが最初といわれている。

 そのリアルト橋をくぐるとサンマルコ広場は近い。遠くにサンジョオルジョ・マジョーレ教会、とサンタマリア・サルーテ教会が見えてくる。

 伝説は白い十字架をくわえた鳩が移住者を導いたとある。横80メートル、奥行き160メートルのサンマルコ広場には鳩がいっぱいいる。皆がえさをあたえている。小さな子供が鳩とたわむれている。いつまでもいつまでも戯れていた。

 三人はサンマルコ広場に面して座る椅子とテーブルが置かれた野外でビールとフランスパンでできたサンドイッチを食べた。なかにチーズとコルニションがはいっていた。太陽が出ていて明るかった。まだ行く先は遠い。(続く)
 
 venicevenice