カルカッタ子供<




曼陀羅 カルカッタ             

これまでのあらすじ
<今から50年も前、青春と500ドルを握り締めて横浜を片道切符でユーラシアに放浪の旅にでた。二年の欧州滞在を経てパリからカルカッタまでの3万キロをボロVWで踏破。「荒野を目ざせ」や「深夜特急」より数年も前の記録。

尚当ブログはAmazon KDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)にてネット出版されて購入できます。価額はUS$1ドル。タイトルは『我が追憶のシルクロード」です

 幸い白黒だが写真が残っていた。前年92歳で亡くなった母親がパスポートと一緒に箪笥にしまって置いてくれた。母が保管してくれていなければこの紀行はとても書き残すことは出来なかったろう。写真を見ると当時のことが眼前に現れてくる。母の想いは深い。


ベナレシ
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生と死がいつも隣り合わせで、死が終わりでなく、来世の始まりとなる輪廻転生の曼陀羅都市ベナレシを早朝発ち、インド最大の都市カルカッタにむかった。カルカッタまでは680キロほどの道のりである。

三万キロ近くを走って未だに快調なエンジン音を出して愛車VWがインドの埃のたつ街道を走っている。街道には車だけでなく、人間がゆっくりと横断し、聖なる牛がそれ以上にゆっくりと横切ってゆく。側道では、犬が車をみて吠えているが、全く気をかけずに静かに長い白い髭をはやした老人たちが屋台の縁台で、チャイを飲んでいる姿が車窓を跳んでゆく。。
 
外の気温は30度近くねっとりと湿気が強い。これが冬だ。夏はどういうことになるのだろうか。今は一月末である。カーラジオから楽器シターのメロディーが流れている。時々小さな集落を通る。白装束のタバーンを巻いた男たちが腰をかがめて何かしている。よく見るとみな小用を足している。インドでは立ち小便の習慣はない。皆座って用を足す。ロータリーのような広場では中央に蛇口のついたバルブから水が出ている。そこで洗濯し、洗顔している群集がいる。ほとんど舗装した道はないから、埃で前が見えないが、そんなにスピードが出せないので危険なことはない。
 
それでもカルカッタに近づき始めると舗装された国道になって次第にスピードをあげてインド最大の都市に向っていった。
 褐色の濁流ガンジスに鉄橋が架かっている.それがハウラー橋である。これほどの鉄橋が突然現れると実際これまで走ってきた農村インドのイメージが壊れるほどだ。大英帝国がインドに架けた橋だが、なにを結ぼうとした橋なのか。搾取した黄金を運ぶ橋が現在はインドの貴重な橋として残っていた。夕日がガンジスの水面に映えていた。
 
早朝のベナレシをでて日が暮れかけていた。街が近くなると道にでこぼこができているのか車が揺れだした。次第に郊外から市中にはいってきているらしいが、暗いままで街の灯で明るくならない。街灯など全くない。通過する家の中からはローソクのひかりがもれている。インド最大の都市に電気がきてない筈はないから、考えた。そうか停電だ。電力事情が悪く停電でその需要に対応しているのだと解釈した。
 
それでも街の中心らしき辺りにくると明るくなったが、道路標識が読めなかった。読めたところで何処が何処だかわからないのだから同じだと諦めて、横に止まったタクシーの浅黒い運転手にこの辺で泊まれるホテルの場所を尋ねた。
「ヒヤリス・チャーリンギストリート。ゴートゥ・サドルストリート。」
サドル通りへ行けといっってるぞ。
「プリーズ ガイドアス」と言うと 
「フォロウミー」と言い残すとさっさと前を走り出した。
何度か道を右や左に折れると真っ暗なところでタクシーが止まった。そこがカルカッタ有数の安宿街のサドル通りだった。あまりにも真っ暗で危険そうな宿屋街にこの我々も怖気づいた。
「YMCA プリーズ」とヒリキが言った。
「オーケー、フォローミー」タクシーがまた走り出した。そして大通りに面した建物の前に止まった。
「ヒヤー、テンルピー ユーハフツゥペイ」運転手が言った。何か到着早々ぼられたが我慢してそれでも案内料と割り切って、ねぎって払った。
 建物はロンドンでよく見た古い建築物に良く似ていた。中に入ると髭を生やした親父風の管理人が受付にいた。本日空きがあるかどうか聞くと
「ユウハブ・ラック。バットオンリー・ドーミトリーベッド。」
個屋でなく大部屋でベッドがおいてあるところだけが空いているという。疲れていて個室でゆっくりして寝たかったがないのでは仕方がない。一泊十ルピー(350円)そこそこだ。大部屋に通されるとベッドに腰を落として寝そべった。天井に大きな十字のファンが廻っていた。

隣のベッドにはフランス語の新聞を読んでいるヒッピー風の西洋人がいた。
「ボンスワール」というとにっこり笑顔をつくった。西洋人の見知らぬ人に対する態度には見習う点が多い。自分が決して敵ではないという笑顔を必ずつくる。何処でもだ。
「今ついたのかい。どこから?」と尋ねた。
「車でベナレシから。十二時間かかったよ。」というと
「ボン・デュー」と答えた。懐かしいフランス語の驚きの表現だった。
「君はここは長いのかい」と尋ねると
「もう二ヶ月になる」という。
「カルカッタはそんなに面白いのかい?」と聞くと
「ノー・ウェイ」と初めて英語で答えた。他に方法があるかいというような調子に聞こえた。
 疲れていたが、まだ寝るには早いし腹が空いていた。外にレストランかないか聞くと、「レストラン?」と驚いたような声を出したが、ニタニタして
「シー・フアット」とわからないような答をした。あることはあるのだろう。シャワーを浴びる前に外に出た。夕方8時になるとさすがに涼しくなっていたが、湿気は強い。

「インド料理がないかな」捜すとそれらしき料理屋があった。店に入ると意外に客がいた。強い香辛料と揚げ物と牛乳の匂いが混じって異様な空気だった。とてもレストランとおいう雰囲気ではない。座るとでぶっと太った店の主人が寄ってきた。
「カリー?」と聞くので
「イエス」と返すと色々な料理を紹介したが、わからないので、
「ノット・ソーマッチ」と言うと
「オーケー」と言うと、メニューをもって引き下がった。
待っている間にビールを注文すると、インドビールらしい瓶を持ってきた。ビールの蓋が既に開いてていた。
「おいあいてるぞ」ヒリキが注意したが、喉がひりひりで、もう胃まで入っていた。これがくせものだった。その後二〜三日とんでもない下痢に悩まされたのだから。
料理が運ばれてきた。チキンのタンドーリ、ダールというカレースープ、チャパティというパンとこめの飯だ。いつも食べていたものだ。これは安心して食べた。右の指三本で食べた。指に蠅がたかってくる。はらってもはらっても蠅は次から次へとよってくる。蠅を追い払うのと口に持ってくる回数は同じ程度である。不衛生だから追い払うのでなく、蠅を間違って口にいれないように追い払っているのだ。ドーミトリーのフランスのヒッピーがニタニタしていたのがよくわかった。勘定をみると驚くほど安かった。
 
宿屋まで歩いた。暗い夜道に目が慣れてくる。来る時は気がつかなかった。暗い道の両側に人が蹲っている。無数の人たちが或る者は横たわり、或る者はこちらを見ている。老婆が物乞いの手をこちらに向けている。暗い路上に人があふれているではないか。目の前を白い装束の男が立った。暗い夜道に赤い目だけが異様に光っていた。
 
カルカッタは百鬼夜行の世界であった。あらゆる人間の姿がそこにある。路上は人間の生活の場所であり壁のない野外の家である。

雨がふれば雨にぬれ、風がふけば風に逢い、寒ければ互いの体で暖をとる。カーストのくびきに縛られ身動きできない最下層の民は路上をついの棲家とする。不思議に肌の色が黒くなればなるほどカーストが低くなると人は言う。本当かどうかわからないが、確かに路上の人たちの肌は黒い。闇の暗さと肌の色が交じると暗闇に人間が溶けだして一体となる。路上に人が一杯という表現は正しくない。路上の闇に人が溶けて漆黒の世界となっているのだ。旅人はこの漆黒の世界に紛れ込むと容易に抜け出すことが出来なくなるという。ヒッピーのフランスの青年もその犠牲者かもしれない。

そういえば半世紀前の我々の少年時代の日本も暗かった。ぼんやりと灯のともる野原で暗くなるまで遊んだ。道路は舗装されていなかったし時たま自動車が通ると砂ぼこりで目が痛かった。家の前の溝には生活排水が垂れ流しで黒いペンキが塗られた木のゴミ箱に生ゴミが腐っていた。冬は寒く、練炭のコタツで一家が暖をとった。夏は暑くアイスキャンディ売りが声をあげて町内を自転車で走っていた。皆が少しでも豊かな生活をめざして働いた。戦争ですべてを失った人たちは平等に貧乏であった。
 
眼前のカルカッタには階級が人々を縛っていた。いかに努力しても報われないとしたら人間はなにを目指せばいいのだろう。ここまで不幸せで、ここまでして人間は生きてゆかねばならないのか。
 
ヤギの首を切断しその首をカーリー神に捧げて経と祈りの儀式をおこなうカーリー寺院がある。斧で首を切られたヤギの胴体はしばらくはぴくぴくと動いている。解体された胴体と肉は路上の民がもってゆく。せめてもの神の恵みがある。まだ人間を犠牲にして神に捧げないだけましなのであろうか。
 
その夜、強烈な下痢で何度も何度も便所とベッドを往復してカルカッタの最初の夜が白々とあけていった。
 我々には一日一ルピーで下男ともいうのだろうか、長身のインド人がついていた。泊まると自動的に世話をやいてくれる。ひどい下痢状態を見て薬を買ってきてくれた。地元の薬で丸薬のようだったが、飲むとそれが効いた。

少し楽になって翌朝から近くのツーリストインフォメーション事務所にカルカッタ以降の道路事情を尋ねにでかけた。
事務所に入ると、インド人特有の彫りの深い美人が対応してくれた。名前をマンジュラといった。見事なブリティッシュイングリシュを話す上流階級出身のようだった。
「フロム・カルカッタ ノウ・ロード ポッシブル」ダッカまでは可能だがビルマも中国も国境を閉ざしていた。カルカッタで袋小路に入ってしまったのだ。
「ゼン・ハウキャン・ウイデゥ?」
「ユウハフ・テゥフライ」日本へはビルマを越えて、飛行機で飛ぶしかない。では愛車VWをどうするか?捨ててゆくわけにもいかない。相談するとマンジュラが言った。
「ユウ・トラストミー?」三人は美人のマンジュラに頷いた。

その日の午後からマンジュラがカルカッタを案内するといって我々を連れまわした。なんといって事務所から外出の許可をとったのかわからないが、楽しそうに案内をした。カーリー寺院、ウィリアム砦、ビクトリアメモリアル、ビルラ寺院、なんとかいうジャイナ教の寺院、それに動物園まで、もういいよとも言えずまわった。正直言ってカルカッタには英国の影響のある建物が目立って余り興味を引くところはなかった。

こうして物憂げだがなにも特別でなくルーティーンで安楽でベッドに横たわっているといつまでもねむくなるカルカッタの生活がだらだらと過ぎていった。側には下男のジャディムがついていて食べたいものをすぐ買ってきてくれたし、タバコは一パイサ(15銭)で一本づつでも買えた。ジャディムはカルカッタから10キロも先の農村にすんでいたようだが、毎日歩いて通ってきていた。我々のほかにも担当する客がいるようだった五人いたとしたって一日五ルピー(75円)にしかならない。浅黒いが長身で気がよかった。カルカッタに逗留してもう十日が過ぎようとしていた。そのうえ、意識のない内に1968年が明けていた。毎年行く年と来る年を祝えるのは安定の象徴以外のなにものでもない。

朝ジャディムが我々を揺り動かした。                     
「受付にマンジュラという娘が待っている。急用だそうだ」
「わかった。すぐ下に下りると伝えてくれないか。」そういって身支度して降りてゆくと、
「インド政庁が貴方達を至急よんでいるの。わるい話じゃない。早くして」マンジュラが言った。
「そう。車の件でね」マンジュラに任せた愛車VWの話のようだ。インド政庁は車で十数分のところにあった。マンジュラは怖ろしそうな衛兵の立つゲートをなれた雰囲気ですいすいとはいってゆく。朝のチャイを嗜んでいる官僚のオフィスの廊下を右に左にかきわけ挨拶しながら進んでゆく。するとどん詰まりの高級オフィスのドアをコンコンと叩いた。中から
「カムイン」と男の声がした。
「アイケイム・ウィズ・マイ・ジャパニーズ・フレンズ」とマンジュラがいうとドアが開いた。40代の恰幅のよいインド紳士が立っていた。
「サンキュウ・フォ・カミング。アイアム・インスぺクション・オフィサー。」と自己紹介した。カルカッタ市の警視にあたるオフィサーで名前はマハンソンという。
「ヒー・イズ・マイ・アンクル」とマンジュラが紹介した。オフィスのなかに招じ入れられた我々にマハンソン氏がソフトにゆっくりと英国英語で話しかけてくる。

「お願いがあるんですよ皆さん。皆さんの愛車をどうなさるんですか。マンジュラがもうご説明したと思いますが、カルカッタからはもうバングラデッシュまでしか車ではいけません。当カルカッタの街路に乗り捨てられても三日か四日で廃車寸前まで略奪されます。売ろうにも闇では罰せられます。そこでです。皆さんの車を救急車としてインド政府に寄贈ねがいたいのです。ご存知のように現在カシミール紛争が続いています。赤十字の車が足りません。如何でしょうか。」丁寧に話が終わった。
「勿論、そのお礼として皆様にキャセイパシフィックの航空券をつぎの目的地まで差し上げます。日本までお帰りであれば日本までです。」と顔の表情を緩めた。

三人は顔を見合わせてみたが答はもう決まっていた。もうそろそろこのカルカッタを出よう。ここにいると人間がだんだんと横着でも怠惰でもどんなことでも許されてしまうカルカッタ奈落に落ち込んでしまうような気がした。
 
百鬼夜行の世界。カルカッタの路上は足の踏み場もない。路上にはありとあらゆるものが売られている。通りは物乞いであふれている。片腕の男、片足の男、盲目の老女、いたいげな体をうる少女、蹲る黒い無数の人影。ある人は「カルカッタは人間のジャングル」と言った。路上の民は輪廻転生を信じる。彼らに迫りくる死は終わりを意味しない。死は転生するのだ。現世が苦しければ苦しいほど新しい生が待っている。日常の死は悲しいことではない。『よどみに浮かぶうたかたはかつきえかつむすびて久しくとどまることなし』。
 
徒然なる空蝉の現世はやがてあの曼陀羅の来世を約束する。

 カルカッタ・デゥムデゥム国際空港に三人がいた。ヒリキは日本に、ゴジーはバンコクからカンボジアに、私はもう少しマカオに寄ってみることにした。ゴジーこと馬渕直樹は戦場のカメラマンとしてプノンペン落城を記録した名うてのジャーナリストとなったが2012年没した。斯く言う私は1970年電通に勤務してパリ支局を創設、後、黒澤最後の作品「まあだだよ」やユニバーサル映画で高倉健とトムセレックが共演した『ミスターベースボール」などの映画に携わった。もうすぐ古希となるが、2002年退社して現在富士山麓の十里木で築窯して焼物にいそしんでいる。ヒリキとはその後45年全く会っていない。横浜の中華料理のオーナーとなっているとかの情報を友達から聞いた。人生は斯くもいろいろでわからないものだが来世にはまた会う機会もあるだろうか。




 

あとがき
     青春と芸術
 もし 昔日をとりもどせるなら
 あの街角に一緒に棲んだあのときを
 君は家先の雀のように、
 私は孤独な羽毛を羽織っていた
 誰も君をデゥンスと呼ばず、私はおとなしくしていた
 一度きりの昔日は失われて
 永遠にもどってこない
             ロバート・ブラウニング 〔著者訳〕

一心にアルバイトで金をため、シベリアを横断し、欧州を一年有余放浪し、シルクロードを車で横断した。今から四十年前のことだ。海外へ出るのは、学生ではフルブライト留学か各国政府の選抜する国費留学生、よっぽどの家庭でないと私費で留学するなど考えも及ばない時代だった。「なんでも見てやろう」の小田実氏でさえ国費留学生だった。私達は禁を破って国外にでた。江戸時代とそんなに変わっていない。芝浦桟橋から日本を離れる時はなんか複雑な気がした。もう日本には帰らない移民みたいな気がした。500ドルもって片道切符だった。無鉄砲な自立だった。
 
現在ひきこもりやニートとよばれる若者達がいる。当時の我々とどう違うのか。逼塞感も時代への反抗心も、そんなに変わっていないと思う。我々は外に向かって逼塞感を解決しようとした。引きこもりの若者は内に向かったのではなかろうか。最近逮捕されたライブドアの堀江君は大学時代ひきこもっていたという。しかし一旦自身を見つけた時無鉄砲に外にむかっていった。エネルギーがどんなベクトルの方向に向うかだけの違いである。
 
世代という違いもある。子は親をみて育つ。親がひどければ子はそうならないようしっかりするという。親があまりに独立心が強いと子は依存心が強くなるという。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。時が解決してゆくのかも知れないとも思う。


         




カルカッタ(ホーラー駅)に子供達が住んでいる。
子供達は新聞を集め、空き瓶を集めて売り生活している。
現在フランス人が中心になりLes Galopins deCalcutta)協会が子供達を救う活動を展開している。
団塊文庫もそのお役に立ちたいと願っている。

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