古の都コンスタンティノープルに着く(The alexander arrived Constantinople.)
 
 すっきりとした半曇りの空だった。早朝の甲板に出ると、藍と青の雲間から洩れた黄金色の光線が、丘の上に見えるモスクの薄茶色の丸い屋根と3本の尖塔に反射していた。

 前方に大きく陸地を結んで架かる橋が見え、その手前に低く安定した橋が横たわっていた。両岸は早朝の水蒸気色の靄が古い街の上を覆っているように見える。低く海峡にくっつくようにはじまる街は段々になって丘になり、丘には何本もの尖塔を抱えたモスクが天に話しかけるように伸びていた。モスクから単調だが深みのあるコーラン音調が流れては消え、街からはアナトリアの民族楽器サズの物悲しい音が聞こえてくるようだった。

 隣にゴジーとヒリキが来ていた。
 
 ”ここがイスタンブールか”
 
 ”そのようだな”
 
 ”あれがモスクか? ブルーモスクがあれか?”ゴジーがいつもの遠くを見る目で、自分に確認するように言った。
 
 ”ここイスタンブールに今いるなんて信じられない。”ヒリキがうめくように言った。
 
 マケドニアの王アレグザンダーの名前をもつ客船は、イスタンブールの沖に停泊した。そこからフェリーが客と車を運ぶ。イスタンブールで降りてゆく客は数十人のようだ。船長は正式な格好で船客を送り出した。
 
 ”グッドラック””良い楽しい旅を”降りる客と握手して別れてゆく。

 フェリーはヨーロッパサイドの旧市街のフェリー発着場に接岸されるようだった。船の中でイスタンブールの地図を開いた。イスタンブールはアジアとヨーロッパを結び、黒海とマルマラ海を結んでいる。ヨーロッパサイドは旧市街と新市街が自然の海峡の両岸にあり、ガラタ橋が両市街を結んでいる。ヨーロッパとアジアを結ぶのがボスフォラス橋である。
 
 ”豪華な船旅をしてしまったな。ところでみんな金はどの程度残ってる?。”
 
 ”まだ十分あるよ。どうして”ヒリキが聞き返した。
 
 ”どのようなことがおこるか分からないから最低三人の日本へ帰る船賃は残しておかないとな”
 
 ”それで幾ら残しておけばいいのかな”
 
 ”余裕を見て、そうだな一人15万円は残して置こう”

 <64歳になった今と同じような会話をしていたと思うとなにかおかしい。>

 三人は少し現実に戻って、各々の財布の中味を考えた。
 
 ”イスタンブールはユースホステルに泊まろう”まだまだ先の長い旅を思って、ヒリキが提案した。
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 車と船客はエミノヌ・ウスクダラからイスタンブールの土を踏んだ。
 ユースホステルは予約はしていなかったがオフシーズンだから問題ないと思っていた。スルタンアーメット地区にあった。エミノヌで降りた我々は地図を見ながら丘を登っていった。イエニセリレ通りが東西に旧市街を貫いていた。住所を見つけたり東西南北の方向については三人は一年半の漂白の旅から間違うことはなかった。ヒッチハイクで欧州を渡り歩いた。

 <東西南北が分からなければ命に関わることになる。いわば、命を懸けて身に着けた生活の知恵だった。地図一つでどこへでも正確に行ける自信が今もある。戌年だからではない。>
 
 ユースホステルへの道すがらが圧巻だった。イエニセルリ通りを西に少しゆくとグランバザールがあり、すこしゆくと左手にトプカピ宮殿が見え、さらにブルーモスクが巨大な姿を見せてくる。目指すユースホステルはこのスルタンアーメット地区にあった。旧市街のど真ん中の一等地にユースホステルがあった。その上マルマラ海が少し見える。
案の定ホステルは空いていた。二階建ての簡単な造りで清潔な感じがした。
 
 ”メイアイヘルプユウ?”薄くなった頭を撫でながら30代後半の受付のトルコ人が応対した。登録用紙に住所、名前、パスポート番号、何泊するか、旅の目的地等を埋めてゆく。旅の目的地にジャパンと書いた。
 
 ”車で旅しているらしいが日本までどう帰るんだい?”受付の男が聞いて来た。
 
 ”いけるところまで行きたいんだ”と答えると、
 
 ”そうだな、アンカラまでならそんなに危険じゃない”                 

 ”それから東はデインジャラスだ。イスタンブールの日本領事館で計画を相談したほうがいい。去年イギリス人で同じ道でインドを目指した青年が行方不明になったが領事館に届けていなかったので行方不明のまま放置されたと聞いているから。”諭すように言った。
 
 ”明日日本領事館に行ってみるよ、ありがとう”と返事した。

 二階にドーミトリタイプの清潔なベッドが並んでいた。一泊10トルコリアル、 約200円だった。シャワーを浴びて早速外に出た。
 一月のイスタンブールは、海からの風が冷たかった。地中海性気候で温暖ではあるが、気をつけないと風邪を引きやすい。
 
 ”昼飯何か温かいもの食べよう”
 
 ”トルコ料理何か知ってるか?”
 
 ”知ってるわけないだろ”

 ”とにかく探そう”
 騒がしい大通りを下ってゆくと左手に料理屋らしい店を見つけた。カバブと看板が掛かっている。
 
 ”ここにしよう”
 店内に入るとトルコ人で込んでいて皆昼食をとっていた。料理人が自分の腹の太さと同じくらいの肉を円筒の周りで焼いてよく切れそうな包丁で肉をそいでいた。
 
 ”あれだ あれだ あれ食べよう”中年の注文ききに指差した。それがケバブという料理だった。飲むまねをしたら、

 ”テュルキー?”と聞いて来た。
 
 ”イエス”と言うとラキという酒瓶が来た。飲むとギリシャのアニスの酒ウゾーと同じだった。ここはまだヨーロッパだった。
 最後にトルココーヒーを飲んだ。ギリシャよりずっと濃い味がした。
 
 昼食をとって外に出た。街路に面して6本の尖塔を持った巨大なモスクの姿があった。スルタン・アーメット・ジャミー・ブルー・モスクである。広場をはさんで左手にもさらに巨大な建築物がその壮麗な姿を見せていた。それがあのギリシャ正教の総本山アヤソフィアであった。三人は呆気にとられたようにその場に立ち竦んでいた。

 マケドニアの王アレグザンダーが東に向かって進軍を始めた時、その拠点はここイスタンブールだった。そしてペルシャを征服する。東征はさらにアフガニスタン、インドを目指さんとする。その時アレグザンダーは突然の病にかかって夭折する。その遺体はここイスタンブールに葬られた。考古学博物館にはアレグザンダーの棺がある。ローマの大帝コンスタンチノスによって建設され、コンスタンティノープルとよばれたこの街がイスタンブールになったのは1930年3月のことでしかない。ユスティニアヌス帝の時ビザンティン帝国の都となり、1453年メーメット2世のオスマントルコの首都となる。

 現在イスタンブールほど人種と宗教の坩堝となっている街はない。そして歴史上何度かの人種の虐殺事件を引き起こしてきた。アルメニア人、トルコ人、ペルシャ人、ユダヤ人、ギリシャ人、アラブ人、クルド人、そして、ギリシャ正教、キリスト教、ローマカトリック、ユダヤ教、マホメッドの各宗派が複雑なモザイク構造社会を造り出している。

 人類文明のクロッシングロード・イスタンブール。三人は壮麗なモスクと重厚なアヤソフィアの前にただ立ち尽して過ぎし人間の業の深さを想った。(続く)

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