カルカッタ子供

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。



 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。

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暗闇インドの真実
 パキスタン第2の都ラホールから国境の街ワガからインドに入った。1968年当時、印パ状況悪化で国境はものものしかった。銃口を斜めに持った兵隊が検問している。東洋ジャパニの貧乏学生が何故外車VWに乗って何処に行こうとしているのかが検問で何度も問正された。
 
「フーアーユウ?ホエアユーゴー?」とインド訛りの英語で聞いてくる。
 
「ジャパニーズ スチューデンツ.リターン ツー ジャパン」と答える。
 
「パスポート」
 
「オープン ラゲッジ」
 
渋々「オーケー」の繰り返しを何度も経験する。
 

 彼らが調べているのはパキスタンから何の目的でインドに入国したのか?、怪しいものを携行していないか?で、日本人の我々自体には興味を示さなかった。
 
 インドに入って本当に驚いた

 トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと中央アジアを通過してきて涸れた風景に慣れた我々の目に突然「緑」が飛び込んできたのだ。

 インドには木々の緑と畑や水田に野菜と稲の緑があった。自然はなんという条件の変化を人間に与えているのだろうか。パキスタンではめったに見ることがない水牛や鶏が木々の陰で休んでいる。遊牧の民と農耕の民、一方が戒律のイスラムの世界であり、一方は慈悲の仏教の国である。

 2010年現在BRICSと呼ばれる新興諸国の成長が著しい。特に人口14億人の中国とインドはもはや世界の今後を左右するほど注目されている。インドでは米国カリフォルニアのシリコンバレイと併記されるほどのムンバイの発展がある。40年ほど前私が旅したインドからは想像もできない。世界は変化する。特にその経済的、社会的発展の変化は暮らす人間の生活を変貌させる。映画「スラムドッグミリオネアー」に描かれたインドは強烈だったが真理を描き出した。
 


 日本を出てもう一年半になろうとしていた。

 1967年芝浦からロシア船でナホトカに渡りシベリア鉄道でモスクワから夫々の目的をもって過ごした欧州、車でユーラシア中央アジアを横断してきた旅もはるばるインドに来ている。三鷹市長選と、現業ゴミ収集のアルバイトで貯めた500ドルと現金10万円を手に何でも経験してやろうと出た旅も、木々の緑と水田の風景のなかにモンスーンアジアを感じ取ることが出来たし、次第に帰りつつある日本を意識した。 

 我々はインドの首都デリーを目指してスピードを増した。アムリトサール、ジャァンダール、アンバラ、カルナル、パリパットの街を経過したが余り覚えていない。

 旅した今は12月。なのにインドの太陽はギラギラと大地を照らしていた。途中の街で食事をとった。そこがどこの村であったか覚えていないが、或る食堂に入った時の印象は強烈だった。食堂にたどり着く前に用を足しに入った便所に驚いた。大きな糞の池だった。池に板がわたしてある。板の上に座って用を足すのだ。糞が落ちると池からお釣りがかえってきた。大きな糞池だった。

 食堂は池の側にあった。食べるものと出すものが並存する。食べるものにたかる銀蠅をインド人はものぐさそうに追っては食べている。我々は顔を見合わせてどうするか考えたが他に食べるものはない。まだデリーまでは遠い。主人に頼んだカレーが運ばれてきた。野菜のカレーにパチャティ〔インド風パン)と乳酸飲料みたいなダヒーがきた。当然フォークも箸 もない。右手の三本の指を使って食べる。カレーは思ったほど辛くない。それよりたかる蠅がうるさいし非衛生だと手で追っていたが、料理する厨房の状況を思うと蠅を追う気持ちも失せた。
 これほど人馬一体、自然のなすがままとは思っても見なかった。インドは驚きの国だ。

デリーまではパキスタン、ラホールから約6から700キロの距離であった。
 夕方ガンジス川沿いに進むとインドの首都らしい街についた。暗いとにかく暗い街だった。中心街らしき方角に進んでゆく。大きな石の建物が暗いなかに浮かんでいる。それがデリーの中央駅だった。今日泊まる宿を探した。宿屋らしき建物がある横丁にゆくと宿屋の主人が呼び込みをしていた。一泊40から50ルピーで2人部屋があった。冷水シャワーをあびて、マットは硬いが疲れている体にはなんの問題もない。横たわると、とたんにグーグーと寝た。

 次の日、目を覚ますと表通りの喧騒が聞こえる。すぐに自分がどこにいるのか朦朧としていて意識できなかったが、壁にかかっている極彩色の仏陀像のポスターを見て嗚呼そうだインドだとやっと気付く。となりに寝ている2人を起こして表に出た。
 
 インドの首都デリーの目抜き通りらしいところを目指したが、一体どっちが北か南か見当がつかないばかりか、道路に座ってこちらを見ている人たちの姿と白い装束と汚れて黒くなっている白いタバーンの男達、脚をだして貧相だが力のありそうなリキシャの男達、ただ行き交うようにみえる群集に気圧されて近くのチャイ屋にはいるのがやっとだった。
 
 茶は中国とインドが発祥だが、その逆の道を来た。西からティー、テー、チャイ、チャとなった。インドのチャイは紅茶,砂糖、ミルクを鍋で熱々に煮たものである。暑い気候にこの甘くこってりとした熱い飲み物は本当によく合った。
 
 フーフー言いながらチャイをすするとなにか有意義なことを考えることが出来た。人間は食物を口にして噛みながらものを思うことが多い。食べるという人間の最大の欲望を満たしているとき、また同時に霊長類に許され与えられた脳細胞を駆使してものを思うのだ。胃と脳はダイレクトにつながっている。生殖行為もそうである。人間は生殖行為をしながらもあらぬ妄想にしたることが多い。インドはそのような人間の根本について考えさせる。

 インドの通貨はルピーだが、1ルピーは100パイサで1パイサは30銭というところだったが、このパイサは使いでがあった。街には1パイサでタバコの葉を巻いた細いタバコが買えた。これが以外とうまい。チャイは20パイサで飲めた。5円であった。
 
 舗装されていない道路の砂埃が絶えず巻き上がっていたが、吹く風だけが濃密で饐えた匂いのする街の生活に生気を与えているようだった。昼にはカレー料理を食べた。野菜のカレー、タンドーリとよばれるチキンカレーなどと、チャパティー、ダヒー、タマネギのスライスを一緒に食べた。それでも50円かそこいらであった。
 
 街を歩くとそこいらじゅうから人が寄ってくる。脚の不自由な老婆が手の平を差し出して、物乞いをしてくる。それも小さな子供を背にしょっている。振り切って20メートル歩くとまた同じである。ルピーの両替人が寄ってくる。

 チェンジマネー?」

 「ユーアメリカン、チェンジマネー?」

 「ノー、ジャパニーズ」
 と言うと怪訝な顔をした。彼らにとってジャパニーズもアメリカンも同じだった。要するに外貨ドルを持つものと言う意味なのだ。

 私は1946年の3月に生まれた。敗戦の翌年である。記憶に上野のガード下がある。傷痍軍人が白い病院服を身にまとってアコーデオンを弾いていた。浮浪少年たちがたむろしていた。実際の記憶なのかそれともその後みた写真や映像から蓄積されたものかはわからないが、私の脳内に深く刻まれているのは確かだ。デリーの物乞いは敗戦直後の東京の街を思わせた。


 「ワンダラー、15ルピー85パイサ、オーケー?、オーケー?」と言う。1ドル360円の時代であった。約16ルピーとなると1ドルが560円となる。それでも両替人に利益が出るのだ。大概の両替人はボスに雇われた使用人だが手数料がどのくらいはいるのだろうか。我々でも切り詰めれば一日1ドルで食事をまかなえるほどだから手数料収入もたいしたものではないだろう。
 
 夕方3人はデリーに入る前に渡ってきたガンジスにかかる鉄橋まで車を駆った。鉄橋に出るとガンジス河に赤い夕日が映えていた。夕日は貧しいが懸命に生きる人間たちの深層を映し、頑張っても浮かび上がれない人間のいることを詫びるかのようにガンジスを照らしていた。 

 街にもどって宿屋に帰ろうと歩いていた時だった。真っ暗な道だった。前に進もうとする脚が動かない。ひっぱっても抜けない。暗い夜道に目を凝らした。目だけが見えた。多くの人間たちが道路に寝ていた。その中の一人の老婆が足を捕まえて離そうとしない。手の平をこちらに向けていた。背中にぞぞげが走った。密林のなかで気味の悪い蛇にあったかのような悪寒が走った。当時日本も貧しかった。戦後の時代に少年時代をすごした我々もその貧しさを生きてきた。しかしこの貧しさは何なのか。貧しさの程度が違った。貧しさの地獄を暗闇のなかにはっきり見た。