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これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 1969年代の事だ。トルコ・イスタンブールからアンカラまでの幹線道路でお目にかかった何台もの新品のベンツ、BMW,VWなどの欧州車の秘密。

 欧州ナンバーの車がすいすいと走っている。どう考えても納得がいかない。それも欧州ナンバーのままである。欧州に移住したトルコ人が里帰りして乗っている台数では明らかにない。
 
 その秘密がアンカラで判明した。我々がアンカラの中心街に駐車したときだ。どこからともなく男が近づいてきた。当然ドイツで購入した我々の車のナンバーの横にはドイツ登録を意味するアルファベットのDステッカーが貼られている。
 
 ”車の引き取り先はあるのかい?”
 
 ”3ヶ月かそれとも6ヶ月?”と英語で話しかけてきた。意味が分からなかった。
 
 ”これからイラン、アフガニスタンと向かうから売るわけにはいかないんだよ。”説明すると
 
 ”なんだ”という風に離れていった。
 
 1969年当時アジア諸国は日本を除くと自動車生産国はない。当然外国から自動車を輸入している。その上関税が恐ろしく高い。300%、400%はざらである。車一台で大きな邸宅が買えるという国もある。

 現在でもシンガポール、マレーシアの関税は非常に高く私の友人は買った車に住んでいる。車を買ったので家に住む余裕がないのである。それでも車に乗りたい連中はどうしていたのか。先に書いたがドイツには当時でも100万人以上のトルコ人が移住していた。

 彼らは里帰り時にドイツ車をレンタルする。レンタカーであるからほとんど新品である。長期で借りる。ドイツからトルコまで直線で高速道路で突っ走ってくれば二日で到着できる。且つメルセデスで走れば快適な旅行となる。帰りは前回乗ってきた違うベンツのレンタカーに乗って帰るのである。トルコでメルセデスを購入するとドイツの3倍も4倍もする。例えばドイツでの価額が100万円とするとトルコでは400万円、ドイツでのレンタカー代が一ヶ月5万円とすると3ヶ月で15万円で新品に乗れるのである。所有したい客の場合はレンタカーではなく中古のベンツをドイツで買ってそれを運転してトルコに里帰りするのである。客は旅行者の登録となっている車に乗るのである。関税はかからない。こうして何回かトルコとドイツの間を運転すると商売となるのである。
 
 近寄ってきたトルコ人は我々の車が欧州ナンバーであることを確認して客を紹介しようとしたのであった。陸続きであればの人間の知恵である。このトルコが現在EU加盟を申請している。認可されると関税が取り払われる。欧州車メーカーにとっては中央アジアに大きなマーケットが出現する。トルコのEU加盟には欧州産業の中央アジアマーケット進出の狙いが背景にあることを忘れてはならない。
 
 アンカラからサムソン、黒海沿岸沿いにトラブソンと車を走らせた。早朝の沿岸を走るとすれ違う車のほとんどが大型のトラックとトレーラーであった。後ろから追い抜く車には満載の燃料や食料品が積まれている。対向車はほとんど空である。生活関連のあらゆる物資がヨーロッパから運ばれてゆく。この現象はイランに入っても同じだった。

 サムソンからトラブソンまでは黒海の入り江を過ぎ、岬を越えて、また入り江をゆく。朝日に輝く黒海を左手に見ながらすすんでゆく。約200キロくらいあっただろうか。やがて坂の多いトラブソンの街に着いた。
 疲れていた我々は車の中で少し休んでいた。少し皆寝たのかも知れない。気がつくと車の周りが騒がしかった。小さな子供達で囲まれていた。見知らぬ三人の若い東洋人が車の中で寝ていたのだから不思議だったのだろう。目と目が合った。きらきらとした子供の目だった。
 
 ”シャローム”と言うと子供達が一斉に笑った。
 
 車を降りて、お茶を飲むまねをしてチャイハネを探すと子供達が先に立って案内する。大きな柳の木のある黒海に面した眺めのいいチャイハネだった。そこで牛肉の煮込みタスケバブとトルコパンと蜂蜜いりのチャイを頼んだ。
 食べている時も子供達がチャイハネの窓から我々をのぞいている。本当に珍しいのだろう。しかし少しすると飽きたのか子供達は自分等のそれぞれの遊び場所に散っていった。
 チャイハネを出ると一人の少年が我々のことを待っていたかのように佇んでいた。
 
 ”シガーラ”といってタバコを出した。買ってくれといっている。要らないと言っても
 ”シガーラ、シガーラ”と左手にタバコを載せて引き下がらない。傍に妹なのか髪の毛が少し赤い女の子が心配そうに見ていた。無視して車に戻ろうとしたとき、少年の右手がないのに気がついた。少年は障害を抱えていた。さっきの子供達の仲間ではなかった。生活のためタバコを売っていたのだ。
 一リラ二十クルシュのタバコを買った。二リラを渡すともじもじしながら
 
 ”ノーマネー”と言った。お釣りはチップとして頂戴と言っているのだと勝手に解釈して
 
 ”オーケー”と手で言うと、待っていた少女と急ぎ足で去っていった。
 
 チャイハネから少し行ったところに安宿らしいところを見つけた。ベッドが置いてある簡単な宿であったが、とにかく体を休めたかった。久しぶりにシャワーを浴びるとベッドに横たわった。うとうとと夕方まで寝ていた。
 目を覚ますと三人で夕飯を食べに外に出た。もう二月だった。やはり寒かったが多分6〜7度くらいだったろう。寒さの記憶はない。
 安宿の入り口に昼間のタバコ売りの少年がまた立っていた。
 
 ”ユー、サンキュウ”とどこで覚えたのか英語で言って左手を差し出した。右手の袖はポケットにだらっと、ささるようにしまわれていた。
 
 私が”ノーモア、シガーラ”と言って傍を通りすぎようとすると、私を押し戻すようにして言った。
 
 ”ヒア、マネー”小さな手の平のなかに小銭が握られていた。少年はお釣りを返しにきたのだった。少年と目が合った。きらきらとした子供らしいが正直そうな目が微笑んでいた。お釣りを受け取ると後ろにいた少女が恥ずかしそうに笑っていた。クルド人難民だったのかもしれない。一旦でも少年の正直さを疑った自分が恥ずかしかった。

 
 
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