パキスタンの首都ラワルピンディ・イスラマバードに向う。
 1968年タイム誌イスラマバド

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 朝もやのなか東西シルクロードの中心都市といわれたペシャワールを発った。

 目指すはカラチから新首都となったイスラマバードと隣接するラワルピンディである。
 
 当時のパキスタンは絶大な権力を握っていたアユブ・カーン大統領に対するデモや暴動が頻発する不安定な状況であった。イスラマバードへの道すがらでさえ政府軍やデモ指導者に交互に何回も車を停められ、そのたびにパスポートを見せて説明を要した。
 
 アユブ・カーンはパキスタン最初の将軍であり陸軍元帥であった。1958年から1969年にかけてパキスタン大統領として米国と連携、冷戦状況の中でソヴィエトに対峙する前線国家としての戦略をとった。当時米国から援助される物資と金額はパキスタン国家予算を超えたという。
 
 カーンは1960年首都をカラチからイスラマバードに移し中央集権国家完成に着手する。首都のグランドデザインをギリシャの建築会社ドキシアディスに依頼した。
 
 どこでもいつでも、「奢れるもの久からず」である。彼の統治のターニングポイントが迫る。それが1965年のインド・パキスタン戦争である。この戦争はインドに対してよりも小国パキスタンに大きな打撃を与えることとなった。そして「タシケントの協約」が結ばれる。パキスタン側の不利な協約はアユブ・カーンの威信を損なうこととなる。不満が国中に満ちてゆく学生、労働者や一般市民までが連日のデモを起こしやがて暴動に発展していった。
 
 一方アユブファミリーの隠された隠匿財産が暴露されてゆく。末期であった1969年には息子のゴハール・アユブが隠匿していた金額4百万ドルが暴露された。
 
 不穏な状況のなかラワルピンディに到着した。パンジャブ州にありギネスブックに世界最古のタクシャシラ大学があった。吐く息が白かった。
 
 新首都イスラマバドは機能により8の区域にしっかりと分かれていた。外交、商業、教育、工業地区等である。出来たばかりの日本大使館を訪問したが余り印象がない。建設されたばかりの新首都は緑も余りなく新しい建築物が目立つ首都であった。生来の明るさですぐにデモに出掛ける学生達とすぐ仲間となった