ヴェニスホテルは夜中騒がしかった。眠ろうとしたがあまり寝れなかった。朝方寝た。三人は二部屋を二対一に分けた。くじ引きで勝ったものが一人部屋になった。私が一人で寝た。対面同士の部屋を取ったのが失敗だった。

 隣の部屋からあの時の女の声がした。客を歓ばそうとしているのか声が大きかった。終わると客がバタンとドアをしめてドタドタと階段を下りていった。朝食をとりに階下の食堂におりてゆく。
 中程のテーブルで別途料金となっている朝食を注文した。まだ二人は寝ているのか食堂にいなかった。エスプレッソ、目玉焼き、とパンをたのんだ。

 窓際のテーブルにそれとわかる女がコーヒーを飲んでいた。食堂に居るのは我々二人だった。年の頃30前後だろうか、網タイツとミニスカート、上に毛皮のコートを着ていた。色っぽい女だった。朝、若い男がこのホテルで一人朝食をとっているのを訝しい目で見ていた。彼女の吸う青いタバコの煙が朝の光に消えていった。<

 <”ボンジョルノ”>と挨拶すると、うれしそうにこちらにむいてウィンクした。

 それだけの会話だったが十分に会話したように思えた。以外にエスプレッソは香ばしい匂いがした。女のつけていた動物系香水の匂いは気にならなかった。また今日の夜彼女の吐く息を聞くのだろうか?想像して体中がドキドキした。
 
 朝食を終えて部屋にもどった。ホテルは三日予約していた。今日は何をするか考えた。二人が起きたのか廊下で日本語が聞こえた。朝食に行ったのだろう。窓からは海が見えたが煤煙の立つ工場が邪魔だった。ベッドに寝そべると寝ていなかったせいか朝食で胃に食物がたまったせいか少し寝た。20〜30分くらいだったろう。気持ち良かった。朝寝、朝酒、朝湯というが、若い体に気持ちよいのは朝寝だ。ドアのノックの音で幸せな朝寝は簡単に破られてしまった。
 
 今日の予定を決めた。ヴェニス島の散策、サンマルコ寺院の見学、夜旨いパスタを食おう。今日は車でサンタルチア駅傍の駐車場に止めることにした。車で海を渡った。島に入る前に駐車場がある。そこから島に向かう汽車が見える。ヴェニス島とそこに向かう汽車。すばらしい景色だった。

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 22年後同じ場所にいた。ドイツのロードムービー監督ヴィム・ウェンダースの映画「世界の涯まで」の撮影立会いであった。ルー・リードの音楽、ソルヴェイグ・ド・マルタン、ウィリアム・ハート、サム・ニール、ジャンヌ・モローが共演した。上司を説得してこの映画に投資を決定してのヴェニスの立会いだった。背が高くめがねが似合う監督は小津監督を尊敬していた。フランス人で「ベルリン天使の詩」で起用された女優ソルヴェイグ・ド・マルタンは少し肉感的だった。よくフランス語で会話した。日本での撮影があり笠智衆が出演。日本のシーンは新宿の雑踏と箱根、奈良屋で撮影された。ルー・リードの音楽が陰影を醸し出した。現代のホメーロス、オデュッセイのように、父と断絶の子との邂逅。未来の核衛星の地球への落下。盲目の妻の脳に直接の映像を結ぶ技術の発見。地球を横断するロードムーヴィだった。二十数億円の大作だった。難しい内容だった。成功しなかったが思い出深い作品となった。

 三人はヴァポレットに乗ってリアルト橋まできて降りた。フェーロ河岸をリアルト橋に行って、右折するとバルトォメオ小広場に出る。四月二日小道を行く。マルザリエと呼ばれる商店街が続く。服飾品、宝石商、鏡、ムラノのガラス細工屋でにぎわっている。カピテラ、オルォジアの商店パサージュを散策してゆく。サンマルコ広場への入り口に時計台跡がある。くぐるとサンマルコ広場だ。広場に面してフローリアンとクアドリの二軒のカフェーがある。バイロン、ゲーテ、ジオルジュ・サンド、ミュッセ、ワグナーを迎えたと記録にあるそうだ。前日と同じようにヴェニス式サンドイッチとビールで軽く昼食を済ませてサンマルコ寺院に入った。
 
 ビザンティン形式の寺院は美しかった。奥の院に福音の使徒たちが黄金で刻まれていた。パラドーロというものだ。時代の頂点を飾ったのであろうか。
 
 最近の日本も小泉政権のもとでの政策の結果二極化がすすんで貧富の差がめだつようになってきた。世界史上に残る偉大な文化財は今騒がれていることなど問題にならない貧富の差のなかで誕生してきた。エジプトのピラミッド、ギリシャの神殿、ローマの遺跡、中国の万里の長城、インドのタージマハール、日本の法隆寺 そしてヴェニスの街である。無数の奴隷、無産階級、貧乏人、無名の職人が世界の文化遺産を創造したのだ。確かに無限の金が背景にあった。無限の金と権力がある人間がいた。それは現代の誰もかなわない権力と資産だった。

 唐詩選から東波が浮かんだ:

 人有悲歓离会、月有隕晴円缺。

 此事古難全、但愿人長久、千里共嬋娟。

 (人に悲喜離合あり、月に曇晴れいんけつあり。
 古より完全なく、永久をのぞんで千里離れて同じ月を眺める。)筆者訳

(続く)<veiceveice