これまでのあらすじ
<今から45年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 中国の詩人欧陽修は人生の五つの幸福をこう表現した。
 一に 曰く、 長寿
 二に 曰く、 富裕多財
 三に 曰く、 庚宇(健康)
 四に 曰く、 崇尚 (修徳)
 五に 曰く、 其命善終
 
船上の客の多くが上の三つの幸福の条件を満たしていた。ただし四と五を犠牲にして。

 
図体の割りに不釣合いな高い音調の汽笛が鳴った。船は岸壁から徐々に離れ始めた。きれいに洗浄され磨かれた甲板からヨーロッパ大陸の南端ピレウスの港とギリシャの街、かすむペロポネソス半島が見えた。紺碧の地中海、真っ青の空、まばゆい太陽、白い家々、なんというすがすがしさか。ルーブルの名匠の絵も大英博物館のダイヤとエメラルドの王冠もかなわないめくるめく色彩の乱舞だった。自然の景観だった。三人はその地中海にいた
 
ゴジー、非力、と私の三人は朝早くギリシャ、ピレウスの港に停泊する、ザ・アレグザンダー号に乗船した。1000人の客を収容できる豪華客船でオランダの船籍だった。アムステルダム、マルセイユ、ナポリ、アテネ、イスタンブールを結んでいる。船の名前には必ず定冠詞ザがつくと中学校の英語の授業で習った。その通りアレグザンダー号のパンフレットにザ がついていた。この世の中に固有で一個しか存在しないものに定冠詞をつける。他に、複数形の固有名詞、(山、諸島、連邦、家族)水に関する固有名詞(川、海、海峡、半島)、乗り物(船、列車、飛行機)にザがつく。

しかし神様をあらわすゴッドにはザはつかない。太陽神を頂いたエジプト、アポロンを核とする多神教のギリシャ、そしてローマ、神は複数だった。複数の多様な神に定冠詞はおかしいからつかないのだろう。ギリシャ語とラテン語にはきっちりとした冠詞の語法がある。我々がロゴス(論理)、パトス(感情)などと使う言葉はギリシャ語の抽象名詞だが冠詞がしっかりつく。その上名詞が活用する。その上名詞の活用にあわせて冠詞が活用する。古代ギリシャ語はソフォス(英知)の結晶だった。現代のギリシャ人と古代の人達は本当に一緒の人種なんだろうかと失礼ながら思った。

 我々は二等船室の客だった。三泊四日の旅に一人120ドル(4万3000円)を払った。当時日本で大卒の初任給が約2万円の時代だった。2か月分の給料だから現在では40万円くらいに当たる。豪華な旅の対価だった。

 船室は二人部屋で二部屋用意されていた。オフシーズンなのか船客はまばらだった。船室には、シャワーとトイレ、二段ベッド、ソファーと椅子、スーツケース置きがあり床に絨毯が敷かれていた。スーツケースでなく寝袋つきのパックを置くと妙にうまく収まった。丸い窓がありそこから波柱を見ることができた。

 ベッドに横たわるとふっくらしていてこれまで宿泊したどのホテルより快適だった。

 すぐ三人はアレグザンダー号の探検に出かけた。エレベーターで二階上がると大きな食堂が一等、二等、三等と分かれていた。ビリヤードとブリッジルームがあって舞台があるダンスフロアとカジノルームが続いていた。迷子になるような広さだった。後部甲板にはプールがあり白いサンデッキが規則的に並んでいた。出会う客は中老年のいかにも裕福なカップル、中年の男と若い愛人風の女、幸せに見える家族、新婚旅行なのかいちゃつく若いカップルが多かった。皆アムステルダムから乗ったのか、マルセイユからかきれいな身なりで時間と金をもてあましているような風情だった。いざと言うときのために持ってきたリュックの一番下で窮屈そうにしていたしわくちゃの背広をプレスにだした。夕食はネクタイが必要だった。

 船室は私とゴジーが一緒だった。シャワーを浴びてベッドに横たわると気持ちがよくて夕食まで寝た。船は地中海を巡航していた。

 時計を見ると午後5時半だった。二、三時間寝た。

 ”よく寝てたな”ソファーで本を読んでいたゴジーが言った。
 
 ”背広プレス出来上がってるぜ、サービスで無料だってよ、一日五枚分ローンドリー無料だそうだ。”
 
 ”そうか、じゃー片っ端からローンドリーに出そうぜ”私が言った。
 
 ”お前そんなに着てるものあんのか?”二人は顔を見合わせて笑った。

 背広に着替えてネクタイつけると馬子にも衣装か貧乏パッカーには見えなかった。隣の部屋のヒリキを呼んでディナーにでかけた。エレベーターに乗るとでっぷり太った中年の夫婦と一緒になった。ブロンドの髪の毛を巻いてしわが目立つ顔をこちらに向けて婦人が我々を一瞥した。指に何個もの光るものをしていた。麝香の匂いがエレベーターを満たしていた。
 
 ”こんな女じゃ立つものも立たないな”分からないだろうとゴジーが日本語でつぶやいた。
 
 女を見るとこっちに厳しい眼を向けた。直感は恐ろしい。
 
 二等食堂はそんなに込んでいなかった。タキシードの蝶ネクタイのボーイが我々を案内して海の見えるテーブルについた。テーブルはコットンのクロスでカヴァーされていてナイフとフォークが何本も並んでいた。
 
 ”おい食べ方知ってるか”ゴジーに聞いた。そんな時代だった。
 
 ”周りをみてれば分かるよ”ゴジーが答えた。
 
 そういえば本格的フランス料理など食べたことは無かった。日本も1968年には洋食はあったが本格的フランス料理など帝国国ホテルでもいかないとなかった。三人とも上野の精養軒どまりだった。

 それから43年を思う、なんという変わり方だろう。今では日本には何でもある。ないものの方が珍しい。全てを経験してしまった。

<全てを経験して覇気のない老女のようになってしまった。>

胸躍る興奮と手が震えんばかりの感動ももう久しい。たった40年のことだ。社会には偽装と粉飾が満々ている。若者はすぐキレル。キレテ簡単に人を殺める。変化はこの40年間の間で鮮明になった。実は変化の担い手は自分達ではなかったか?

 ”本日の料理をご紹介します。”ウェイターが料理の説明を英語で始めた。

 ”まずアントレにフェンネル風味のサモンのマリネ、スープにアスパラのポタージュ或いは、コンソメ、メインにサーロインステーキ、子羊のロティ 或いは すずきのブリュイイェ”説明を聞いて分かるわけがない。
 
肉か魚かということで注文した。
 
”オールライト サー”慇懃に答えたウェーターの横顔を見た。----横顔が嗤っているように思えた。料理は素晴らしかった。
 
”旨すぎ”感動したヒリキがうめいた。ワインはイタリアの酒ヴァルポリチェッラを頼んだ。
 
窓の外はもう闇に包まれていた。よく磨かれた窓ガラスに三人が映っている。ワイングラスを挙げてガラスの二人に乾杯した。気持ちよく微笑する二人の顔が印象的だった。
 
”チップを置くんじゃないか。----いくら置こうか?”ヒリキが気がついて聞いた。
 
”そうだな、あと二日あるからサービスが落ちるとやだから---2ドル置こう”とーーー大枚紙幣を置いた。

 テーブルを立つとウェーターが飛んできてサンキュウ、サンキュウとお世辞を言った。満腹で腹ごなしにボードルームを見て歩いた。ーーーカジノがあった。(続く)






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