これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。>


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  欧州漂白そして1969年初頭アクロポリスに佇む。
 (今から45年前のことを思い出して書いている。)

 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

 たまたま仕事でパリでフランスの歴史上人物アルベルト・カーンが残した未現像写真を世に顕すというプロジェクトに携わった。19世紀半ば大富豪の父親の遺産を相続したアルベルトは体が不自由で歩けなかった。そこで彼はプロの写真家を数十名雇う。地球の地点を指定して写真家を派遣した。自分が見てみたい地球上の地点だった。写真家達は数年かけて撮影してパリの彼のもとに作品を残したのであった。その大半が未現像で残っていた。中に日本を撮ったものがあった。侍と色町、裸の芸者までが撮影されていた。彼はオリエンタルリズムのなかにエグゾティズムロマンスをもとめていたのであろう。想像の日本を愛した彼は、パリの一角に日本庭園を造っている。残念ながらこのことを知る人は少ない。
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 現在ではネットで何でも情報が手に入るし、飛行機にのれば何時間後には目的地にいる。便利この上ない時代となった。しかしすぐ手にはいると判ると人間はそのことに興味を失いがちとなる。

 アルベルト・カーンには世界を見ることは不可能だった。不可能だから想像を逞しくすることが出来た。想像は執念となった。そして実際の写真が乗り物となりその地に彼を連れていくことが出来た。

 <写真は魔法の絨毯となった。>
 
織り目がしっかりしていて、模様に陰影があって、人物が織り込まれていて、使われて色が変色していてもいい。そのほうが魔法の絨毯にふさわしい。今カメラ業者がどんどんとフィルム生産を止め始めている。デジタルに専業するという。確かに変色せず永久に保存できるデジタルが良いのかも知れない。しかしこのことは、テープがCDになりCDがMDにと言うような変化と同列ではない。人間の眼は耳よりずっと五感のなかで保守的だからである。

 <百聞は一見に如かず>

と言う。眼で実際に得た情報は脳裏に深く刻まれる。立体物の陰影は人生の経験と結びついてきらびやかな想像の世界を創造することが出来る。このことは、最近の全ての事を刹那的に解決しようとする現象と無関係ではない。確かにデジタル技術により、瞬時に対象物を捉え瞬時に記録として残留させ、永久に質の劣化のない映像が永続する。
 <しかし完全でない人間が完全を求めるの余り自分の存在を忘れてしまうということはないか?>

 <セピア色に変色して古びた旅行カバンにしまわれてもなお変色したがゆえに時代の過ぎたことが胸に迫るということはないのか?。>

 <忘却されずに大切に保管されたことへの伝えられる人間の情感をどうするのか?。>
 存在するものと時間が意味するもの。よく考えてみる価値がある問題だと思う。

 表題に戻ろう。エーゲ海の根元ともいえるギリシャ第二の都市テッサロニケを早朝後にした。アテネまで約800〜900キロと聞いた。高速道路がアテネまで続いている。テッサロニケを出ると車窓からオリンポスの山々が見えてくる。ギリシャの土壌は白く耕作に向いていないのか羊の放牧が見え、葉っぱが風にゆれて銀色になったり濃い緑に反転したりするオリーブの林が続いていた。オリーブの木は日本から出てこのとき初めて見た。背丈が2メートルから3メートルくらいでしっかりした幹をしていた。調べたらなんと300年実をつけると言う。硬質の木でさまざまな木工細工に適しているという。有史以来人間の生活とともにあった。オリーブの記述は旧約、新約聖書に何度もあらわれることから良くわかる。

 腹がすいて高速を少し出て、小さな村に入っていった。なにか温かいものが欲しかった。老人が座っていた。
 
 ”ヤサース、タベルナ?タベルナ?”と車を降りて痛い腰をさすりながら繰り返した。
 
 ”ヤサース”老人は言って手で向こうを指した。
 
 ”カラ・エカリストウ”ありがとう、と覚えたてのギリシャ語を使った。

 白っぽい石をつみあげた建物がタベルナだった。中に入ると昼時で四、五人が食事をとっていた。

 ”ヤサース”と言って三人がテーブルに着いた。皆突然の東洋人で驚いたような顔をしていた。店の主人はこちらを向いて<何か食べたいのか?>というようなジェスチャーをした。当たり前だろと思ったが、
 
 ”ネー、ネー” と相槌をうった。隣を見ると中年の婦人が挽き肉となすとチーズの煮た温かそうなものを食べていた。無礼とは思ったが、これこれと指差した。それがムサカという代表的ギリシャ料理とは後で知った。コーヒーを注文するとネスカフェかと聞いてきた。
 
 ”ネスカフェだってよ。田舎だからインスタントコーヒーしかないのかな”勝手に類推して
 
 ”ネー、ネー”と言うと、立派な入れたてのコーヒーが運ばれてきた。あとで謎が解けた。西欧式コーヒーをネスカフェと言い、ドロドロで茶碗の底にコーヒーの粉末が残るギリシャ独特のコーヒーをカフェというのだそうだ。食事を終えて勘定を聞くとなんと三人で30ドラクマ(約300円)だった。

 車を出すと道を聞いた老人がまだ座っていた。この村の道路標識みたいだった。手を上げて

 ”エカリストウ”と言うと白く生えた顎鬚を撫でながらゆっくり頷いた。ギリシャの田舎、老人の周りの時がゆっくり過ぎてゆく。

 高速に入って時速120キロで飛ばした。標高2911メートルのオリンポス山を後ろにラリサの街を過ぎてゆく。前方に標高3000メートルのパルナソス山が雪を頂いて見えてくる。この山の裾野を越えるともうアテネである。(続く)
 

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