我が家のトルコ絨毯
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 イスタンブールから600キロ、夕刻イスタンブールを発って夜中ぶっとうしで運転して早朝アンカラに到着した。洗濯板のような道路だった。
 
 アンカラは標高900メートルの高原にある。周囲は肥沃な小麦畑と黒い森にかこまれている。既に紀元前8000年前に集落として構成されアクワッシュとヒッタイトにより紀元前3000年前に原始的都市構造となったと記録されている。

 以降、東と西のせめぎあう歴史的戦場となった。ハッティ、ヒッタイト、フリギア、ガラティア、ローマ、ビザンチン、セルジュク、オスマン とすべてが自分の主権の為に戦い統治をおこなった。現代のアンカラは1920年、アタチュルクが政府をここアンカラに置き首都となっている。
 
 現在、トルコはEU加盟に申請をおこなっている。ドイツには約400万人のトルコ人が住んでいる。トルコとドイツとの経済活動は実に活発に行われている。しかしEU加盟が実現するとこのトルコ労働力が欧州に流れ込み、このまま行くと1500万人から2000万人の労働者が欧州各国に自由に入り込み欧州各国の労働市場が大混乱すると心配されている。首都アンカラは20世紀初頭から欧州の都市を模範に建設されている。公園を配し広い大通り(ブルバール)が街を走っている。キジライ大通りに立つとここがアジアであることを忘れてしまう程である。
 
 我が家には19世紀のトルコのアンチーク・カーペットが2枚ある。いずれも居間に敷かれて使用されている。赤と青と黄を主体として国花のチューリップが織り込まれている。壁に吊るして鑑賞しながら保存するよう言われていたが、日本の家屋には不可能なため敷いてしまっている。このため消耗が進んでいる。これまでお客さんが来ても未だこの絨毯についてなにかの会話があったかといえば、まったく無かった。日本の文化のなかに絨毯がはいったのは明治時代からである。シルクロードの東端の日本に絨毯文化が入ってこなかったのは何故なのか?不思議でさえある。この二枚のカーペットは十数年前の欧州駐在時パリで購入した。購入時トルコのカーペットについてよく研究した。

 そもそも、織物の起源は、ウラルアルタイの中央アジアだそうである。多くの異民族がアジアを移動していた。中央アジアの気候は厳しい。ゴートの毛でテントが編まれた。11世紀セルジュクがトルコとイランを占領してこの織物技術を広めてゆく。オスマントルコの時代、部族の定着が始まる。織物も定着した土地の名前と不可分になってゆく。こうしてマルマラ海沿岸のヘレケで制作された織物がオスマントルコの居城の修飾用となった。14世紀から15世紀、トルコ絨毯は欧州の王侯貴族に愛好され、当時の巨匠アーチスト例えば、ホルバインやヴァンダイクがトルコ絨毯を描いていった。こうしてトルコ絨毯はヘレケの他、ウサク、ベルガマ等々で良質なカーペットが作製されていった。現在、トルコのカーペットは中心的デザイン、シンボル、色彩を少しずつ変革させながらもそのモチーフを変えずに伝承されている。アンチークカーペットの中には、博物館でしか鑑賞できないものもある.我が家の二枚の19世紀アンチークカーペットもヘレケ産でその種の鑑賞用のものだが、居間で使用されその美しいチューリップの姿をみせてくれている。

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