題記期日を以って満73歳となった。まだまだと周りは言うが本人から言うと子供頃の貧乏、6歳のときの腸捻転で大腸をあの戦後の時代に輸血をしながら半年の入院。よく生きながらえた。
衛生状態もひどい環境で赤痢で多くの児童が亡くなった。皆貧乏で舗装もされてない道路で子供野球をして遊んだ。夕暮れまで遊んでいるとご飯よと母親の声がした。内職しながら母親が夕飯を作っていた。さつまいもやどんどん焼きなどよく食べた。中学に上がると少しずつだが家庭の環境も上がってお弁当にも麦の量は減っていった。母親はそれでも子供のお弁当には気を使って白米の部分をおおくいれてくれた。
そして高校では日本育英会から月に3000円の特別奨学金をもらった。第1期から特別奨学金には試験があった。受験生が多くいたなかなか難しい試験だった。昭和33年のころの月3000円はとても大きかった。高校は浦和高校で優秀な生徒が多かった。大学は色々受かったがICUに行った。奨学金が大学からも出た。授業料は半額。その上日本育英会特別奨学金は最後の年には月に48000円をもらった。大学出の初任給が30000円の時代にだ。特別奨学金は半分返せばよかった。確か1980年頃一括で返した。
この奨学金制度を導入したのは岸信介。安保の岸だったがこの制度には本当に感謝している。現在の奨学金はもらうのは簡単だが取り立ても厳しく利子も付くと聞く。そんなの単なる金貸しだ。馬鹿な制度になった。
大学は至って自由で関東6部だがサッカー部に属し、一方英国人教授のハーディ氏演出で厚生年金会館でシェクスピアを演じた。じゃじゃ馬馴らしと空騒ぎの主役を演じた。大学3年の秋、小田実のなんでも見てやろうに渙発されたのかシベリア経由で放浪の世界旅にでた。途中フランスアルザスの県都のストラスブルグ大学に籍を置いたが結局青春の放浪だ。2年の放浪を終えて陸路でシルクロードを車で踏破し日本に帰り大学に戻り学生運動など新宿西口を騒がしたが就職しないと一生貧乏になるとの恐怖から広告会社電通に入社した。落ちていたら全く違う人生になってただろう。人生とはその時々のサイコロ次第だ。この会社は豪傑が多くて苦労したが自己実現が仕事と割り切ってなんでもやった。満鉄帰りや元憲兵隊長や特攻隊の生き残りや鍋島、薩摩、長州、津軽なとに所縁のある猛者がいっぱいいた。先輩の目立たない人が突然靖国神社の宮司になったり、後で聞いたら南部のお殿様の系譜だった。それでも青春を放浪しストラスブルク大学に籍を置きフランス語を喋る小生が畏れ多くも1979年電通のパリオフィスを開設した。やっかみも多かったが長くパリにいた。この時代のパリには有名人がゴソゴソ訪れ千客万来の接待が大変だった。ディナーを三席掛け持ちしたこともあった。当時NHKの磯村さんもいて電通のあったオッシュ通りの同じビルにいた。40の時に帰国したが新規事業をやれというわけで映像事業を始めJAL機内のエンタテインメントなどやり色々な映画やテレビ番組をプロデュースした。
取り留めなく書いたが要するに勲章ものもなくかつ法にも触れずに、ローマ法王からは数珠をいただいたがまあよく生きてきたものだと思う。この間多くの同僚や先輩が若くして死んでいった。新しい時代の言葉やスポーツ、オリンピックから万博、日本の発展の陰に必ず電通マンがいた。今で言う過労死だろうが皆強制されて働いたのでは決して無い。自らの自己実現の為に働いた。
時代は変わったのだが1946年に生まれ貧乏と成長のこの時代に生きてこられて良かったとも思う。1946年生まれ戌年。