中央アジアを行く
teheraniran king
 
黒海からトルコの温泉を味わいながら少しばかりの休息をとって中央アジアを東に東にむかう。トラブソンからの中央アジアの小さな歴史上の都市が続いている。トラブソンーグミュシャーネーバイブルトーエルズルムーアグリードグベヤジットーマクーーナクシバンーマランドータブリッツーハシュトルドーミアネーアルスーザンシャンーカターアブハールーカズバンーカラジーテヘランにいたる約2000キロの旅である。
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ほとんどが海抜1000メートル以上あり且つ半砂漠状態のなか道路が続いている。経過した街々の特徴を記す。トラブソンの見所はなんといてもヌメラの僧院である。丘陵の崖地にへばりつくようにビザンチン様式の僧院が建っている。宗教とは不可能を可能とする。グミュシャーネはトルコ東部の州都である。ハルシット河の渓谷に建設されたローマ時代からの街である。現在では40万人弱の人口を抱える。

エルズルムで一泊した。ホテルは一軒あるだけだが一泊100円相当のトルコリラだった。泊まっていると突然ポリスの検閲が部屋に入ってきた。なんでも強盗がでたそうだ。しかしポリスといっていたが私服だった。我々は三人で夜遅くまで起きていたので気づいたのだが、どっちが強盗なのか分かったものではない。睡眠薬をつかった強盗らしい。

田舎にはいると米国ドルが通用しないので翌朝朝早くホテルの傍の一軒しかない銀行でトルコリラに換金に出かけた。早朝の9時なので早すぎたかなと思ったが、意外や意外、もう開いている上人だかりができている。トルコには列をつくる習慣は存在していなかった。とにかく人が群れているのである。誰が受付しどの人が次対応されるかは全くわからない。何もしないと永遠に自分の番がこないと知って叫んだ。日本語でだ。俺の番だ!注意が向けられた。列が自然にできた。やっと両替がすんだのは10時を回っていた。考えてみれば列など作るほうが人間的でない。古今東西,悠久の歴史が証明するように「先取り特権」という万人が認める常識がある。先につばをつけたものを自分の領有としていたではないか?列をつくるなど弱者の法であり、人類が生存してゆくには強者生存こそ正しい。したがってトルコが正しいのである。

 ドグバヤジットの街は隣国イランに20キロの国境にある。アララット山登頂の拠点でもある。マクの街はイラン側の国境の街だ。1600メートルの高地にある。ナクシバンの街は現在ではアゼルバイジャン共和国の首都となっている。ここは、トルコ、イランと国境を接してる。そしてイランの都テヘランに至る。

テヘランの人口は1100万人、標高1200から1600メートルある高原の都市である。テヘラン市街のいたるところにパーレヴィ国王の肖像画が掛けられていた。1969年当時、正にパーレヴィ国王独裁の時代だった。日本の企業も多くテヘランに進出していた。三井、三菱などが石油の利権を争っていた。イランと日本の関係は深い。米国ブッシュがイランの核開発でイラクの次はイランだと騒いでいる。テヘランは山麓の斜面に開いた街だ。すぐ北には5000メートル級のエルブルズ山脈が迫っている。

 当時独裁を誇っていたパーレヴィ国王は3回結婚した。一回目がエジプトのファラオの娘、二回目がソラヤ、そして三人目が写真のファラディバである。22歳で父の跡目で国王となった。第二次大戦ではドイツと関係を深めた。1967年には自身を「王の王」と宣言して皇帝となった。統治には秘密警察SAVAKを使って徹底的に反対者をつぶした。市民権や政治的自由は存在しなかった。そして1978年から1979年逃亡していたアヤトラ・ホメイニがパリから帰国して宗教クーデタを起こす。パーレヴィ国王は追放され、放浪して逃亡生活を送る。失意のまま1980年最初の妻の地エジプトカイロで死亡した。イランに戻ることは出来なかった。人の一生とは誠に短く儚いものだとつくづく思う。(続く)