朝靄にけむるヴェニスの街が見えた。後ろ髪をひかれるようにヴェニスをあとにした。ヴェニスホテルに二泊した。受付で支払いを済ませた。幾らくらいだったか覚えていない。覚えていないくらいの値段だったのだろう。陸地側のヴェニスの町は想像のヴェニスとは程遠くむしろ工場地帯のような乱雑さがあった。美しく最高峰の文化の粋を築き上げたヴェニスを乱雑でむしろ退廃した地域がバックアップして支えていた。この二律背反は、ついには辿り着いたインドのカルカッタまで二万五千キロの全ての現象に共通していた。

 <貧富、美醜、信義と裏切り、反抗と盲従、顕彰と侮蔑、平等と偏見、自由と束縛、愛と憎しみ等々が一枚のコインの表裏一体をなしていた。>
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 いったん信義が崩壊すると倍の憎しみが返ってくる。これからゆくバルカン半島、ギリシャとトルコの有史以来の反目、アラブ諸国間の主導権闘争、インドとパキスタンの戦争、全ての地域に大きな問題が横たわっていた。

 我々はまずユーゴの西端の町トリエステに向かった。トリエステの町はアドリア海に面して後背に切り立つ崖の山を有していた。海に面して左手にバルカン半島、右手にイタリア半島が見える。バルカンすなわちギリシャ文明とローマ文明の分水地点がこのトリエステの町である。

 車窓から見る町の建物はたいへんクラシックで中世を思わせた。歴史を見るとこの町はかってローマ帝国の主要な町で、その後ビザンチンに属しさらにヴェニスの属領となり1328年にはオ−ストリア帝国となりユーゴに帰属したのはつい何十年前のことであった。住民のほとんどがイタリア人でありその対抗策として多くのスラブ人が送り込まれた。当然言語の違い、文化の違いが相克を生んだ。古めかしいが統率のとれた町並みをみるとその中に人種と文化の違いから大きな相克が存在しているのが理解できないくらいである。

 わたしがいたフランスの街ストラスブルグがそうであった。アルザスロレーヌはドイツとフランスの間の戦乱の炎の舞台となった。住民はある時はドイツ人となりまたある時はフランス人となった。ストラスブルグの中心にあるカテドラルの中に文字はない。また尖塔は一本しかない。住民の眞の願いが集約されているように思えた。

 我々日本人は海という自然の国境で囲まれている。海水浴に行ってこれが国境とつながっているとは考えない。国境を無法に越えると捕らえられたり射殺されたりするという現実を知らない。考えないから無関心となる。無関心だから無用心となる。隣国が日本人を拉致しても気がつかず関心を払わなかった。国境という概念に甘いのである。だから余程の教育を強制した時代以外には国家という概念にも余り関心をもたない。隣にいる同じ日本人という人種には過度なまでのアノマりーを発揮するのにだ。

 車はVW独特の空冷エンジンの音をさせながら順調にトリエステの町を過ぎてユーゴスラヴィア領を行った。リューブリアナ、ザグレブを通過した。ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを目指した。現在ではクロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビアという国になっている。1969年当時は全部がユーゴスラヴィアであったことは言うまでもない。ベオグラードで一泊してブルガリアの首都ソフィアを経由してギリシャの港町のテッサロニケに向かう。
 
 東欧のユーゴスラヴィアに入ると町並みが一変する。暖色で明るいイタリアからはいったせいか特に寂しい。人々の顔に笑顔が消える。眉間にしわのある人が多い。貧しい。これが共産主義国の実体なのか。資本論にこの寂しさについての説明はなかった。
 途中で高速道路わきの休息所に寄った。
 
 入ると簡単なスープとサンドイッチなどがおいてあった。受付カウンターのようなところで注文すると、

 <”そこの注文書になにが欲しいかチェックしな”> と受付の男が命令した。

横柄な態度でむかっとしたが、こちらもトリエステからなにも食っていないで腹ペコで従った。欲しいものに×をつけてもってゆくと注文書に判を押してはじめてサンドイッチとスープが手に入った。ガソリン購入にはパスポートを見せた。
 早朝のトリエステから我々がユーゴスラヴィアに到着したのは,もう夜中だった。(続く)愛車VWベオグラド