イランからアフガニスタン国境を行く。

 イラン第3の街メシェッドをでて、一路アフガニスタン国境に向かう。

 アジアとヨーロッパを分けるイスタンブールからもう一ヶ月が過ぎようとしていた。東西を結ぶ絹の道を行けるだけ行く積もりでフランス・ストラスブルグを出発して今イランからアフガニスタンの国境を辿ろうとしている。

 絹の道は物資の移動と輸送の為にあった。そして人間と文明が交錯した。トルコから東、道には必ず商人が泊まる宿屋があった。欧州のホテルとは違い、また極東、東南アジアの中にある宿屋ではない、宿舎とでも呼ぶ存在が目立った。商人宿と呼ぶものである。キャラバンサライ(caravanserai)がそれである。そして実はこのキャラバンサライこそイスラムの女達によって建設され運営されていたのだ。
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 中央アジアのシルクロードは実はイスラムの女が守った道なのである。 モスレムの文明は常に移動を前提に組み立てられていた。アラブの民も非アラブの民も遊牧の民であり移動の歴史を継承している。戦争には大軍をくんで陸路を行ったのである。

 知識を積まんとするものは幾千里を行って師についた。都市の富とは商品の移動と共にあった。またイスラムの宗教の衝動はメッカへの巡礼にあった。現代でもメッカへの巡礼に何千万の信仰者が移動している。厳しく人を寄せ付けないほどの自然環境の中で旅する者を受けつけるのがキャラバンサライであった。

 陸の船、砂漠のオアシス、乾きを癒す水、傷ついた兵士の看護、富の保管、秘密と情報の保持、さすらう男達を荒廃から護る者、それがキャラバンサライとイスラムの女達であった。一人の男に複数の女が必要だった。イスラム教徒の女達はこのキャラバンサライの主人たちであった。現存するバグダッドからメッカまでの古の巡礼のルートは8世紀のペルシャの王の妃が実際に建設したものでダーブズバイダ道となずけられている。
 
 メシェッドを出発した我々は、ジャナタバード、トルバエジャム、タイイエバードと経てアフガニスタンに入りグリアン、カルク、そしてヘラートを目指した。約1000キロの道程である。
 
イラン砂漠イラン砂漠

 イラン側の国境の街がカルカレフ、アフガニスタン側がイスラムカラ。国境についた時にはもう日が暮れていてあたりには明かりもなく真っ暗闇。国境事務所は薄暗い自家発電の裸電球だけのバラックで係り官が暇そうにテーブルにひじをついていた。シャロームと挨拶すると面倒くさそうに対応してくれた。

 片言の英語で「ホエアユーゴ」何処へ行くと聞くから「ジャパン」と答えたら「ジャパニーズは初めてだ」と答えた。いくらなんでも日本人が陸路でこの国境を越えるのは初めてではないと思ったがこの係り官には初めてと言う意味だろう。

 1969年いまから45年前のことだ本当に初めてだったのかもしれない。何か持っているかと聞くから、いつか誰かにあげようと思って機会がなく、財布にしまったままの日本の穴あき五円玉のはいったお守りをあげたら喜んでパスポートにバチーンとビザの判をおしてくれた。当時のパスポートを見てみるとそれはそれはしっかりとした判でおまけに収入印紙まで貼ってあった。

 ビザ