パキスタンの古都ラホール
これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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 カラコルム山脈はラホールから100キロ北方にある。7000メートル級の山々が聳えている。新首都イスラマバードを早朝発って夕方にはラホールにいた。約280キロの距離だが何回かの検問と道の不案内で少し時間をとってしまった。
 
 ラホールはパンジャブ州の都でパキスタン第2の都である。ムガール帝国の文化を色濃く残している。ラヴィ河に望みインドとの国境の街ワガが隣接している。現在では1000万人以上が住んでいる都市だが、1968年当時は約400万人が住む都だった。1849年から1947年までイギリスが統治していたため、ヴィクトリア王朝文化の影響がみられる。訪れた11月の末はもう完全な冬で気温零下の日がつづいていた。聞くと夏5月、6月、7月には摂氏45度から50度になる日があるという。
 
 ラホールの記憶はやはり旧市街の印象が強い。バザールや職人街が軒を連ねる旧市街バザールは中近東のバザールと違い観光づれしていない。全く現地の人たちのためのバザールでイスラムの女達が身にまとう黒い覆いの数々までが売られていた。

 我々は旧市街にある300年以上の歴史をもつクークード・デン(Coocoo'd den)キャフェでチャイとパチャティのシンプルな食事をとった。座ると大モスク(バードシャヒー)が見えた。
 
 中央アジアを行く隊商の民に古い格言があるとキャフェの主人が教えてくれた。

 「座っている人間はベッドの敷物みたいなものだ。体を進めるものは悠久の河の流れに似ている」。

 人生は動作にある。旅をする、そして外の世界を知ることは進歩へと人を誘う。

 人間の歴史のなかで最も重要な道はローマと奈良を結ぶ道だそうだ。ある歴史家が言っていた。

 ドイツの歴史家がユーラシアの東西を結ぶルートをシルクロードと名づけたのは18世紀になってからだ。

 紀元前4世紀アレグザンダー大王が東征し、紀元前2Cから1Cにかけてローマの貴族がいたって好んだ絹織物が踏み分けた道、それがシルクロードである。

 シルクロードは従って、一本の道ではない。多くの道が面となって東西をむすぶネットワークとなっていった。唐の時代、中国長安から、ゴビ砂漠、タリム盆地、東トルキスタンを経過し天山山脈、フェルガナ渓谷、タシケントからサマルカンド、ソグディアナ、ブカラ、コレズム、そしてカスピ海に至る。サマルカンドからはバクトリア、カシガダヤ渓谷、テルメス、カブール、ヤルカンド、ペルシャ、シリアそして地中海に至るルートである。
 
 悠久の歴史のなかで、数々の巡礼が、学者が、冒険家がこの道を辿った。中国の僧玄蔵が、ベニスの商人マルコ・ポーロが、アラブの僧アクマド・イブン・ファドンが、ババリアの戦士シルト・ベルガーが、ハンガリーの冒険家アルミン・ヴァンベリが、スエーデンの地理学者ヘディンが、ロシアの科学者アレクシ・フェドチェンコが、スイスのジャーナリスト、エラマイヤトルが、米国の地理学者ラフアエル・パンペリが、フランスのジョゼフ・マルタンが、シルクロードを辿り研究してきた。

 敦煌、ブカラ、テルメスなど壮麗な文化を誇ったシルクロードの遺産はいまやその往時の姿はとどめていない。遺跡は砂漠に埋もれ、廃墟となって後世にその文化を伝えるのみである。