三日目の朝早くヴェニスを発った。 
 
三日分のホテルの予約はしていたが一日早めた。昨日の晩餐で決めた。すばらしい料理だった。皆が心地よい酔いの中にいた。サンマルコ広場から少しリヤルト橋方向に行くと小さな教会に囲まれた広場がある。広場に面して二軒のリストランテがある。教会の壁にへばりつくように存在する小さめの料理屋に入った。何も事前の情報があったわけでもない。欧州の遍歴を潜り抜けてきた三人にはどこが旨そうかすぐわかった。

まず外から見て
<中で働くものに笑顔があること>、
<食べている人たちの会話が弾んでいること>、
<ウェイターの目がひっきりなしに動いていること>、

この三つの条件を見る。三人とも欧州のレストランでアルバイトしたおかげである。予約はしていないと言うと、ペルファヴォーレ、シ、シと笑顔で席に通してくれた。三人の直感どうり感じがよい。店の入り口にアンティパストの料理が並んでいる。アルテォショのマリネ、ポルチーニやニョッキのヴィネグレット、サーディンや蛸の酢ずけ、海鮮の幸と山の幸がアンティパスティとして料理され並んでいる。客は目で見て選ぶ。当たり外れなどほとんどない。三人はパスタに手長えびのタリアテーレ、その後各自肉、魚を注文して、ワインはリストを見てヴァルポリチェッラのリゼルヴァを奮発した。1964年のヴィンテージだった。
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 東京オリンピックの年、1964年に三人は東京三鷹にあるキリスト教系大学に入学した。近くの国立、慶応、早稲田を同時に受験した私は自慢ではないが、すべてに合格した。しかしこの三鷹の大学は変わっていた。試験は知能試験のようだったし、広大な敷地に牧場があった。全寮制で訪れた寮は武蔵野の森の中にあった。本館の前の広場は青々とした芝生で立ち入り禁止などという無粋な看板などなかった。合格した私はもうこの大学への入学を決めていた。一学年180名だった。そのほとんどが寮に寄宿した。食堂があり三食ともここで食べた。学費はワークスカラシップなど軽減する方法があり、成績優秀なものは学費が免除された。私は日本育英会から奨学金をもらった。大学の学費も半分になって一年確か三万円だったと思う。

中島飛行場の滑走路だったまっすぐな道が本館まで続いている。桜がきれいだった。M君とは同じ班だっだ。彼ははじめ寮に入らず千葉県の柏から通っていたが、通いきれずに私と同じ寮にはいってきた。H君は家から通っていた。一学年180名足らず、全学生で400名程度、そのほとんどが寮に住んでいた。授業、食堂、図書館、課外部活動、一年もすればみな顔見知りだった.教授陣も学内に住んでいた。オープンハウスと称された教授が学生を招いての会合がよくもたれた。海外からの留学生も数多かった。アメリカばかりでなく香港、インド、インドネシア、アフリカからの学生もいた。

入学して二年目から学園紛争が始まった。はじめは食堂の値上げ反対からだった。次に学費値上げ反対、三項目闘争、能検テスト導入反対と続いた。M君と私は闘争の中にいた。本館を占拠して何ヶ月も篭城した。授業はなかったし出来なかった。H君は冷ややかに闘争を見ていた。暗い目をして僕らを見ていた。彼も母子家庭で生活が苦しかったと後で聞いた。彼の目には金のある子弟の政治遊びくらいにしか見えなかったのだろう。誤解だった。
 
三人はヴァルポリチェッラの心地よい酔いのなか、心情を吐露した。一年有余の欧州放浪について話した。ガンバスのタリアテーレはことのほか旨かった。肉はキャレダニョウを頼んだ。骨に付いた子羊の肉は柔らかかった。あまりにも旨くて食道と胃が舌にとどまっている肉に早く下りて来いと叫んでいた。生まれて初めてこんなに旨いものを食べた。三人とも一緒だった。

昭和二十年台半ばに小学校に入学した。皆貧しかった。貧しかったが平等だった。貧乏でもあまり傷つかなかった。米国と欧州は違った。こんなに旨いものを食べていた。なんという違いだ。腹が立ってきた。最後にエスプレッソを飲んで決めた。明日早くヴェニスを発とう。

 勘定を払って晩餐がおわった。ヴァポレットに乗るためにサンマルコ広場にもどった。夜の潮風は冷たかった。広場を街灯が照らしていた。遠くにサンマジョーレ寺院が見える。がむしゃらに過ごした欧州の漂白の一年有余を想った。

あれだけ見たかった欧州から今、一歩一歩遠ざかりはじめている。一杯に膨らんだゴム風船からすこしすこし空気が抜けてゆく感じがする。暗いヴェニスの空を仰いだ。下宿先のフェルディナンとシモーヌ、野ウサギを一緒に追ったピエールの顔が浮かんで消えた。雲間から涙でかすんだ右弦の月が見えた。(続く)venicevenice